若い時に本気で接してくれた大人たち
初のアルバイト
私は大学時代色々なアルバイトをしました。大学1年2年の時は老舗百貨店で中元歳暮時に、いわゆるデパ地下で色々な物を売りましたが、オシャレな仕事は皆無。忘れもしない最初の担当は高級奈良漬売り場。仕事そのものよりもパートのおばさま方の愚痴を聞くのが一番つらかったです。このバイト1か月後に疲れから腎盂(じんう)腎炎になりドクターストップ。
元々バスケット合宿費用を捻出するためのものでしたが、バスケット出身先輩の水産会社の催し物で、マグロ解体の実演販売を手伝うことも。とにかく東京の人は本当にマグロが大好きなようで、私がマグロのこと分からなくても「これ脂のってますよ」の一言で冷凍マグロですらあっという間に売れていきます。
実演販売が終わり全員で片づけをしていたところ、皆は手袋をして片づけていたのですが、何故か私だけが素手でマグロの内臓などの片付けをしていたら、その大先輩から「おい後輩、すごいな!」、「えっ、何がですか?」、「普通手袋するだろう!?」、「いや、何も考えていませんでした」と、人から褒められたのも久しぶりのことでした。
そのことがきっかけでその大先輩からえらく気に入られ、後日バスケットの試合応援にも来て写真まで撮ってくれました。後日、部員皆でその写真を見ると「何だよ、これ、おまえの写真ばかりじゃないかー!?」。
以下は悲惨話ばかりなので、少し自慢を最初にさせてもらいました。(笑)
野菜売り場のおやじさん
デパートのバイトにも慣れて大学2年の新宿でのバイト時、私だけが野菜売り場に回され、厳しいおやじさんのもとで働くことに。ある日、「タケノコが入った大きな缶から売り場に出すための袋詰めをしろ!」と言われ、そのためにはまずはその大きな缶を開けなければいけません。
大きな缶切りみたいなものを使ってその大きな缶を開けていたところ、切った後のギザギザの金属部分が私の指にグッサリザックリと、缶の中の売り物のタケノコは大量出血で全滅。
私はとっさに怒られると思いました。恐らく1缶原価数万円はするもの。
ところが、その厳しいおやじさんは怒るどころか、「タケノコはどうでもいいから止血して早く医務室へ行って来い」と。
人は見かけによらないなと思って感動していたのに、私は野菜売り場のバイト最終日になんと寝坊して走って行き15分遅刻してしまうのです。そうするともう別のバイト生が来ていておやじさんからバイト代を投げつけられました。
周りの売り場でバイトしている部員仲間は皆下向いて笑ってましたが、おやじさんが言うには「遅刻するのは仕方ないが、お前は十円玉を持っていないのか!?お前が寝坊したとしてもすぐに電話してくれれば、おれは別のバイト生を探す必要もないしお前を待てばいいのだから」と全くの正論でした。
原価数万円するタケノコをダメにしても全く怒らなかった人が言う言葉だけに本当に説得力があり堪えましたし、期待に応えられなかった自分が情けなくて…。
「人は遅刻するかしないかを基準にしますが、そうではなく遅刻したとしても対処の仕方があるんじゃないのか?」という大きな人生訓でした。
以来、私はそれを胸に刻んでいましたが、まさか自分が、将来、人に何かを伝える立場になるなんて夢にも想像してませんでした、その時点では。
前にも何度かお伝えしましたが、私は高校3年二学期に事故に遭い(肩と鎖骨には金属が入れられ上半身・特に左肩左腕を半年間ギブス固定)、ほとんどの先生たちは私に同情してくれ「成績は問わないから早くけがを治せ」と言ってくれる中、一人の先生だけは、「お前がどんな大ケガしようが、この科目の成績が悪かったら絶対に卒業させない」と言われました。
「なんだ!あの先生…」と言われた時は思いましたが、私は卒業するために必死でその科目を勉強したおかげで得意科目になり無事卒業も出来ましたから、逆にその先生には大感謝です。
鬼の◯◯教授
また大学1年時の話に戻りますが、大学1年時の第二外国語の先生がとても厳しい人で、「鬼の◯◯教授」と呼ばれていましたが、授業はとても分かり易くその第二言語が好きになり得意にもなりました。
初めての大学1年前期試験、その第2言語試験日の前夜、ある程度は自信がありましたが、絶対に満点とってやろうと徹夜してでも勉強して朝一の第二言語の試験を受けようと決めていました。
ところがです!! 明け方いつの間にか寝てしまいぱっと目が覚めた時は 8時15分、その試験は 8時30分から。パニックで泣きそうでしたが、その語学の単位を落とすということは半ば留年を意味すると言われてました。また鬼の◯◯、厳しい先生なので遅刻は 15分までしか許さないとも事前に。
私は飛び起きこれだけ勉強したんだからとにかく行こうと決め、電車の中でも走っていたような気がします。大学最寄りの駅に降りると、もう一人遅刻した同級生がいたので「走らないのか!?」と声をかけましたが彼は歩いていました。
※以後今日まで私は数年に一度は単位が足らない夢を見ます。
多分私はものすごい形相で走りまくり、歩道橋は5段跳びくらいで駆け上がり試験教室にテスト開始14分過ぎに到着。間に合ったものの息が満足にできず出るのは「ヒーハー、ハッハッ、ヒーハ―」、私は真剣でしたが教室内の皆は大爆笑。
その時、その鬼の◯◯厳しい先生が私の横にきてくれて「落ち着いて書きなさい」と励まされ扇子であおいでくれてました。「先生、有り難うございます。でも時間ないので集中させて下さい」。
多分、教授は私の様子から全てを察してくれ、またその懸命さが嬉しかったのではないかと自分が指導する立場になって少し理解出来る気がします。
中身には自信があったので無事残り時間でテストを終えましたが、駅で一緒になった同級生は遅刻15分ルールを過ぎてしまい教室にすら入れてもらえず、結局、彼はその後留年しました。
厳しい大人たちから学んだこと
このように感情に任せず本当に若い人たちの将来を考えて接する大人たちは、時にはお釈迦様に時には鬼にもならないといけないと学び、私は今のものを伝える仕事に就いてからはずっと実行してきました。
生徒たちに「色々な事情で授業時間を守れないこともあると思う。でも皆は携帯持っているんだから、どんなに遅刻しても連絡だけは事前に入れるように」と伝えることができてきたのは、間違いなくこの野菜売り場のおやじさんの言葉があったからこそです
前半の褒めてくれた先輩、後半の厳しく叱ってくれた大人たちの言動、こういう経験が後々一人の人間の人生に節目節目で思い出され大きく反映されていくのだと思います。
私も大人となり若い人たちと接する仕事になってからは、褒める内容、嫌われる勇気、叱る根拠は、この過去の経験が土台となっていると断言できます。
人と合わせて生きていくことも必要なんでしょうが、人にものを伝えるということは、時には自分が信じることを相手に真摯に謙虚に厳しく接することも必要なのではないかと感じざるを得ない仕事です。
あの時本気で私のケガした指を心配してくれ、バイト最終日に本気で怒ってくれた野菜売り場のおやじさんへの感謝の念は生涯消えません。
今回も最後まで読んで頂きありがとうございました。
上記投稿内容がその後英語を指導する立場になった自分の中に生きていますが、下記はその指導者とはに関連する投稿です。