「素粒子」を読む。成功者も落伍者も、愛だけは手に入らない。
(性的で露悪的な表現が含まれます)
いい加減に布団をきれいに洗濯しなければいけないな、と思い始めた。
マットレスと二枚重ねの敷布団。毛布とタオルケットの掛布団。これらが30代の男の汗とか体臭を吸っているのは間違いない。
「オークションに出したら誰か買ってくれないかなぁ」と言ったら、家族は冗談と受け止めてくれなかった。
いつもよりも少し剣呑な表情で、母は、捥ぎ取るみたいにレタスをキッチンで剥き始めた。この時のレタスの茎の折れるつんざく音を、しばらく忘れられなかった。
「今はカノジョなんか自分にはできっこないと思っているけど、たんなる悲観で、その内いい人が現れるよ」
という言葉を何度かけられたかわからないけど、「いい人」が現れなくてもその後の人生はきちんと続く。その証明が今ここにある薄汚い布団なのだと思い、今日も敷いて、畳んでを繰り返す。人生のクオリティは週に数回はカルディ・コーヒーファームに行けることが保証している。酸味の強いトマト缶を剥く回数、自分が料理をする回数が、自分のささやかな経験として積み重なっていく。欲しいものが自分の望むスピードと価格で手に入る。
ミシェル・ウエルベックの「素粒子」では、国語教師のブリュノと、分子生物科学者のミシェルの兄弟の幼少時代から中年時代までの時間の経過を描く。この二人をある種の対比する構造の小説になっている。ブリュノは学校で過酷ないじめを受けながらも、どうにか女の子のスカートの奧にあるものを手に入れようとデートを申し込み、裏切りだけを受けながら中年になり、性的饗宴に興じるためのヒッピー・コミューン「変革の場」に出入りしはじめる。
いっぽうミシェルは素敵な恋人に恵まれながらも愛情というものを理解できない。遺伝子工学の研究者としてキャリアを積んでいく目覚ましい成功をおさめながらも、常に虚無を抱えて、憂鬱な頭で思考を巡らす単調な日々を過ごす。
「素粒子」は「この世界に愛はない」というメッセージが通奏低音のように響く小説とも言えるかも知れない。痛々しいほど愛を求めてやまない落伍者のブリュノと、社会的に成功しつつも愛を理解できないミシェルが重ね合わされることで、個人の人生を超えたスケールで愛の不在を感じることができる。
序盤から中盤まで最も紙数を割いているのはブリュノの懸命な「女探し」で、読んでいて気が滅入る。気を滅入らせるための本なので全く問題はない。青春をひたすら惨めに過ごしたブリュノは、便器に顔を突っ込まれたり、残虐な女子の嗤いものになる過程で傷を受け、精神的に追い込まれたまま大人になる。というか中年になる。愛情を諦められないが、そんなものは世界にないことはわかっている。あるのは性的な渇望のみ。とにかく若い娘の体が、喉から手が出るほど欲しい。そんな渇望を抱えながらも年齢は自分を追い詰め腹はだらしなく膨れていき、前髪は薄くなり、ブリュノは「変革の場」と呼ばれるニューエイジ的なセックス・コミューンに参画することになる。瞑想をしたり、カリフォルニア式マッサージと称して、参加者同士で互いの肉体を愛撫する。オルダス・ハクスレーの理論によって権威付けしながらも、結局は誰も共和的な理想など信じていない「セックスの出来るキャンプ場」でしかないのだが。
読んでいて、「なんでそんなに性的な喜びが欲しいのかな」とは疑問に思った。そもそもブリュノは本当にセックスが好きなのだろうか。具体的には書けないのだが、中盤で彼は性犯罪に手を染めていることが明らかになるので、ある種の依存症だったとも考えられるのだが……。痛々しくいかがわしい中年男というのは、見かけたらなるべく距離をとりたいもので、誰かと肌を重ね合わせる喜びとは遠い存在である。
それはそうと、僕は布団の上でたまに飲み食いをする。布団の上というのは精神年齢を20くらい下げて遊ぶ世界のエア・ポケットだ。ポテトチップスを食べたり、スプライトを飲んだりしながら好きなサチモスを聴いたり、たまに朝までそうしていることもある。ベッドや布団ひとつとったって様々な想像力を介在させて遊び場にできるのだから、セックスすることが全てというのは一つの視野狭窄なのではないかと思う。楽しいことは探せば他にあるよ。
にも関わらず、ブリュノやミシェルを「ただの気の毒な人のサンプル」以上の大きな存在として読まざるを得ない。それはウエルベックが社会全体を描くことを諦めていないからだとも思う。セックスコミューンに出入りしていようが、遺伝子工学の権威として成功していようが、自室で満ち足りた独りパーティーをやっていようが、どの人生にも愛はないのだ。不幸でも幸福でも同じように、そこに愛はないのだ。これは世界そのものの話だ。
この小説が刊行された90年代は、未来に対する眼差しに独特の仄暗さや矛盾があったように思う。寝っ転がりながら歌って世界平和を祈るヒッピー文化が根絶され、人間はどこにもいけない閉塞した世界に生きつつも、科学の進歩は加速度的にどこまでもいってしまうような不安があったのではないか。規格化された都市を歩く憂鬱なビジネスマンたちの姿に、もうこんな世界は嫌だよとため息を吐いても、なんのオルタナティブも提示できない。日本ではノストラダムスの大予言が受容されていたオカルト的世紀末でありながら、海外では自然科学の分野ではクローン技術が羊のドリーを誕生せしめた時期で、文系的な豊かさと理系的な豊かさが混在しながらもなんとなく不穏な時代だった。
「素粒子」のラストではミシェルの研究成果としての遺伝子操作技術がついに完成した後の社会が描かれる。人間は遂にじぶんを神なる存在にアップグレートした(!)。具体的な内容は本書を読んで触れていただきたいのだが、キリスト教の誕生、自然科学の誕生に続く第三のインパクトの内容は、非常に説得力のあるものになっている。
ここでひとつ疑問が生じる。「神」なる存在は性的快楽も肉体的強さも、無限に改良できる。「愛情」も科学的に再現できるのだろうが、そんな発明をしたミシェルのラストは奇妙に咀嚼しづらいものになっている。ミシェルが「愛情の正体」に辿り着くこととシンクロするかたちで研究を完成させたのか、それとも「人間性のなにもかもを捨て去るくらい絶望したから」この研究が完成したのか。これは解釈が人によって分かれることになると思う。
未来に対する期待と不安は、つねに消えるものではない。僕も布団の内でウンウン唸って、何度も寝返りを打ちながらも朝まで耐えていることも多い。わりと真剣に世の中の平穏を祈らざるを得ない。僕が仏壇に向かって手を合わせるときにお願いするのは、平穏くらいしかない。
布団に入れば、信じられるのは肉体の疲労と眠気だけだ。もう寝る。