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第一志望の大学へ行けなかった私に、教授が教えてくれたこと

病気になり、私は一度大学を退学している。

それでも29歳の時に同じ大学へ再入学するくらいその学校に思い入れがあるのだが、受験を控えた高校3年生の私は違っていた。

好きというより大嫌いだった。

私には別にいきたい大学があった。
そのために予備校の夏期講習へ通い、夜遅くまで過去問を解き、オープンキャンパスにも足を運んだ。あとは受験するだけだと気合いを入れる私の前に、母が立ちはだかった。

「あなたは指定校推薦で大学へいきなさい」

指定校推薦は学校推薦型選抜のひとつだ。
大学と高校のあいだの信頼関係に基づいて行われる試験なので、合格率はほぼ100%といわれている。

私は小さいころから扁桃腺が弱く、おまけにひどい喘息を患っていた。
体育のマラソンはいつもドクターストップがかかり見学していた。
冬の時期を元気に過ごせた記憶がない。
高校受験もぎりぎりのところでなんとか受けられたようなものだ。

そんな私を見ていた母は、もう二度とあんな思いをさせたくないし、母もしたくないということで、指定校推薦で大学へいくよう、私に指示を出してきたのである。
予備校のお金も惜しかったのだろう。

しかし、指定校推薦枠に私の志望する大学はなかった。
おまけに、受験で頑張ればいいやと高をくくっていたので、私の内申点はお世辞にも高いとは言えなかった。誰かが滑り止めで受けるような大学しか選べなかった。

それは絶対に嫌だ。

あと半年必死で頑張るから、受験をさせてほしい。私は土下座に近いかたちで母へ懇願した。

しかし、母が首を縦に振ることはなかった。
こういう時の母は、槍が降ってこようが、トラックが突っ込んでこようが、動じない。

大学にはいきたかったので、指定校推薦で、とある大学に入学を決めた。
名前は知っていた。クラスメイトが、その大学へいくくらいなら、浪人すると大きな声で話していたから。

大人になって妹に言われたことがある。
あの頃、お姉ちゃんはいつもお風呂場で泣いていたよねと。

未来が閉ざされたと思ったのだ。
受験をして第一志望の大学に落ちれば、諦めがついたかもしれない。
しかし、挑戦さえもさせてもらえたかったことが、私の後ろ髪を長くしていた。

入学式に出るスーツは適当な量販店で買った。式に向かう途中でストッキングが伝線した。でもそのままにした。
どうせ第一志望の大学じゃないしという思いが、私を投げやりにさせていた。

登校初日は入学ガイダンスが行われた。
だるいなと思いながら大教室へ向かった。

まず初めに学部長の挨拶が始まった。
どうせつまらない話ししかしないのだから、早く終わることを願った。

学部長はマイクをとり、開口一番に「入学おめでとう」と言った。

もうそういうのいいって。白ける空気が流れる中、学部長はこう続けた。

入学おめでとう。

「そう言いたいところだけれど、果たしてこの中に、この大学が第一志望だった人は何人いるんだろうか」


え?

思いがけない言葉に、さっきまで隣の子とお喋りしていたあの子も、退屈そうな顔をしていたあの子も、いけなかった大学のことを考えていた私も、一斉に顔を上げた。

会場が静まり返る中、学部長が続ける。

「恐らくこの大学に第一志望で来た人はそんなにいないだろう。多くの人が受験に落ちて仕方なくここにいるか、なんらかの理由でここにくるしかなかったのだと思う」

自分のことだと思った。

「でも、そのことを理由に大学4年間を無駄にするのはやめなさい。ふてくされるのは今日で終わりにしなさい。バイトやサークルもいいけれど、しっかり勉強をして、卒業するときは顔をあげて卒業しなさい。僕はそのとき初めて、みなさんにおめでとう、と心から言いたいと思う」

誰だ、あの人は。捨てようと思っていたパンフレットを広げ、名前を確認した。
なにかが始まる予感がした。

気が付くと、会場が割れんばかりの拍手と歓声に包まれていた。

大学2年生になり、ゼミに入ることになった。私は迷うことはなく、あの学部長のゼミを志願した。
名前を書くだけで入れるゼミはたくさんあったが、そのゼミは小論文と面接があった。
倍率が高く、入れるかは分からなかったが、あの教授と話してみたいという気持ちのほうが勝った。

面接は集団面接だった。
このゼミを志願した理由を聞かれ、ある一人の学生が喋り出した。

その子は偏差値の高い高校を出ていた。
周りが有名な大学へ行く中、受験に失敗し、浪人することになった。
しかし2回目の受験も失敗し、この大学へくることになったのだが、そんな自分をずっと許せずにいた。しかし、入学ガイダンスの時に先生の言葉を聞いて、少しずつ前を向けるようになったと。

やっぱり、私だけではなかったんだ。

彼女とはすぐに友だちになった。そして、なんとか2人そろって先生のゼミへ入ることができた。

そのゼミは厳しいことで有名だった。
課題の本を読んで、毎週レジュメを作った。それをもとにみんなで討論するのだが、ちょっとでも手を抜くと先生から容赦なく指摘が入った。

しかし、先生が一番嫌がったのは、当たり障りのない発言をすることだった。

人と同じことを言うな。よく考えろ。自分の言葉で話せ。

たとえ、それが100人以上集まる入学ガイダンスであっても、そこで祝福ムードを強要されたとしても、用意された言葉でなく、自分の言葉で話すよう、事あるごとに教えられた。

自分の言葉で表現することの楽しさに、そして難しさに、私はどんどん魅了されていった。
しかし、そんな矢先、私は免疫異常の病気になり、大学を退学することになる。

どこでも勉強はできると、先生がノートパソコンをプレゼントしてくれた。ゼミ生のみんなもお金を出してくれたという。

あんなにいきたくなかった大学が、いつしか私の母校になっていた。
愛すべき母校。

元気になったら絶対にここへ戻ってやる。


その言葉通り、私は29歳の時に同じ大学へ再入学した。
幸運なことに、先生はまだ在籍していて再びゼミに入ることができた。
厳しさは相変わらずだったが、懐かしさと、嬉しさで、震えが止まらなかった。

2回目は仕事をしながらの通学だったので、休む回数も多く、単位が取れずに留年をした。

だから卒業が決まった時、先生は「おめでとう」と大喜びしてくれた。自動販売機で缶コーヒーを買い、ふたりで祝杯をあげた。

これで私も顔をあげて卒業できる。

入学ガイダンスで先生の言葉を聞いてから、10年以上の月日が流れていた。

数年後、先生が大学を定年退職したので、ゼミのみんなとパーティーを開いた。
そこで一人の子が「先生、毎日暇じゃないですか?何しているんですか?」と聞いた。
先生はすかさず「そうやって、みんなが聞くような詰まらない質問をするんじゃないよ」と、笑った。

人と同じことを話すな。
よく考えろ。
自分の言葉で話せ。

noteを書こうとするたびに、先生の言葉が聞こえてきて、私の背筋は伸びる。




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