むかしの日記
昨日は夕飯をつくるのに気乗りせず、それは食材があまりないから、大したものが作れないし、作っていても楽しくないからだということはわかっているけれど、なんせお金がない。お金がないのに、ラーメンを食べてしまった。その千円を食材をかったりするのに、使えばよかったのに、目についた欲望に正直になってしまった。自分を呪うわけではないが、ラーメンはとにかく美味で、なんならまたもう一度食べたいくらいだった。
昨日の夕方バイト先まで言って、退職する意向を伝えた。お金と体力の問題が解決されたわけではないけれど、『休みがない』という状況は想像以上に堪えた。経験しないとわからないことだ。よく、くろうして寝ずの仕事で体を壊し~みたいな青汁みのある宣伝などもあるが、本当そうそう、そうね、それな、。
人間は余暇や、なにも予定を入れないことも大切だと思った。わたしは頑張りすぎていたのだ。もしかしたら、できる人もいるのかもしれない。でも、わたしは、平日の仕事に加え、土日がほぼ家事と昼寝でつぶれ夜はアルバイトという日々の限界を感じていた。自分をもっと大事にしないとね、と改めて考えたこの一年。
決して、バイト先の仕事や人間関係に嫌気がさしたわけじゃないので、そこは残念だけど早めに見切りをつけることができて、なんとなくすっきりした気持ちで迎えた土曜日。
朝から、洗濯や、家事を済ませ、昨日借りてきた『統合失調症がやってきた』の続きを読んでいるうちに、寝落ち。起きると二時で、ここから夕食の準備や、残りの家事をやらないとならないため、焦り始めてきたけど、
同人で参加している冊子に掲載してもらう原稿を一本完成。以前に書いたのを押し入れの整理していたら見つけて、日記や手帳などノート類に挟まっていたものだ。たぶん、わたしは、よく仕事をさぼって書いていることがあったので、その時期に書いたものだ(('ω')
昔の日記を見返した。子育て中。もがいている様子がわかる、てらいのない文章に、なんだか手を差し伸べてあげたいなと思った、過去の自分に、過去のわたしの家族に。ご飯は何をたべたとか、結構克明にかいてあった。
日記に意味を見出すことを今までしなかったけれど、過去もわたしであり、わたしは過去から来たんだ、とSFぽい考えに至る。感慨。
家族に対する今の悩みとは違うけれど、小さいころは、一人で寝かしつけて、二人とも二歳しか離れてないから、やきもちや、赤ちゃん返りや、そういうのに振り回され、きっと精一杯やっているなか、声を荒げたり、後悔したり、泣きながら眠ったり……、今はそういう事はないけど、小さかった二人の事を日記の中で新しく発見した感じ。
読んだ時期の日記は、まだ小説を書く前の時期だった。とにかく、勉強しようと、公務員試験の問題集や、調理師、あと、池上彰氏の本を読んで勉強したいと書いてあった。
芸術から距離を取っていた時期だった。
浮かれている暇はないと思っていたのかもしれない。
さて、小説を書こうと思ったら、時間が無くなる。今日はからあげと味噌汁とかになりそうだけど、自分に誇らしく生きていきたいな、と漠然と、またおおげさにわたしは思う午後。
アマゾンプライムにルックバックが入ったので、ネトフリから乗り換えたタイミングで、TVが壊れました。
で、最近は、夜布団にもぐって映画を見るのに至福の喜びを感じている。
昨日は、パゾリーニのあまりセリフのない映画を少し見た。パゾリーニ作品は、耽美な作品ばかりと思っていたけれど、不条理な話らしく眠気に負けて、途中で終了したのだけれど。
じっくり、字幕の映画を寝床の中でみるって、最高だ。
イタリア語を勉強したいと思っているので、イタリア映画を探しながら、選んでいるうちに眠ってしまった。
選ぶ作業が一番好きなのかもしれない。
とにかく、わくわくしていたいな、と思う。現実が過酷でも、もっと過酷な状況下に置かれている人たちの事に思いを巡らせ、それがなんにもならなくても。
ああ、生きるだけ、生きてやろう、そして、書いてやろう。
新潮は結局買って、新人受賞作の『ダンス』だけ読了した。
とても読みやすい作品だった。絲山秋子の『沖で待つ』を思い出した。
それがわかる人、いるかな。