欲求の上限
初投稿から結構経ってしまった。
前回の私はまだ学生で、今はもう社会人2年目。
たったこの2年間で、格段にQOLが向上、というか生活そのものが違うものになった。
大きく息を吸えるように、以前とは全く健康的な今の視点で、欲求にどこまで応えたら幸せと感じるか考えてたので、あらためて生活について思ったことを書こうかな。
あ、長い文書くの苦手なので読みづらいことは承知で。
外食実験
買い物も好きだけど、食べることは何よりも好きで幸せを感じる。
卒業してからちゃんとした外食に出かけることが多くなって、様々な価格帯の料理に挑戦してきた。
※ちなみに学生時代は、一回のご飯は会食でも高くて2,000円を超えると自分の中ではアウト
2,000円のランチ、6,000円のフレンチ、1万円の焼肉、コース…。
これはどれも、「食べてみたい」という好奇心で実験してきた戦歴である。
今までいかに食費は安くすませるかという戦いの意向であったが、大人の経験のうちとして価格は気にせず嗜もうと挑んでみた。
結果、舌が肥えていない私は、大体の価格帯7,000〜1万円代の料理の美味しさは、甲乙付け難く、みな偏差値が一定と感じた。怒られそう。
まだ挑戦したことのない、1万円を超える料理や、10万円単位で出会ったことのない名品は未知である。経験が足りない素人が申すのは非常に恐れ多いが、ランチでも1,500円〜2,000円、それ以上の価格の料理で幸福度は変わらない。
これは、結構悔しい結果だった。
まだ出会っていないだけかもしれないけど、まだ私は超がつく高級料理とは相入れない関係なのだと。
幸福を追求するどころか、満足の規定値がやはり私らしい。
維持こそが幸福
では、私はどこまで欲を満たせば気が済むのか?
自分にとってのいい暮らしとは何なのか?
答えは、『0のまますごす』
ということだ。
全然結論っぽくないけど。
私にとって0である状態とは、生活が一定保たれたレベルである。偏差値で例えるなら50くらい。
100円パンも吟味して買えなかった学生時代をレベル-50と捉える。低!
もしかしたらこの先大きく底上げされるかもしれない。だけど、その時点での私に見合った生活ができることが最低限ならその時点もレベル0なのだ。
もちろん、お金を多くもらえるなら嬉しいし、たくさん食べられるならより嬉しい。
どこまでも尽きぬ欲求に応えて、手に入れられるものは臆せず手にする意欲もいいと思う。
しかし、生活の維持が実は難しく、気持ちと相談してバランスのメンテナンスをすることは、私にとってかなりの課題である。
今こそ躊躇せず、欲しいものは衝動的に買えてしまったり、外食だってできる。
何でもいつでも欲求を消化できる生活が私にとってはどこか恐ろしく、してはいけないことをしているうしろめたい気持ちになる。
「我慢こそ美」という観念が幼き頃から根付いていることが、良くも悪くも自分の素直さを縛っている気がする。
勉強こそ高価な嗜好品である。
と、友人が言っていた。一理ある。
勉強ができる環境・したいと思う心構えがあることは、非常に健康的であり、勉強することは学ぶことを継続させる前提の話。
これもまた維持することの難しさを乗り越えることが価値としては高価であり、金銭面でもそれなりの工夫が必要である。
学生時代がまさにそれで、学ぶために毎日働き、勉強するために食を削っていた。今も一食を駄菓子にしがち。
世の中には維持が難しいという人はたくさんいるだろう。私もその中の1人である。
幸福の定義は人それぞれだけど、みなどのような上限を設け、暮らしを営んでいるのだろう、、、?
私のビジョンが「制約のない世界をつくる」
とあるように、欲求のままひとりひとりが自由に生き方を選択できることを私は望んでいる。
しかし、制約をとっぱらって人生を豊かにすることとは、生活基盤が整っていることが必要で、制約の重さを詳細に具体的に考えてなかったと、この記事を書きながら気づいた。
基本的に欲求というより使命感でほとんど生きているとも改めて気付いた。
だって、外食とか食べたいから食べるのに、どれくらいの価格設定なら〜とか、テーマ決めて食べなきゃとか、企画すぎでしょ。わけわからん
この考えをきっかけに、我慢しすぎず、身の丈にあった生活と他の人の最低限の生活基準をもっと知りたい。
今後も恐らく、私はサイゼのドリアを愛すし、酢ダコさん太郎は世界一だし、菓子パンの値段には悩む幸せを選ぶだろう。