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書店員雑記

たまには書店員として愚痴を書こう。
否、皮肉と云うべきか。

書店員として働きながら
お客様の様子を眺めるにつけ、
「世論などという漠とした論調では書店が必要などと大口を叩いておるが、本当は誰ひとりそんなこと、本気で思ってなどいやしないのではあるまいか」
そう感じている。

この平和ボケした民草にそんな善意などある筈がない。
よくごらんなさいな、あなたのおとなりにいる人々の顔を。
浅薄なほどにパンのみを糧としておる。

お恥ずかしい話だが、書店員ですら人によっては本を愛でぬ。
理解に苦しむだろう、本好きの諸君。
全くもって楽しくない。
おもしろくない。
興醒めよ。

溜め息が出るほどに、私以上に本を好む者になかなか勤め先の書店ではお目にかけぬ。
私の要求水準が高いのだろう。
光を和らげよということか。

なにゆえ本を愛でる?
子孫には金銭よりも書物を残せよとは、
昔の人の言だが、私も同感。
ただ書き手の質を見極めなければ、時がたてば紙屑だ。
古典、古典だ、古典を読めよ若人よ、とは老いぼれの台詞だが、古典は謎かけ、謎解きの類だと思う。
読後「何これ?どういうこと?」でさしあたりよい。
「では答え合わせです」という瞬間がのちのち必ずやってくる。
古典、多くの人々の手を経て遥々私のところまでお越しくださった、そんな気分にさせてくれる。

そんなに本は悪いものだろうか?
娯楽が多いからとて不要とはならぬと思うが、ベストセラーという概念はおそらく昔の話になろう。
ラジオのよさを知る者としては、本当にその本を愛する者の手に渡ってゆく、その方が本も、その本の作者も喜ぶのではないだろうか。路上に読み捨てられた雑誌や文庫本を見ると心が痛む。

書店も所詮は小売業。情報産業の端くれ。
紙の上に載った情報を商っている、などと中高生に職場体験などで語ることがある。
紙の手触りによって記憶を呼び覚ます、との説もあると聞く。紙媒体は学習や研究にはどうやら不可欠らしい。

「書店は要らぬ」
そう社会より御託宣を受けてなお、書店員として働きながら、やはり本が好きで、おもしろい本を見つけてはすぐに読みたい衝動を抑えて定時まで仕事に勤しみ、休憩時間に買い込んでは読み耽る、ささやかな贅沢を、この社会は私から奪おうというのか。

そのような社会が生きづらいとは当然だ。そのような社会が無道、非道であることは当然だ。大道廃れて仁義あり、そんな滑稽な、東洋の一角に浮かぶかつて経済大国だった、我が祖国である。

美しい仕事をしよう、などという高潔な人士はもういない。今こそ日本人よ本を、古典を、絵本を、歴史書を、その他古今東西ありとあらゆる本を読めと強く言いたい。我々は今も武士道や大和魂を有する日本人であり続けているのだ。ならばこそ、さらにそれを洗練させるために。
などと、本について考えれば結局公私を問わず国や世界について考えることになる。

本はかように私を熱くさせるが、普段は黙って仕事している。熱心すぎるのもよくないが、黙りすぎるのもいけない。
書店員という立場にあることもあるが、本のある日常が私の日常である。それは人に云わせれば至極個人的なことなのだろう。だが本当に、至極個人的なことで留まる事柄なのだろうか。

絵本の何がいけない?
文庫本の何がいけない?
グラビア誌の、
何がいけない?
学術書の、
何がいけない?
何巻もある物語の、
何がそんなにいけないのか?

漫画ばかりが本ではない。
書店を救う気などさらさらないという社会の本音がちらちら見えて笑える。
パンだけが糧ではない。
もし、パンさえあればよい、本など不要、とのたまうならば、そうのたまう者の精神は果たして人間のそれかと疑わずにはいられない。

紙の上だった情報は今やデバイスの上に流れ落ちている。時の変遷ゆえ致し方ない。かく云う私もデバイスの虜。
ただ、さびしい。
ある絵本を読むとき、幼少期の記憶がよみがえる。まるでそれすら否定されたような気がして。


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