金曜日のレモンタルト
師走は、ひとを狂わせる。
うちは退勤時間をじぶんでアプリに打ち込むスタイルなのだが、出社後、メールより先にそのアプリを開いていた。
ああはやく帰りたい、という心の声が、指まで伝わったのか。
ところで、ひさびさにおとずれた北鎌倉は、紅葉まっさかりだった。
紅葉といえば11月のイメージだったけれど、それも狂ってきたらしい。
北鎌倉駅を出て徒歩8分くらい、しずかな街並みのなかに《CITRON》という洋菓子店がある。
1年間、行こう行こうと思いつづけて、行けていなかった店。
鎌倉駅から一駅なのに、山々に囲まれ、あまりにも細長くまっすぐなホームのせいか、北鎌倉駅は秘境感をかもしだす。
ホーム中ほどで進む方向をまちがえると、頭の中でクリスタルキングが流れると思う。東京方面に出口はない。
なかなか行けずにいた理由はそういうことではなく、この店が毎週金曜日の11時から17時までしか営業していないからである。
真夜中のパン屋さん、ならぬ、金曜日のシトロン。
製造から販売まで務める店主は、元銀行員だという。
その後、メーカーの品質管理や人事、子育てを通じて、食べたものから体はつくられると実感し、修行を積んでこの店をオープンしたらしい。
これだけこだわっていたら、平日週1回しか店が開かないのも納得である。
もともと、フランス菓子にあこがれていらっしゃったそうだが、もうその半生が小説の主人公になりうる気がした。
振り幅がすごい。あこがれは、ここまで人を突き動かすのか。
そしてわたしは、半生と書くと「はんなま」と読んでしまい、マドレーヌやフィナンシェを連想する。
こちらは新卒で菓子製造業しか経験していないため、ある意味まっすぐである。
白と木目を基調とした店内はこじんまりとしていて、ふたり入ったら満員になってしまう。
店内奥の厨房、必要最低限の陳列、アンティークの椅子、やわらかな光が差し込む店内。
ここが、寺社仏閣が多数ある古都だということを忘れる。
閉店間際だったので品薄になりつつあったが、看板商品のレモンタルトは無事購入できた。
手のひらサイズのレモンタルトは、天面にレモンのスライスがあしらわれている。
冬の午後の日差しのような、やわらかでキリッとした色。
フォークをいれて、その感触におどろく。
タルト生地は、すこし抵抗がありながらもサクサクで、かたちを崩さずにパキンと割れた。
しばらく冷蔵庫に入れていたのに。
レモンクリームは、フォークですくうのはちょっとむずかしいくらいのとろとろ具合。
こんなに鮮度が高く、やわらかなレモンタルトははじめてかもしれない。
そしてこのレモンクリームが、キュッとした酸味がありながら、まろやかに消えていく。
梅干しやレモン汁の酸味を「顔が中央に集結」と表現するなら、こちらは「口はゆっくりと集まり、目と鼻はふわっとひらく」という感じだろうか。
サクサクととろとろがからみあって、口なじみもよい。なんというか、体との親和性が高いのだ。
ほどよい、とはまさにこのこと。
いかにも。
食べ終わったあとに、「ああはやく食べたい」と、とてもおかしな感想が出た。
金曜日のレモンタルトは、わたしを狂わせる。
つぎは何月の金曜日に行けるだろうか。作り手の真摯な姿勢は、心にもやさしい。
そういえば、隣の席では電話口で「〇〇課長は~、10時にしゅっか予定…あ、出社予定ですね」と、無慈悲な言いまちがいをしていた。
頭のなかで、ドナドナが流れた。
新年より前に、恐怖のカウントダウン。