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イチイガシの木 ~百年のめぐりあい~

――アキカン――
オレはアキカン。
工場のチームリーダーからつけられた、なさけないあだ名だ。
昼休みとは別に、十五分の休憩がある。
「おい、アキカン」
リーダーがオレを呼ぶのは、そのときだ。
「聞えねえふり、してんじゃねえぞ」
チームの仲間はいっせいにうつむいたり、あくびしたりする。オレはリーダーにあごで呼ばれ、つきしたがう。
倉庫の裏にある防犯カメラの死角。
そこでいきなり、ひざで腹を蹴りあげられる。うずくまった背中を踏みつけにされる。
「立てよ」
といっても、顔はビンタだけ。傷やあざが見えるところにできないようにするためだ。
「なぜアキカンか言ってみろ」
「……役立たずだからです。中身、からっぽだからです」
それだけじゃないだろと、ひじ鉄の一撃がみぞおちを突く。
「あっちこっち蹴とばされ、踏みつぶされてぺちゃんこになって、しまいにカランとどぶに落ちたら、一巻の終り。無意味な人生だからです!」
わかってんならてめえから落ちろと、石段から突き飛ばされる日は、とりわけきつい。

胸をおさえ、背をいたわり、仕事にもどる。
仲間はちらっとオレを見たり、やっぱりあくびをしたりする。
工場というのは、パソコンのキーボード組立ラインで、オレの担当は、完成品の作動点検だ。
サックをはめた指さきで、キーボードの左上から右下まで、ただひたすら、キーを押す。
モニターに文字があらわれる。
QWERTYUIOP……
次のキーボードも、その次もその次も、QWERTYUIOP……。これが一日、何百回くりかえされるんだか、数えたこともないし、数えたくもない。
そしてチャイムが鳴ると、リーダーが口のはしをゆがめ、近づいてくる。毎日毎日、それ以外のことは、なにもおきない。無意味な文字列のごときオレの数年は、そうやってすぎ去った。

――イチイガシ――
わたしはイチイガシの木。
雨にぬれ、風につつまれ、雪をまとい、百年のよわいを重ねました。
思い返せば、なつかしい。
どんぐりとして生を受けたわたしは、下界をうかがい、ひどくおびえていました。
兄弟たちは順ぐりに大地をめがけ落ちてゆきます。けれども首尾よく枯葉の下にもぐりこめる者はほんのわずかで、大かたは道ばたの石にカチンとぶつかり、はずみでそばの小川に飛びこんでしまうのです。
やがてわたしにも、旅立ちの日は訪れました。
一陣の風が枝をたわませると、兄弟たちは、ぱらぱらと音をたて、落下をはじめます。親木の葉かげにしがみついていたわたしは、運を天にまかせました。
ふっと宙に浮いたと思うや、葉とこすれ、枝にあたり、わたしが着地したさきは、たまさか通りかかった人間のてのひらなのでした。
その若者は、わたしを見てうなづくと、もう一方のたなごころをそっと重ね、わたしをはさみました。じんわりとぬくもりが伝わって、そのぬくもりのうちに、わたしは人間のたましいというものを初めて感じたのです。

彼はわたしをしっかりにぎりしめ、ほど近い木立にわけいりました。
あゆむにつれ、森のけはいは濃くなります。
五本の指がほどけると、わたしはまぶしい日ざしの中にありました。森はそこだけ、ぽっかりひらけていたのです。
若者はかたわらの土をあさく掘り、わたしを横たえ、土をかぶせました。
やわらかい土をとおして、彼の涙がしみました。
彼のことばは、わたしの心にきざまれています。
足音は遠ざかり、二度ともどってきませんでした。
秋が暮れ冬が去り、わたしは春の光に若葉をひらき、それからというもの、一日とて休むことなく、空の高みをめざしました。
わたしは森の一部となって、いのちを支え、支えられました。
芽ぶきの光栄を与えてくれたあの人間は、どこにいるのだろう。
かなわぬこととあきらめきれず、わたしは再会を願いました。
しかしもはや、わたしに時間は残されていないのです。

――アキカン――
その日は非番だった。オレは寮の相部屋のベランダから、ささやかな森の輪郭を遠く見つめていた。こんもりと盛りあがったその緑だけが、オレの人生の色どりなのだ。
「あの森、伐採だってな」
相方の感情のない声だった。オレは驚いてふりむいた。相方は二段ベッドの上段に寝そべり、うつろな目でスマホをいじりながら、「らしいよ」とだけつけ加えた。
オレはつらいような歯がゆいような気持で、ふたたび森に視線を向けた。
すると視界のはしから、あざやかな色が舞いおりた。ルリビタキだ。
小鳥は手すりにとまり、しきりに首をかしげてみせると、一、二の三というふうにはねてから、飛びたった。瑠璃色の小さなからだは、まっすぐ森をめざして、空の点となる。
オレもあの森へ。
なぜだか、強くかりたてられる。オレは走った。
工場の裏手からのびる、ゆるやかにくねった細道。そのゆきどまりが森だと知ってはいたけど、まぢかで見るのは、初めてだった。
ブルドーザーが何台もならんで、ものものしい。
貼りめぐらされた立入禁止の黄色いテープをくぐる。
はずむ息づかいをひそめると、チッチッというさえずりが耳に届いた。
ルリビタキが小石のように頭上を飛んできて、枝から枝へ飛びうつる。
こけつまろびつ、クモの巣をかぶってもなお、オレはその姿を追った。
最後に小鳥がとまったのは、イチイガシの大木だった。
くじらの背骨のような太い幹がまっすぐにのび、常緑の葉は日光に踊っている。
一歩また一歩、オレはイチイガシに歩みよった。
かわいた木肌にふれる。
静かな波が、心にポチャンと打ち寄せた。

――イチイガシ――
鳥は風をわたり、吸いよせられるようにやってきます。
ルリビタキもそうでした。
深緑の森影に瑠璃色の光がきらめいたと思えば、もうわたしの高枝に、ちょこなんと止まっていました。
いつもとちがっていたのは、鳥が人間をつれてきたことです。
若者がひとり、わたしを見あげていました。
カサッ、カサッ……音が近づきます。
彼は両のてのひらをさしだし、幹に押しあてました。
伝わってきたのは、忘れがたいぬくもり。
どんぐりだったわたしをつつんだ、あの手のぬくもりです。
わたしは多くの人間の手を知っています。てっぺんまでよじのぼってきた子どもの手。神木とあがめ、しめ縄を巻いた老婆の手。悲しみのことばをナイフできざみつけた冷たい手……
そのいづれともちがう手なのです。
ルリビタキが、きれいな声でのどを鳴らしました。
百年の時をへて、わたしはおなじたましいと再会したのです。

――アキカン――
虹になりたかったんだ。

オレは知らずと木に語りかけていた。

雨あがりの青空の深みにほんのつかのま七色ににじむ、あの虹のように、天と地のかけ橋になれたら……おさないころ、そう願っていたんだ。
だけどもうダメ。色あせ、ひからび、力をいれなくてもクシャッとつぶれそう。それこそアキカンみたいにね。
無意味な人生、無価値ないのち。生きていたってしょうがない。いったい、オレはなんなんだ……

教えてください……
教えてください!

太い幹に何度もこぶしを打ちつけながら、オレは泣いた。
しゃくりあげて木にすがり、しまいに抱きついた。
深いやすらぎがわいてくる。
まるで、天までとどく金色の柱を抱きしめているようだ。
その輝きに照らされ、埋もれていた記憶がおぼろに浮かぶ。
それは、遠い過去の……もうひとりの自分。
そうだ。あの日、ここにしゃがみ、過去のオレはどんぐりに話しかけ
た。

――イチイガシ――
わたしを大地にあずけたのち、あなたは語ってくれましたね。

――アキカン――
なぜあんなにおそろしい色をしているのかな。
赤と黒が不気味な油絵のようにまざりあって……
けさもそんな血を吐いてね。
結核なんだよ。
どうやらぼくは、つぎの冬を越せそうもない。
なにひとつなし得ぬまま、もうじき死ぬ。
せめて雨があがるように、静かに死んでゆくつもりだ。
おまえのかたい殻の中には、いのちがぎっしりつまっているね。
約束してくれるかい?
ぼくのかわりに生きつづけると。
降りそそぐ光がこもれびとなり地にとどくまで育ち、生きつづけると。

――イチイガシ――
あなたは涙をこぼしましたね。

――アキカン――
気づいたんだ。
生きていること、それだけで意味がある。
いのちあること、それだけで価値がある。
死の崖っぷちに立たされて、ようやくわかったんだ。
そしたら、とざした心に明るいものがともったような気がして、涙がにじんできた。
もう一度この世に生を受けることができたら、どんなに感謝するだろう。どんなに大切に生きるだろう。そう思うと、涙はあふれ、とまらなかった。

――イチイガシ――
また、約束しましょう。
この森は、あした根こそぎ消えてなくなります。
わたしは森とともに、地上から去りゆくさだめです。
けれどあなたは、生きてください。
やりたいこと、なすべきことにめぐりあい、あなたの人生を歩んでください。
あなたは百年の時をへて、わたしのもとにあらわれ、いのちの不滅をあかしてくれました。
あなたは、かぎりない意味と価値をもつ存在です。
天と地のはざまに生きる永遠の存在なのです。
それを決して、忘れないでいてください……

――アキカン――
森の上を風がわたった。
イチイガシの葉むらがざわめき、ぱらぱらと、いくつものどんぐりが降ってきた。
オレはそのひとつをてのひらに受けとめた。
はかりしれない可能性を閉じこめた、まるまっちいどんぐり。
このひとつぶの実が、いのちをつないでゆくんだ。
ルリビタキがさえずりをこだまさせ、天にのぼるごとく、一直線に飛び去った。
イチイガシのささやきは、もう聞えない。
ほのかな土じめりのにおいが、ただあたりにくゆっていた。

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