結果に頑張っている感は含まれません。
おやつにバナナは含まれますか?みたいなタイトルで始まりましたが、遠足のおやつの話ってまだ通じるんですかね?
余談はさておき
忙しいそうにするのは誰のため?
特に仕事をしている人であれば、今忙しい感を出したことや他人から察知したことはないでしょうか。
私も以前はそうですが、本当に忙しい時は別として、余裕を見せておいた方が(そもそも自然のままで)良いではないかと思えるようになりました。
そもそも忙しい感じを出してしまうのはなぜでしょうか。
私は以下のように思います。
① 仕事をしているように思われたい。
② 余計な仕事を押し付けれられたくない。
③ 自分頑張ってますという充実感を得たい。
実際は少し余裕を持っていた方がミスを少なくしたり、アイデアが出やすい傾向にあることは色々なビジネス書が教えてくれる。そもそも人間にマルチタスクは向いていないとも言われていますし
結局は、周りへのアピールといったところでしょうか。
追い込まれて本領を発揮する。眠っていた才能が開花する。火事場の馬鹿力なんて言葉もあるように、潜在的な能力が現れる場面が実際あると思いますが、それは身体的な能力によるものが多いと思います。
子供の頃に見ていたアニメなんかは、主人公の能力の発揮方法に火事場の馬鹿力感があったことを思い出します。
でも、今のアニメの中には、主人公が最初から圧倒的な能力を持っているものも多くあるように感じます。
話はそれましたが、私はどちらかというと余裕を見せた方がいいと感じています。
理由については、以下の通り。
① 余裕のない人に重要なことは任せられない
② 最小の努力で最大の結果を出したいし、そう見せたい
③ 結果で評価されることを恐れたくない
④ なんかカッコいい
④なんかカッコいいってなんだよ。と思うかもしれませんが、私の価値観なので気になさらずに
私が上司であれば、忙しそうにバタバタしている部下に重要な仕事を任せるのは躊躇してしまいます。
また、少し辛辣なことを言うと、忙しそうにしているのは結果がどうあれ頑張ったもんね。という言い訳だと思っています。
社会に出てしまえば、過程だけで評価されることはなく、評価されたとしてもそれに甘えてはいけないと思っており、あくまで結果が全てです。
結果だけで評価されることを恐れて予防線を張るようなことは、自分を成長させるためにも避けたいと思っています。
気をつけたいのは、余裕を見せることと、暇そうにしていることは違う。本当に余計だと思える仕事にはNoと言える気概は持っていたいことです。
そういえば、そんな本が以前ベストセラーになっていますね。
『LEFE SHIFT(ライフ・シフト)』 著者リンダ・グラットン
私は若い時、サラリーマンとして、組織内での仕事や働き方に不平不満は言わずに、言われたことをスマートにこなすことに美学を感じていました。しかし、ある時中身が無いことに気づきました。
中身とは、自分の意見だったり考えです。
深く考える思考習慣が無く、周りに流されながらその先で、足りないピースに合わせて形を変えてパズルが完成するかのように・・・それはそれで悪くは無いと思います。
しかし、前例踏襲で変える事もせずに、チャレンジには後ろ向きで仕事は右から左、意見やポリシーがないので新たな気づきや発見もなく、結果ではなく頑張っていれば誰かが見てくれていると淡い期待を持っていたと思います。
資本主義の社会はそんなに甘くありません。
社会の成り立ちと自分のスタンスの乖離に気づき、危機感を覚えた時から確実に考えが変わりました。
そして、分かっている人には分かる。さらに今の日本には、その分かっている人はマイノリティじゃないか。と言うとこまでは気付けました。今更ですが
今日は少し長くなってしまったのでこの辺にしたいと思います。
今日もいい1日です。