無視できてしまう人になりたくない
新しいランニングコースを開拓すると発見があることは多い。今回発見したのは、投棄されたたくさんのゴミ。歩道の右も左も絶えずゴミが落ちていた。
うわ、ひどいなと思いつつ、前を向き走り出すとゴミの道は遠くまで続いていることが見て分かった。私は、ここにあるゴミがほんの一部でしかないことを理解した。
さすがにあの量のゴミ。ゴミの道を抜けた後も気になってしまう。たくさん落ちていることを知ってしまった以上、無視をするというのはなかなか難しいことだった。なによりも、あのゴミの量を見て、平気で無視できる人間になりたくはないと思った。
そこで、翌日ひとりクリーン作戦を決行した。
その作戦には自分ルールを作った。
どんなにゴミが多くても袋に入りきる量まで。それで終了。
終了のルールを決めたのは、ゴミが残ってしまって中途半端だと自分を責めてしまうの可能性があるから。
作戦場所は、家から1キロほど離れた片道2車線の比較的交通量の多い坂道。落ちているものは、500ml~2Lのペットボトル、栄養ドリンクの瓶、コーヒーの缶、コンビニの袋にまとめられたゴミなどたくさんあった。中でも500mlのペットボトルが一番多かった。
開始してから20分ほどで、30Lのゴミ袋2つがいっぱいになり終了した。多少残ってしまったが、これでいい。十分やったと帰宅することにした。
帰宅してから、ペットボトルのキャップとラベルを取り外す作業と、瓶と缶を分ける作業をした。ペットボトルの中には、新しいものや、ラベルがペットボトルに張り付くほど古いもの、泥がついたり、ぺちゃんこになっていたりするものがあった。
そんなゴミを見ていて、感じたことがある。今分別をしているゴミは、ゴミとなる前、人間の要求する利便性に応えるために、それぞれの役割を果たしていたのに、用が済めば捨てられ、放置され、今ここにあるのだなと。
別にゴミの声が聞こえたりとかしたわけではないのだが、あんまりだと感じた。
知能を持った人間がこのような選択を平気でするようであるならば、理性を持たず、楽なことを好み、面倒なことはしない、自分にやさしい都合のいい人間なのだろう。
とはいえ私も、そういった人間が変わるようになにかアクションを起こすことや、人が捨てたゴミを常に拾って街をきれいにしようとかという気持ちは持っていない。
今回自分が動いたのは、大量のゴミを発見し、一度気になってしまったからである。無視ができる人間になりたくないと自分を納得させるためにゴミを拾った。それでいい。自己満足だ。
今回のことで、物はしっかりと役割を果たしていて、利用する人間が責任を果たしていないことがわかった。ゴミを分別して捨てる、そこまで難しいことではない。ちゃんとやろうよ。自分も含めて。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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