世界は楽しいモノにあふれてる
Ⅰ 「世界はほしいモノにあふれてる」
かつて、NHKに「世界はほしいモノにあふれてる」という番組があった。海外にバイヤーが買いつけに出かけて、とびきりおいしいチーズだったり、その土地ならではのオーガニックコスメだったりを見つけて、スタジオのMCがそれを味わったり、試したりする。少し眠くなった頃にテレビをつけ、この番組を見ると、海外の素敵な景色が広がっていた。番組のロケ地に自分も行ってみたいなあと旅への思いを強くしたものだ。MCの三浦春馬さんが急逝されたときは、番組の中でにこやかだっただけに、衝撃を受けた。
この番組に倣って、私が今年学んだことを一言で言うと、「世界は楽しいモノにあふれてる」ということだ。
Ⅱ 梶井基次郎『檸檬』を再読する
私は学生時代、文学を専攻した。けれど、卒業してからは小説を読んで、作者が表現したかったことは何か、を考えることから離れてしまっていた。
そんな私が、今年、久しぶりに梶井基次郎の『檸檬』を読んだら、作品がかつて読んだのとは全く違う顔つきで私に迫って来た。
高校生のときに初めて読んだときは、檸檬ひとつでがらりと気分が変わる、そんな語り手の感受性の鋭さに驚いたけれど、今回は、梶井が非常に論理的に小説を構成していることに気がついた。
語り手は当初、3つの負担によって苦しめられている。背を焼くような借金という経済的な負担、肺尖カタルという肉体的な負担、神経衰弱という精神的な負担だ。語り手の心を始終おさえつける「えたいの知れない不吉な塊」は、三重苦がなくなれば、消えるはずである。
三重苦に苦しむ語り手は檸檬との出会いによって、元気になり、幸福な気持ちになる。つまり、肉体的な負担と精神的な負担が軽減したように感じる。しかし、経済的な負担は依然として残っている。語り手は檸檬を爆弾に見立て、借金取りの象徴のように思える丸善を爆破することを夢想する。そうすることで、経済的な負担をも帳消しにしようとする話である、とわかった。
Ⅲ 小津安二郎『大人の見る絵本―生れてはみたけれど』を再び見る
学生時代に学んだ、文学作品を構造的に分析する、という手法は、文学だけでなく、映画にも応用できる。
noterのジャスミン真理子さんが、小津安二郎のサイレント期の傑作『大人の見る絵本―生れてはみたけれど』をご紹介くださった。映画に出て来る子供たちは、十字を切り、手をかざすことで、相手を死なせたり、生き返らせたりする遊びに熱中しているとジャスミンさんは指摘されていた。
十字を切るという行為はキリスト教と密接な関係がある。映画を見直してみて、子供たちの遊びは、イエス・キリストが行った死者の復活という奇跡をパロディ化したものであると気がついた。イエスごっこに興じる子供たちに対し、サラリーマンの父は、出世して暮らしを楽にしようと、会社ではプライドを捨ててひょうきん者を演じている。子供たちに対する無償の愛ゆえに自らを犠牲にする父は、私的領域におけるイエスというべき存在であると思った。
Ⅳ 世界は楽しいモノにあふれてる
世界は楽しいモノにあふれていて、私の場合、それを探すために遠くまで出かけて行く必要もない。小説は青空文庫で読めるものもあるし、映画もサブスクなどを利用すれば、簡単に見られる。あとは私自身の気持ちの問題である。積極的に文学や映画に触れ、作品が表現しようとしていることは何か、自分の頭で考えるようにすればよいのである。
数学と違って、文学や映画の読解には、たった一つの正解はない。それが文学や映画を分析することの難しさであり、また醍醐味でもある。
今まで私は、この楽しみから遠ざかり、時間を空費してしまった。中島敦の『山月記』の李徴は、臆病な自尊心のせいで、一流の詩人になりたいと思いながら切磋琢磨せず、時間も才能も空費し、果ては虎になってしまい、そのことを心から嘆く。若くして科挙に合格した李徴と私とではずいぶん能力に差があるけれど、それでも彼の後悔が自分の過去とどこか重なり、李徴同様、残念でならない。けれど、私は李徴のように虎になって、書くことも発表することもできなくなった訳ではない。
楽しいモノに触れて考える喜びを知った今、これからは楽しいモノにひとつでも多く触れ、考えたことを文章にまとめて行きたい、そう思っている。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。みなさんにとって、楽しいモノは何ですか?