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読書『謎解きシェイクスピア(河合祥一郎)』


 近世に活躍した詩人・劇作家のウィリアム・シェイクスピアは大学出でない田舎者でありながら、優れた戯曲や詩を残し、英文学史上の最重要人物とされているという、不思議な人物。無教養の田舎者があれほどの作品を書くことができるとはにわかには信じがたいと、別人説まで囁かれているシェイクスピア。彼は結局何だったのか。この問いを突き詰めていく本。今までに読んだシェイクスピアに関する本のなかで、一番面白かった・・・!シェイクスピアという人物の興味深い点、すなわち、大学も出ていない、どれほどの教養があったのかもいまいちよく分からない男が突然ロンドンへ出て、数多の傑作を書き、今日では英文学史上最も偉大な人物とされているということ、そして、そんな大文豪でありながら、その私的な面がまるで明らかにされていないというミステリアスな点を、追及してゆく。

 大学の図書館のシェイクスピアのある棚で、何か良さそうな本ないかなーと見ていて見つけた。

 わたしの大学の図書館はほんとうに凄くて、別の大学に聴講生として通っていたことがあって、そこの大学は学生数がうちの大学より多いのだけれど、そこの図書館と比べてもシェイクスピアの本なんか10倍以上あった。外部の講師の先生も「ここの図書館は本当に良い本がいっぱいある」と言っている。入学した時から、外国文学の棚なんか見て、ここの本を全部読めたらどんなに良いだろうと思っていたのに、それなのに・・・。何故わたしは一年もこの大学に通って、全然図書館の本を読んでないの?外国文学の棚を見ても、99.999%は読んでない本だし。はぁ、一体何のために学費を支払っているのやら・・・・。
 
 あと、何でかはわからないのだけれど、うちの大学の本棚の本はカバーを全て外してある。だからどこかで本の画像を見て、「あの青い本あるかな」と思って探しても絶対に見つからない。何故本のカバーを剥くのか?何か合理的な理由があるからそうするのだろうが、よく分からない。本棚のスペースが足りないから薄くするために外しているのだったら面白いけど。でも、カバーがない方が目に優しいというか、落ち着いた印象になっていて良い。本のカバーには購買意欲を促進するための効果もあると思うので、既に図書館に並べられてまで要らんアピールをしていたら、もういいよ、となってしまう。

 閑話休題。
 大学の行き帰りの電車のなかで読んだ。

第一部、第二部 

 
 第一部、第二部では、シェイクスピア別人説の検証、そして、劇作家シェイクスピアとストラットフォード・アポン・エイボンのシェイクスピアが同一人物であることの証明が行われる。別人説の根拠として、学歴のない男にあんなに語彙も豊富で法律などの学術的な知識も必要な話が書けるわけがない、というものがある。実際のところ、彼はグラマースクールという当時の公立学校で、高い水準の教育を受けていたそうで、そこでラテン語を覚えて、原文で古典文学なんか読めていたらしい。余談だけれど、わたしの大学の先生は、「皆さんは英語なんかできなくても英文科を卒業できるので、今の大学なんかよりよっぽど教育水準は高かった」とか言っていた。ここまではいろんな本に書いてある話。そのほか、貴族の描写にリアリティがあるから貴族が書いてあるとしか思えないだとか、無教養の田舎者らしく努力の跡が見えたら納得できるが、むしろ作中からは高貴な印象が漂っていて不自然すぎるだとか、グラマースクールを出たあとどうやって教養を身につけたのか分からないだとか、あれほどの文豪が私的な手紙や日記を残さないのは不自然だとか、そういう理由で別人説が現れたらしい。劇作家のクリストファー・マーロウが死んだのと入れ替わるようにシェイクスピアの劇作家としての活動が始まったことから、実はマーロウは死んでいなくてストラットフォード・アポン・エイヴォンのウィリアム・シェイクスピアの名を借りて戯曲を書き続けていただとか、そういう感じで六人の別人候補が現れ、それらをひとりずつ検証してゆく。正直、そうやって一人一人丁寧に検証してゆくのを読むのが退屈で、その辺りはだいぶ飛ばして読んだ。貴族の家で本を借りて読んでいただとか、カトリック教徒だったために身の危険を感じて自分の胸の内を隠すしかなかっただとか、なるほどなぁとなる理由で別人説が否定される。ただ、結局やはりシェイクスピアは謎めいた人物なので、やや消化不良な感じもありつつ、まあ、それもまた面白い。 

 あと、わたしは今まで「爵位を買う」というのは、その人個人の話だとなんとなく思っていたのだけれど、どうやらシェイクスピアが爵位を買えば父親のジョン・シェイクスピアも貴族になるし、息子のハムネットも死んでなきゃ貴族になって、彼が子供を持てばその子供も貴族になれていたそうだ。へー。

思うこと

 わたしはシェイクスピアのこういう話を読むと、文学の才能って何だろうとか考えるけれど、そういう視点で書かれた本ってなかなかないんだなー。わたしが知らないだけかもしれないけれど。別にそんなに読みたいとも思ってはいないけれど。
 
 イギリスの文学を勉強していて、その作家の背景としてこうこうこういう教育を受けて・・・っていうのがあるけれど、ああいうのに本を読んで教養を身に着けた、とか書いてあるの、なんか不思議な目で見てしまう。わたしの身の回りの価値観では、学歴がすべてで、たとえば本をたくさん読んでいても、「頭がよさそう」とは思われるけれど、「頭がいい」とは思われない、マンの『魔の山』とか読めても、学歴なかったらやっぱり、学のある人とは見做されない(そもそも学歴という言葉がどの程度の学校を卒業したか、という意味を指すというのだし・・・)。 

第三部 

 第3部は、ロバート・グリーンによる『三文の知恵』に出てくるシェイクスピアに向けたと思われる悪口が、実は劇を書いていたシェイクスピアではなく、それを演じた役者に向けられたものだった、という話。時間が無くって、ここも面白そうだったけれど半分くらいしか読まなかった。

第四部

第4部で、これからのシェイクスピアの批評の仕方を提案している。シェイクスピア・ブランドに目が眩んで、無条件にシェイクスピアを崇拝していてはいけないよ、原点に立ち返って、ニュートラルな状態でシェイクスピアを見なくては、足元を掬われてとんでもない思い違いをしてしまうよ、ということらしい。
 最後に本書を貫く批評精神についての説明がある。

 バブルのようだった二十世紀の批評は、結局、テキストを所与(given)のものとして、最初から(ア・プリオリに)そこにあるものとして解釈することを前提としていた。教室にテキストがあることを当然視していた。それゆえ「テクストの外には何もない」のであり、読者の解釈に特権が与えられ、「作者は死んだ」という事態にまで発展した。しかし、これらの批評は書かれていない状態からテキストが生まれ出るその瞬間にまなざしを向けるべきだろう。

『謎解きシェイクスピア』(河合祥一郎、新潮社、p.234)

  作者の意図とされているものを無視して、各々いろんな読み方があるのを尊重するのはいいけど、作品を既にあるものとして作者から切り離すのではなく、その作品が作者の手から生まれる瞬間を見なくてはいけない。四百年後の我々の視点から見るのではなく、シェイクスピアの生きた時代、文化に目を向けて批評をするべきだ、ということらしい(だいぶ大意。(間違ってたらごめんなさい))。へー(@_@)。



 



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