第五十五話 海水浴 その一 潮騒
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背の高い松林にまっすぐ伸びる小道は、光と影がほどよく調和して気持ちがいい。松の匂いも爽やかだ。道幅が狭いため、真一たちは一列に並んで歩いている。海のほうから、かすかに聞こえる潮騒。山地に多いアカマツの林にはエゾゼミの声が似合うが、海辺のクロマツの林には潮騒がよく似合う。
地面に海の砂が混じり出し、サンダルを履いた足の指に、チクチクと松葉の痛みを感じ始めた頃、松浦が林の外に抜け出した。
益田、西脇と続いて、真一も砂浜に抜ける。
強烈な陽射しを感じた瞬間、夏の扉が開いた気がした。目の前には、夏の光を散りばめた大海原。段々に連なった白波が生み出しているのは、貝殻を耳に押し当てたときに聞こえてくるのと同じ音だ。暖かい潮風が、優しく頬をなぶっている。明るい大気は、ほとんど黄色に染まっているんじゃないかと思うほど。
「海だーっ」
まばらにスゲが生えた砂の上で、松浦が足を止めて叫んだ。真一は、沖合からゆったりと送り出されるうねりを見つめながら、肩の荷物を下ろした。久しぶりに味わう開放感。ここ最近続いていた梅雨の戻りは解消され、ようやく本格的な夏が始まった。
「海の家、使う人ー」
松浦が、砂斜面の麓に見える青いトタンの建物を指さしている。屋根の側方に掲げられた看板に、「歓迎 わだつみの宮」 とある。真帆の話では、「わだつみの宮」 の利用料金はコミコミで六百円。メジャーな海水浴場の海の家に比べたら、だいぶお手頃な値段だ。だが、タープと水浴び用の水を持ってきているし、着替えも屋外で十分だ。松浦も、一応訊いてみただけ、という口ぶりだった。益田と西脇が、いいや、と答え、真一も荷物を担ぎ直して二人に続く。
足跡で乱れた砂斜面を下ると、その先からが海水浴場だ。広い砂浜には、パラソルの下で本を読んだり、レジャーシートを敷いて甲羅干しをしている人々が散見される。なまじ砂浜が広いため、ただでさえ少ない人出が、いっそう少なく見える。ぽつんと立った木製電柱の無骨なスピーカーが、パフィーの 「アジアの純真」 を大音量で流しているが、景気がいいのはこの一角だけ。
適当な場所を見つけて、早速タープの設営に取り掛かった。松浦や益田は、手際良く天幕を広げ、ロープやポールを配置していく。釣りが趣味でも、アウトドアの遊びに通じているわけではない真一は、手伝えることが少なくて肩身が狭い。それでも、言われた通り手を動かすことで、及ばずながら力になっていると感じる。
穏やかな潮風に、そわそわと心が騒ぎ出す。強烈な陽射しと、焼けた砂の輻射熱に挟み撃ちにされて、早く海に飛び込みたくてしかたない。梅雨が明けた今、もう水の冷たさを心配する必要はないはずだ。
「よっしゃ、行くぜ」
威勢のいい声に顔を上げると、松浦がハンマーを放り出して、走り出していた。
出し抜かれた気がして、真一もサンダルを脱ぎ捨てる。益田と西脇に、お先、と言い捨て、タープを飛び出した。
裸足で突っ走る爽快感。砂浜に散りばめられたビーズのような輝きが目に痛い。疾走する松浦の先に見えるのは、空と海と白く砕ける波だけ。躍動する背中を、真一もまた全力で追いかける。今なら追いつけるかもしれない。汀線を超え、白波を蹴散らして、水の抵抗で足が動かなくなったらゴール。
何の意味もない競争。けれど、おかしくてたまらない。昔、ハヤ釣りをした野川まで、友達と駆けっこしたことを思い出す。
結局、松浦に追いつくことはできなかった。腹筋が震えて失速し、むしろ、距離を開けられてしまった。真一が汀線に到達する前に、松浦は濡れた砂浜を駆け抜け、驚いて飛び立ったハマチドリの合間も抜けて、打ち寄せる白波に向かって突き進んでいった。跳ね上がる水しぶきに、足の動きが掻き消された頃、陽射しが乱反射する海面に、バンザイのポーズをした人影がゆっくり倒れ込んで、勝負がついた。
海の水は、七月初めの冷たさに比べたら、お湯みたいなものだった。ようやく、南から温かい海水が届いたらしい。梅雨の中休みのよく晴れた日、勢い込んで海に飛び込んだことがあったが、まるで氷水みたいな冷たさで、寒中に水垢離をする行者にでもなったのかと思わされた。あれは、レジャーというより修行だ。大気の暑さに、ごまかされてはいけない。
今はもう、そんな時期ではない。ただ、最初に浴びる水が冷たいことには違いなく、少しずつ体を慣らしていく。その後、四人でバシャバシャ水をかけ合っていたら、久寿彦と岡崎がやって来た。だいぶ遅い到着だったが、駐車場裏の池をチェックしていたと聞いて納得した。海水が混入する汽水池は、釣り人なら確かに気になる。真一も帰りにチェックしようと思っていた。
「もっと深い所に行ってみようぜ」
一段落ついたところで、松浦が沖に向かい出した。
砂浜の幅が広い海岸は、海の中も遠浅で、歩いても砂底の傾斜を感じない。
河口の突堤付近に、波待ちしているサーファーやボディボーダーが見える。ざっと数えて二十人くらい。あの中に美緒と真帆もいるはずだが、遠すぎて人の判別は難しい。波をキャッチしてこちらを向けば、かろうじて本人を特定できるだろうか。
歩き進むうち、温かい水に冷たい水が混ざり始めた。鳩尾のあたりをひんやりした感覚がひと撫でして、すぐに温かい水と入れ替わる。両者が入り乱れる状況は長く続かず、ほどなくひんやりした感覚が全身をすっぽり包み込んだ。
適当な場所で足を止め、何本か波をやり過ごしたのち、松浦が沖合を指さした。
「おっ、デカいの来たぞ」
まだ少し距離のある所に、黒っぽい波の影。なだらかな斜面がキラキラと光を弾いて、いかにも乗り心地良さそうだ。美緒と真帆は、あの斜面に思い通りのラインを描くのだろう。
松浦は、すでに波に向かって泳ぎ出している。大きな波は沖のほうで崩れるため、ここにいたら波を乗り越えることができない。のみならず、波が目の前で倒れたら、パワフルな白波の直撃を食らってしまう。
ほかの仲間たちも松浦に続いた。黒い頭が雁の群れのように、沖を目指していく。岡崎だけが、なぜかのんびり歩いていた。
「ぐずぐずしてたら、波に呑まれちまうぞ」
真一は隣を見て忠告した。水深は胸くらいまであり、歩いていたらなかなか前に進まない。水の抵抗を減らすには、泳いだほうが良いのだが……。
「平気、平気」
笑顔でサムズアップする岡崎。真一の感覚ではとても平気とは思えないが、これ以上構っていられない。砂底を蹴って、腕を掻く。
波が近づき、傾斜もきつくなってきた。大きい波だ。近くで見ると迫力が増す。
岡崎に声をかけたせいで、若干出遅れてしまった。倒壊のタイミングに間に合うかどうか。
先頭の松浦と、続く益田と西脇の頭が順々に浮かんで、波の裏側に消えていく。後ろから見ていると、毛の生えたブイが、浮き沈みを繰り返しているみたいで面白い。最後に浮かんだ久寿彦が、波のてっぺんで振り返って、あばよー、と手を振ってよこした。
久寿彦の姿が見えなくなると同時に、波が巻き込んできた。波の先端が白く砕け、うっすらと潮煙が棚引く。
間に合わない。
そう判断した真一は、腰を落として体勢を低くした。波を乗り越えることが無理なら、飛び込んで裏側に抜けるしかない。多少タイミングが遅れても、この方法で波に巻かれることを避けることができる。サーフィンで言うところの、ドルフィン・スルーというやつだ。
たわんだ波面が迫ったところで、勢いをつけて波の根元に飛び込んだ。
水の感触と無音の闇が、一瞬全身を包み込む。