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石原慎太郎著(2016)『天才』株式会社幻冬舎

一人称で描く角栄の時代

どうやら2016年にアマゾンで取り寄せながら、読まずに積読状態になっていた本である。
天才は忘れた頃にやってくる… まあ天才と天災は違うものの、「天才」を忘れた頃に読んでみた次第である。

読み始めに「俺は」という表現が多く、最初は石原氏の主観から本の中身が始まっていくのかと思って読んでいると、どうやらこの「俺は」が田中角栄本人に成り代わった著者の言葉であることに気づき、そこで石原慎太郎という人は作家だったんだと妙に納得してしまった。

自分が今なぜ、この本を読もうと思ったのかも不思議であるが、ゴールデンウィーク中の本棚の整理中に飛び出すように棚から落ちてきたので、何かを伝えようとしていたのかも知れないと思いつつ、本棚の整理途中にもかかわらず読み入ってしまった。

この一人称での描き方については、巻末の「長い後書き」の中で、当時早稲田大学文化構想学部教授の森元孝氏の意見から啓示を受けたと書かれてある。これを小説と見るのか文芸作品と見るのか、はたまた自伝風というのかは不明だが、章立てなく一気通貫して読んでいく独特の文体というものがあるのだろう。これが石原慎太郎節なのかも知れない。実はわたしは小説を読むのは好きではなく、石原慎太郎の本は、『「NO」と言える日本』以来というお恥ずかしい状態でした。

田中角栄という人物を見る時に、どうしてもわたしたちはロッキード問題の一部始終が気になるが、そこだけにスポットを当ててしまうと、歪曲した田中角栄という認識を持つのだと思う。本書は石原氏が国政を離れ、都知事になり、再び国政に戻りやがて国というものをじっくりと俯瞰できるようになって初めて田中角栄の存在とその歴史を客観的に見れるようになったからこそ描くことができたのだろうと読後に強く感じた。

確かに一人称の表現ではあるが、深く田中角栄になりきっているかというと、そうでもなく、どこか少し離れた距離感の中で文章が綴られているような変な錯覚を読み進めているうちに生じてしまう。これは著者と田中角栄の距離感でもあり、完全に角栄になりきれていないところが石原慎太郎の魅力なのか、作品の妙であるのかはわからない…

ただ当時の政界の雰囲気を本書で感じ取ることはできる。もしかしたら日本でまともな政治家が生まれてくると、何らかのアメリカが関与する形で葬り去られるような感覚も生じてくる。それは昨今の元総理暗殺にも繋がる何かだったりするのかも… 日本が世界でイニシアチブを取ろうとすると疑獄の罠にはめられるか消されるか…

どうしても石原慎太郎が書きたかったと言うのは、細かいことにチマチマ関わる国会議員というのが跋扈した現在、日本を大局的に意志を持ち導こうとする大きな政治家というものがいなくなった現代を憂いたのだろう。その石原慎太郎が抱いた危惧は的中し、大きく未来を見通し、愚直にかつ大胆に進むような政治家はとうとう皆無になったようである。

ひとりの男の生きざまを客観的にかかれた本、これを読むと、良く田中真紀子さんが承諾したものだと思うが、本書を書いた石原慎太郎も良き作家であるとともに良い政治家でもあったことを再び認識した次第。今頃天国でお互いに酒を酌み交わしているのかも知れない。

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