愛されるための嘘・匣〜「本音」の大切さ
「おかあさん、怖いよ。どうして?」
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わたしには、ずいぶんと幼い頃から、くり返し見る「悪夢」があった。
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夢のなかのわたしの家は、だだっ広い草原にたった一軒だけ建っている。空はたいていどんよりと曇っていて、夕方なので暗い。
草原と小さな一軒家。。
これが夢に出てくると、
「あ、はじまった。」
と、思う。
草原の奥のほうには、暗い森があって、その森の中にある木こりの家に、わたしは、母に手を引かれて連れて行かれる。
「早く、早く。」
と、母は、暗い森の中で、わたしを急かす。
遠くに見える木こりの家は、小さな丸太小屋だ。その小さな家に、真っ黒でごわごわの髭を蓄えた、大きなからだの木こりが一人で住んでいるのだ。煙突からは、いつも、煮炊きの煙が出ている。
木こりの家に着く。すると、母は、木の扉をノックして、わたしを前に押し出すようにして部屋に入る。そして木こりに向かって、
「よろしくお願いします。」
と、言う。
木こりは終止無言だ。顔の半分以上がごわごわの髭なので、表情がわからない。
部屋の真ん中にある、がっしりとした木製のテーブルの上に、母は、わたしの右手を乗せる。そして、わたしが、その手を勝手に動かさないように、自分の手で押さえつけてしまう。
「早く切ってしまって下さい。」
と、母は木こりを急かす。
「おかあさん、怖いよ。どうして?」
と、言う間に、木こりは、わたしの右手を、持っている斧で、手首から先を切ってしまうのだ。
震えるほど怖い。
ただ、不思議なことに、切られた手は、テーブルの上に乗っているのだけれど、血がまったく出ていないし、わたしは痛くもないのだ。真っ白で、お人形のような手首がクローズアップされる。
「ありがとうございました。」
母は木こりにお礼を言って、お礼のお金が入った封筒を渡す。
わたしは、右手が、手首から先が無くなったまま、母に、左手を引かれて、家に帰るのだ。
どうして手を切られてしまわないといけなかったのか、母に聞きたいのだけれど、怖すぎて聞けない。
たいてい、そこで、ハッと目が覚める。
とてもドキドキしてしまっているのだけれど、もう、何度も見ていて、夢だとわかっているから、泣いたりはしない。
ただ、一応、手首から先がちゃんとあるのを見てホッとするのだ。
毎回同じパターンの、その夢を、わたしは、たぶん三才くらいから、何百回も見た。
見始めた頃は幼すぎて、こわいだけで説明も出来ずに、夜中にただ泣いていたと思う。
でも、幼稚園の頃には、もうパターンに慣れていて、うなされて起きても、泣いた記憶は無い。
ーーあぁ、また見ちゃったよ。
と、夜中に一人で、ただ、ため息をつくのだ。
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様々な「時」が、わたしの脳裏をめぐり、「答え」を迫ってくる。
あの日。。。
あのとき。。。
どこで、どんな風に、わたしは「迷子」になってしまったんだろうか。。。
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わたしは本当に幼稚園が嫌いだった。何故行かなくてはいけないのか、全くわからなかった。
まだ二年保育しか無い時代だったので、幼稚園に入園するのは四才からだったのだけれど、小さすぎるわたしは、二才児くらいの体格だった。身長は八十センチ台の前半くらいだ。
だから、お弁当が入っている幼稚園のカバンは重すぎたし、体力も無いので、歩いて幼稚園に着く頃には、もう、へとへとになっていた。幼稚園バスなども、まだ無かったのだ。
「絵を描くこと」が好きではないのに、幼稚園では「お絵描き」ばかりさせられる。
「おうた」も、ひとりでに浮かぶ歌を口ずさむのは好きだけど、歌わされるのは、あまり好きではなかった。
「踊ること」は好きだったけれど、幼稚園で踊らされる踊りは、なんだか「子供だまし」な感じがして、面白くなかった。わたしはもっと自由に踊りたかった。
「お友達と仲良く遊びましょう。」という呼びかけも嫌いだった。だって、お友達は、みんな大きすぎて、お友達には簡単に出来ることが、わたしにはなんにも出来なかったからだ。
大きすぎる「お友達」は、わたしには「脅威」でしかなかった。だから、話しかけて来ると、わたしは怖くなって、たいてい泣いてしまった。話しかけて来た「お友達」は、逆にびっくりして、どこかに行ってしまう。。
なんといっても、わたしは、「一人」で、いろんな「空想」をしているときが、一番幸せだったのに、幼稚園に行っているあいだは、「させられること」が多くて、「空想」なぞ、してはいられない。
だから、わたしにとって、「幼稚園」での時間は、早く終わって欲しい「意味のない時間」だったのだ。
そんなことだから、幼稚園での「楽しかった思い出」は、ほとんど無い。「お友達」が怖くてよく泣いていたこと、遊具ではうまく遊べなかったこと、の二つは覚えているのだけれど。。
それでも、卒園間近に、ようやく、すべり台の階段を上まで登れるようになって、ちゃんと滑れた時は嬉しかった。「面白い」とはじめて思った。その頃の身長は、やっと九十五センチくらいだったはずだ。
雪が降った朝に、買ってもらったばかりの毛糸の帽子を被って、みんなで大きな雪だるまを作った時は、とてもワクワクした。それは、小さなわたしでも、楽しめた時間だったのだ。
笑っている写真が残っている。幼稚園でも楽しめた、貴重な時間だ。
わたしが何故そんなに小さかったのか、については、「わけ」があった。
「わけ」は、戦争中にまで遡る。
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わたしの母は、戦争中、小学校六年生のとき、栄養失調から「結核」を発病した。
当時の「結核」は「死の病」だったので、感染されては大変、と、母の家の前を、村の人たちは、小走りに走って通り抜けたそうだ。
小学生なのに、母は家族から隔離され、一人で入院させられた。ろくな治療も無いなか、一緒に闘病していた人々は次々と亡くなっていったので、母も「死」を覚悟したらしい。
が、母は奇跡的に生き延びた。
「農家でね、鶏を飼っていたから、家族が生みたての卵を毎日届けてくれて、わたしは、卵で生き延びたんだよ。卵の栄養は、本当にすごいね。」
母は、よくそう言っていた。
九死に一生を得た母が、無事に大人になり、結婚までも出来て、わたしが生まれたとき、祖父は、涙を流して喜び、「御祝儀だ!」と叫んだらしい。
そうして、わたしの名前は「祝子」になった。
「御祝儀」で生まれたわたしは、祖父から見たら、「奇跡の子」だったのだけれど、母の胎内から、有難くない「結核菌」をもらって生まれていた。
母は、治療法も無いなか、奇跡的に助かっただけなので、からだの中の「結核菌」は死滅していなかったのだ。
そこで、わたしは、二才のときに、体内の「結核菌」を死滅させるための治療を受けたらしい。もう、父も母も亡くなってしまったので、その治療が、投薬だったのか、注射だったのか、今となっては確かめることも出来ないのだけれど、わたしは、その治療を受けてから、どうにも体が弱くなった。
というか、ご飯が食べられなくなったのだ。
「二才まではまるまると太っていたのにねぇ。。」
と、よく母は、ため息交じりに言っていた。
多分、わたしは、二才から四才くらいまで、成長が止まっていた、と思われる。
「鶏の卵で奇跡的に生き延びた母」と、「二才で成長が止まってしまったわたし」とは、なんとなく、「運命共同体」のようだった。体のなかに、呪いのように、世間から忌み嫌われる「結核菌」を抱えていたわたしと母は、今だに「へその緒」で繋がったまま、「一心同体」であるかのようだったのだ。
同じ病気を持つ親近感が、わたしと母にはあって、母はわたしを特別に心配したし、わたしは母に、本能的に、ぺったりとくっついていた。
世界で、母だけが、わたしを守ってくれる人なのだ、とわたしは普通の子ども以上に、強く感じていたのだと思う。
だから、わたしは、母が大好きだった。
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「あんたは、また、ハエの真似してるの? ホントに馬鹿だねぇ。」
「まったく困った子だこと。早くご飯を食べて。幼稚園に遅れちゃうよ。」
これは、毎朝言われる言葉だった。
母の言い分は尤もだし、世間一般な対応だと、今さらながら、思う。
でも、わたしは、これを言われると、とても悲しかった。
だって、ご飯は食べたくないし、幼稚園も、行きたくない。「ハエの真似」だけをしていたいのだから。。
「ハエの真似」は、わたしにとっては、譲れないくらい大切なことだった。
ハエは本当に姿が美しい。からだのバランスが良い。目の形、手足の数、胴体の作り、羽の付いている位置、羽の形と薄さ、全て完璧だ。
そのうえ、動きが、また素敵なのだ。手も足も擦り合わせて身繕いをする。
とても熱心に、長い時間をかけてやるのだから、わたしには、ハエは、「綺麗好き」に見えた。
見ていると、どうしても、真似をしたくなるのだった。でも、叱られるから、いつも、途中で止めなければいけなかった。
そして、行きたくない幼稚園に、食べたくないお弁当の入った重いカバンを肩にかけて、すごすごと出かける。
「お前は二年間、下を向いてボソッと小さな声で行ってきますって言って出かけたねぇ。少しも楽しそうじゃなかった。家に一人で居るより、お友達にも会えて、ずっと楽しいはずなのにさ。」
「帰ってくるときはすごく大きな声で、ただいま!って言うのよ。ご機嫌で。」
「いつも、出張所のみんなと笑ってたんだよ。」
母はよくそう言って笑った。わたしたち家族は、その頃は、市役所の出張所の管理人室に住んでいたので、出張所とは棟続きだった。出張所で働く職員さんたちは、いつもわたしを見守ってくれていたのだ。
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思い出すと、悲しかったことは、まだある。「折り紙」のこと、だ。
四才くらいの頃、わたしは、母から、「鶴」の「折り紙」を習った。昔は、「色紙」など、高くて買えないので、母は、新聞の広告紙を、「ましかく」に切ってくれた。そうして、「ましかく」の作り方も教えてくれた。
これは面白くて、わたしは、一日中やり続けていても飽きなかった。ちょっとした時間があるとき、わたしは、新聞の広告紙で「ましかく」を作っておいた。たくさん「ましかく」がたまると、いよいよ、集中して、「鶴」を折った。
「ましかく」は、広告紙の大きさによって、いろいろな大きさのものが出来たので、「鶴」も、小指の先くらいの小さなものから、かなり大きなものまで、いろいろな大きさに折れたのだった。
そのうちに、わたしは、工夫して、広告紙を、糊で繋ぎ合わせ、特大サイズの「ましかく」を作り、それを「鶴」に折って、自分が乗れる「鶴」を作ったりもした。
その特大「鶴」は、出張所の職員さんたちの語り草になったので、わたしは得意になった。
折りあがった「鶴」は、遊ぶ時だけ羽根を広げてあげる。お休み中の「鶴」たちは、大きなビニール袋に入れておいた。
そして、憧れの「おおくにぬしのみことさま」にあやかって、わたしは、よく、そのビニール袋を背負って歩いていた。「鶴」が増えていくと、袋もよく膨らんでいったので、それもまた、嬉しかった。
「折り鶴」は、面白くて面白くて止められない。
わたしは、好きなことに集中しだすと、もう、まっしぐらで、何にも聞こえなくなってしまう子どもだった。
母が、
「ご飯だよー。」
と言っても、全然聞く耳が無く、「鶴」に集中している。「折り鶴」が、ご飯を食べない口実になってしまっていた。
すると、そのうち、心配性の母は、「鶴」を敵対視するようになっていったのだ。
幼稚園から帰って、すぐに「鶴」にとりかかるわたしに、
「また、鶴なの?」
「ずっと折ってると顔が真っ白になって来るから、いい加減に止めなさいよ。」
と、あからさまに不機嫌になるようになっていった。
「ご飯をちゃんと食べるなら、鶴を折ってもいいけどね。」
母は当たり前のことを言っているのだけれど、すぐに夢中になってしまうわたしには、その約束を守れる保証が無い。
一つ目のビニール袋が「鶴」でいっぱいになった時、わたしは、こう言った。
「もう、鶴は飽きたから、やめる。」
これは、大嘘だった。
本当は、もっともっと折りたかった。大きなビニール袋を二袋も三袋もいっぱいにするくらい折りたかったのに。。
わたしは母には嫌われたくなかった。だから、もう、「鶴」はやめる決心をしたのだった。
その頃から、わたしは、はっきりと、「母が好きなものはわたしも好き」で、「母が嫌いなものはわたしも嫌い」でなければいけない、と、自分に言い聞かせるようになっていった。
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悲しいおはなしは、まだある。
わたしは、はたから見てぼんやりしているような時は、たいてい、「空想の世界」で遊んでいた。それは、もう、二才くらいからだったように思う。
小さいわたしが見上げる空は、遠く、高く、飛んでいる鳥は大きく、お花たちは笑っているかのように風に揺れ、草も、虫も、「わたしのお友達」だった。世界は祝福されているかのように、輝いて見えた。だから、「空想」は「無限」に広がっていったのだ。
「空想」の中で、わたしは「何者」にでもなることが出来た。こころのなかにはたくさんの「自由」が広がっていた。
「空想」して、自然に、ニコニコしてしまったり、泣きそうになったりしていると、母はすぐに心配した。
「どうしたの?」
と、母は、よく聞いてきた。「空想」の世界で遊んでいるわたしは、すぐに「現実」の世界に戻れずに、目をパチパチしてしまう。
すると、母は、心配そうに、
「まったく、大丈夫なの?おかしくなっちゃったの?」などと言ってくるのだった。
「大丈夫だよ。ちょっと、親指姫になってただけ。」
などと、うっかり言ってしまったら、それは、もう、大変なことになった。
「お前は、もう、本当に変な子だねぇ。大丈夫なのかな。お願いだから、まわりのみんなみたいに、普通になってくれないかな。」
と、𠮟られてしまうのだ。
母は、大変に、現実的な人だった。多分「空想」なんて、したことも無いのだろう。だから、わたしは、母の前では、絶対に、「空想」のおはなしはしないように気をつけていた。
本当は、母と、「空想のおはなし」を、一緒にしてみたかったのに。。
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母に嫌われないように、母に愛されるために、母と「一心同体」のわたしは、ものごころがつく前から、もう、本能的に、細心の注意を払って、母に合わせていた。
母から見たら、幼稚園くらいまでは手こずったけど、そこから先は、わたしは、「とても良い子」だったはずだ。
でも、わたしは、自分にとって大切なものでも、母が嫌ったら嫌いなような素振りをし、母が評価しないものは、評価しないような振りをして、過ごしていたのだ。
愛されるために付く「嘘」は、習慣になり、いつの間にか、わたしの「本音」は、この世界のどこにも存在しなくなって行った。
「本音」は、瞬時に、わたしのこころのなかの「匣」に仕舞い込まれてしまう。日の目を見ることは無いのだった。そうして、いつしか、「匣」の中は、発表されることの無かった「本音」で、一杯になってしまっていた。。
それでも、わたしは、「本音」を隠しつづけたまま、大人になった。もう、「本音」など、なんだかわからないのだった。
わたしは、「本当のわたし」を「匣」に仕舞い込んだまま、社交辞令に長けた、「形だけの大人」になって行った。
その先に、何があったか。。
当たり前のような「生きづらさ」が、わたしを覆い、若い時代のわたしは、しだいに病んでいった。
「愛されるための嘘」は、「本音」を隠蔽するために、「本当の自分」が成長することを阻んでしまう。。
親は、子どもの、健全な成長を願うけれど、子どもの「本音」を否定してはいないか、ということについては、あまり注意を払わないように感じる。
子どもの成長に、一番大切な要素は、親が本気で、子どもの「本音」を守ってあげること、ではないか、と、わたしは、思ったりする。
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「おかあさん、怖いよ、どうして?」
親に、大切な手首を切られてしまう子どもは、案外たくさんいるような気がしてならない。