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2024年アニメ映画評51・「ロボット・ドリームズ」

 11月最初の映画だが、この月は新作アニメーションが二本しかないため、もう折り返しである。毎年、1月・11月は公開数が少ないが、理由は何だろうね。それはともかく、本作はスペインの映画監督、パブロ・ベルヘルの初アニメーション監督作で、サラ・バロンのグラフィック・ノベルを原作とする。この監督は割とキャリアを積んでいる人で、スペインの実写映画では有名人らしい。時評を書くため、多少は調べ、これがアニメ初制作と知って、末恐ろしいと思った(ベテランに使っていいのかは知らないが)。人生の悲哀を描いた映画で、日本人ウケしたらしい。7点。
 動物が人間のように暮らす世界。孤独な犬のドッグは寂寥を紛らわせるためロボットを購入する。一緒に、公園でダンスをしたり、テレビを観たりと、ドッグの日常はロボットによって鮮やかになる。夏、二人は海水浴へ出かけるが、ロボットは手足が錆びて動けなくなってしまう。ドッグは家に帰って工具を持ってくるが、シーズンが終わった海水浴場は閉鎖され、入れなかった。ドッグは八方手を尽くしたものの、ビーチに入れず、来シーズンまでロボットと離れ離れになる。ロボットのいない寂しさを紛らわせるためドッグは色々なイベントに参加するが、友達はできない。ロボットはドッグと再会する夢を見るも、ホームレスによってスクラップ工場へ売られ、解体される。海開きの日にドッグはビーチへ駆けつけるが、そこにロボットの姿はない。ショックを受けつつも彼は新しいロボットを買う。ばらされたロボットはアライグマに拾われて修理してもらったが、記憶を失っていた。アライグマと過ごす中、偶然、ドッグを見かけたロボットは記憶を取り戻すも、幸せそうな彼を前に身を引くのだった。
 映像はかなり良くて、ダンスシーンなど、動きがコミカルで非常に巧み。音楽とモーションをマッチさせる腕前も絶妙だ。ロボットが見るの夢のシーンも良く、喋る巨大植物と戯れる箇所は「鏡の国のアリス」を彷彿とさせる。本作は昨今、珍しいサイレントで、台詞がない分、音楽と動きが際立ち、動画の快感が存分に味わえる。
 演出や作画、画面構成は非常に美しい一方、話は非常にグロテスクで、人間関係すら金銭で解決しようとする、資本主義の浅ましさが皮肉られている。……と思っていたのだが、下記の記事を見る限り、人間関係の脆さと尊さを描きたかったようだ。ふーむ。まあ、ここは作意を無視した方が面白いので、本作をアイロニーとして見ていこう。

 ドッグは恐らく仕事をしていて、行政手続きをできる知性もあるから、福祉が必要な孤立した存在ではないが、友達も家族もおらず、夜にテレビを観るくらいしかやることのない孤独な存在である。この手の存在は田舎空間だと発生しにくく(互いの私生活に立ち入るのが常だから)、都会ならではと言える。勿論、ネットが普及し、過疎化の進んだ現代では、郊外や僻地なら同じような存在がいるかもしれないが。とにかく、ドッグは物質的に満たされつつも、心に穴を抱えているのだ。それを埋めるために彼の取った手段が、ロボットを「購入する」という経済的なもであることは注目に値する。
 購入プロセスを挟んだ以上、ドッグにとってロボットは友達ではなく、友達的存在・物である。それゆえ両者の間には、ロボットの機能的問題から行き違いは起きても、精神的対立・交流は起こらない。それが如実に現れるのが、ロボットが海でドッグを待ち続けるシーンだ。置き去りにされた上、鉄条網越しに見るしかできないとはいえ会いに来ないドッグに、ロボットは怒りや恨みを持っていいはずだが、そうした感情は一切抱かず、それどころか彼の再会を心待ちにする。同じことを人間や擬人化した動物がしたらどうだろう? 聖人と思いつつも、心のどこかでは薄気味悪いんと思うに違いあるまい。だが、ロボットならばそういう機能なのだと納得してしまう。ロボットが人間を恨まないのは当然とする視聴者の常識を利用している点は本作の妙味で、それにより、複雑な心理の解釈という作業から視聴者を解き放ち、ロボットの健気さと、それとの別れへ意識を集中させているのだ。
 これは巧妙なアイロニーである。本作は、ロボットをペットに置き換えても成立するが、その事実が諷するのは、人間がペットを友達や家族と呼ぶことの浅ましさなのである。ペットを家族と見做す際に、人間はペットの心情を都合よく解釈し、ペットを友達なり家族なりに位置付けるが、この際、ペットの意思は微塵も考慮されない。同じ押し付けがましさは、ドッグからロボットへの視線にも見出せる。その上で本作が上手いのは、ロボットは実際に持ち主を家族や友人の思うように作られている点にあり、ペットの時にあった心理のブラックボックスは消失、ロボットの奴隷化という人の暴力は透明化されている。
 この奉仕-被奉仕の関係は、ロボットとドッグとの心理的距離からも看取できる。ドッグを思い続けるロボットに対し、ドッグは新しい友人を探しているし、ビーチに入るためにさほど情熱を燃やすこともない。見舞いにも来ない。本気でロボットを取り戻したいのなら、弁護士でも雇えばいいのだが、一回、役所に拒絶されただけで彼を諦めてしまう。仮にロボットが動物だったら、そんなことはしなかった筈で、ドッグにとってロボットが「物」であるのは明白だ。この両者の落差こそが、ロボットの純真さを強調しており、これは「A.I.」に似た技法だろう。と同時に、友達という砂糖に包むことで、ドッグの暴力性が見えなくなっているのである。
 ロボットとドッグの「友情」が表すのは、友情・愛を買おうとする人間のさもしさと対人関係の煩わしさである。結局、ドッグが仲良くできたのは「買った」ロボットだけで、ハロウィンでもスキー場でも、リアルの相手とは親密関係を築くことができていない。人間関係とは試行錯誤を繰り返して徐々に構築していくものだが、彼はそれにことごとく失敗する。他人に過干渉しない都市空間では、能動性やコミュニケーション力など、一定以上の対人スキルがなくては友人を作るのは難しいのである。ドッグの悲哀は所謂「コミュ障」のそれなのであろう。
 ドッグに代表される都市生活者の苦難を、金銭によって埋めるのが本作のロボットである。先述の通り、ロボットは「購入者」に逆らわず、恨まない。この非常に都合のいい「友達」のおかげでドッグの日常は彩りを手に入れる。コストパフォーマンスで言えば最高クラスだ。ドッグの、ロボットと現実の動物(人間)に対する姿勢の違いは、人間関係にかけるコストの甚大さとリターンの少なさを如実に表現していると言える。最終的に、とてもお手頃なロボットを親友とする点には、コスパ主義と人間関係の繋がりが示唆される。実際、恋愛を煩わしいと思う人は昨今、上昇傾向で、本作はそうした現実の風刺だろう。
 このようなコスパ主義的人間関係が成立するには資本主義が不可欠であることを忘れてはならない。ドッグが二体のロボットを「購入」したように、資本主義は人間関係を金銭取引可能なものに変換しており、その顕著な表れは友人レンタルやホストなどで、隠された徴候はXやマッチングアプリなのだろう。その点で、ドッグは、1980年代ニューヨークに生きていながらも、非常に現代的な存在と言える。


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