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歴史と民俗の源泉


私が歴史と民俗に興味を持ち、それが好物であるということに気づいたのはつい最近のことです。気づかなかった時間は長かったのですが、少し過去を振り返ると、直接触れる機会やきっかけのような物が何度かありました。きっかけになる物はいくつかあるのですがその中でも心に残っている三項目について書いていきます。

三項目というのは本や映像、町歩きに関するものです。いずれも感想程度のものとなっておりますが、特に本や映像は民俗に対する考え方を、町歩きは日常の中の新たな視点を提供してくれたと感じています。


本を読む


追われゆく工夫たち 

著者:上野英信 出版社:岩波書店 1960年

著者は京都大学を中退、実際に炭鉱夫として働き現場の生々しい、戦後日本の炭鉱夫がおかれた過酷な状況を伝える本です。

この本の主人公は九州の中小炭鉱(主に九州北部)で働く、炭鉱夫たちです。本書では、きつい、汚い、安い賃金そして暴力、数えきれないほどの労働災害と死傷者が出るような地獄のような炭鉱が次々と登場します。
さらに、戦後における石炭から石油へのエネルギー源の転換により、中小炭鉱の経営は成り立たなくなり廃止が相次ぐと、収入の絶たれた炭鉱夫たちは炭鉱から投げ出され、貧困と飢饉に苦しむのです。とにかく最初から最後まで救いようがない話が多いですが、炭鉱経営者に常に搾取されながら懸命に生きる炭鉱夫の生きざまは、教科書や歴史書には書かれることのない無名の人々によるもう一つの歴史の記録といえます。何より、著者が炭鉱夫として実際に働き、見聞きしたことを描写しているので、理不尽な状況下に置かれた炭鉱労働者たちの怒りが伝わってくるのです。

社会の下側から俯瞰する視点、すなわち教科書にも歴史年表にも残らない無名の人々の生活や人生を知ることは、昔の日本社会の構造や時代背景を詳しく知る手がかりとなります。今日に至ってもこの視点は民俗を追求するうえで必要なものだと考えています。


映像を見る

八つ墓村

監督:野村芳太郎 配給:松竹 1977年

いわずと知れた日本ホラー映画の代表作ともいえる作品です。実際に岡山県で起きた、津山三十三人殺しをモデルに尼子の落ち武者の祟りと祟りに見せかけた連続殺人事件を金田一耕助が解き明かすというものです。ただ、金田一耕助も出番が少なく謎解きの要素は抑えめとなっており、落ち武者の祟りに起因する殺人が繰り返されます。

学生の頃にこの映画を見た際、ひたすら怖いホラーの演出と難解なストーリが多くとっつきにくいものを感じていました。ホラー演出が強いこともあり、正直なところストーリが頭の中に入らなかったような気がします。

社会人となってこの映画を再度見直すことがあり、序盤のオープニングで尼子の落ち武者がとある集落に落ち延びるシーンがあるのですが、壮大な音楽も相まって茅葺屋根の小さな集落の様子にとても感銘を受けました。この後に、落ち武者の財宝に目がくらんだ集落の村人たちが神楽でおもてなしと見せかけて落ち武者を皆殺しにする凄惨なシーンがあります。
そのまま見ていると、美しい集落とグロテスクで凄惨なシーン、落ち武者の呪いの要素が目立ちますが、私はこの短い場面で、民俗の要素をあぶりだす試みをしようと思いました。
民俗の要素というのは本編で描写されることのない落ち武者の暮らし、落ち武者になった背景、集落の人々の暮らし、祭礼、その土地に生きる人々の思いなどです。
また岡山が舞台の作品でもあるので、それらの要素と突き詰めていくと私が暮らしている中国地方を形成するものとは何かがぼんやり見えてくるのではないかと思います。



町を歩く

仁方の洋館建物

広島県呉市仁方町

ある特定の町の規模や雰囲気などは、車で町の幹線道路を走り、車窓から見える景色から判断するのはとても難しいことです。車窓からわかることは道路沿いの建物や人の流れなど町の様子の情報は限られています。私が所用で、たまたま仁方(にがた)という町の細い路地を歩くことがあったのですが、幹線道路からはわからないその町の奥行きに驚かされました。


仁方は呉中心部より東よりに位置し、周辺が山と海に囲まれています。昔は国鉄仁堀航路といって仁方と四国を結ぶフェリーがありました。現在のフェリー発着跡地には桟橋と大きな待合所が残ります。もう一つ有名なものといえば仁方で製造される”やすり”です。仁方はやすりの工場が多く、生産量が日本一となっています。

現在の仁方桟橋に停泊する船舶

町の幹線道路から少し道を外れて山へ向かって歩くと、大きな酒造会社や屋敷、やすりの工場、お寺や観音堂があります。車一台通れるくらいの狭い道に加え、民家も集積していて建物同士の密度も高いので、幹線道路側から見たときの印象と随分と異なります。

そして町のはずれの山腹の高台にそびえる朱色の観音堂は仁方のシンボルでもあり、そこから仁方の景色を一望することができます。そこからの景色は呉中心部に比べると小さい規模であるのですが、酒造や寺、工場、民家などがぎゅっと凝縮されていてなかなか粋なのです。これらの建物は建てられた時代もバラバラで明治、大正、昭和、平成の時代の様々な様式が混在しています。まるで統一感がないのですが、建物一つ一つがその時代の記録者であり、時代の移り変わりというものが一目でわかるわけです(わかるまで時間がかかりますが)。別にこれは仁方に限った話ではありません。全国津々浦々の町にこのような景色は当たり前にあると思います。

朱色の観音堂(仁方のシンボル?)

民俗や歴史を調べるにあたって、町はその手がかりを沢山提供してくれます。たとえ100年前の景色がすべて残っていなくてもその時代の断片はどこかに隠れているのです。その断片を見つけるために町の隅々まで歩かなければなりません。時には古い文献(郷土資料等)を用いながら、その断片の真相に近い情報をできるだけ集め、比較検討しながら謎を解いていきます。それは長い道のりにはなりますが、謎の正解に近づいた時の爽快感は言うまでもありません。そして町の歴史というのは町だけで完結はしないので必ず外の世界との接点があります。大きな時代の流れに翻弄されていく町の歴史はとても興味深いものです。

今となっては車や電車では見過ごしていた風景が、民俗や歴史の宝の山のように見えていきます。私にとって、仁方とはそれに気づかせてくれた最初の町でした。



以上、歴史と民俗に触れるきっかけとなった三項目についてお話ししました。

おわりに

ここまで、私が民俗や歴史と感じた要素を並べてみたのは良いのですが、専門家でもなんでもないド素人の書く文章なので実は適当な部分がかなりあるかと思います。できればこれまでの記事を査読してもらって専門の方から指摘をいただきたいところです。ですが、素人が作る本格的な報告書といかないけれども、手軽に発信できるnoteを活用することで民俗学を少しでも盛り上げることができればと思い記事を作成しています。

私の作る記事は基本、民俗学や歴史学のその裾野の広さを知って上で、日の当たらないようなマイナーなジャンルを取り上げています。さらに記事の内容が、広島県と中国地方に限るため他の地域に住む方々にとっては想像しづらいです。
自分で記事を書いておきながら「誰がこんな記事を読むのだろうか…」と思う時もありますが、これまで私の記事に対して読者の方からスキをいただける機会が何度かあり大変励みになっています。感謝しております。

今後も過去に投稿した記事の形式でnoteを作成していく次第です。
また、中国地方ばかりでなく取材範囲を広げるように改善していきます。
よろしくお願いいたします。


今後の投稿予定

※記事の更新頻度は低めです。

・菊間瓦と広島(仮題)

菊間瓦

・丸穴のレンガ蔵の謎(仮題)

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