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きみが寂しくないように。


 ―――ポロン、ポロロン。ギターの音に、流暢な外国語の歌。

 空がすっかり暗くなった頃。開け放した窓から、しっとりとした夜のにおいがした。きれいな空気が部屋の中に流れ込んできて、月(あお)の黒髪をそっと揺らす。

「~♪」

 ベッドに腰掛け、目をとじながら、月は窓の外から聞こえてくる歌声に耳を傾けた。ごく近いところで、誰が奏でているかもわからないメロディに耳を傾けるのが、ここに来てからの楽しみだった。
 よどみなく流れるメロディに、違和感を覚える。どうしてそう思ってしまうんだろう、わからないけれど。



 ここ最近、何をするにも身が入らず、昼食を食べていたはずが気が付くと夜明けだったり、何もしないうちに一日が終わってしまうなんてことが何度も続いている。心に小さな穴が開いているようで、しかしその原因は見当もつかなかった。寝付けず、手がつかず、不意に昔のことを思い出しては勝手に涙まで出てくることもある。自分のことを持て余す感覚は、幼い頃を思い出して嫌だった。喘息で療養していた頃のぼんやりした記憶。どうしようもない寂しさを。

 いよいよまずいと医者にかかれば、静かなところでゆっくりしろと山奥の療養所を勧められた。そんな折、主が亡くなって手つかずになっていたはずの祖母宅を思い出し、精神科よりはましと行ってみることにしたのだった。

 母は仕事で海外を飛び回っている。どこへ行ったとて、一人で暮らしていくことにかわりはない。入学して1年と少し、通っている高校には休学の手続きをした。

 そんな経緯で、月はうろ覚えの祖母の家に一人でやってきた。家の所有者の叔父から鍵を借り、バスを乗り継いで4時間ほど。目的のバス停にたった一人降車し、そこから緩やかな丘を登る。鬱蒼とした木々の隙間を埋めるように、白いハリエンジュが花をつけ、甘い香りを漂わせる。懐かしい匂い。最後にここへ来たのは、もう十数年前のことになる。昔の記憶は大して頼りにならないや。見慣れない道を歩きながら、月はそんなことを考えていた。それもそのはずだ。歩いてここを通るのは初めてなのだから。
 どこか遠くでギターが鳴っている。懐かしいような、初めて聞くような音だった。

 ようやく着いた家は、庭に草木が生い茂っていたが、まるっきり手つかずというふうではなかった。叔父だろうか。古い、所々が錆びた庭のベンチは、見覚えがある。ただし、その周りは雑草が茂っていた。

 祖母の家は何しろ古いので外壁の白いペンキが所々剥がれてはいたが、家の中は想像よりうんと整っていた。電気やガスや水道の手配は、ありがたいことに、前日のうちに叔父が全て整えてくれている。埃を落として窓ガラスを磨き、シーツと電球を替える。それだけで、ひっそりと暮らすには充分な基地に仕上がった。


 やってきたその日は、家の中を整えたところで夜を迎えた。
 星が瞬き始めた頃、懐かしいベッドに寝そべりながらうとうとしていると、ギターの音が聴こえてくる。昼間遠くで鳴っていた気がするその音は、今はごく近い。心地よく流れるメロディに、甘い声で外国語の歌詞が乗って、声の主がロマンチックに歌い上げる愛の歌。知らない人間がそばにいる事実に、不思議と警戒心は起こらなかった。
 レースのカーテンが夜風をはらんではためき、月明かりが部屋の中に差し込む。ゆったりとしたリズムに誘われるように、月は眠りに落ちていった。



 空気が一等綺麗なそこに暮らし始めてから、時々ぼーっとすることはあるものの、病的な上の空はぴたりとなりをひそめていた。時々丘の麓に降りて行って、生活に必要なものをのんびりと買い足して。それ以外は、本を読んだり、料理をしたり、庭の手入れをしたりと誰もいない、静かな家でのんびりと過ごす。驚くほど、心も体も軽くなっていた。

(…僕って、意外と不器用だったんだな。18年も生きてきて、初めて知ったや。)

 完全な一人暮らしで自分を見つめ直す時間ができたからか、だんだんと自分の性質に気づいてきた。どうやら、自分の本性は不器用で、頑固で、マイペース。人に囲まれ、いろいろなことが目まぐるしく過ぎる都会の暮らしが、どうしようもなく性に合っていなかったらしい。
  麓の店で出会う人たちは大体が高齢だったが、それ故か人当たりが良く、見慣れない月のこともにこやかに受け入れてくれた。

「食べ物はたくさんあって困らないだろ。」
「ありがとう、おじさん。また来るね。」

「この間、配達代わってくれたくれたお礼だよ!」
「僕でよければ、また手伝うよ。」

 八百屋、肉屋、魚屋、パン屋、惣菜屋……買い物に行くと、ひとつ、ふたつ、みっつと気前よくおまけをくれる。お礼に何か手伝いを引き受ける。久しくしたことのないコミュニケーション。打算や読み合いのない、良心を前提にした付き合いだ。人懐こいが余計な干渉のない関係は心地よかった。

 そして、療養中の月にもとに、毎日訪ねてくる客もいる。丘の上の家に誰かが来たと聞いて、わざわざ星見会の回覧を持ってやってきたのが始まりだった。

「行ってもじいちゃんばあちゃんしかいないよ。あの人ら、星なんて見えないくせに、何かと理由をつけて集まりたがんだ。まあ、はちみつの饅頭は美味いかな。」

 朝露(あさつゆ)と名乗り、薄茶の巻毛が愛嬌たっぷりで、歳は月と同じか、もしかしたら少し上かもしれない。美しい顔立ちに対して、なかなか悪ぶった言葉を使う不思議な青年だった。高い身長と彫りの深い顔立ちも相まって、まるでジュブナイル映画主人公のその後だなと月は思う。

 彼は、丘の麓に住んでいるらしい、世代を超えた祖母の友人だ。月がここに来る前から時々遊びに来ては、祖母に貰った古い合鍵で勝手に侵入し、家出先にしていたという。家の中が整っていたのも、叔父の手入れのおかげではなく、朝露が時々使っていたからだった。愛嬌たっぷりの彼は「君のばあちゃんはさ、もう、ぼくにメロメロ。」なんて冗談めかして言ってはいるが、きっと祖母も大層可愛がっていたんだろうな、と月は思った。
 月が暮らし始めてから、いいと言ったのに鍵は返された。だから、せめていつでも入ってこられるように、ベランダの窓はいつも開けておく。

 朝露はいつも、朝になるとキッチンの窓枠に肘をついて月を呼び、昼前には帰っていく。いつしか一緒に朝食をとるようにもなって、二人はまるで昔からの友人のようだった。朝露は絶対に家の中には入ってこない。窓の外から月を呼んで、月が朝食を作るのを眺めている。そして、月はパジャマのまま呼び出しに応じ、けれど家の外には出なかった。

 今日も、二人はキッチンの窓枠越しに朝食を食べながら、ゆったりと話をする。朝露は皮肉ばかり言うくせに、いつも穏やかに笑っていた。この世に嫌なことなんて何ひとつないかのように笑っていた。

「あお、って名前、どういう字? ひらがな?」

 薄切りのベーコンでスクランブル・エッグを器用に包みながら、朝露が言う。

「…月。夜に空に浮かんでるアレ。」
「へえ、とってもきれいじゃない。なんでそんな仏頂面。嫌なの?」
「変な名前だよ。月のどこをあおって読むのかって話。きらきらなんちゃら、なんて言われて、ほんとヤんなる。」

 小学生で習う簡単なこの漢字に、どうしたって“あお”という読み方がないのは、誰だって知っている。月は初対面で名前を正しく読まれたことがないし、不可能な当て字はからかいの原因にだってなった。祖母が付けてくれた名とは聞いていたが、その所以までは不思議と誰も知らない。唯一知っていたであろう祖母には、秘密よ、とからかわれておしまいだった。そんなおちゃめな祖母も居なくなり、ついに真相はわからずじまい。

 謎が解けると期待して口にしたわけではなかった。けれど、朝露というのは不思議な人間で、あのベンチの周りに生い茂る雑草、その青い花を指さしてあっさりと月の名前の由来を解き明かしてしまった。

「あれはね、露草っていって、きみのばあちゃんが大好きだった草さ。月草っても言う。きれいな薄青の染料になるよ。君の名前は、ばあちゃんがつけたんだろ。思うに、〝月〟草の花が〝あお〟いから、君は『あお』って名前なんじゃないかな。」
「……ばあちゃんから聞いていたんだろ。」
「知らないよ。けど、納得できる理由は、いつだって作れるのさ。」

 朝露はなんでも知っていて、何かと何かを結びつけるのがとても上手だった。だから、月には考えもつかないことをいとも簡単に思いつく。その知識がどこからどうやって身についたものかは知らなかったが、朝露と話しているとどんどん世界が広がって、月はそんな時間が好きだった。そういえば、彼は学校、どうしているんだろう。生きるための力はもうすでに身につけているように思うが、だからといって、彼のことを大人だとは思えなかった。

「朝露はすごいなぁ。尊敬する。」
「やめてよ、なにもう、はずかしいヤツだねぇ…。」

 話していて、ふと思う。朝露がいつも穏やかなのは、嫌なことがないんじゃなくて、勝手に理由をつけて納得するのが上手いからなんだな。きっとそれは、悪く言うと自分勝手で、でも幸福度の高い生き方に違いなかった。考え方が柔軟な朝露だからできる生き方。彼が高齢の祖母と友人関係であったことも頷ける。

「どうして朝露は、ばあちゃんと友達だったの。」
「なりゆき。大切にしたい人が一緒だったの。」

 祖母と朝露の大切にしたい人。それは一体どんな人なんだろう。そもそも祖母と疎遠だった月には、もうすっかり想像できなかった。



 朝露は今日も、昼前にはいなくなる。

(もう少しいてくれてもいいのにな。)

 朝には綺麗に咲いていた露草も、昼になると花はすっかり萎れてしまう。でも、きっと明日も咲いている。だから、安心していられる。だってまだ、そんな季節だもの。


 穏やかな暮らしが続くほど、月の中で元の家に戻る気は薄れていった。高校は、通信に切り替えて卒業すればいい。家の件から始まった叔父とのやり取りは今も続いていて、物書きをしている彼の伝手で、学生ながら仕事も口を利いてもらえそうだった。贅沢せず暮らす分には問題ない。ここで暮らしていきたいと思う。上の空も落ち着いた。ただ、時々ぶり返す途方もない寂しさだけが、今も治ってはいなかった。
 それは、決まって夜に襲ってくる。暗い闇に紛れて、あるはずのものがないような、そんな寂しさが襲ってくる。

 その日も、いつものように歌とギターを聴きながら眠りについた。安心する音。初めの日から今まで、なぜか、ずっと近くで鳴っている音の正体を突き止めようと思ったことがない。


 

 朝の光が部屋を照らして、自然と目が覚める。五時、朝もやがまだ晴れていない時間。清々しい朝だった。しっとりと濡れた草木の匂いがして、すうっと深く息を吸い込み、ぐうっと背筋を伸ばした。夜にぐっすりと眠れるせいか、この家に来てからやたらと目覚めが良い。

 昨日から開けたままの窓から外を眺めると、庭の木陰の錆びたベンチから長い脚が飛び出していた。誰か、寝そべっている。

(…誰だろう?)

 不思議と警戒する気は起きなかった。あまつさえ、よい出会いの予感さえしていた。きっと、あの人に違いなかった。夜な夜な歌って、月を寝かしつける彼。
 パジャマのまま、サンダルをつっかけて庭に出る。露草に囲まれたベンチに立て掛けられた、琵琶のような形のギターが見えた。見覚えのあるキャンバス地のスニーカーも。ラフに着こなした綿のシャツも。薄茶のくるくると丸まった髪の毛も。

「…朝露?」
「……寝ていた。」

 目が覚めると、夜露は何が起こったかわからないというようにとぼけた顔をして、そうやって呟いた。

「はは、は、…おはよ、あお」
「朝露だったの?」

 口にしたとたん、どこからか思い出す、舌足らずな歌声と見覚えのあるギター、ポロ、ポロロン、と拙い音も。そこから古い記憶が溢れてくる。昔、月がここに来ていたときのこと。

 ひどい喘息持ちの月は、母が出張で家を空けるときはいつも、祖母の家に預けられていた。みんなと一緒に学校に通うこともままならず親しい友人もできるはずがない。母は忙しいので、月を置いたらすぐ去ってしまう。土煙を上げて去っていく自動車を、いつも泣くのを我慢して見送った。置いて行かれて寂しくて、止まらない咳に嫌気が差して、それでもどうすることもできなかった辛い記憶。優しくそばにいてくれた祖母のことは好きだったけれど、月にとって、どうしたってこの家は寂しくて辛い場所だった。きっと療養と聞いて思い出したのも、その印象が頭の隅に眠っていたからだったのだろう。

 そして、変わった形のギターを抱え、月に会いに来てくれていた少年。はじめは音階の練習から始まったっけ。お父さんが買ってきてくれた、なんて言っていた気もする。窓の外から月に話しかけ、窓の下に座って歌っていた。思い出しては懐かしく、胸がぎゅうっと締め付けられた。苦しい。けれど、嫌じゃない。

「ねえ、僕たち、……ずっと昔に会ったこと、ある?」
「…あるよ。」

 観念したようにため息を付いて、朝露は答えた。

「えっと…ね。うん、そう。そうだよ。うんと小さい頃のこと。恥ずかしいけれど、ぼくは、月に聴いて欲しくて、ギターを始めたんだよ。」

 寝起きの顔を人差し指でかきながら、恥ずかしそうに笑った。

「あれは、月のための歌。」
 本当に、恥ずかしいから内緒にしていたんだ。けれど、どこかで思い出してほしかった。

「もうずいぶん、昔のことだよ……なんで、今でも……。」

「だって、ずっと、もう一度逢いたいなあって思っていたんだ。久しぶりにこの家に灯りがついて、もしかしてって思った。月を見て、すぐにわかった。やっぱ、すきだなあって、思ったよ。」

 朝の光はまだ柔らかく、木の葉の隙間から差し込んではちろちろ、ゆらゆらと遊んでいた。そんな日差しの向こうで、朝露の優しいまなざしが揺れている。やっと逢えた。ずっと逢いたかったよ。心に開いていたはずの穴は、これできっともう、大丈夫。きっと君に逢いたくて空いた穴だ。そうに違いなかった。


「今日は、隣で聴いていてもいい?」
「……いいよ、いくらでも。」





とある花言葉小説企画にて投稿したものを、ちゃんと書き上げてみたもの。
露草の花言葉は、「なつかしい関係」「密かな恋」「尊敬」「小夜曲(セレナーデ)」。

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