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加藤のファミリーヒストリー20 町田へ

1975年私が中学1年の夏 いよいよ身体が不自由になった清はみつとともに町田の我が家へやってきました。近所には尚文家もあるし、母君枝がいるから、今後のみつにかかる負担を減らせるだろうと、兄弟が話し合って決めたことだったと思います。
でも清本人は少し認知症もあったのか、平井の家から連れ出すだけで、柱にしがみついて抵抗したと聞いています。
たとえどんなに不自由になっても、「我が家」ほど安心な場所はないのですね。
でも家族としてはそれぞれの生活を考えるとそうしなければならなかった。
あのいつも穏やかで優しい祖父が柱にしがみついていたなんて想像しただけでも辛い。 その日の私の日記です


1975年8月26日
おじいちゃんが平井から町田に来た
本当にボケているらしい
ママはほとんど家へ帰らずに、学校の日直と病院を回った。

9月1日
おばあちゃんがきた
みんなおじいちゃんを心配してきている。
お医者様の話だと、危ないそうだ。何だか恐ろしい
明日から学校だけど、おじいちゃんのことが気になってしょうがない


中学生の私には初めてのことだらけ、元気で優しかった祖父の変容も、これからどうなるのかわからない不安があったようです。
我が家の1室に介護用のベッドを入れて清とみつはそこで過ごし、家族5人の生活が始まりました。
介護保険が施行されるのは2000年。それから25年も先のことになります。

そして、次の年1976年のゴールデンウィーク、私は一度も足を踏み入れたことのなかった平井の台所に登美子、君枝について片づけににいくことになりました。


1976年5月4日
平井の家の掃除に行った。すごかった!
ありとあらゆるほとんどのものを捨てて、それにしてもすごい
空き瓶、紙、ボロ布、真っ黒な鍋、カビの生えた佃煮やコーヒー
火鉢の肺までとってあるんだものびっくり!
3時間かけてみんなで捨てた。
ゴミの中に、おじいちゃんの日記があったのをやむを得ずとっておいたけど、
あの中におじいちゃんの思い出が刻まれているんだなあって思ったし、また、
私もめげずに日記をつけようって気持ちがわいてきた。
今日はすごく蒸し暑い日


祖父清は町田にいた頃、もう寝たきりでしたが、おもてで子供の声がすると
「これをあげてください」
と、お菓子を私に渡して、子供達にあげるように言いました。
私たち孫にくれたように、キャラメルとチョコレートと、、、

そして、しばらくの同居の後、最後の時を迎えるために再び古巣の平井へ帰って行きました。
何にもしてあげられなかったけど、ほんの少しの間、祖父と過ごせたことはありがたい思い出になりました。

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