いちごの家族
つぶれるいちごをぼくは見た。
ふと、なまあたたかくてしめっぽかった、あの夜がよみがえる。
でもいま、いちごを踏みつぶしたのは、父ちゃんの足ではなく、車いすの車輪なのだ。
八百屋の店さきで、みかんでもりんごでもなく、いちごにぼくがいざなわれ、ひと山二百円のザルから赤い粒をつまみあげた時のことだった。
「お客さん」
店のあんちゃんが愛想笑いで呼びかける。
「さわったら買ってってよ」とでも言ったのだろう。ぼくは左が聞こえないから、右の耳をそちらへ向けた。
とたんにおばさんが割りこんだ。そこが年寄のかなしさで、押されたぼくはよろめいて、つまんだいちごを落としてしまった。車いすがひきつぶしたのは、その直後だ。
「兄ちゃん――」
ぼくはことばをのんだ。
車いすの老人が見ひらいた目をぼくに向けている。
しわの刻まれた顔におもかげがあった。まちがいなかった。七十なん年ぶりに見る兄ちゃんだった。
ぼくらの視線は合わさったままで、車いすは女のひとに押され、川沿いの並木道をゆっくり遠ざかる。ぼくは一歩を踏みだし、それきり固まってしまった。兄ちゃんは首をねじ向け、小さくなる車いすから、なにかを訴えていた。
思い出がこぼれ落ちてくる。
あのころぼくらは――
*** *** ***
いつも水たまりがのこっていたような気がする。
都電の走る大通りを横丁に折れた袋小路だった。押したらぺしゃっといきそうな家ばかり、向かいあってならんでいた。どんづまりにぼくらの家はあった。家の前にむしろを敷き、父ちゃんが庖丁を研いでいる。おもしろがって見物しているのは、近所のおさない子どもらだ。中学三年の兄ちゃんとぼくは、そんな父ちゃんを見て、袋小路の入口に立ちどまった。
ぼくらは映画館からの帰りだった。
銀幕でひばりが歌う「東京キッド」が頭のなかをぐるぐるまわって、ぼくは――おとなのことばでいえば――余韻にひたっていた。兄ちゃんがやっと約束をはたし、九つになってまもないぼくを映画に連れてってくれたのだ。
あれは二番館と言ったのかしら。封切館のおさがりを半年おくれ一年おくれで上映する映画館だ。兄ちゃんはそのおさがりフィルムをカンカンにつめ、中野、角筈、西荻の二番館をいったりきたり、自転車でかけずりまわっていた。それが兄ちゃんのアルバイトだ。そのほかに、そうじはもちろん、支配人や映写技師の将棋の相手から肩もみまでやらされたらしい。
「あっち行け」
父ちゃんが低い声をだした。子どもらを追っぱおうとしているのだ。でもみんな、ほんの二三歩あとずさるくらいで、ききめはない。
「行かねえか!」
父ちゃんのふりかざした出刃庖丁が夕日に一瞬ひらめいた。子どもらは、わーわーとたのしそうに兄ちゃんとぼくの横をすりぬけてゆく。バシャッと水しぶきを立てたのは、あらっぽくバケツにつっこまれた庖丁だ。兄ちゃんが袖をひき、ぼくは駄菓子屋の軒下にひっぱられた。
どこもかしこも、そのころ電信柱は丸太ん棒だ。父ちゃんがすがりついた電信柱もそうだった。父ちゃんはすがりながら立ちあがり、立てかけてあった杖をひっつかむ。左足が前にでて、右足はひきずられる。歩くたび、肩は左右にかしぐのだった。
駄菓子屋を通りすぎるとき、父ちゃんのひきずる下駄は水たまりにつかった。そのさまを見ている兄ちゃんの目は冷ややかだった。
「父ちゃん、どこ行ったの?」
「ストライキ」
ぼくがきいて、兄ちゃんが答えた。
父ちゃんのうしろ姿は大通りに消えていった。
「ただいま」と家の引戸をあけたら、土間でごはんごしらえのまっ最中かと思いきや、母ちゃんはとっつきの三畳にすわっていた。
「おかえり」
古い行李のふたがあき、赤茶けた畳にひろげた風呂敷のうえに、母ちゃんの着物が重ねてある。
「また売っちゃうの?」
着物を見おろす兄ちゃんのことばに、とがめる調子がみなぎった。
「もう着ないから」
母ちゃんはさらに一枚、着物を出した。
「なんの払い?」
兄ちゃんは土間に立ったまま、母ちゃんを問いつめる。
「小松さん」
「じゃあ飲み屋のツケじゃないか」
「だって払わなきゃ、おっかない顔して取りにくるもの」
「あいつに自分で稼がせりゃいいだろ」
兄ちゃんの声が大きくなった。母ちゃんは小声で「聞こえるよ」とさえぎり、おもてを気にかけ、戸のほうへ目くばせした。
「いないよ」
母ちゃんは兄ちゃんにそう言われ、意外そうな顔になる。
へやにあがる兄ちゃんと入れちがいに、母ちゃんは土間へおり、戸口から外を見た。庖丁をつっこんだバケツの横で、むしろが風にふかれてめくれあがる。肩を落とす、というけれど、母ちゃんはそのとき本当にがっかりと肩を落とした。
「あきれた大黒柱だぜ」
奥の六畳から兄ちゃんの憎てい口が聞こえてくる。土間と三畳と六畳だけの家だから、まるっきり筒ぬけだ。
母ちゃんは黙って着物を風呂敷に包みはじめた。ぼくは、行李にのこる母ちゃんの着物をさわっていた。いつかこの着物もなくなっちゃうのだから、なごり惜しくて。
布地の手ざわりとはちがう、なにかにふれた。
「母ちゃん、これなに?」
かわいいガラスの小びんだった。
「ダメだよ。これは」
母ちゃんの顔色がさっと変わった。
「なぜ?」
「いいの。子どもは」
ぱっと取りあげた母ちゃんの手の早いこと。小びんの中身はお砂糖みたいな粉だった。その正体は青酸カリだ。思いあたったのは、しばらくあとのことだけど。戦争末期、きたるべき本土決戦にそなえ、自決用にどこかでもらって、母ちゃんはしまいこんでいたのだろう。
もうひとつ、行李の底からぼくが見つけたものがある。
写真だった。
「まあ、こんなところに――」
母ちゃんのこわばった顔がゆるんで明るむ。
「父ちゃんの出征前にみんなで撮ったの。焼ける前のおうちの庭でね」
それは、ぼくら家族の写真だった。
軍服の父ちゃんを中にして、白いシャツの兄ちゃんと、羽織の母ちゃんが立っている。
「ぼくは?」
「母ちゃんがだっこしてる赤ん坊がお前だよ」
ぼくはなんだか、照れくさいような、じんわり幸せなような、妙な気持にくすぐられた。
「母ちゃん、これちょうだい」
「たいせつにするなら、あげる」
「たいせつにする」
「なくすんじゃないよ」
ぼくの好きな、やさしい母ちゃんの声だった。
「ごはん、できてるよ」
あまからのがんもどき。うすっぺらなみりんぼし。おきまりのおかずが六畳のちゃぶ台で待っていた。ぼくは継ぎだらけのざぶとんに飛びのった。兄ちゃんは背を向け、文机の前にあぐらをかき、乱暴に本をめくっている。破けやしまいかと心配になる。
「食べちゃおう。父ちゃん、きっとおそいから」
おひつをかかえて母ちゃんがきた。ぼくはすかさずお茶碗をさしだす。兄ちゃんの鼻が、ふん、と鳴った。
「おそいって、どうせどこかでタダ酒にありつこうって魂胆だろ」
「駅前の屋台だよ」
母ちゃんがよそってくれたごはんのあまい匂いも、ぼくの「いただきます」のごあいさつも、いっぺんにふき飛ばす勢いで、兄ちゃんは持ちあげた本をばさばさふるった。ひらりと落ちたのは百円札だ。
「あいつ、映画館のアルバイト賃に目をつけて、オレに飲みしろせびりやがった」
そんなことを言いながら、兄ちゃんは百円札をあかりに透かし、ほんものかどうかたしかめる。
「あげたのかい、おかね?」
驚いたのは母ちゃんだ。
「やるもんか」
百円札を本にはさんでぱたんと閉じた兄ちゃんは、くるりとちゃぶ台のほうに向きなおり、「だれがあんな飲んだくれに」と、醤油色のがんもどきをおっかない顔でにらみつけた。
「父ちゃんもつらいんだよ」
母ちゃんはぽつりとつぶやくと、ごはんをよそい、兄ちゃんに「はい」と渡して静かに言った。
「わかるんだよ。父ちゃんのかなしみ。どうかしたいのにどうにもならなくて――」
兄ちゃんは聞こえないふりしてごはんをむしゃむしゃ食べはじめたけど、ぼくはそのあとの母ちゃんのことばをよくおぼえている。
「――心で心を見ると、わかるんだよ」
母ちゃんはしみじみ、そう言ったのだ。それから自分のごはんに箸もつけず、父ちゃんをかばった。
「ふびんでね。棟梁とまで呼ばれたひとが戦地で足をやられて、ノコもロクにひけなくなっちゃったんだもの」
「ふびんなのはこっちさ。高校はロハじゃ入れてもらえないんだぞ」
兄ちゃんはぷんぷんして、がんもどきを箸でつき刺した。
「父ちゃんのぶんまで、母ちゃん働くよ」
母ちゃんは本当に働いた。愚痴ひとつこぼさなかった。朝は国電のガード下で新聞を売り、昼間は町工場の若い女工たちにまじってセルロイド人形に絵の具を塗る。ふけゆく夜は電球の薄あかりのもと、仕立物の内職にいそしんだ。
そうやって母ちゃんがかせいだおかねを父ちゃんはせっせと飲んでしまう。兄ちゃんは「なんの因果でこんなうちにうまれちゃったのかなあ」としわくちゃな百円札のしわをのばす。ぼくはぼくで、駄菓子屋のあんこ玉を頰ばったり、くじを引いて飛行機をあてたり、着色料で染まったベロを見せっこしたりしたいのに、ポケットから出てくるのは、五円玉どころか糸くずだけだ。
駄菓子屋はみんなの遊び場だった。
あたらしいお面をかぶった子。ラムネのビー玉をカラカラコロンと鳴らす子。男の子も女の子も小銭をにぎってむらがって、笑い声は袋小路いっぱいにひろがった。
その日もやっぱりぼくひとり、なんにも買えず、すみでさびしくのけ者だった。
店番のおばあさんは、とらぶちのネコをひざにのせ、火鉢のわきでニコニコしている。
みんなはほしいものを手に入れて、はしゃぎながら、もつれあうようにして去っていった。ぼくはぽつんと、おいてけぼりだ。
「こっちへおいで」
ぼくを呼んだのは、おばあさんだ。
「なあに?」
おばあさんは「よっこらしょ」と立ちあがった。ネコはしなやかにすべり落ちる。おばあさんは奥へひっこみ、すぐもどってきた。白い割烹着の前で真っ赤なかたまりが輝いている。おばあさんが持っていたのは、いちごを山盛りにしたザルなのだ。
「おすそわけ。お母ちゃんとおあがり」
おばあさんは、もともと細い目が消えてなくなるほど、ニッコリした。
「こういうの、食後のデザートっていうんだぜ」
いちごを三つもつめこんだ口で英語を披露する兄ちゃんも、
「甘いかい?」
自分は食べずぼくに尋ねる母ちゃんも、いつになく陽気に見えた。
「甘酸っぱいや」
ひとつかじってぼくは答えた。
飲みしろの工面がついたかして、父ちゃんは日の高いうちに出ていったきり、まだ帰ってこない。ぼくときたら、目を血走らせてぶつぶつ言ってる酔いどれの父ちゃんがこわくてしようがない。だから今晩は父ちゃんがいないとなると、張りつめていた気分がどっとゆるんで、心底ほっとしたものだ。
「食わないの?」
「母ちゃんも食べて」
ふたりですすめても、母ちゃんは手をのばさない。
「めったに食えないじゃないか」
兄ちゃんの言うとおりだ。母ちゃんのがま口がお給金でふくらんだら、米なりイモなり玉子なり、わが子らの腹の虫を鳴きやませ、滋養のたしになるものにまわさなければならないし、あれよと一升びんにばけてしまう。いちごは母ちゃんの好物なのに、食べたくても食べられなかった宝石なのだ。
「母ちゃん、いっぱい働くから、神さまがごほうびくれたんだよ」
ぼくはいちごをつまんであげた。母ちゃんはたいせつそうに、そのひと粒を食べてくれた。
「このあいだの映画のやつ――」
兄ちゃんがぼくを見て、にやりとする。
「あれ、歌えよ」
「うん!」
父ちゃんのいないこんな晩、ぼくはよく、声も高らかと歌をうたった。
「歌もた~のし~や~」
スクリーンのひばりになったつもりで、ぼくは腰にちょこっと手をあて歌いだす。兄ちゃんは片手を腕枕にして寝ころび、片手でいちごをつまみながら聞いている。母ちゃんもぼくの「東京キッド」を聞いている。
――右のポッケにゃ夢がある~
までくると、電球のあかりが、ちかちかっとした。
――左のポッケにゃチューインガム~
のところで、ふっと消えて真っ暗になった。
「空を見たけりゃ~」
停電はしょちゅうだったから、ぼくは歌をやめなかった。
「ビルの屋根~」
母ちゃんが茶箪笥からろうそくを取り出し、マッチをする。
「もぐりたくなりゃ~」
ちゃぶ台のろうそくに火がともる。
「マンホ~ル~」
母ちゃんが「うまいもんだねえ。さながらオトコひばりだよ」とほめてくれると、おっかけ兄ちゃんがそそのかす。
「学校なんかやめてデビューしちゃえよ。映画にでも出てみろ。お針もおしまい。がんもどきともさようなら。オレはめでたく高校進学」
ぼくは六畳のステージで、ろうそくのスポットライトをあびておじぎする。
「二番も行っちゃえ」
兄ちゃんの拍手にかつがれて、「歌もた~のし~や~」と声をはりあげた時だった。
ぼくの声より倍も大きい音を立て、荒々しく戸があいた。
ぼくは口をつぐみ、母ちゃんはふり返り、兄ちゃんは身を起こした。
あがってきた父ちゃんは壁づたいにあるき、杖を立てかけ、どかりとすわった。
「おかえりなさい」という母ちゃんのことばを「酒」という父ちゃんの暗い声がさえぎった。
「今夜はもう――」
「酒を出せ」
母ちゃんが土間から取ってきた一升びんをひったくると、父ちゃんはコップにドボドボと酒をつぎ、兄ちゃんの軽蔑のまなざしなどなんのその、のどを鳴らして一気にあおった。
「小松の野郎……」
「小松さん?」
母ちゃんが相手になる。
「オレを研ぎ屋ふぜいだとぬかしやがった」
父ちゃんはだいぶ酔っているらしい。
「オレは……研ぎ屋じゃねえ」
こうなったら、三人とも聞くしかない。
「大工の砥石ってのはな、ノミやカンナを研ぐものさ」
なみなみとつぎたした酒がコップのふちからあふれそうになる。
「なまくら庖丁なんざ、とてもあてられやしねえ」
父ちゃんは口のほうからコップに近づき、のどを鳴らして酒を飲んだ。
「研ぎ屋だと?」
大きく息をついたかと思うと、父ちゃんは急に声をあらげた。
「やめた、やめた!」
ふっきれた父ちゃんの肩からすっと力がぬけ、遠いまなざしが上を向いた。
「番町の御殿だってよ――」
空ながめでもするようなその目にうつるのは、雨じみだらけの天井板のかなたに浮かぶ、さるお屋敷だったにちがいない。番町にあった久世伯爵邸。何度も聞かされた昔話が、またはじまった。兄ちゃんは父ちゃんに背を向ける。母ちゃんだけがうなづいている。
「われながらたいしたものさ。ひのきの肌にカンナをすべらせると、お姫さまの絹のリボンよりもうすい鉋くずが、くるくるっと巻きあがる。するとみごとな木目が浮き立ってよ。ぷんといい匂いがしてよ。それがおまえ、御殿の大黒柱さ」
父ちゃんは、だれに語るともなく語っていた。
「……なにもかも空襲で灰になっちまった」
コップの酒をあけ、またそそいだ。
「……オレの足も――」
重苦しい沈黙がふくらんで、のしかかる。沈黙などというえらそうなことばを当時のぼくが知っていたかどうか、それはわからない。けれど、もはやその空気に鈍感ではすまされなかった。
「いちご――」
母ちゃんが空気を変えようとする。
「いちご、いただいたのよ。父ちゃんのぶんくらい、まだのこってる」
だけど、うまくゆかなかった。
「ぶんくらいのこってる、だと?」
父ちゃんはことばじりをとらえ、「でも――」と取りくろおうとする母ちゃんにみなまで言わせなかった。
「オレがいなけりゃ幸せそうに歌ってやがる」
陰鬱な声がふるえている。ぼくはこわくてちぢこまった。
「畜生!」
父ちゃんが立ちあがった。杖がどんぶりを打ちはらった。いちごは畳の上にぶちまけられ、父ちゃんの足──自由のきくほうの足がそれを踏みにじった。
「たかがいちごに、いじましいなあ」
兄ちゃんが顔もあげすに言った。
「なんだと」
父ちゃんは兄ちゃんの頭上に杖をふりかざし、ぼくはその足にすがりついた。
「踏むな! 母ちゃんのいちご踏むな!」
「チビまであらがう気か!」
父ちゃんはぼくの首ねっこをひっぱりあげ、平手うちを食らわせた。ぼくはふっ飛んでうずくまった。母ちゃんが覆いかぶさってぼくをかばう。ぼくは母ちゃんの下で、じんじんする耳を押さえていた。
バンと短い音がした。兄ちゃんが机をたたいた音だった。
「もうたくさんだ」
兄ちゃんは立ちあがり、
「この家も! お前も!」
さけぶやいなや、父ちゃんの胸ぐらをつかみ、突きとばした。父ちゃんはよろめき、お線香の灰みたいにくずおれた。ろうそくの光が一連のありさまを大きな影絵にして壁に描きだしていた。兄ちゃんは立つことができずもがく父ちゃんをまたごし、おもてへ飛びだしていった。
あけっぱなしの戸口からなまぬるい風がびゅうと吹きこみ、ろうそくの火がゆらいで消えた。青い稲光とともに、雨つぶが落ちてきたようだった。まをおいてとどろいた雷の音が、へんなふうにくぐもっている。ぼくの左耳は、その時から聞えなくなったのだ。
あくる日ぼくは、ほとんど口をきかなかった。どことなく前とはちがう聞えかたをする自分の声を聞くのがこわい気持になっていた。このまましゃべらなかったら、唄を忘れたカナリヤよろしく、声の出しかたを忘れてしまうんじゃないかと、へんな心配までおきた。カナリヤなら、象牙の船に銀の櫂、月夜の海に浮かべれば、忘れた唄をおもいだすという。けれどもぼくの心を乗せた泥の船は、青黒い波にもろくも沈んだ。ぼくは鳥かごのような六畳のへやで、壁を向いてひざをかかえ、しょげかえっていた。
「どうしたの?」という声がしてふり返ると、母ちゃんだった。
「まだこっち聞こえないかい?」
母ちゃんは自分の左耳をぽんぽんとたたいた。
「ボーンっていうの」
ぼくはこわごわ耳をさわった。母ちゃんはぴったりからだをくっつけてすわり、なぐさめてくれた。
「治るよ。いい子だから、きっと治る。お医者さんもそう言ってらした」
それから自分に言い聞かせるように、
「お前は治るし、兄ちゃんはおなかすかして帰ってくる」
と言って、「ね?」とぼくに同意を求めた。けれど、ぼくには自分のことも兄ちゃんのことも、どっちもわからなかった。
兄ちゃんは帰ってこなかった。
母ちゃんはお向かいさんでお米を借りて、白いごはんをたんと炊いて待っていた。それなのに、おひつの湯気が立たなくなっても、一日がすぎ二日がすぎても、兄ちゃんはもどらなかった。
三日目に母ちゃんは仕事を休んだ。
「はがきがくるかもしれないから、郵便箱、ちゃんと見てね」
ぼくにそう言いつけて、朝一番の電車で出かけ、夜ふけの終電車で帰ってきた。八方たずね歩いた足の指には血がにじんでいた。土間に置いたバケツの水に足をつっこみ、いつまでもうつむいている。そばへ寄ると、ムリにつくった笑顔をぼくに向けた。目は笑って、口は泣いていた。
兄ちゃんからも警察からも、どこからも知らせひとつないまま、昼と夜とがかわりばんこにやってきた。郵便屋さんの自転車の音がすると、母ちゃんは飛びだしていった。父ちゃんは苦しそうな顔をしかめ、あいかわらず酒を飲んだ。ぼくはというと、半分しか音のしない世界にだんだん慣れていった。
母ちゃんが仕立物の打掛に鯨尺をあてる姿をおぼえているから、晩ごはんもとうにすんだ時間だっただろう。
ぼくは、いつしか自分のものになった兄ちゃんの文机に本をひろげ、声を出してよんでいた。
「ぼ、く、ほ、ど、き、ら、わ、れ、も、の、の――」
壁にもたれて足を投げ出した父ちゃんが、畳の上の一升びんの首をつかんだ。
「や、く、た、た、ず、は、ほ、か、に、い、な、い――」
最後の一滴がコップのなかへぽとりと落ちる。
「ぼ、く、ほ、ど、う、ち、す、て、ら、れ、た――」
のっそり身を起こした父ちゃんが杖をにぎった。
「こ、は、ほ、か、に、い、な、い――」
母ちゃんはぼくに「もうおよし」と小さな声で言った。
がらがらと戸があいた。
父ちゃんのいた場所で、からっぽのびんのガラスがにぶく光っている。引きずる下駄が土をかく音は、ざら、ざら、とぼくの片耳にとどき、だんだん遠のいた。
夜中に目がさめたとき、ぼくはひとりぽっちだった。
ぬぎすてられた母ちゃんの寝間着が月の光をあびている。そういえば、お前は寝てなさいと言われたんだ。おもてにおとなが何人もきて、ざわざわして。母ちゃんはどこに行ったんだろう。ねぼけ頭で考えながら、ぼくはまた眠りに落ちた。
ゆすり起こされたのは、あけがた近くだ。
「父ちゃん、死んじゃった」
こんな母ちゃんのひとことがショックでなかったはずはない。けれどもそれは、沁みこむには時間のかかるひとことで、ぼくはふとんの上で正坐したまま、しばらくぽかんと口をあいていた。
父ちゃんは都電にひかれて死んだのだ。おおかたレールに下駄の歯がはさまって身動きがとれなかったのだろうということだった。いや、レールの上へ大の字になって、電車を待っていたといううわさもあった。本当のところは、死んだ父ちゃんに聞いてみないとわからない。
「今月ぶんの給食費、しばらく待ってもらえるかい?」
お葬式のすんだあと、肩をもんであげたら、ふり返った母ちゃんの目に涙がたまっていた。
「おとむらい、お金いっぱいかかったから」
それだけではないことは、子どものぼくにもわかっていた。父ちゃんがこしらえたツケや借金のとりたてのおじさんたちは、お通夜の晩から葉巻をくわえてあらわれた。
忌引きあけの給食の時間、ぼくは食べることをゆるされず、教壇にひとり立たされた。背後の黒板には先生の大きな字で「給食ヒを はらわざるもの 食うべからず」と書いてある。コッペパンのきれはしを丸めて投げつけ、みんなでぼくをはやし立てた。あのときの残酷な笑いときたら! はずかしくて、くやしくて、ひもじさなんて消し飛んでしまった。
あくる朝、ぼくの足は学校へ向かわなかった。さらし者になるのはごめんだった。とはいえ、どこへゆくあてもなく、ほうぼうさまよって落ちついたさきは、となり町にまだのこっていた焼跡の空地だった。ぐにゃりとまがった鉄骨。黒ずんだコンクリート。そんなものをやわらかい若草がつつみ、そよ風がわたる。ぼくはぐうぐう鳴るおなかをさすりつつ、そこで時間をつぶすことにした。
草むらにあおむけざまに寝ころんで空を見る。雲のゆきかいをながめているうち、白いかたまりのどれもこれもが食べものに見えてきた。蒸しパンのほやほやが浮かんでいる。俵のおむすびが流れてくる。そしてあれは、いちご……
と思うまもなく、とってかわって視界いっぱいに、男の子の顔がぬっとあらわれた。おどろいたぼくが逃げようとするのを呼びとめてにんまりした顔は、白くてひらべったくて玄米の蒸しパンそっくりで、どことなく心やすい。
「バクチクかっぱらってやったんだい」
ほら、とつきだして見せてくれた爆竹は、借金とりのおじさんがくわえていた葉巻を二列にならべてつないだ、いかだのような形をしている。あっけにとられたぼくをそっちのけに、蒸しパンは慣れた手つきでマッチをすると、ねずみのしっぽみたいな導火線に火をうつし、爆竹を草のなかへ放りこんだ。爆竹は音を立ててはぜ、思うさまあばれたようだ。あとには薄紫色のけむりがたなびき、きなくさい火薬のにおいを風が運んできた。
「どうだい。おったまげたろ」
蒸しパンはさも自慢げだけど、ぼくは首を横にふってうつむいた。
「ぼく、こっちの耳つんぼだから、半分しか聞えないもの」
ふうん、といって蒸しパンはぼくの左耳の穴をのぞきこんだ。
「オレんちの兄貴なんて両耳つんぼさ」
どうして、とぼくが顔をあげると、
「一トン爆弾でやられたんだい」
と蒸しパンは答えるなり、ドカーン!と両手をひろげて飛びあがった。そのさまがおかしくて、ぼくはひさしぶりに腹から笑った。蒸しパンも一緒に笑った。ぼくはそんな友だちに出逢えたことが、うれしかった。
蒸しパンは万引少年だった。
見張ってろとぼくにささやいた。
文房具屋で腕前を見せてやろうというのだ。
店のめがねのおじさんは、丸いすに腰かけて雑誌をめくっている。蒸しパンは、鉛筆や消しゴムのならぶ棚の前で頭をかいている。ぼくはそのはざまに立って、どきどきしながら、ノートを選ぶふりをした。
おじさんがめがねの奥からじろりとこっちをうかがったのと、蒸しパンが歩きだしたのとが同時だった。店を出る蒸しパンのあとを、ぼくはあわてて追っかけた。
「いっちょあがり」
ひと気のない路地で、蒸しパンは消しゴムを宙に放り、手のひらに受けとめた。
「いいの? こんなこと……」
ぼくにはもちろん、ためらいがあった。
「いいって、いいって」
「でも――」
「ほしいならやるよ」
ぽおんと蒸しパンがこちらへ投げた消しゴムを、ぼくはおへそのあたりで受けとめた。
「ナイスキャッチ」と蒸しパンはぼくをほめてから、ふしぎなことを言うのだった。
「それ、お守りだぜ」
「お守り?」
「勇気のお守り。臆病なんてクソクラエだ」
ぼくは消しゴムをじっと見つめた。
ブロマイド屋の露店が出ていたのは、町の神社の参道だ。
立てかけた大きな板一面に白黒写真が整然とならび、スターたちがほほえんだり流し目をくれたりしている。ちょうど時分どきで、さらしを巻いた香具師のおにいさんは木箱に腰かけ、大きなお弁当をかっこんでいる。
「やっぱりカンカン娘かなあ。バタヤンもばっちり決まってらあ」
いささかわざとらしく、蒸しパンが小芝居を打つ。
「え? そ、そうね」
ぼくのほうは、しどろもどろだ。
おにいさんのするどい目がぼくらを射る。けれど、ガキのひやかしと思ったのだろう、おにいさんは顔をそむけ、たくわんの音をバリバリ鳴らしたり、やかんからじかに水を飲んだりする。
蒸しパンがぼくに目くばせし、あごをしゃくる。ピンときた。やってみろという合図なのだ。
でもいざ自分がものをぬすむとなると、ブロマイドの立て板よりもずっと高い壁が心に立ちはだかった。ぼくはおずおずと目の前のひばりに手をのばし、やっぱりその手をひっこめた。蒸しパンはチッと舌打ちして、ぼくのひじをひっぱった。
「意気地なし!」
路地にもどって、蒸しパンは石ころを蹴とばした。ぼくは自分が蹴とばされたかのようにビクッとふるえた。つまんねえやいと、また石を蹴った。ぼくは自分がなさけなくて、蒸しパンの顔をまともに見られなかった。
「つまんねえやい、臆病なんて!」
蒸しパンはぷいと背を向け、すたすた歩いていってしまった。痛い石つぶてのようなことばが、ぼくの心を打っていた。
地面を見ながら家路をたどった。
帰ったところで、机の傷を指の腹でこするくらいしか、できることはないのだけれど。
どうかしたいのにどうにもならない――
母ちゃんが心で見た父ちゃんのかなしみって、こんな感じなのかしら。
ふと、兄ちゃんのノートをひらいてみた。アルファベットだらけで、なんのことやらさっぱりだ。めくると白いページがあらわれた。ぼくは鉛筆を手にとった。
おくびょう
と書いてみた。それを蒸しパンがくれたお守りの消しゴムで消してみた。カスをふっと吹いて飛ばすと、なぜだかむくむく、力のわいてくる気がするのだった。
三分もしないうちに、ぼくは駄菓子屋の店さきに立っていた。
遊んでる子はだれもいない。
おばあさんはネコをひざにかかえたまま、船をこいで居眠りしている。あばよ、と声がして、中学生がうしろをかけてゆく。豆腐屋の自転車がラッパを鳴らし走り去る。あたりはひっそりかんと静まった。
ぼくはとっさに、ニッキ棒をズボンのポケットに押しこんだ。つるしてある水鉄砲のおもちゃをもう一方のポケットにねじこんだ。
そのとき──
右のポッケにゃ夢がある
左のポッケにゃチュウインガム
どこかのラジオからひばりの明るい歌声が流れてきた。
チュウインガムはぬすんだニッキになっちゃった。夢は……どこへいっちゃったんだろう。ぼくはいつのまにか積もったほこりをふりはらうように、かぶりをふった。ネコはじっと、ぼくを見ていた。
「やるじゃないか」
次の日、原っぱで、蒸しパンは鉄骨の高みにまたがってニッキをしゃぶりながら、ぼくを上から見おろしていた。手柄をほめられて、ぼくはほっとした。それもつかのま、
「初めてにしちゃあな」
とつけたすと、つんとくるニッキの匂いはきらいなのか、蒸しパンは食べかけをしげみに投げすてた。
「かねをちょろまかしてこられたら、一人前なんだがなあ」
蒸しパンの水鉄砲がぼくをねらう。たじろいでも容赦はなかった。チュッと水が飛び、ぼくは頭から水をかぶった。
ただいまとうちへもどると、豆のさやでもむきながら、おかえりと答えるはずの母ちゃんの姿がない。長押につるしてあった仕立物のお召しが見あたらないから、きっと届けにいったのだろう。
赤茶けた畳にあがって、ぼくの目は一点に釘づけになった。
がま口。
母ちゃんのがま口だ。
それが小さな鏡台にぽつねんと、置きっぱなしになっている。
鏡台の前にぺたんとすわると、心臓の動きがわかるほど胸がとどろきはじめた。
がま口にさわろうとして、ぼくはやっぱり手をひっこめた。頭のなかに声が降る。
――つまんねえやい、臆病なんて!
ぼくはゆっくり、がま口を手にとった。思いがけない持ち重りだ。そっと金口をつまんで、あけてみる。中身は小銭だけかと思ったら、お札が何枚か、ていねいに折りたたまれていた。
ぼくはその一枚をゆっくりぬきだした。
ひと呼吸。金口をとじる。ぱちんと思いがけない音がしてびっくりさせる。がま口をもとの向きにもどし、しめしめと顔がゆるんだ。
目の高さでお札をひろげると、百円札だ。目に近づけて、まじまじと見た。煮え立つ黒いうれしさを押さえようもない。お札をゆっくり降ろしたとき、こんどこそ心臓が飛びだしそうになった。
鏡に母ちゃんがうつっている。
「ぬすんだのはお前の手ね」
鏡の母ちゃんとぼくの目があう。
「お前の心はそんなことしないわね」
涙がひとすじ、母ちゃんの頰をつたった。
「どんなにくさっても、心を見失うんじゃないよ」
あとからあとから、母ちゃんの涙はあふれた。
「それ給食費だよ。すまなかったね。あしたは学校へ行ってくれるね」
ぼくは逃げだしたいような、追いかけたいような、わけのわからない感情に突き動かされ、戸に体あたりする勢いで外へかけだした。
町を走りぬけ、われに返るとそこは、焼跡の草はらだった。
荒い息をくり返しながら立ちつくす。
草色の波が、ぼくのことも、ぼくら一家のこともなんにも知らず、うっとり夕日をあびてうねっている。父ちゃんはどんな気持で死んだのだろう。兄ちゃんはどんな気持で出ていったのだろう。母ちゃんはどんな気持で着物を縫うのだろう。そしてぼくはいったい……
突然、小さな胸にたまった思いをなにもかも吐きだしたい衝動がどっと襲い、ぼくは草の上につっぷすなり、おいおいと声をあげて泣いた。
やがて泣きつかれた心はからになり、そこへ透明な水のような静けさが充ちてゆく。
ゆっくり目をあけると、涙でうるんだ草むらのそこかしこに赤い宝石がちりばめられている。
神さまというものは、うまい演出をなさる。
そのひとにとって大切なときに、そのひとのみに気づかれる大切なものをそっとかたわらに置いてくださるのだ。
赤い宝石は野いちごだった。
けなげな生命の結晶のような輝きは、ぼくの心のくまぐまを照らしていた。
ぼくは野いちごをひとつ摘み、ふたつ摘み、しまいに手ぬぐいがいっぱいにふくれるまで摘んだ。そしてたまらなく母ちゃんにあいたくなって、うちへ走った。
「母ちゃん、いちごだよ!」
答えはなかった。
ふすまのかげから二本の足がのぞいている。
ぼくは六畳に飛びこんだ。
母ちゃんはみぞおちを押さえ背を丸めたかっこうで、横向きに倒れていた。
そばにころがっているのは、青酸カリの小びんだった。
ぼくの手から力が抜け、ばらばらと野いちごが畳にちらばった。
へたりこんだぼくのかたわらで、母ちゃんは動かない。ぼくは母ちゃんの肩をゆすった。う、と声にならない声がして、母ちゃんが半目をあけた。
「母ちゃん、ごめんよ」
ぼくは泣きそうな声であやまった。
「お前のせいじゃ……ないよ」
母ちゃんは息でささやいた。
「母ちゃん……つかれたよ」
その息もとぎれそうだった。
「歌を……聞かせて」
ぼくは母ちゃんのため、涙をこらえ、歌をうたった。
「……右のポッケにゃ……夢がある……左のポッケにゃ――」
母ちゃんの手がぱさりと投げ出されたのは、ぼくがそこまでうたった時だった。
*** *** ***
兄ちゃんの車いすは遠く去って、もう見えない。
ぼくは川沿いの手すりに近づき、水の流れを見おろした。
兄ちゃんはぼくの知らないその人生を終えようとしている。
ぼくは内ポケットをさぐった。
取り出したパスケースをひらく。
なかには保険証。地図の切り抜き。バスのシルバーパス。
それから、行李の底のあの写真。しわが寄って、たそがれ色に染まった、たった一枚の家族の写真。
父ちゃん、母ちゃん、兄ちゃん、ぼく──
ぼくは四人を見つめた。
つかのまのいのちがまじわり、家族になった。
木の葉をさらさらと鳴らし、やさしい風がふく。
指を離すと、写真はひらひらと舞い、川のみなもに落ちていった。
家族が流れてゆく。
ぼくは兄ちゃんとは反対の方向へ歩きだした。
家族の写真が水に飲まれ、沈み、消えていったかどうか、ぼくは知らない。