映画『日の名残り』(1993)
こんばんわ、旅をしない旅人の唐崎夜雨です。
今宵は映画のご案内。主人公あるいは主たる登場人物が旅をする映画をご案内する企画の第2弾です。これ、結構な企画ぶっていますが劇中に主要人物が場の「移動」をすることを「旅」と捉えるとするならば、かなり範疇が広いことに気づきました。
第1弾は1970年の映画『ひまわり』で、イタリアの女性がソ連の地を訪れる作品でした。今回は初老の男性によるイギリス国内の自動車の旅です。そればかりか、過ぎ去りし日の思い出に耽ることも時間の、旅かもしれません。
『日の名残り』(原題:The Remains of the Day)は、ノーベル賞作家カズオ・イシグロの同名小説の映画化です。主演はアンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソン。
監督はジェームズ・アイヴォリー。90年代のアイヴォリーは『眺めのいい部屋』『モーリス』『ハワーズ・エンド』といった20世紀初頭の英国を舞台にした作品を発表していた。
『日の名残り』は舞台設定は1950年代ですが、ほとんどの時間を20年前の回想シーンで綴られていますので、映画が醸し出す雰囲気は20世紀初頭の作品群に近い。
この年のアカデミー賞で、作品賞、監督賞、脚色賞、主演男優賞(アンソニー・ホプキンス)、主演女優賞(エマ・トンプソン)、美術賞、衣装デザイン賞、作曲賞の8部門にノミネートされたが、惜しくもすべてノミネートで終わってしまった。
あらすじ
イギリスのダーリントン卿の屋敷がアメリカの政治家ルイス氏の手にわたり、執事スティーヴンスは新たな主人に仕えることになる。ルイスはアメリカから家族を呼び寄せることになり、屋敷はスタッフの人手不足が懸念されていた。
そのころ、かつて屋敷の女中頭だったミス・ケントンから手紙が届く。有能な女中頭だった彼女にまた手伝ってもらえないだろうかと考え、ルイスの許可を得て20年ぶりに彼女に会いに行く。
ルイスが貸してくれた車で向かう道すがら、スティーブンスはミス・ケントンがこの屋敷へ来た日のことや、戦前から戦時中の華やかなりしダーリントンの屋敷の様子などを思い出す。
回想シーン
1930年代のダーリントン邸にとっての良き時代を回想するシーンが多く、作品を支えているの。
当時の雇い主であるダーリントン卿はドイツ人との友情から親ドイツへ傾倒してゆく。しかしそれはヒトラーに利用されるだけで、戦後のダーリントン卿は反逆者として非難され、失意のまま亡くなられる。
アメリカ人の新しい雇い主のルイスは、この時期に屋敷を訪れていて、ドイツへ近づくダーリントン卿たちの非公式外交をアマチュアだと非難していた。
その時期、スティーブンスはミス・ケントンの働きぶりに感謝するとともに、彼女に心惹かれるものを感じていた。
そしてミス・ケントンもスティーブンスを慕う気持ちがあった。二人とも惹かれあっていることは、おそらく分かっている。しかし立場を離れることはなく、感情的や衝動的にはならない。
執事はあくまでも執事であり、ひとりのニンゲンとして己の気持ちに随うことはしなかった。そのため、ミス・ケントンは屋敷を去ってゆく。
執事にとって今度の旅は、過去の自分の過ちをやり直す、失ったものを取り返せるかもしれないという旅でもある。
でも、ときに人生は非情なものである。
実は小説のほうが興味深い
原作の『日の名残り』は一度読んでいて、その時の記憶にしたがえば、映画よりも小説のほうが面白い印象が残っている。
小説の細部は忘れたが、執事のひとり語りで現在と回想が記されている。
一人称で語られるということは、語りの思いに引きずられる可能性がある。つまり、バイアスがかけられている可能性があるということです。
ウソをつかないまでも、言うべきことを伏せておくとか、曖昧にさせたりすることがある。自分の行動を正当化しようという思惑が見え隠れしたりもする。
こうゆうことはどなたさまの自伝なんぞ、あるあるだと思うし、いってしまえば、このnoteだって似たようなものでしょう。
アガサ・クリスティの『アクロイド殺し』は、その一人称語りを利用したトリックで作られています。
閑話休題。映画の中で執事は、旅先で出会った第三者に対してダーリントン卿に仕えていたことを隠す場面がある。
ダーリントン卿は、真相はともかく世間的にはドイツにイギリスを売った反逆者の汚名を着せられている。そんな人に仕えていたとなれば、同じような目で見られてしまうからだ。
映画では実はウソをついていたと釈明してしまうが、小説はそうはしなかったように覚えている。いちいち説明するのが面倒なのでそうウソをついたと言い訳がましい理由を正当化していたように記憶している。
また、映画ではミス・ケントンはスティーブンスに秘めた思いがあることが観客に明白ではあるが、男のひとり語りならば、女の心理は男が思うようなものであったかも疑問であろう。好いていてくれてはいたかもしれないが、それは恋なんてものではなかったかもしれない。
やはり再読すべき作品だなと思う。物語もさることながら、書き方というかテクニックに関心のある小説でした。
魅力的なキャスト
物語は1950年代と30年代と約20年の時間の隔たりがある。執事を演じたアンソニー・ホプキンスも女中頭を演じたエマ・トンプソンも両方の時代に登場する。
老いを感じさせる場面と、まだ若々しくキリっとふるまわねばならない場面とがある。また、感情を表に出して騒ぐような映画ではない。とくに執事は自分の心のうちを見せないでお芝居をするが、無表情や無感情ではない。
なかなかお二人とも素敵なお芝居をされている。
ルイス役のクリストファー・リーヴはむかしスーパーマンだった人で、落馬事故以前の作品である。