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362 大江健三郎死去。伊丹十三との繋がりについて。

大江健三郎が死んだ。去年から書いているが、偉大な作家であった。

伊丹十三の妹ゆかりさんと結婚し、成城に住んでいた。
大江健三郎の自宅は今後どうするのだろうか。今はひっそりと静けさに包まれている。

伊丹十三のことをエッセイ以外で一番大江が作品で語っているのは取り替えっ子・チェンジリングだ。塙五郎の名前の映画監督だが、明らかに伊丹十三がロールモデルであることは間違いない。是非とも読んでみてほしい。

僕が一番大江の作品で好きなのは、万延元年のドッジボールで、いまだに読み返しても面白い。Netflixで映画化してほしいが、大江健三郎生前時は決してできなかった。数本映画化されているが、大江が難色を示し、映画化には許可を出してこなかった。唯一の例外は、伊丹十三の「静かな生活」だけである。伊丹さんの作品で大爆死の映画だったが、二人の関係性を考えれば、仕方なかったといえよう。

静かな生活DVD。伊丹作品で見たことがない人も多いのでは。傑作なので是非見て欲しい。

やっぱりまだ若き日の渡部篤郎氏の演技が素晴らしいと思う。伊丹さんのキャスティングや役者の選球眼は尋常ではない。



そして、素晴らしいブログがあったので引用する。
伊集院光のラジオに大江健三郎が出演した時の話である。
ラジオは以下のYOUTUBEで聴ける。


伊集院光と大江健三郎 その1



以前にも書いたように。「いいとも!」が終わったのをきっかけに、伊集院光のラジオをネット経由で聞くようになった。一人で食事するのが嫌いなので、なにか音源が欲しかったからだ。

伊集院光のラジオが面白いというのは、小林信彦のエッセイで読んでいた。聞いてみたら、なるほど、面白い。基本、くだらないこと、シモネタ、バカバカしいことを中心にしゃべっているのだが、その根底に、とても強いものがある。真面目すぎるほどの誠実、知性、寛容と頑なさ。

高校中退で、落語家出身、130kgの巨漢にしてスポーツ好き。野球は芸人でチームを組んで定期的に試合をしているし、ランニングは小さな駅伝大会に参加 するほど。自転車は、東京の自宅から出発して日を分けて掛川あたりまで走って行ってしまうほど。雑学王として名を轟かせながら、番組で「インテリ軍団」に 組み入れられることには抵抗を感じる。実力とコンプレックスが微妙に絡み合ったこのキャラクターは実に絶妙である。

過去の彼のラジオ番組を検索してあれこれ聞いているうちに、驚くべき回にぶつかった。基本、くだらないことしか言わない彼の番組に、ノーベル賞作家、大江健三郎がゲストに来ているのだ。

ここから先は、私の記憶で書いているので、実際とは微妙に違っているかもしれない。あくまでも、私はそう受け取った、ということで読んでほしい。

高名な作家を前に、伊集院氏がどのような対応をするのか・・・と息を呑んで聞いていたら、彼はきっちりと真正面からぶつかっていった。

自分のようにラジオをやっている人間は、もちろん話すことに責任は持っているつもりだが、表現の全てはその場で消えていってしまう。小説を書くという作業 は、その何もかもが残っていくという点で、それとはまったく正反対のものであると感じる。ぼくが生放送にこだわるのは、収録で何度も取り直しをしていく と、同じ話がだんだん変わっていって、たとえば最初は笑っていたのに、だんだんに怖い話になってしまうようなことすらあるからだ。大江先生にとって、書くという作 業はどのようなものであるのか、と。

大江氏は、こう答える。自分は最初、書きたいことを自由に書く。そこから作業が始まる。何度も何度も読んで、書き直して行くうちに、自分の文体というもの が出来上がってくる。確かにそのうちに、内容が思いがけなく変質し、怖いものになっていくこともある。むしろ、自分はそれを伝えたいのかもしれない、と。

大江先生の書く難しい小説は、自分のような学のないものには理解できないと思っていたが、とても感銘を受けた一作がある、と伊集院は「自分の樹の下で」に ついて語りだす。作者の子ども時代の話を読んでいうるちに、自分も子ども時代、そんなことを考えていた、あんなことも考えていたなあと次々に思い出した。 たとえば、物語が右手について語っているその時、自分の左手には何があったか、そんなことがありありと想像できるのだ。そういう意味で、この 小説は、タイムマシンだと思った、と。

大江氏はそれに嬉しそうに答える。あなたは立体的に物語を読める人なのかもしれない、と。

大江氏が何度も何度も書き直しをする、そのエネルギーはどこから来るのか、その結果出来上がったものが、読者に伝わっていくのだという確信はどうやって得 ているのか、と伊集院は尋ね、大江氏は、そんなことは自分は心配しない、と答える。小説を書き上げるのが自分の仕事である、と。

話はそれから大江氏の妻の兄であり、師匠でもあるという伊丹十三の話になる。伊丹氏は、自作の映画にあんなに集客があってもなお、もっと多くの人に見てもらいたい、受け入れられたいと願い続けていて、それがあんな悲しい結果につながってしまったのではないか、と伊集院が遠慮がちに話す。

すると、それを受けて、大江健三郎は驚くべきことを話し出すのだ。

大江健三郎は、伊丹氏の映画をわざわざ見たりはしない。だが、ある時、伊丹氏の妹でもある妻が、試写会に行った。そして、それはテロに関する映画だった、と話してくれた。伊 丹氏がテロについてどんなふうに表現したのか。それは重要であると判断した大江氏は、映画館まで見に行った。そして、鑑賞後、伊丹氏に電話したのだ。

伊丹氏は、抽象的な感想は嫌う。あれはポストモダンだったね、みたいな言い方ではダメだ。具体的に、何がどうだったのかを話す必要がある。そこで、大江氏は、映画の中の、とあるエピソードについて話をした。

小太りな警察官がいる。出前の昼食について文句を言ったりしてちょっと意地悪な側面がある。サリンジャーなんかを読んでいるのを上司に見られ、そんなもんを読んでばかりいるより、カラオケスナックにでも行ったりすることも仕事の一部である、などと怒られる。

カラオケスナックに行ったその警察官は、歌っている青年が指名手配中の犯人であることに気づく。そこで、ホステスを誘って踊りながら近づき、犯人を逮捕し ようとする。マイクを口に突っ込んだりして、大立ち回りになりながら、一生懸命戦い、カラオケスナックのドアが壊れて外に転がり出し、田んぼに突っ込ん で、逮捕に至る。

それから、警官は、座り込んだ犯人の泥まみれになった背中にホースでじゃあじゃあと水をかけて洗ってやる。その警官の背中をホステスが楽しそうな顔で同じようにホースで洗ってやっている。

大江はそのシーンを印象的に語る。これを見ただけで、その警官が、どんな人物か、これからどんな風に生きていくかがわかる。このエピソードだけで、よく出来た短編小説を読んでいるようだ、と。

伊丹氏は、その感想を聞き、大江氏に、あのホステスを演じた女優の名前は〇〇というのだよ、君、覚えたかね、と聞く。自分は小説家だし、そんな女優さんの名前なんて覚えられないよ、と大江は答える。すると伊丹氏はこう言ったというのだ。
「君、だけど、あの警官役はね、伊集院光という人なんだよ。」

伊集院光は一言も発さないが、息を呑んでいるのが分る。大江健三郎は、言葉を続ける。

「これがね、僕が彼と交わした最後の会話なんです。それで、僕は何度も何度もこの会話を思い出すんです。」

大江健三郎は、きっと、それで伊集院光に会いに来たのだ。

それまで一言も発していなかった伊集院光が話し出す。
僕は今、非常に感動してお話を聞いておりました、と。

その話を聞いて、きっと伊丹さんはとても嬉しかったと思う。あのシーンには、何度も何度もNGがでた。どこが悪いのか尋ねたら、それは君の問題ではない、こ ちらの問題である。あなたは何も悪くないのだから、気にしないでほしい、と言われた。それでぼくは、とにかく自分は与えられたことをしっかりとやればいい のだと考え、何度も同じことを繰り返し演じた。

伊丹さんのOKには三つあって、ひとつは普通にOK。一つは、まあ、ここらで手を打たないと映画がいつまでもできないからな、というOK、そして、最後は 会心の、大満足のOK。あのシーンの重要性が僕にはわかっていなかったのだが、何度も繰り返して、最後に出たOKは、まさに会心のOKであった。その意味 が僕にはわかっていなかったのだが、大江先生は、一度見ただけで、気が付かれた。わかってもらえて、伊丹さんは、とても嬉しかったに違いない。

この一連の会話は、なんと美しいのだろうと私は感動しながら聞いていた。

伊集院は、この高名な作家に対して、臆することなく、けれど謙虚に、一生懸命に自分の思いを話した。大江氏はそれをまっすぐ受け止めて、嬉しそうに、懐かしそうに、熱心に話してくれた。

大江健三郎は、ラジオの事情なんて何も知らない。CMを挟まねばならなかったり、途中、時報が入ったりもするが、そんなことはお構いなしに思いをしゃべり 続ける。ラジオの達人である伊集院は、それを決して遮ることなく、大江氏を尊重しつつ、最低限のやるべきことを丁寧にこなして番組を成立させていく。

そして、そこで話されたことの不思議な美しさ。

とても良いものを聞いた、と私は思った。



もう少し大江を読んでみようと思う。

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