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菊間瓦「立浪鬼」を追う
私が呉に長年住んでいて、四国的な要素を最も感じていたのは広島呉松山間のフェリーだけでした。しかし、四国にわざわざ出かけなくても「四国」は広島にありました。それが愛媛県今治で作られる菊間瓦の存在です。
私は高校までは呉中心の生活で、私にとって四国の情報というのはほぼ無いも同然でした。大学に入ってから通学で広島と呉を行き来するようになって、四国の人に会う機会が何度かあり、四国の話を何度か聞きネットで調べてみるとなんとなく想像できるようになります。実際に松山や高松に行ってみたりもしました。人口や都市の規模からいえば広島の方が大きいのですが、特に松山は大きな歓楽街や温泉街もあり観光客で溢れていて、広島中心部かそれ以上に活気があるように感じたのです。
最近になって、広島にいながら四国を感じるニュースが入ってきました。
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それが広島市南区にある旧陸軍被服支廠の屋根瓦が今治産であるということです。旧陸軍被服支廠の保存、重要文化財登録のための調査を広島県が行っている最中に判明したそうで、今治産の瓦を「菊間瓦」と呼びます。この瓦のことを少し調べてみると長い歴史があり、広島との関わりの強い瓦であるようです。
グーグルマップも活用して瓦を用いている民家を探してみると広島においてもかなり広範囲にわたって使用していることが分かりました。特筆すべきは菊間瓦の鬼瓦である立浪鬼のデザインで、波を打つように激しく装飾の密度やバリエーション等様々なものがあり興味深く感じています。
今回は今治の瓦である菊間瓦が、なぜ広島の様々な場所に存在するのか少しずつ解き明かしていこうと思います。
菊間瓦の特徴
瓦には、焼き瓦とセメント瓦、スレートなどがある。焼き瓦の一つである黒瓦は、千数百年の伝統を持つ黒燻瓦である。
これは、焼成の終りに松の枝葉をいぶして瓦の面に黒色の薄層をつくるもの。高温でいぶしたものは、銀灰色を呈し、重厚なものとなる。愛媛県越智郡菊間町の「菊間瓦」が有名。
(中略)菊間瓦の特徴は、葺き上げて光沢がよく、いつまでも変色しない。夏は涼しく冬は暖かい。
上記のように菊間瓦の特徴を引用にて示しました。ここ最近の広島においては様々な屋根材が混在する地域が多く、古い町並みや島嶼部を訪れないといぶし銀の瓦屋根で統一された風景に出会えません。家を新築するにあたり瓦に限らず屋根材の選択肢が増えているためだと思われます。
現在において、瓦生産の主流は三洲瓦、淡路瓦、石州瓦となっていますが、私が住んでいる地域で身近な瓦の一つ「菊間瓦」は今治より広島県側の資料が少なく、身近であるがゆえに謎が多いです。
現地調査
広島市内での調査
広島県の菊間瓦のこと、特に形状については裏をとれる情報が限りなく少ないです。まずは、ネットで調べられる範囲で菊間瓦の写真や情報をかき集めることにしました。
特に私が困ったのは、いぶし銀の瓦は基本的に一様なデザインで、素人から見てこれが菊間瓦であるという確証が全く得られないのです。同じいぶし銀でも様々な産地があり素人の判断は困難を極めます。
他人の家の許可をいただき、瓦をはぐって確認するというのも非常に面倒で、外観上でこれが菊間瓦といえるシンボルを必死になって探してみました。
そこで目を付けたのが鬼瓦です。鬼瓦というと、立体的な鬼が瓦に引っ付いているイメージが強いと思いますが、今回調査の対象とするのは鬼がいない、少し簡素なタイプの鬼瓦になります。以下写真を「立浪鬼」と呼びます。
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立浪鬼とは?
立浪鬼瓦は、立浪模様が主体の形状で、華麗な屋根を表現することのできる鬼瓦である。玄関・門等の屋根に使用されることが多い。
立浪鬼は頂部から雲・紋章・立浪模様で構成されます。大きいもの(棟鬼)と小さいもの(隅鬼、降り鬼)があり、さらに細かく分類すると大きさの等級もあります。
既製品のようなしっかりとした作りのものが多いですが、瓦職人のオリジナルのような個性が際立つものも少なくありません。また、立浪鬼は立浪模様の表現が主流ですが、稀に植物のような表現も存在します。
鬼瓦位置参考写真(鬼瓦:獅子口)
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隅棟の末端、正面を向く鬼瓦が隅鬼
屋根の流れ方向に向いているのが降り鬼
屋根頂部の大棟両端にある大きな鬼瓦が棟鬼
立浪鬼に込められた思いとは?
雲 くも
鬼瓦の足元にある模様のことを言う。
雲は水を呼び家屋を火災から護ると言う願いが込められている。
また雲は高さの表現・象徴とされ、立浪模様とで天地を表していると言われている。
鬼瓦の装飾に関する文献は極めて少ないため、ネット上の情報を参考にしてみました。添付のサイトでは覆輪鬼を参考に瓦で用いられる雲の表現について解説がなされていますが立浪鬼も雲と立浪模様で構成されているため、同じく火災から家を守るための魔除けとしての意味合いが強いと考えています。
立浪鬼の出現
(前略)室町時代には、2本の角をもつ鬼面が多くなり、足元または鰭(ひれ)という部分ができたらしい。鬼面がリアルになるのは、桃山時代からで足元はしだいに発達してきた。
江戸時代になると、足元はますます大きくなり、雲や植物や浪を図案化したものが現れ、現在見るような鬼瓦の原型ができた。
引用では室町時代から江戸時代までの鬼瓦の動向と足元(屋根にまたがる部分)の発達について書かれています。立浪鬼が出現した時期ははっきりとはわかりません。
後述でかわら館の江戸末期~明治時代の復元版の立浪鬼が出てきますが、立浪鬼もその江戸期における瓦発達(雲や植物や浪の図案化)の影響を受け、独自に進化したものと考えていいでしょう。
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広島の立浪鬼の傾向
和風住宅が減りつつも現在で見られる傾向としては山側よりも海に面した地域で立浪鬼をよく見ることができます。とくに、古くからの港町かつ和風住宅が密集している地域であればなおさらです。
具体的には広島市廿日市から海側に沿って呉や尾道を経由し福山を越え、広島県と岡山県の境に至る広島の沿岸と島嶼群(とびしま、しまなみ海道)、倉橋島などでよく見ることができます。
沿岸部では立浪鬼が見られる地域でバラつきがあり、場所によっては殆どありません。それに比べると島嶼群の方が見られる確率は高いです。特に面白いと感じたのは倉橋島で、対岸の今治と橋で繋がっていないにも関わらず、今治と同じ規模で立浪鬼が多く見られます。個性的な瓦も多いです。
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菊間町を訪ねる
私はこれまで述べてきた課題の解決のため、愛媛県今治市菊間町を訪れることにしました。旅程としては海路も検討しましたが、交通機関どうしの接続、ルート、値段の安さを考えてバス移動をメインとしています。具体的には広島からバスで福山へ、福山からバスで今治へ、今治からJRを使い菊間駅へと移動しました。
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JR移動の途中、予讃線から見える街並みや民家の屋根をよく見ると立浪鬼が至る所に飾られており、この周辺が産地であることがよく分かります。また、城にあるようなシャチホコの瓦も追加され、かなり派手な印象も受けました。
瓦のふるさと公園 かわら館
入館料 大人210円
開館時間 午前9時~午後5時 (2024年時点)
菊間駅から徒歩5分
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最初に目に入ってきたのは施設の玄関に添える巨大な鬼瓦です。鬼は下界を見下ろすように目が大きく、周囲には波が立っていてその存在感に圧倒されます。
また、かわら館の入り口付近や内部においては、屋根材の“瓦”として使うだけでなく、犬小屋に瓦を用いたもの、瓦の素材を活かしたライトスタンド、地元のキャラクター立体物から生活用品に至るまで従来の瓦の概念に囚われない斬新な試みに驚かされました。これらの一部は実際にかわら館一階部分のショップなどで実際に販売もされており、多様な商品展開をすることで瓦業界の生き残りを図っていることが分かります。現代では多種多様な屋根材が普及し、瓦を用いるケースは昔と比べると減少傾向にある中で素晴らしい試みです。
このかわら館の展示室は4層に別れており、階段やエレベータを利用して下の階から上に向けて順番に展示を眺める方式です。
以下かわら館において印象的だったことを書いていきます。
広島とのつながり
かわら館では、広島の建物に菊間瓦が使われている事例が複数紹介されており瓦の現物も展示されていました。前述した陸軍被服支廠の場所から南側に存在した宇品陸軍糧秣支廠倉庫(現在は解体)の屋根にも使用されており、瓦の一部も展示されています。また広島の地で被爆した被爆瓦もかわら館に譲渡されており、放射線を浴びて表面がこげていたのが印象的です。
さらに安芸高田市の登録有形文化財日野家住宅の瓦も展示されており、海沿いだけでなく広島の山側にも菊間瓦が普及していた事実は新たな発見でした。
広島の立浪鬼は菊間産のものであるか
平日のためかわかりませんが、偶然その日のかわら館には客の私しかいないようでしたので、スタッフの方に広島の立浪鬼について尋ねてみます。立浪鬼は呉市と広島市で撮影した写真を用いており、菊間瓦であることを確認しました。
呉市倉橋島の立浪鬼
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私の主観
倉橋島では立浪鬼が多数派で、古い民家も多い。普通の立浪鬼と異なり、波の表現が植物をイメージしたものとなっている。
スタッフからの意見
K工房(現在は廃業)のものではないか。デザインが非常に凝っている。
近年の比較的新しい瓦である。
写真の巴瓦(レモン絞りのような)は菊間瓦によく採用されている。
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(恐らく菊の形をイメージ)
広島市安佐南区の立浪鬼
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私の主観
安佐南区においては立浪鬼をみることは少ない。倉橋の立浪と比較すると巴瓦はシンプル。紋章の飾りがない。
スタッフからの意見
瓦職人I氏のものではないか。立浪鬼瓦中央に2か所程穴が開いている。
スタッフの中には職人さんの方もおられ、大変有用な情報を頂きました。お忙しいところ私のために時間を割いていただき本当に感謝しております。ありがとうございました。
また瓦製造のプロであってもすぐに回答が出ないものもあったため、一概にいぶし銀の瓦を菊間瓦と判断するというのは注意が必要であると考えます。
江戸時代の立浪鬼
こちらは江戸末期から明治頃の復元になりますが、現在の立浪鬼と比べると若干の形状の違いを除けば大方あまり変化がないように感じます。江戸時代からほぼ変わらずにその形が守られていることに感動しました。
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菊間町を歩く
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かわら館周辺の菊間町を少し歩いてどのような立浪鬼あるいは瓦がみられるのか調査しました。近年の連日にわたる猛暑のため調査範囲は菊間駅周辺としています。町の雰囲気は古い民家や酒造がよく残されている印象です。そのためか少し古い時代の瓦が沢山残されており独特の個性が感じられました。菊間瓦の生産地であり、瓦の工場が複数存在することから民家の殆どが菊間瓦と思われますが断定はできません。ここで紹介する瓦はあくまで菊間町の瓦としておきます。
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文献上での調査
菊間瓦の普及の理由
なぜ、広島の沿岸部において、菊間瓦と立浪鬼がこれほどまで普及しているのか様々な文献を見ながらその理由を考えてみます。
江戸時代
たとえば広島藩は、文化十年城の屋根を伊予の菊間瓦でふきかえることになったが、瓦の不足から葺きかえがなかなかはかどらなかったので、菊間の瓦師へ、葺かえが終わるまで藩内の領民に売らないように依頼するとともに、藩内の村浦にたいしては、菊間瓦の買い入れを禁止した。
当時藩内において菊間瓦の問屋は、広島城下をはじめ、椋の浦、にし浦、竹原、宮島、只(忠)の海、呉浦、川尻浦、広浦、倉橋、廿日市、尾道、三原などにあり、町民・農民のあいだに菊間瓦の需要がかなりあったことがわかる。
この引用は江戸時代の広島における菊間瓦の広がりについて書かれている文献になります。本稿「広島の立浪鬼の傾向」の中で述べた広島の沿岸・島嶼群には立浪鬼が多いという点が上記文献に書かれている瓦問屋の位置と共通する部分があります。また広島藩が菊間瓦の買い入れを禁止するほど広島沿岸・島嶼群で普及しており、庶民にとって菊間瓦は特別なものではなかったという点は現在の一部地域においても民家の屋根に広く使われているところを見ると、江戸時代の名残を見るようで興味深いです。
ちなみに江戸時代における瓦の輸送は主に船が担いました。陸路より海路が早く、今よりも身近に船が輸送や物流、庶民の足の主役だったころだと思われます。かわら館においても江戸期頃の瓦運搬専門船(瓦船)の展示があり、荷役の様子が模型で再現されていました。
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また地図上で菊間の町を見ると、対岸には広島県沿岸・島嶼群が面しており広島までの海路が他地域に比べて短いため、船による経済的な輸送ができることが分かります。
(前略)文政十二年舟入の瓦焼・江波瓦焼・吉浦瓦焼三か所より焼き出す瓦をさらに増産して、伊予菊間瓦の移入を抑えようとする計画のすすめられたこともある。「文政十二年倉橋島庄屋書輸控」五月付廻状(倉橋島野村家文書)
こちらも江戸時代の菊間瓦の様子が書かれた文献です。前の引用より時間が経過しておりますがこちらは広島における菊間瓦の流通を制限するような内容です。広島独自の瓦製造(舟入・江波・吉浦)が行われていた事実に驚きましたが、現在においてその場所で瓦製造が行われた影も形もないので寂しい限りです。
昭和時代
(前略)菊間瓦は如何なる方法によりて販売せられ又如何なる方面に販路を有しているかというに、瓦は汽車あるいは船舶によって送られるのであるが、大部分は所謂「瓦船」によって需要地に仕向けられる。面して特製品の如きは直接需要家に販売せらるるが、普通品の如きは呉、広島等にある問屋との取引に依るものが大部分である。
こちらは昭和8年頃の菊間瓦の販路に関する文献で、江戸・明治・大正時代を経て昭和に至っても広島への菊間瓦流通は継続されているようです。瓦の輸送手段として主に船、加えて汽車も使っていることが分かります。さらに広島や愛媛における具体的な瓦の販売額が付表にまとめられていました。付表「販売及び買額(昭和8年調)」によると広島市が41110円、呉市が30837円、広島県下で82220円、愛媛県下で43843円となっており広島県と愛媛県で取引額が2倍ほどの違いがあることが分かります。
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(前略)昔も今も大部分が広島方面であります。二三割は愛媛県内で消化されますが、県内には各地に多少なりとも瓦工場が分布しておりますので、需要が少ないわけです。凡そ七、八割が広島県に行くのは、船便で安く運べるからであります。以前はこの瓦運搬専門の船が十数隻あったそうですが、今では数隻に減っております。
最後に昭和51年の文献を見てみます。この頃になるとトラック輸送が主流になるので(菊間瓦では昭和37年以降に開始)船舶を用いた輸送が下火になっているようです。今日の菊間港においては漁船が多数係留されており、往年の瓦船の姿はありません。
以上で江戸時代と昭和時代の計4つの文献を見ながら広島における菊間瓦の普及とその理由について考えてみました。これらの文献を見ていると、広島の菊間瓦は決して愛媛県のどこか遠い町の瓦ではなく、江戸時代からずっと現代にいたるまで庶民に寄り添い、生活の一部として、家々の屋根を支え守ってきた存在だということが分かります。
今後の課題
調査の途中で次のような瓦の広がりも見えてきました。
どのようなものなのか次の調査の課題としておきます。
石州瓦
最近の傾向かどうか分かりませんが、広島の一部海沿いの民家において黒い石州瓦が菊間瓦と混在していることがわかりました。石州瓦の色味は菊間瓦とは異なり、深い黒色を呈しています。数でいえばいぶし銀の瓦と拮抗しているかもしれません。
淡路瓦
実は立浪鬼には淡路瓦製のものも含まれており、特徴等まだまだ調べ切れていません。
終わりに
瀬戸内の瓦はすべて黒瓦である。因島市大浜町、沼隈群沼隈町、安芸郡海田町などでは、黒瓦屋根の瓦の出所をたずねると、「伊予もの」とか「菊間」と答える。それほど古くから親しまれてきたものだ。
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菊間瓦の調査のために広島市の矢野、呉市の倉橋島を訪れたとき瓦に注目して町を眺めてみました。すると、愛媛県のJR予讃線から見えた風景と重なるのです。なにかイガイガしたものが屋根に載っているな…と。それが菊間の立浪鬼でした。中にはシャチホコや鷲、鯉、松竹梅、鶴や亀なども付けて縁起物だらけの屋根になっている民家も少なくありません。古い民家が残る地域は特にそうです。
さらには民家の屋根自体も何層にも積み重なり、そこに瓦や鬼瓦が付けられると屋根自体の主張が強くなり、まるで民家が屋根同士で対決をしているようにも感じられます。
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このような風景を作り出しているのも江戸時代から続く菊間瓦の広島進出あってこそではないでしょうか?もっと呉や広島にも身近な愛媛県今治市のこと、菊間瓦を伝えるものが沢山あってもいいものですが、海を隔てるとなかなか難しいのでしょう。
今回の調査においては、広島・今治間で過去にもたらされたものそしてそれが今もなお生き続けているという事実を菊間瓦の立浪鬼から突きつけられたような気がしました。そして未来について考えたときに、瓦以外の商品展開(生活用品、タイル等)が今後の菊間瓦の歴史にどのような変化を及ぼすのか注視していきたいと考えています。
参考文献
瓦施工書 上巻
徳舛敏成
1996年6月
日本の瓦屋根
坪井利宏
1979年
ふるさと広島の民俗
神田三亀男
広島地域文化研究所刊 平成26年7月1日
伊予の風土記 新訂版
伊予史談会 1976年
新修広島市史 第3巻(社会経済史編)
広島市 1959年
郷土地理論文集
愛媛県師範学校地理学教室編 昭和11年
大名と領民 教育者歴史新書;日本史201
青野春水 教育社 1983年