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創作に就いて思ふこと等。

 世に創作を真面目に遣る人間の内、唯其れのみに打ち込んで衣食住の旗を立てやうと思ふ人間は幾程在らうか。又さう云ふ人間の身分が学生でないとすれば、実生活はだう成って居るのか。一日をだう過ごして居るのか、創作は全体の何割を占めるのか、己の将来と云ふものに不安は無いのか。一般へ回帰しやうと云ふ気の本当に微塵も無いのか。
 凡そ作品を愉しむ云わば享受者の内、未だ大成せぬ創作者に就いて上記の如き疑問を、真正面から抱く者は数にしてさう大勢とは成らぬ。
 私は小説を遣る、創作として小説を遣る人間である。其れも享受者をあらゆる感動に誘ふやうな物を書かぬ方の、云ってしまえば退屈な方の小説を遣る。加えて、私は別段特殊な経験を持たぬし、空想より現実一般の事物を好み、此れを内的に観察し、其の連関を主観的に了解し、全く平坦な物語を書くを常として居るから、彫刻家や画家、当世風に云えば、漫画家やあの歌を遣る人達や愉快を演ずる方々と比べて遥かに地味である。
 彼等の創作物は極めて簡素簡潔で有る、理解し易いと云ふ点で物の良し悪しの判断に就いては享受者に其の裁量の認められて居るのが一般である。故に人気が有る、判り易ければ其の分支援者も多く現れる、身近で好いと云われる、其の内真理だと云ふ声さえ聞かれるやうに成る、「此れはもう芸術の域だ」と騒がれる物さえ出て来る。判り易い、簡素簡潔、は成功の基である。生死、肉欲、頽落に絶望と憤激に湛えし物の好かれるは、判り易いからである、極端と云ふ意味で頗る簡素簡潔であるからである、創作者として成功しやうと思えば極端を通るべきである、或るテエマを極端に論ずれば好いのである、その部分に於いて鋭き洞察の一つでも表現すれば拍手喝采である。此れ等は派手な方の創作である。
 比して小説でも文学作品と云われる創作物は、無数のテエマを抱えるだけ抱えて後は知らぬが大半である。判り易きかだうかは一重に文体の問題である。読み辛き旧式の表現を用いれば難解であると云われる、詩や漢文の如きは読み飛ばしてささと行くが読了の秘訣であるとさえ云われる。其処では、多くの事物が比較され、複雑に絡み合い、されど収束される事無く、中途でぷつり切れもすれば、終盤を飾るやうな物に成りもする。人間の生其れ自体に掛かる事情を、成るべく其の儘に書かうとするからさう成るのである。其の儘に、と云ふのは、物語と云ふ形式に於いて何一つ格別成る意味を持たせずに、と云ふ意である。物語が主役に追従せぬのである。
 此れは限りなく我々に近い表現である。物語は我々の平生意識で有り得る。現実では無くとも現実的である。我々の知る人間が居る、社会が有る、事件が起こる、感情も生まれる、すると情景が内的に見えて来る、現実的な有様が、己の在る現実の延長として現れて来る、かやうな作品に判り易いも簡素簡潔も糞も無いのは当たり前である。
 暴露や告白のやうな場面の一つや二つ在る作品は其の点人気である、見処が容易に見つかるからである。此処でも矢張り容易さが問題である、藤村で、「破戒」より「夜明け前」を好む人間はさう居らぬのもさう云ふ訳である、「親和力」より「ヴィルヘルム」、「神々は渇く」より「ボナアルの罪」を好む人間のさう居らぬも同様であらうかと思ふ。判り易いが美的感官を触発するとは好く云われる言説であるが、此れは物語でもさうである、不動の山々を看るより暖炉の火を看る方が感性は喜ぶのである。優れた芸術家でも無ければ、自然は常に退屈として其処に有るばかりである、退屈は常人には苦痛である、如何に優れた文学作品でも中途で苦痛を覚えぬ物は無い、其れで居て悟られる事の少なきは嘆かわしい事この上ないが、実際生きる我々の体験と経験の関係と同じく、さやうな文学作品は、其の先に、経験したるかの如く感が待って居る、読み終えて二月にも成る作品が、今更乍に胸に迫って来るのは其処で漸く経験し終えたからである。
 判り易くも無ければ、さやうに退屈を強いて猶、更に時を要するとは、現代の流行り物の正反対を行くやうな代物である。
 だが其れが好いと思ふ私は、流行りを知らぬ代わりに退屈を知らぬ。
 

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