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読者note『猫と庄造と二人のおんな』谷崎潤一郎
『猫と庄造と二人のおんな』は谷崎潤一郎の中編喜劇です。
昭和11年(1936)に雑誌に掲載された小説。
舞台は芦屋、というても阪急沿線の高級住宅地がある山のほうではなく、阪神よりの浜に近い芦屋。主人公の家はここで荒物屋(日用雑貨店)を営んでいるというのも庶民的。
会話は関西弁。これが小気味よい。
❝「そしたら、わての云う通りしなはるか。早う寝たいなら、それきめなさい。」
「殺生やなあ、何をきめるねん。」
「そんな、寝惚けたふりしたかて、胡麻化されまっかいな。リリー遣んなはるのんか孰方だす? 今はっきり云うて頂戴。」
「明日、ーー明日まで考えさして貰お。」
そう云っているうちに、早くも心地よさそうな寝息を立てたが、
「ちょっと!」
と云うと、福子はムックリ起き上って亭主の側にすわり直すと、いやと云う程臀の肉を抓った。
「痛い! 何をするねん!」
「あんた、いつかてリリーに引っ掻かれて、生傷絶やしたことないのんに、わてが抓ったら痛いのんか。」
「痛! ええい、止めんかいな!」
「これぐらい何だんね、猫に掻かすぐらいやったら、わてかて体じゅう引っ掻いたるわ!」
「痛、痛、痛、……」❞
新潮文庫は各所に注をふり説明を付けている。
この時代の出来事や風俗なども説明を載せているが、大阪ことばの補注がつくのはおもしろい。
※わて 大阪言葉。私。初め女性用語だったが、後には男性も用いるようになった。ここは女性。
※だす 大阪言葉。です。やや下品な言い方で、大阪でも上流家庭では、必ず「です」を用いた。なお、「だす・です・ます」などの「す」は「ん」や「っ」に転じて、「何だんね」「又だっか」「そうでんねん」「そうでっしゃろ」「云いまんね」「胡麻化されまっかいな」などとなる。
方言を折り目正しく文章にして書かれると面白い。大阪言葉辞典がそばにあったら笑いながらページをめくっているかもしれない。
主な登場人物はニンゲン四人とネコ一匹。
何をやっても半端な庄造は愛猫リリーを猫なで声で猫っかわりがりする。女房よりも猫のほうが大事かとおんなは言いたくもなるほど。
前の女房である品子は庄造の母おりんと折り合いがわるかった。子だねのないことをいいことに彼女は家を出された。
迎えた新妻の福子はおりんの兄の娘。素行が悪く嫁の貰い手がないと困っていたところへ、おりんは品子を追い出して庄造と一緒にすればいいと計画。もちろん福子には持参金がつく。
追い出された品子は寂しい身ゆえ、せめて猫のリリーを譲ってほしいと言い出すが、これまた計算ずくのこと。
そして猫リリー。人間の思惑に左右されながらもリリーという名だけあってある意味において純潔な存在。もう老猫らしい。漱石先生の小説のように「吾輩は…」などと口走ったりはしないからご安心を。
つまり『猫と庄造と二人のおんな』は「猫」と「庄造」と「二人のおんな」を並列していない。
「二人のおんな(品子と福子)」は「庄造」の心をこっちに向けようとしているが、その「庄造」は「猫」を溺愛している。
では「猫」はというと、自由を愛しているとでも言いましょうか、ある意味においては、ナオミであり春琴でもある。
彼女たちにひれ伏してしまう男たちと庄造は近いものがある。そう見ると谷崎には珍しい喜劇だと思ったが、谷崎らしい作品でもある。
さて、ニンゲンどものその一方通行的な想いは、どうなりますやら。
本作は1956年に豊田四郎監督により映画化されている。庄造に森繁久彌、品子に山田五十鈴、福子に香川京子、おりんに浪花千栄子という好配役で面白い映画になってる。ただオチが小説とは異なる。そこは個人的には小説のほうが好み。