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第七十二話 青い島影

もくじ 3,785 文字

 坂を上り終えた頃には、すっかりで上がっていた。全身から滝のように汗が流れ、肩や足の関節にうまく力が入らない。鏡を見たら、顔も真っ赤になっていることだろう。
 だが、道はまだまだ続く。額の汗を拭って先を目指す。
 けっこう高い所まで上ってきた。左手に広がるパノラマは、濃い森の葉並がびっしりと覆い尽くし、山肌が覗いている所は一箇所もない。文字通り緑一色。森を構成する樹種は、スダジイ、タブ、ヤブニッケイ、ヒサカキ、ヤブツバキあたりだろうか。ヒメユズリハやホルトノキなど、南方系の木々も交じっているはずだ。こんな密林の中を歩いて来たのかと思うと、何だか感慨深い。岡崎たちではないが、本当に川口浩探検隊の一員になった気がする。
 道の先に開けた小さな空き地で、久寿彦たちが待っていた。陽射しが照りつける中、全員荷物を背負って立ち尽くしている。
「先に行ってくれてよかったのに」
 少しとがめるような口調になった。遅れた自分のために、無駄に体力を消耗されても困る。
 空き地の裏手には、フウトウカズラが盛大に絡みついたモチノキ。この木を挟んで道が二又に分かれているが、目的地の入り江へ行くには右の道を取るらしい。道順は真一も聞いている。
「万が一ってこともあるからな」
 久寿彦は真顔で言った。これもあらかじめ聞かされていたが、うっかり左に進んでしまうと危険らしい。道はこの先で細かく枝分かれし、それぞれが釣りのポイントへと続いているのだが、痩せ尾根があったり、鎖場くさりばがあったりと、ぼーっと歩いていたら遭難しかねない。実際、ゑしまが磯は、釣り人の転落事故 (背負子を岩に引っ掛けるケースが多いらしい) があとを絶たず、「人食い磯」 という異称があるほどだ。久寿彦は、念を入れて真一を待っていたのだろう。
「じゃ、行くか」
 久寿彦が歩き始めた。後ろの三人を待つ必要はない。岡崎もここに来たことがあるからだ。真帆たちにも、益田と西脇がついているから大丈夫。
「アーアアー」
 また坂戸の叫び声が聞こえた。緑のパノラマが見渡せるあたりだ。
「何で、ターザンなんだよ」
 岡崎がツッコんでいる。川口浩探検隊ならターザンではなくてバーゴンだろう――真一もそう思いかけたが、シリーズでは、ターザンを探す回もあったかもしれない。
 道が尾根道になった。木々の背丈が低くなり、四谷の荷物が枝葉を擦る音が聞こえる。木漏れ日の降り注ぐ、気持ちいい道だ。緩い下り坂で、風通しもいい。セミの大合唱は相変わらずだが、トンビの声が紛れ込んで海が近いと悟る。
 森のトンネルを抜けると、灌木の合間を進んで、白く土が乾燥した岬の広場に到着した。柵が巡る広場には、木製のベンチもある。西と南と北の三方に海を見渡すことができるこの場所は、穴場の景勝地と言えるだろう。ここまで来れば、残りの道のりは三分の一ほど。
「うおー、疲れたー」
 ベンチに背負子を立てかけるや、真一は地面に大の字になった。汗を吸ったTシャツの背中が、泥だらけになってしまったと気づいたが、起き上がる気がしない。汚れなどどうでもいいと思うほど、疲れ切っていた。
「シンさーん、飲み物下さーい。喉がカラカラだー」
 だが、休ませてもらえないようだ。真っ青な夏空を眺める暇もなく、岡崎に急かされた。あちこち痛む体に鞭打って起き上がる。
 背負子のロープを解いて、クーラーボックスの蓋を開けると、仲間たちが我先にと手を伸ばしてきた。
「おい、押すなって」
「誰かポカリ取って」
「俺はアクエリアス」
「Jウォーターある?」
「ゲータレードならあるよ」
 クーラーボックスの缶はどれもキンキンに冷えている。真っ先に頬に当てた真帆が、ひゃあ、と悲鳴に近い叫び声を上げた。真一も一本つかみ取る。手近なベンチに座って、喉を鳴らして飲み始めると、干からびた体に、水分が浸透していくのがわかるようだった。さっきの坂でたっぷり汗を搾り取られたので、ありふれたスポーツドリンクが今は最高においしい。
「ふう」
 一本飲み切って、ようやく周りを見渡す余裕が生まれた。
 仲間たちが背負ってきた荷物の量はかなりのものだ。クーラーボックス、発泡スチロールの箱、食器や調理器具をまとめたダンボール、水が入ったポリタンク、バーベキューコンロ、炭、タープ、テント……。アウトドア用品のいくつかは、松浦も貸してくれた。造園業を営んでいる松浦の家には、この手の用具がけっこうあるらしい。近年のアウトドアブームを見据えて、バーベキューのできる庭づくりを提案しているのだとか。背負子のほかには、リュック、竹製の背負い籠、ボディボードのハードケースもある。美緒の持ち物であるボディボードは、軽いので、体力のない夏希が背負ってきた。ゑしまが磯は風光明媚な海岸だ。美緒は、ボディボードであちこち探索してみたいと言っていた。
「ねえ、こっち来てみなよ」
 柵の手前で、葵が振り返った。夏希が柵のほうへ向かい出し、岡崎たち学生三人組もあとに続く。
「うわっ、超きれい」「でしょ、映画のロケとかに使えそうじゃない?」「すげー、筒川さんいい場所知ってんなあ」「大学の仲間にも教えてやろう」「教えんな、バカ」。
 柵の前に並んだ五つの背中の正面には、巨大な入道雲が立ち昇っている。陰影に富んだ雲の下には、真夏の海が広がっているはずだが、柵の手前で地面がせり上がっているため、真一は見ることができない。
「どれ」
 ベンチの腰を上げる。葵たちより少し南にずれたほうが、視界を広く確保できそうだ。
 柵の手前まで行って足下を覗く。急斜面に生えたハチジョウススキの合間に、ガクアジサイの葉っぱが見える。梅雨時なら、断崖絶壁でたくましく花を咲かせる姿が見られたはずだが、八月に入った今、花は枯れてしまった。遥か下で、波が白く砕けている。海水浴には不向きな荒磯を、じっと見つめていると、吸い込まれそうで怖い。
 葵たちの奥の北側は、翠巒すいらんに抱かれた湾内に、緑の小島や岩礁が浮かんでいる。日本三景の一つ、松島を思わせる景観だ。海の色は一様ではない。湾口より沖は真正の青、内側は明るいアクアマリン、沈み根のある場所には紺色の影が透けて見え、岩がちな浅瀬を一升瓶のような薄い青が染める。高い場所から一望すると、まるで青い錦の織物を広げたようだ。裁断して着物に仕立て上げたら、いいものが出来上がるのではと思ってしまう。
「坂道大変だったんじゃない? 疲れたでしょ」
「そうでもない。ほかの奴らに比べたら、俺の荷物は軽かったし」
 久寿彦と美汐が並んで海を眺めている。真一と葵たちとの間。
「でも、うーうー唸ってたじゃん」
「あれは気合だ」
 一瞬疑わしそうな目を向けた美汐だったが、何も言わずに前を向いた。
「あ、島」
 遠くの一点を指さす。どこ、と尋ねる久寿彦。
「あそこ。いちばん遠い山の先」
 西側に幾重にもたたなづく山並み。遠くに行くにつれて色合いを薄めていく。目を凝らすと、最奥の岬の沖合に、うっすらと青い島影が見えた。
「どこだよ」
 ただ、空と同化しそうなほど霞んでいて、パッと見ただけではわからない。
「ほら、あそこだってば」
 久寿彦が美汐のほうに頭を寄せた。髪と髪が触れ合いそうになる。
 真一は、何だかいいところを邪魔しているような気がして、居心地が悪くなった。
 さりげなく二人から視線を外して、崖下の磯に目を落とす。
 だが、すぐに自分がやっていることのおかしさに気がついた。久寿彦と美汐は、付き合っているわけでも何でもない。美汐といちばん距離が近い美緒でさえ、そんなことは一言も言っていない。確かに、二人は仲がいい。休憩時間なども、よくしゃべっている。だが、それだけだ。
「みんな、写真撮るよー」
 西脇の呼びかけに、岡崎たちが振り返った。久寿彦も、あっちへ行こう、と美汐を促す。そのやり取りも普段通りで、特別変わったところはない。真一は、にわかに湧き上がった疑問を打ち消して、短い坂を下った。
 写真は、眺めの良い北側の柵の前で撮ることになった。全員横一列になると、四谷が後ずさりしてカメラを構える。ゑしま観音で撮ったときと違って、人数が多いので、だいぶ後ろに下がらないと全員写り切らない。
 仲間たちは皆、背負子やリュックを背負っている。こんな大荷物を背負って歩く機会は滅多にないから、この格好で写真を撮ることにしたのだ。
「あいつがシャッター切ったら、変なものが写り込みそうだな」
 久寿彦がみんなを笑わせる。四谷の田舎は山深い寒村だ。もうすぐ二十一世紀になろうかという今でも、カッパが出ただのキツネがいただのという話が、まことしやかに語られる土地柄で、そんな村で育った四谷も、多分に迷信深いところがある。例の廃ホテルについても、むやみに行っちゃいけません、と真一は真顔で諭された。うっかり霊を背負ってしまうと、拝み屋を頼むことになるそうだ。四谷の村では、よくあることだという。
「デジカメでも心霊写真って撮れるんですかね」
 竹原が岡崎に尋ねている。
「偽物なら、パソコンで簡単に作れるだろ。マックがあれば」
「じゃあ、本物は?」
「さあな。写真屋に聞いてくれ」
 そんな会話を聞いていたら、何人かの口許が不自然に歪んでしまい、結局、撮り直すことになった。

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鈴木正人
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