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タカミムスビとカミムスビが夫婦?対馬に残る変わった伝承
トップ写真 対馬 胡禄神社 境内から対馬海峡を臨む景色
なぜか対馬では見られない出雲信仰
前回は、対馬固有の信仰。
天道信仰についてご紹介しました。
引き続き、今日も対馬の信仰。
日本全国の神社。
多くが日本神話に登場する神々を祭祀。
対馬の神社にも、
日本神話に登場する神様は祀られています。
ただ少し、変わったストーリーになってます。
日本各地の神社と大きく違う点。
出雲神話の神々の伝承がありません。
大国主命や事代主。
ほぼ、祀られていません。
一つ、気になった島大国魂神社。
こちらの祀神は素戔嗚尊。
まあ、出雲系と言えば出雲系。
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もう一つ、島大国魂御子神社。
こちらには、大己貴神が祀られてましたが、
出雲系の影は薄いです。
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ちなみに、
式内社で倭が冠に付く大国魂神社は、
阿波にしかありません。
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神産巣日は女神 天照は男神
他、造化三神と呼ばれる神様。
アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビ。
の三神のうち、タカミムスビとカミムスビ。
二柱の神様は存在。
ただ、大きく異なる対馬の信仰。
なんと、カミムスビは女の神様なんです。
しかも、驚くことに、
タカミムスビとカミムスビ。
夫婦というストーリー。
そして、対馬固有のメジャーな神様。
多久頭魂(タクズタマ)。
この二神の子どもというお話。
目から鱗の新展開です。
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これだけではありません。
皇祖、天照大御神。(アマテラスオオミカミ)
対馬ではアマテルという男の神様です。
どういう経緯でそうなってしまったのか。
伝達のミスなのか。
それとも、その方が都合よかったので、
勝手に神話を作り直したか。
どちらにせよ、
こういう展開が待っているから、
地方の神社巡りは面白い。
おそらく、島固有の神様が存在。
島民は古来、その神様を信仰。
比較的近代。
日本神話の神様を祀るようにお達しがあり。
全く違うストーリーだと混乱する。
ちょっとだけ変えて話を作った。
結果、こうなってしまったのではないか。
私の推理です。
亀卜を伝えたイカツオミ
神功皇后関連の信仰が強い対馬。
日本神話では、
皇后自ら祭主となり、武内宿禰に琴を弾かせ。
中臣烏賊津使主(なかとみイカツオミ)を、
神意を解釈する審神者としました。
こちらで登場するイカツオミ。
皇后凱旋後、対馬に留まります。
対馬の女性を娶り、対馬で最後を迎えた。
イカツオミは、
大陸から持ち帰った亀卜を伝えた。
そんな伝承があります。
ちなみに亀卜とは、
鹿の骨や亀の甲羅を使った占いのこと。
古代において、作物の豊凶や天変地異など。
統治者の重大な関心事。
政祭一致の時代。
場合によっては、統治者が処刑されることも。
亀卜技術は、
それくらい重要な神事であったのです。
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対馬には今も亀卜祭祀が残ってます
7世紀後半の律令時代。
国家の吉凶を占う手法として亀卜が採用。
伊豆5人、壱岐5人、対馬10人。
三国卜部が占いの職能集団として、
朝廷に仕え、重視されました。
その後、平安時代に入ると、
お馴染みの陰陽師が活躍。
亀卜は衰退していきますが、
対馬においては、
対馬藩の公式行事となり、
幕末まで存続しました。
私が巡った、いくつもの神社では、
亀卜の形跡が見られました。
今も、その風習は生きているようです。
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イカツオミが住んだ対馬の阿連地区(あれ)。
対馬の神道の著者、鈴木棠三氏は、
対馬神道のエルサレムと称したそうですよ。
聖地という解釈かな。
今でも、神社の名称に、
雷、霹靂、能理刀(のりと)が付く神社。
亀卜が行われているケースが多く、
その跡は全島に分布しています。
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太祝詞神社。
中臣の祖である、
アメノコヤネとイカツオミを祀ってます。
境内横には澄んだ小川が流れ、
境内は静寂ながらも、
凛とした気に満ちていました。
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境内の一角には、
イカツオミの墓とされる石の壇があります。
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行かれた際は、探してみてください。
阿麻氐留神社
最後に、阿麻氐留神社(アマテル)について。
祀神はアメノヒノミタマ。
タカミムスビの5世の孫とされてます。
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日本書紀によると、
5世紀、遣任那使、あべのおみことしろが、
(安倍晴明の先祖かな~?)
神託を受け、
対馬の、アマテル・タカミムスビを奈良に。
壱岐のツキヨミを京都へ。
それぞれ遷座させているそうです。
ツキヨミは京都の松尾大社かと思うのですが、
奈良へ移されたアマテルは、
どこの神社なのでしょうか。
対馬や壱岐の祭祀集団を中央に移動させる
政治的意図があったのかもしれません。
(対馬神社ガイドブック参照)
遣唐使も通った西漕出
そんな歴史のある阿麻氐留神社。
その周辺も見どころあります。
西漕出という場所。
遣唐使の時代、
島の日本側から朝鮮半島側へ。
抜けられる最短ルート。
極端に言うと、
太平洋側から日本海側へ。
大きく迂回せずとも抜けられる。
そんな感じのワープポイントです。
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日本側から大きな船で到着。
船を担いで陸路で西漕出の船乗り場へ。
または、大きな船から小さな船へ乗り換え。
空海も最澄も、ここを通って大陸へ。
もちろん帰路もこのルート。
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その風情残る船着き場。
是非、ご覧くださいね。
そんな場所故、
元寇の際は悲惨な場所ともなりました。
![](https://assets.st-note.com/img/1716972563063-UzAFxHtTox.jpg?width=1200)
対馬は古くから倭王権の支配下だった
対馬に残された伝承。
そこから推測すると、
神功皇后の御代、
だいたい4世紀後半くらい。
その時代、既に倭王権は、
自由に関門海峡を行き来できたのでしょう。
そして倭王権の信仰や文化。
壱岐や対馬へ伝えられ、
対馬の文化もまた、
倭王権が採用していた。
そういうことになりますね。
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