Jリーグ黎明期、日本の大学チームへ招かれた夫とブラジルから移住(ポルトガル語翻訳・通訳者 松原マリナさん:その1)
日本に来たばかりのころ、小さかったお子さんたちと出かけると必ずこんなやりとりがあった、と振り返る松原マリナさん。
簡単な会話以外はほぼ日本語がわからない状態で来日し、ポルトガル語翻訳・通訳者として活躍するに至るまでの過程には、どんな経験や思いがあったのでしょうか。
かつて多くの南米への移住者たちがここから旅立っていったという「海外移住と文化の交流センター(旧神戸移住センター)」にある関西ブラジル人コミュニティの事務所でお話を伺いました。
ブラジルから日本へ
日本でJリーグが始まる少し前、夫のネルソン(注:松原ネルソンさん。ヴィッセル神戸ユースのコーチを務めた)に、知り合いの北海道大学の先生から「これからは海外の選手たちを日本に連れて行きたい」って声がかかったの。
それが私だちが日本に来たきっかけでした。1988年のこと。
でも私、「行きたくない」って言ったんですよ。
だって育ててくれた親と離れるのが嫌だったから。
でもネルソンが「どうしても行きたい」って、スケジュールも全部持ってきて、「お給料はこれだけもらう」とか、「どこに住む」とか言ってきて。
給料は、その当時のブラジルの給料と比べたらよかったです。
住むところも用意されているって言うし。
それで父と母に相談したら……両親は反対。
「日本に行ったら、もうブラジルに帰ってこないだろう」って。
両親もブラジルへ移民してからは日本に帰らなかった。
だから「絶対帰ってこないはず」って。
でも私は「いや、帰ってくる」って言ったの。
その当時、ブラジル人にとって日本で仕事することが人気だった。
お給料がいいって言われていたから。ブラジルのまわりの人たちも、「いいね」って言って、お別れパーティーをしてくれたり、見送りに来てくれたり。
子育ての中で直面した「ことばの壁」
FACIL(以下、F):最初、マリナさんにとって日本の生活はどうでしたか?
日本に来たら、「そんなに甘くないな」と思ったのよね。
狭いアパートに入って、札幌でしょう? 寒いんだから……
ブラジルとはいろいろ違うことばかり。
例えば、まずトイレが全然違うし。
家に入るのもブラジルでは靴のままが普通だけど、日本ではだめ。
でも、一番ショックだったのは学校。
長女(注:マリナさんには3人の娘さんがいる)はまったく日本語がわからなかったけど、日本の(公立の)学校へ行かせることになった。
すごく迷ったけど、インターナショナルスクールは学費が高くて、もう主人のお給料そのまま持っていかれちゃうくらいだったから。
だったらもうあきらめるしかない。
それで日本の学校へ。そこからが大変だったよね。
私は、子どもはまず日本語を覚えなきゃいけないと思っていた。
でも、ブラジルの家族に相談したら「それは違う。ポルトガル語も必要だよ」って言われた。
迷ったけれど、「日本に来たかぎりは日本の学校に行かせる」って決めた。
長女は、小学校一年生、二年生の時はよくわからなかったようだけど、学年が上がっていくといろいろなことがあったみたいで、中学になったら「もう日本にいたくない」って。
その一番の理由はいじめだった。
それで中学の時、アメリカに行きたいって言い出した。
そのときは神戸に住んでいて、英語教室に通っていた。そこの先生が留学プログラムを組んで連れて行ってもらえることになった。
ネルソンは反対したけれど、今思えば良かったと思う。
日本より良いか悪いか、アメリカに行ってみて自分でわかったと思う。
日本以外の国に行っても、思い描いていたような良い所でもないってことをね。
高校に入るときは中学の先生がすごくサポートしてくれて。
高校ではいろんな国籍の友達がいたから楽しかったようです。
高校生のときに書いた作文が文部大臣賞をもらったのね。
これが本人にとっては大きかったです。
そして、大学進学。
またそのときもすごく迷ったんですよ。大変だった。
私は日本の大学について知らないことばかり。
大学の名前や場所もよく知らなかった。
それで当時「子ども多文化共生サポーター」(注:兵庫県内の公立学校で日本語の理解が不十分な外国人児童生徒のために母語でサポートする仕事)として働いていたので、勤務先の教頭先生に相談してみたんですよね。娘が大学にどうしても行きたいって言ってるって。
「大学の名前は?」って聞かれたから、「ケーオーって言うんですけど」って。
そしたら教頭先生が、「私の息子が『慶応に行きたい』って言ったら、財産全部使っても行けるようにする」って言った。
それを聞いて、「ああ、そういう大学か」って、わかった。
でも主人は反対。東京の大学で遠いし、お金もかかるし。
そこで私が娘を手伝って。東京のアパート、住むとこもね。
娘は先にいろいろ準備を進めていた。そして大学へ入学して通ったの。
まあ何とか慣れていったけれど、いろいろとやっぱり大変だったと思う。
5年間かかったけど卒業できました。
妹ふたりとも長女と同じように大学に進んで、今となっては良かったかなと思うんだけど、その時は経済的に学費とか、一人暮らしの費用とか…たいへんだった。
たかとりコミュニティセンターで見つけた新しい道
F:そのころ、どうやって生活をやりくりしていたのですか?
ひとつは鷹取(注:たかとりコミュニティセンター。神戸市長田区に震災後に生まれた多文化共生をテーマに活動するNPO/NGOの拠点。マリナさんの『関西ブラジル人コミュニティ』もここからスタートした)に行ったのが良かったですよね。
鷹取にはいろんな仕事があった。
そこで知り合った吉富さん(注:多言語センターFACIL 理事長 吉富志津代)から翻訳の仕事をもらって。
はじめて翻訳したのはゴミの出し方。それからガイドブック。
吉富さんから「これ翻訳してね」って依頼されたとき、漢字で何が書いてあるかわからなかった。「え?これどうやってするの?」って。
必死でやった。
その時は、夜中2時とか3時までやって何とか終わった。
これを使って翻訳したの。(写真:下)
これが私が最初に使った漢字の辞書。
札幌に住んでいたころに、ある日本人の方に貰ったの。
幼稚園を卒園した子どもたちに配られていたものらしいんだけど。
他には英語で書かれた漢字ガイド(写真左側の本)。これらがあって助かりました。
言葉がわからなかったし、どうにかして日本語を読もうとするけど、意味がわからなくて、すごく不安な状態で翻訳していた。今みたいにパソコンもなかったし。
この本や辞書にある言葉の説明を読んで理解しながら翻訳した。
こんなに破れるまで使ったのよ。
「真っ暗なトンネルが明るくなってくる」
~言葉を習得してはじめて実感したイメージ
このころの私の心の中にあったイメージを説明するとね。
トンネルに入ったときって真っ暗でしょ?
でも、漢字や日本語の意味とかを毎日少しずつ覚えるごとに、そのトンネルがすごく明るくなってくるイメージがあった。ずっとそのイメージを持ってる。
やっぱり子どもたちを見てね、「頑張らなきゃいけない」って思って。
学校からの連絡の配布物も、読めなかったから。
子どもが学校からもらって来るでしょ?
それが読めなくて困ったんです。
漢字もあったし、ひらがなだけでも、新しい言葉や日本特有の言葉があると何が書いてあるかわからなかった。
近所の人に読んでもらったり、友達が遊びに来たときに見てもらったりした。
「子どもを手伝うこともできない……」
言葉がわからず直面した現実
長女が小学校一年生の時、大きなショックを受けた出来事があった。
ある日、学校から帰って来て、「今日ね、みんなトイレットペーパーの芯と空き缶、持ってきてたよ」って言うの。
あとで気づいたんだけど、連絡帳にはトイレットペーパーの「芯」を持ってくるように書いてあったの。
でも私には、この「芯」という言葉がわからなくてね。
授業中、長女はクラスメイトのみんなが「芯」を持って来ているのを「じーっ」と見ていたと思う。先生が予備をちゃんと準備してくれていたから、良かったんですけど、娘は私に準備してほしかったのね。
日本語が読めなくて子どもの学校のことを手伝うことができなかった。
こんな簡単なこともわからなかったんだな、と思った。
その出来事があってからは、連絡帳も必死で読んだ。それでも抜けてしまうことが多かった。
それ以来、私は(サポーターとして)学校へ行く機会があると、連絡事項は翻訳してくださいって言うようにしている。
やっぱり日本語やローマ字で書いてあっても(外国人の)親にとって意味がわからないから。
やっぱりポルトガル語で翻訳するのが一番大事。
日本に特有で、ブラジルにはないものや言葉もある。それを伝えるときに、その代わりのものは何だろうかって考えて連絡帳に書いてあげないと、親はわからない。
その時は大変だったけど、やっぱり人間ってがんばることだよね。
あのとき、ぼーっとして勉強せずにそのままでいたら、
今こんな仕事はとてもできなかった。
吉富さんがよく「言語は読まないと(習得は)無理だね」って言っていたとおり。
独学で日本語を勉強したんですけど、漢字を間違ってしまったこともある。
でもそんな時期もあって良かった。
親の背中を見ていてくれた子どもたち
夜中の三時ごろまでやっていた、翻訳の仕事。子どもたちがみんな寝たあとでね。
だけど、私がそれをやっていたのを子どもたちは……親の背中をね……見ていたんだと思う。
「やっぱり言葉ができないと、何もできないんだな」って。特に長女はそう感じたと思う。
読めない漢字があったらよく私に聞いてきたし、中学一年生のころは新聞を必死に読んでいた。
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