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青空文庫にあったので引用する。

経済学及び課税の諸原理

PRINCIPLES OF POLITICAL ECONOMY AND TAXATION

デイヴィド・リカアドウ David Ricardo

吉田秀夫訳




        訳序

 本書はデイヴィド・リカアドウ David Ricardo の主著『経済学及び課税の諸原理』"Principles of Political Economy and Taxation." の全訳である。
 リカアドウはユダヤ系の英国人である。彼は、一七七三年、富裕な株式仲買人エイブラハム・リカアドウの第三子として生まれ、幼少にして実際的教育をうけた後、勉学のためアムステルダムに送られ二年の後帰英し、ロンドンで一年間学校教育をうけて、齢よわいわずかに十四才にして父を援たすけて実業界に入った。二十一才の時クエイカア教徒の女と結婚し、自らもクリスト教徒に改宗したために、父との間は不和になり、ために彼は父から独立して、一時苦難の時を送ったが、まもなく彼も物質的成功を得ることが出来た。そしてこのことは彼に勉学の余裕を与えることとなった。勉学の対象は初めは自然科学に限られていたが、たまたま妻の病中、バアスにおいて巡囘文庫中のアダム・スミスの『諸国民の富』を見るに及んで、ここに経済学に対する興味を覚えることとなったのである。
 かくて彼れの富が次第に増加し、実業界における彼れの地位がますます重きをなすに至るとともに、また彼れの経済学研究が進むにつれ、彼はまず通貨及び銀行に関する諸論文をもって論壇に登場し、次いでナポレオン戦争にともなう穀物関税に関する論争には一八一五年に『低い穀物価格』を書いて参加し、穀物保護貿易論者たるマルサスの所見を痛烈に批判した。一八一七年の『経済学及び課税の諸原理』の第一版は、以上の諸論の総決算たるものである。
 一八一九年には彼はポオトアーリントンから代議士に選出された。それ以後彼れの諸論文は主として彼れの議会生活と関係あるものであるが、一八二二年の『農業保護について』だけは他と趣を異にし、彼に他の一切の著作なくともこれのみにても彼は一流の経済学者たり得るとマカロックが評したほどの、傑出した独立論文である。
 リカアドウは、一言もっていうならば、古典派経済学の完成者である。古典派経済学は、ブルジョア的埒内において最高の発展をとげた経済学であり、ウィリアム・ペティ及びボアギュイベールにはじまって、リカアドウ及びシスモンディをもって終るものである。この派の経済学は二つの段階を経て発展している。すなわちその前期はマニュファクチュア期のそれであり、その後期は機械工場制期のそれであって前者を代表するものがアダム・スミスであり、後者を代表するものがリカアドウである。かくの如くにリカアドウは、古典派経済学の最後の最高の総括的発展者であるため、この派経済学の根本的基礎理論たる労働価値論は、彼においてそのブルジョア的埒内において許される限りの発展をしたのであるが、同時にまたブルジョア的生産の矛盾はこの学派の固有の歴史的限界に制限されて、生産方法そのものの矛盾としてではなく、理論的構造内部における解決しがたい矛盾として顕現していることが、彼れの体系にとって特徴的となっている。このことは、例えば本書巻頭における労働価値論における平均利潤の問題――またはいわゆる価値と生産価格との矛盾の問題――に最もよく露呈している。しかもそれにかかわらず、彼がこの問題を黙殺して進まずこれが解決に正面から取組んだこと、更にまた本書の第三版に至って改めて『機械について』の諸問題を真剣に取りあげたことは、その歴史的限界性にもかかわらず、彼れの偉大さをよく物語るものといわなければならない。彼れの全理論が後にマルクスによって最も正しい意味において発展的に止揚されたことは、人のよく知るところである。
 本訳書は、底本をその第三版にとり、更にゴナア教授の傍註をもたぶんにとり入れ、その上にかなりの訳者註を加えて、出来上ったものである。私はかつて昭和七年に本書を同じく春秋社から出版したことがある。当時すでに本書については、堀經夫博士及び小泉信三博士による二種の訳本が行われていた。前者は正確、後者は流暢、いずれも好個の訳本である。それにもかかわらず私が当時本書を更に訳出したのは、それが『世界大思想全集』の一巻として包含されており、従って先覚二著の学者的訳書に比して学生用として普及の機会が多かろうと考えたからである。従って飜訳の態度は、どこまでも学生用参考書を作るということを第一義とした。今度再建春秋社が改めて古典経済書の一つとして本書の出版を企図されたについて、私はやはり学生用参考書としての本書の必要を感じ、同じく学生大衆用普及版を作る目的をもって、改めて全巻に亙って厳密に改訳の筆をとると共に、また戦後の傾向として用語の現代化をはかることとした。その結果意外の労を払わなければならなかったが、かくしてとにかく出来上ったのが本書である。
 かくて本書は普及を中心とする大衆版であるが、さればといって本書は過度の読み易さを追求すべき性質の内容のものではない。もともと内容は経済学の理論であるから読物的な軽さを欠いているのであるが、これに加えてリカアドウは決していわゆる名文家ではない。この意味では彼は論敵マルサスの闊達な文調にまさに百歩を譲るものである。時に彼は英語にそれほど練達ではなかったとさえ評されているくらいである。更に、こうした理由よりもよりいっそう、訳者の不敏にして、本書はなお大衆的普及版としては排除すべき生硬さが多々あることと思われる。これらの点は、読者諸賢の叱正を得て、適当な機会に訂正をしたいと思う。
 なお本書のなるについて春秋社の瀬藤及び鷲尾の両氏、ならびに高橋君の配慮と助力とを得たこと多大なるものがある。記して感謝の語としたい。
   一九四八年二月大久保にて訳者[#改ページ]

      原著者序言

 土地の生産物――すなわち地表から、労働、機械、及び資本の結合使用によって、得られるすべてのものは、社会の三階級の間に、すなわち土地の所有者、その耕作に必要な蓄財すなわち資本の所有者、及びその勤労によってこれを耕作する労働者の間に、分たれる。
 しかし、社会の異なる諸階級においては、地代、利潤、及び労賃の名の下に、これらの諸階級の各々に割当てられるであろう所の土地の全生産物の比例は、全く異るであろうが、それは主として、土壌の現実の肥沃度に、資本の蓄積や人口に、そして農業において用いられる熟練や創意や器具に、依存するのである。
 この分配を左右する諸法則を決定することが、経済学における主要問題である。この科学は、テュルゴオ、スチュワアト、スミス、セイ、シスモンディ、及び他の人々の著作によって、大いに進歩してはきているけれども、それらは、地代、利潤、及び労賃の自然的径路に関する満足なる叙述は、ほとんど与えていないのである。
 一八一五年に、マルサス氏は、その『地代の性質及び増進に関する研究』において、またオクスフォド・ユニヴァシティ・カレヂ一校友は、その『土地への資本投下に関する試論』において、ほとんど同時に、地代に関する真実の学説を世に提供したが、この知識なくしては、富の増進が利潤及び労賃に及ぼす結果を理解し、または租税が社会の種々なる階級に及ぼす影響を十分に追究することは、不可能である。それは、課税された貨物が、地表から直接に得られた生産物である場合には、特にそうである。アダム・スミス、その他前述の有能な学者は、地代に関する諸原理を正しく観察しなかったため、思うに、地代の問題が徹底的に理解された後においてのみ発見され得る所の、多くの重要な真理を、看過してしまったようである。
 この欠陥を補うには、本著者の有するよりも遥かに優れた諸能力が必要である。しかしながら、この問題に対しその全力を費した後に、――上記の優れた諸学者の著作から援助を得て後に、――そして、豊富な事実を有つ最近の数年が現代人に与えた価値多き経験を得て後に、利潤及び労賃の諸法則、並びに租税の作用に関する、著者の意見を述べることは、思うに彼において僣越であるとは考えられないであろう。もし著者が正しいと考える諸原理が、事実正しいものであることが見出されるならば、それを追究してあらゆるその重要な帰結を明かならしめることは、著者自身よりもより有能な他の人々のなすべきことであろう。
 著者は、一般に受容されている所見を反駁するに当って、著者がその理由あって所見を異にする所のアダム・スミスの著書中の章句により詳細に論及するの必要なることを、見出した。しかし著者は、その故をもって、経済学なる科学の重要なるを認めるすべての人と共通に、この有名な学者の深遠な著作が正当に喚起する賞讃に参与するものではない、と疑われないであろうことを、希望する。
 同じことが、セイ氏の優秀な著作に当てはめ得ようが、彼は啻ただに、大陸の諸学者中で、スミスの諸原理を正当に評価しかつこれを適用した最初の人、または最初の人々の一人であり、かつその啓蒙的にして有益な体系の諸原理を、ヨオロッパ諸国民に推奨するに、他の大陸の諸学者を全部合せたよりもなす所多かったのみならず、更にまたこの学問をより論理的なかつより教導的な順序に置くことに成功し、そして、独創的な正確なかつ深遠な二三の討論によって、斯学を富ましめたのである(註)。しかしながら、著者がこの紳士の著作に対して懐く尊敬は、著者が学問の利益のために必要であると考える自由をもって、著者自身の見解と異る所の『経済学』中の諸章句に対し批評を加えることを妨げなかったのである。
(註)第十五章、第一部、『市場論』は、特に、この優れた学者によってはじめて説明されたものと信ずる所の、二三の極めて重要な諸原理を含んでいる。
      第三版に対する原著者の注意

 本版においては、私は前版におけるよりも、価値に関する困難な題目についての私の所見を、いっそう十分に説明せんと努力し、そしてその目的のために、第一章に二三の附加をなした。私はまた、機械の問題につき、またその改良が国家の各種の階級の利害に及ぼす諸結果についての、新しい一章を挿入した。価値と富との特性に関する章においては、私はこの重大な問題に関するセイ氏の学説――その著書の最終第四版において修正されたもの――を検討した。最終の章において私は、その農法の改良により、国内においてその穀物を生産するに必要な労働量が減少するか、または、その製造貨物の輸出により、外国からより低廉な価格でその穀物の一部分を取得するかの結果として、たとえその貨物総量の全貨幣価値は下落するとしても、一国は附加的貨幣租税を支払う能力があるという学説をいっそう有力なる見地からして、打ち立てようと努力した。この考察は極めて重要であるが、それはけだしこの考察は、特に、莫大な国債の結果たる、重い固定貨幣租税を負担している国において、外国穀物の輸入を無制限のままに放置する政策の問題に、関係するからである。私は、租税支払能力は、大量の貨物の総貨幣価値にも、また資本家及び地主の収入の総貨幣価値にも、依存するものではなくして、各人が通常消費する貨物の貨幣価値と比較しての彼れの収入の貨幣価値に依存するものであることを、示さんと努めたのである。
     一八二一年三月二十六日
[#改ページ]

        目次

 訳序
 原著者序言
 第三版に対する原著者の注意
第一章 価値について
第一節(一)価値なる語の曖昧さ。使用上の価値と交換上の価値(二)価値を有する物品における効用の必然的存在(三)分量上の価値の原因。稀少性従って大抵の場合において労働(四)稀少性(五)(六)生産費及び交換価値の根拠としての労働。このことはスミスによって裏書きさる(七)しかしながら彼は後に、穀物及びそれ自身交換される物品たる労働その他の価値標準を樹立している(八)穀物に関しての誤謬。それはそれ自身多くの原因よりして可変的である(九)労働もまた可変的である(一〇)それに関するスミスの誤謬(一一)このことを更に例証す(一二)あらゆる物の真実価値は、その生産に、または労働それ自身の場合にはその維持に、必要な労働量によって評価さるべきである第二節(一三)労働は疑いもなく種類を異にするけれども、かかる種類の相違はまもなく調整され引続き永久的なものとなるから、前掲の法則は覆くつがえされない第三節(一四)更にすべての企業においては資本が必要であり、従って貨物に直接に適用される労働がその価値に影響を及ぼすのみならず、更に最終工程を便ならしめるための為めの器具を準備するために用いられる労働もまた然しかする(一五)このことは、貨物はその生産に投ぜられた各々の労働量によって交換されるという法則に、影響を及ぼさない。労働とは直接的なものと間接的なものとであると考えなければならない(一六)このことは、不変的価値標準があるならばそれによって証明されるであろう第四節(一七)貨物はその生産に費された各々の労働量によって交換されるという法則は、次によって修正される(一八)イ、かかる労働が直接でありまたは間接である相対的程度、すなわち機械その他の耐久的資本の比例的分量の相違、若干の貨物はそれによって、労働の価値の騰落により、他のもの以上に影響を蒙るから第五節(一九)ロ、資本の耐久力の不等    ハ、生産に用いられる時間の比較的不等(二〇)以上の要約第六節(二一)不変的価値尺度。その存在とその使用に必要な条件第七節(二二)貨幣はかかる不変的標準ではない(二三)その価値の変動より起る相違第二章 地代について
(二四)地代の性質及び定義。それに対し地代が支払われるもの(二五)歴史的起源。存在原因、それは種々なる耕地によって産出される収穫の相違から生ずる(二六)またはむしろ種々なる資本投下分に対しなされる収穫の相違から生ずる(二七)交換価値は、存在する事情の内最も有利なそれの下において費された労働量によってではなく、最も不利なそれの下において費された労働量によって、決定される(二八)地代の存在は農業の有利なことを証明するものではない(二九)地代は富の増加の結果であって原因ではない(三〇)地代全額は生産物に対する需要の減少によって減少する(三一)同じことは、土壌の肥沃度の増加、またはその耕作様式の改良、によって齎もたらされる第三章 鉱山の地代について
(三二)鉱山の経済的地代は、土地の地代を支配すると同一の法則によって決定される。従って貴金属の価値は地代の存在によって影響を蒙らない第四章 自然価格及び市場価格について
(三三)市場価格はしばしば貨物の自然価格から変動する。かかる変動は資本の投資を左右する(三四)異る職業における率のある相違はこれらの各々の職業における真実のまたは想像上の便益の存在によって説明される第五章 労賃について
(三五)労働の自然(名目)価格は必要貨物の価格に依存する(三六)労働の市場価格(三七)市場価格は資本の蓄積によって自然価格以上に騰貴し、自然価格自身は必要貨物の価格騰貴または愉楽の標準の変動によって騰貴する(三八)資本の増加と労働の増加との関係(三九)資本の増加率の減少は、貨物によって現わされる労賃の市場率の下落を惹起ひきおこさないであろう、もっとも貨幣労賃は、耕作の進行につれて必要貨物の価格が騰貴しなければならぬから、騰貴しなければならないが(四〇)このことは金が外国から輸入されるという事実によって影響を蒙らない。労賃の騰貴は価格の騰貴を惹起さない(四一)救貧法の悪影響第六章 利潤について
(四二)必要品の価格の変動は製造業者の利潤に影響を及ぼすが、製造品の価格には影響を及ぼさないであろう(四三)その結果をかくの如く考えれば、その永久的結果は(四四)利潤下落の傾向。ある最低限が蓄積を奨励するに必要である(四五)より以上の考察第七章 外国貿易について
(四六)外国貿易による市場の拡張は、価値を増加せしめず、「利潤率」に影響を及ぼさない(四七)しかしながら異る国において生産された貨物は、一国から他国へ生産要素を移動せしめ得ないために、生産費によっては交換されない。各国は最大の便益を有つ貨物を生産している(四八)このことは貨幣の介入によって変更を受けない。外国貿易によって貨幣は種々なる国の間にその必要に応じて分配される(四九)手形の使用(五〇)交換に参加する二国中の一国における産業の進歩の結果(五一)種々なる国における貨幣価値の変動を惹起している他の原因(五二)貨幣の価格及び価値のかかる変化は利潤には何らの影響をも及ぼさないであろう    価格の地方的変化の二つの主たる原因――鉱山からの距離及び産業上の地位(五三)為替相場の変化第八章 租税について
(五四)租税は資本か収入かから支払われねばならぬ(五五)後者からのその徴収を奨励するのが正しい政策である。このことは、一、死亡に関する税において、二、財産の移転に対する租税において、無視されている。しかのみならず、この後者は最も有利な産業の分配を害する第九章 粗生生産物に対する租税
(五六)粗生生産物に対する租税は消費者の負担する所となる、けだしそれは土地の場合において耕作の限界に影響を及ぼすから(五七)それに加うるにまたその結果として、問題の粗生生産物は労働者の消費に入り込むものと仮定されているから、それは労働の労賃を騰貴せしめかつ利潤を下落せしめる傾向がある。このことの結果として四つの反対論がかかる租税に対して主張されている(五八)イ、固定的所得を享受している者は影響を受けない。これを反駁す(五九)ロ、労賃は必要品の価格騰貴に単に徐々として随伴するに過ぎない。その結果として貧窮。このことを、価格騰貴が、一、供給の不足、二、需要の増加、三、貨幣価値の下落、四、必要品に対する租税、によって惹起されるものとして考察す(六〇)ハ、蓄積が阻害される(六一)ニ、外国の競争の場合における不利益第十章 地代に対する租税
(六二)地代に対する租税は地代と同様に価格に影響を及ぼさない(六三)しかし地代として支払われているものは二つの部分、すなわち地代そのものと支出に対する利潤とからなる。従って地代として支払われているものは価格に影響を及ぼし得よう第十一章 十分一税
(六四)十分一税は消費者の負担する所となる(六五)しかしそれは、外国からの輸入に対する奨励金の性質を有っているから、地主にとって不利である第十二章 地租
(六六)地代と共に変動する地租は地代に対する租税であり、従って価格に影響を及ぼさない(六七)しかし固定的地租は価格に影響を及ぼし、かつ最悪の土地を耕作している者にとり不公平であり、そして結局消費者の負担する所となる。従ってそれは労賃利潤間の関係に影響を及ぼし得よう。(六八)しかしながら土地及び生産物に対するすべての租税は、供給需要間の関係を変更するから、生産を阻害する。アダム・スミス及びジー・ベー・セイの意見第十三章 金に対する租税
(六九)金はそれに租税が課せられたからといって価格において急速に騰貴する傾きはない、けだし第一に、金の存在量は単に徐々として減少され得るに過ぎぬから(七〇)第二に、金に対する需要は、ある確定量に対するというよりはむしろある交換能力に対するのであるから(七一)従ってある事情の下においては租税が金に課せられてしかも何人によっても支払われないことがあり得よう。スペインの場合第十四章 家屋に対する租税
(七二)同様に家屋に対する租税は、家屋数が急速に減少され得ないために、地主の負担する傾向となる(七三)建築物家賃と敷地地代としての地代の分別第十五章 利潤に対する租税
(七四)利潤に対する租税は、価格に影響を及ぼして、消費者の負担する所となるであろう。従って利潤に対する一般的租税は、貨幣価値が変動しない限り、価格の一般的騰貴を意味するであろう(七五)しかしながらこの騰貴は、固定資本または流動資本への資本の分割され方の相違によって、すべての場合においては同一ででないであろう。英蘭イングランド銀行兌換停止条例に関する、このことからしての結論(七六)利潤に対する租税が地主階級に与える格別の影響(七七)消費者としての株主に対するそれ(七八)利潤に対する租税による物価の影響され方第十六章 労賃に対する租税
(七九)労賃に対する租税は、労賃の「名目」率の存在する故に、利潤の負担する所となるであろう。この率はアダム・スミスによって主張されたが、ビウキャナンによって反対された、後者は次のことを否定する(八〇)第一、貨幣労賃は食物の価格によって左右されるということ(八一)第二、租税は労働の価格を騰貴せしめるであろうということ(八二)かかる租税は結局、アダム・スミスの考えるが如くに消費者の負担する所とはならず、利潤の負担する所とならなければならぬ(八三)彼れの結論が正確であるとしても、それは彼れの想像している如くに外国貿易におけるその国の力を破壊しはしないであろう(八四)必要品及び労賃の課税に関する彼れの見解を更に検討す(八五)課税の一般的影響第十七章 粗生生産物以外の貨物に対する租税
(八六)貨物に対する租税はかかる貨物の価格を騰貴せしめる。もしすべての貨物が課税されるなら、貨幣が依然課税されずかつその供給が変動しないというだけの条件で、すべての価格は騰貴するであろう(八七)生産的企業に対する課税の影響に関する枝話。債務の利子に対し課せられた課税は、一人から他のもう一人へのある富の移転に過ぎない(八八)貨物が独占価格にある時には、それに課せられた課税は、価格に影響を及ぼさず地代に影響を及ぼすであろう(八九)しかしながら粗生生産物に関しては事情はこれと異る。スミス、ビウキャナン、及びセイのこの点に関する理論を、特に麦芽に対する租税の問題に関聯して考察す第十八章 救貧税
(九〇)救貧税の負担は異るであろう。すべての利潤に対する租税の場合には労働の雇傭者によって負担される。特別に農業利潤に対する租税である場合には消費者によって負担される。地代に対する場合には地主によって負担される(九一)かかる救貧税は通常製造業よりも農業のより重く負担する所となるという事実によって、それは全部労働の雇傭者によって支払われることなく、一部分価格騰貴を通じて消費者によって支払われるであろう第十九章 貿易路の急変について
(九二)急変が特定産業に及ぼす影響(九三)国民の繁栄について。二つの結果の相違。国民は常に結局利得する。産業は永久的にすら害されるかもしれぬ(九四)戦争終結時の英国におけるが如き、農業の特殊の場合第二十章 価値及び富、両者の特性
(九五) 価値と富との本質的相違、前者は生産の困難な点に依存し、後者はその便宜に依存す(九六) 従って価値の標準は富の標準ではない。かくて富は価値に依存しない(九七) 一国の富は二つの方法で増加され得よう、一、国の労働能力の増加により、従って生産された貨物の量と共にその全価値の増加によって、二、新しい生産の便宜によって、従ってこれは必ずしも価値の増加を伴わない(九八) 不幸にして価値と富との区別は余りにもしばしば無視されている。特にセイによって第二十一章 利潤及び利子に及ぼす蓄積の影響
(九九)労賃騰貴のある永久的原因がない限り、いかなる資本蓄積も永久的に利潤を下落せしめないであろう(一〇〇)生産とは需要の物質的表現である(一〇一)外国貿易への資本の利用は、国内で用いられて利潤を齎し得る資本額に絶対的限界のあることを示すものではない。しかしながらかかる使用は利潤がより大であると期待されるから起るのである(一〇二)利潤と利子との関係(一〇三)利子率は、他の原因による一時的変動を蒙るとはいえ、終局的かつ永久的には、利潤の作用によって支配される第二十二章 輸出奨励金及び輸入禁止
(一〇四)輸出奨励金は国内市場において必ずしも価格を(永久的に)変動せしめるものではない。生産の増加の結果より不利な条件の下に耕作をなすに至る時を除けば、穀物に対する奨励金についてはこれは事実である(一〇五)アダム・スミスの第一の誤謬、穀物の貨幣価格の騰貴は生産の増加に導くものと信じている(一〇六)第二の誤謬、穀物の貨幣価格がすべての他の貨物の価格を左右するという命題(一〇七)第三の誤謬、奨励金の結果は貨幣価値の永久的低落を惹起すとす(一〇八)第四の誤謬、農業者及び地方紳士は穀物の輸出奨励金によって利益は受けず他方製造業者はその生産品の輸出奨励金によって利益を受けるとす。さて製造業者及び農業者は同一の地位にありかつ利益を受けない。地方紳士は地代が存在するために利益を受けるであろう(一〇九)問題全部をビウキャナン及びセイの意見に関聯して更に論ず第二十三章 生産奨励金について
(一一〇)孤立国における穀物の生産奨励金を支払うべき基金が製造貨物に対し課せられた課税によって徴収される時における、その奨励金の影響。かかる事情の下においては資本の分配には何らの直接的変動も起らないであろう(一一一)労働の労賃及び雇傭資本家に対する影響(一一二)その生産に必要な労働量の変化を通じての穀物の価値の変動によって資本家の地位に齎される影響と、課税または奨励金の理由によるその価値の変動によるそれとの相違(一一三)穀物等に対する租税によって賄われた基金より支払われる所の製造業に対する奨励金の影響――第一の場合の反対第二十四章 土地の地代に関するアダム・スミスの学説
(一一四)穀物を生産している土地は常に地代を産出しなければならぬというアダム・スミスの見解を批判し否定す(一一五)これと反対に穀物を生産している土地の地代はスミスが鉱山地代が決定されるとなしている仕方で決定されることが主張されている、もっとも双方の場合においてリカアドウは、価格は用いられている最も肥沃ならざる資源よりの生産によって左右されるという事実に注意を惹いているが(一一六)従って地主の利益は、スミスの見解とは反対に、土地の生産力の増加によって害され得よう(一一七)地主の利益は常に消費者のそれと対立す。スミスは低い貨幣価値と高い穀物価値とを弁別していない第二十五章 植民地貿易について
(一一八)アダム・スミスのなしたる如くに自由貿易の不変的利益を主張するのは正しい(一一九)しかし植民地に課せられた禁止は母国を大いに利するであろう(一二〇)相互に貿易しているある二国の貿易に課せられた禁止というより一般的な場合によってこのことを例証す(一二一)高い利潤は価格に影響を及ぼさないということ第二十六章 総収入及び純収入について
(一二二)一国の力は、その力が富またはそれから租税が支払われる基金に依存する限り、純所得に依存し総所得には依存しない。アダム・スミスはこのことを理解しない(一二三)内国商業及び外国貿易の各々の利益についてスミスに更に誤れる点。一方が他方より有利であるということはない第二十七章 通貨及び銀行について
(一二四)貨幣鋳造を左右すべき諸原則。量に依存する価値(一二五)紙幣(一二六)発行過剰を妨げる必要(一二七)紙幣を一定の条件の下に金と兌換し得るものたらしめることによって、金属貨幣に代えて紙幣を用いる利益(一二八)それは政府によって発行せらるべし(一二九)これに関する種々なる意見(一三〇)単本位または複本位の使用第二十八章 富国及び貧国における、金、穀物及び労働の比較価値について
(一三一)アダム・スミスの主張する如くに、穀物で測られた金は、富国においては、高い価値よりはむしろ低い価値を有つ(一三二)繁栄せる国が衰える時には、穀物で測られた金等の価値はその結果として騰貴するものではない(一三三)金は必ずしも鉱山を所有する国において価値がより低いわけではない第二十九章 生産者によって支払われる租税
(一三四)製造業における後期よりもむしろ初期の租税の支払に関する二つの誤謬の訂正     イ、消費者は、彼れの租税支払期を遅延せしめ得ることによって、前払に対する利子の支払を補償される(一三五)ロ、もし一〇%が課せられるならば、それは一年につき一〇%であり、各転嫁につきそうであるのではないであろう第三十章 需要及び供給の価格に及ぼす影響について
(一三六)需要及び供給は価格を決定するとは言い得ない、次のことが顧慮されざる限り(一三七)イ、貨幣の変動(一三八)ロ、生産費の規制的影響第三十一章 機械について
(一三九)一見したところ機械の導入は、生産に従事する種々なる階級に、単にそれが産業路に変化を惹起す限りにおいてのみ、影響を及ぼすように思われる(一四〇)しかし労働に対する直接の需要は、流動資本より固定資本への資本の変化によって、著しく減少するであろう(一四一)この減少はおそらく救治されるであろう、もっともそれは必ずしも直ちにではない(一四二)労働の利益は、更に、流動資本の用い方の相違によって、著しく影響を被るであろう(一四三)しかしながら機械の導入は一般に徐々として起るであろうから、有害な結果は予見する必要はない第三十二章 地代についてのマルサス氏の意見
(一四四)地代を取扱うにあたってのマルサスの誤謬。第一の誤謬、地代をもって富の創造なりと考う(一四五)マルサス氏の地代の三原則(一四六)第二の誤謬、地代は土地の肥沃度によるとす(一四七)第三の誤謬、労賃の下落は地代の一原因なりとす(一四八)第四の誤謬、肥沃度の増加は地代の増加に導き、その反対も真なり、とす(一四九)穀物と関聯しての「真実価格」なる語のマルサスによる矛盾せる使用(一五〇)穀価の下落は必ずしもすべての他の貨物の価格の下落を齎すものではないこと(一五一)公債所有者の地位を取扱うにあたって、マルサスは前述の如くこの原理を無視している
(訳者註)項への分類、及びその名称は、ゴナア教授のほどこせるものである。

〔目次―完〕[#改ページ]

    第一章 価値について

第一節 一貨物の価値、すなわちそれと交換されるある他の貨物の分量は、その生産に必要な労働の相対的分量に依存し、その労働に対して支払われる報酬の多少に依存しない。
(一)アダム・スミスは次の如く述べている、『価値という言葉は、二つの異った意味を有もっており、ある時にはある特定物の効用を言い表わし、またある時にはその物の所有が齎もたらす所の他の財貨を購買する力を言い表わす。前者は使用上の価値、後者は交換上の価値と呼ばれ得るであろう。』彼は続けて言う、『最大の使用上の価値を有つ物が、しばしば、ほとんどまたは全く交換上の価値を有たず、また反対に、最大の交換上の価値を有つものが、ほとんどまたは全く使用上の価値を有たない。』(訳者註)水や空気は極めて有用であり、それらは実に生存に不可欠のものであるが、しかも普通の事情の下では、これらと交換して何物も得ることは出来ない。反対に金は、空気や水と比較すればいくらも有用ではないが、多量の他の財貨と交換されるであろう。
(訳者註)アダム・スミス著『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三〇頁。
(二)しからば効用は、交換価値にとって絶対的に不可欠ではあるが、その尺度ではない。もし一貨物がどうしても役に立たないならば、――換言すれば、もしそれがどうしても吾々の満足に貢献し得ないならば、――いかにそれが稀少であろうとも、またどれだけの労働の分量がそれを獲得するに必要であろうとも、それは交換価値を欠くであろう。
(三)効用を有つならば、諸貨物は、次の二つの源泉からその交換価値を得る、すなわちその稀少性からと、それを獲得するに必要な労働の分量からとである。
(四)その価値がその稀少性のみによって決定される若干の貨物がある。いかなる労働もかかる財貨の分量を増加することを得ず、従ってその価値は供給の増加によって低下せしめられ得ない。珍しいある彫像や絵画、稀少な書籍や貨幣、極めて狭い範囲の、特別な土壌で栽培される葡萄からのみ造られ得るに過ぎない、特殊な性質を有つ葡萄酒の如きは、すべてこの種のものである。それらのものの価値は、それを生産するに最初必要とした労働の分量とは全く無関係であり、そしてそれを所有せんと欲する者の富と嗜好との変化するにつれて変化するのである。
 しかしながらこれらの貨物は、市場において日々交換される貨物の総量の中、極めて小なる部分をなすにすぎない。欲望の対象物たる財貨の遥かに最大の部分は、労働によって得られるのであり、そして、もし吾々が、それを獲得するに必要な労働を投ずる気になりさえするならば、啻ただに一国においてのみならず更にまた多くの国において、ほとんど限りなく増加せられ得よう。
(五)しからば、貨物について、その交換価値について、かつその相対価格を左右する所の法則について、語る際には、吾々は常に、人間の勤労の発揮によって分量を増加することが出来、かつその生産には競争が制限なく働く如き貨物のみを意味するのである。
(六)社会の初期においては、これらの貨物の交換価値、すなわち一貨物のどれだけが他の貨物と交換せられるであろうかを決定する規則は、ほとんど全く、各貨物に費された比較的労働量に依存するのである。
 アダム・スミスは曰く、『あらゆる物の真実価格、すなわちあらゆる物がそれを獲得せんと欲する者に真に値するのは、それを獲得するの骨折と煩苦とである。あらゆる物が、それを獲得し、かつそれを処分せんと、すなわちそれを他の何物かと交換せんと欲している者に、真に値する所は、それが彼自身をしてこれから免れしめることが出来、かつこれを他人に課することが出来る所の、骨折と煩苦とである。』(訳者註)『労働は、すべてのものに対して支払われた所の、最初の価格――本来的の購買貨幣であった。』(訳者註)また曰く、『資本の蓄積及び土地の占有の両者に先だつ所の、社会初期の未開状態においては、種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることの出来る唯一の事情であるように思われる。例えば、もし狩猟民族の間で通例一匹の海狸を殺すには、一匹の鹿を殺す労働の二倍を要するとすれば、一匹の海狸は当然に二匹の鹿と交換せらるべきであり、換言すれば、二匹に等しい価がある。通例二日の、または二時間の労働の生産物たるものは、通例一日の、または一時間の労働の生産物たるものの二倍に価する、というのは当然である。』(註)
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、第一巻、三二頁。(註)第一篇、第五章(これは誤りである。正しくは第六章。この句は、キャナン版、同上、四九頁――訳者註)。 人間の勤労によって増加し得ないものを除けば、これが真にすべての物の交換価値の基礎であるということは、経済学における最も重要な一学説である、けだし、価値なる語に附せられた曖昧な観念から生ずるほどの、かくも多くの誤謬と、かくも多くの所見の相違が起る源泉は、他にないからである。
 もし、貨物に実現された労働の分量が、その交換価値を左右するとするならば、労働の分量のあらゆる増加は、それに労働が加えられる貨物の価値を増加せしめなければならず、またそのあらゆる減少はそれを下落せしめなければならない。
(七)かくも正確に交換価値の源泉を定義し、そして論理を一貫させるためには、すべての物はその生産に投ぜられた労働の多いか少いかに比例してその価値が多くなるか少くなると主張すべきであったアダム・スミスは、彼自身もう一つの価値の標準尺度を立て、そして物は、この標準尺度の多くまたは少くと交換されるに比例して、価値が多くまたは少いと言っている。時に彼は標準尺度として穀物を挙げ、また他の時には労働を挙げている。そしてここに労働というのは、ある物の生産に投ぜられた労働の分量ではなくて、市場においてそれが支配し得る労働の分量なのである。すなわちこれらは同一事の異る二つの表現であるかの如くに、そして、人の労働の能率が二倍になり、従って一貨物の二倍の分量を生産し得るの故をもって、必然的にそれと交換して以前の分量の二倍を受取るであろう、というように言っている。
 もしこれが実際真実であり、すなわちもし労働者の報酬が常に彼の生産した所に比例するならば、一貨物に投ぜられた労働の分量と、その貨物が購買する労働の分量とは等しく、そしてそのいずれも他の物の変動を正確に測るであろう、しかしこの両者は等しくない、前者は多くの事情の下において、他の物の変動を正確に示す不変の尺度であるが、後者はそれと比較される貨物と同じく多くの変動を被るものである。アダム・スミスは最も巧妙に、他の物の価値の変動を決定するためには、金や銀の如き可変的媒介物が不十分なことを、示した後に、彼自身穀物または労働に定めることによって、それらにも劣らず可変的な媒介物を選んだのである。
(八)金や銀は、疑いもなく、新しいかつより豊富な鉱山の発見によって変動を被る。しかし、かかる発見は稀であり、かつその結果は、有力ではあるが、比較的短い期間に限られている。それもまた、鉱山採掘の熟練及び機械の進歩からも変動を被るが、それはけだしかかる進歩の結果、同一労働でより多くの分量が得られるであろうからである。それはまた更にそれが長年の間世界に供給をなした後に、鉱山の生産額が減少しつつあるということからも変動を被る。しかしこれらの変動の諸原因中のいずれから穀物は免れているであろうか? 一方において、それは農業の進歩により、耕作に使用される機械器具の進歩により、並びに、他国において耕作せらるべく、かつ輸入の自由なすべての市場における穀物の価値に影響を及ぼすべき所の肥沃な新地の発見によって、変動しないであろうか? 他方において、それは輸入禁止により、人口と富との増加により、及び劣等地の耕作が必要とする労働量増加によっての供給増加の困難の増大によって、価値の騰貴を被らないであろうか?
(九)労働の価値も等しく可変的ではないか、啻に他のすべての物と同じく、社会の状態のあらゆる変化につれて必ず変動する所の、需要と供給との間の比例によって影響を受けるばかりでなく、更にまた労働の労賃がそれに費される所の、食物その他の必要品の価格の変動によって、影響を受けて?
 同一国において、ある時に、食物及び必要品の一定量を生産するために、他の離れた時に必要なそれの二倍の労働量が必要とされるかもしれない、しかも労働者の報酬は、おそらくほとんど減少しないであろう。もし以前の労働の労賃が食物及び必要品の一定量であるとすれば、彼はおそらくその分量が減少されたならば、生存し得なかったであろう。食物及び必要品はこの場合、その生産に必要な労働の分量によって評価するならば、一〇〇%騰貴しているはずであるが、しかるにこれらの物と交換される労働の分量によって測るならば、それはほとんど価値が増加していないはずである。
 同じことが二つ以上の国についても言い得よう。アメリカやポウランドにおいては、最後に耕作された土地において、一定数の人間の一年の労働は、英国において同じ事情の下に在る土地におけるよりも、遥かにより多くの穀物を生産するであろう。さて、すべての他の必要品が、それらの三国において同様に低廉であると想像するならば、労働者に報酬として与えられる穀物の分量は、各国において生産の難易に比例するであろうと結論するのは、大なる誤りではないであろうか?
 もし労働者の靴や衣服が、機械の進歩によって、今日その生産に必要な労働の四分の一で生産され得るに至るならば、それはおそらく七五%下落するであろう。しかし、労働者がそれによって、一着または一足の代りに永久に四着の上衣または四足の靴を消費し得るに至るであろう、ということは決して真実でないから、おそらく、彼の労働は近いうちに、競争の及び人口に対する刺戟の結果によって、その労賃の費される必要品の新価値に適合せしめられるであろう。もしかかる改良が労働者の消費するすべての物にまで及ぶならば、吾々は、それらの貨物の交換価値が、その製造においてかかる改良が行われなかったあらゆる他の貨物に比較して、極めて著しい低落を受けたにもかかわらず、またそれが極めて著しく減少した労働量の生産物であるにもかかわらず、おそらく数年ならずして労働者は、たとえ増加したとしてもわずかしか増加しなかった享楽品を所有しているに過ぎないことを、見出すであろう。
(一〇)しからばアダム・[#「・」は底本では欠落]スミスと共に、『労働は時により多くの、また時により少い財貨を、購買し得るであろうから、変化するのは財貨の価値であり、財貨を購買する所の労働の価値ではない、』(訳者註)したがって『それのみがそれ自身の価値において決して変化しないものである所の労働が、それによってすべての貨物の価値が、すべての時及び処において評価されかつ比較され得る所の、窮極のかつ真実の標準である。』(訳者註)と言うのは、正しくない、――しかし、アダム・スミスが前に言った如くに、『種々なる物を獲得するに必要な労働の分量の比例が、それらを相互に交換するための何らかの規則を与えることが出来る唯一の事情であるように思われる、』換言すれば、貨物の現在または過去の相対価値を決定するものは、労働が生産するであろう所の貨物の比較的分量であって、労働者にその労働と交換して与えられる貨物の比較的分量でないと言うのは、正しいのである。
(訳者註)『諸国民の富』キャナン版、同上、三五頁。
(一一)(編者註)もし現在及びあらゆる時においてそれを生産するために正確に同一の労働を必要とするある一貨物が見出され得るならば、その貨物は不変的価値を有つものであり、そして他の物の変動を測り得る標準として極めて有用であろう。かかる財貨については吾々は何ら知る所なく、従ってある価値標準を定めることは出来ない。しかしながら、吾々が貨物の相対価値の変動の諸原因を知り得るために、またそれらの原因が作用する如く思われる程度を算定し得るに至らんがために、価値標準の本質は何であるかを確かめるのは、正しい理論を得るために、極めて有用なことである。
(編者註)第一版及び第二版にあったこの章句は、第三版から除かれた。ここではそれを旧に復しておく。(一二)二つの貨物が相対価値において変動する、そして吾々は、そのいずれに変動が実際起ったのであるか、を知りたいと思う。もし吾々がその一方の現在の価値を、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖、その他すべての貨物と比較するならば、吾々は、それがすべてのこれらの物の正確に以前と同一の分量と交換されるであろうことを見出す。もし吾々がその他方を同一の諸貨物と比較するならば、吾々は、それがこれらのすべての財貨に対する関係において変動しているのを見出す、かくて吾々は、たぶんの蓋然性をもって、変化はこの後の貨物にあったのであり、それと吾々が比較した諸貨物にあったのではないということを、推断し得るであろう。もしこれらの種々なる貨物の生産に関連せるすべての事情をより詳細に検討して、靴、靴下、帽子、鉄、砂糖等の生産は正確に同一量の労働及び資本が必要であるが、しかしその相対価値が変動した一個の貨物の生産には、以前と同一量の労働が必要ではないことを吾々が見出すならば、蓋然性は確実性に変じ、そして吾々は変動はこの一個の貨物にあることを確知し、かくてその変化の原因をもまた発見するのである。
 もし私が、一オンスの金が、上掲のすべての貨物及びその他の多くの貨物のより少い分量と交換されることを見出し、更にもし私が、新しいより肥沃な鉱山の発見により、または機械の極めて有利な使用によって、一定量の金がより少い労働量によって獲得され得ることを、見出すならば、他の貨物に比較して金の価値の変動の原因は、その生産がより便利となったこと、すなわちそれを獲得するに必要な労働の分量の減少である、と正当に言い得るはずである。同様に、もし労働があらゆる他の物に比較して価値において大いに下落し、そしてもしその下落が、労働者の穀物及びその他の必要品の生産が大いに便利になったことによって助勢された豊富な供給の結果であることを見出すならば、思うに私が、穀物及び必要品はその生産に必要な労働の分量が減少した結果価値において下落したのであり、かつかくの如く労働者を養うための資料の供給が容易になったことが、続いて労働の価値における下落を伴ったのであると言うのは、私としては正確であろう。否、とアダム・スミスやマルサス氏は言う、金の場合にはその変動をその価値の下落と呼ぶのは正当であったろう、けだしこの際穀物及び労働は変動しなかったからである。そして金は、これらのもの並びにすべての他の物の以前よりもより少い分量を支配するであろうから、すべての物は静止しており、金のみが変動したというのも正しかった。しかし吾々が価値の標準尺度たるものとして選んだ所の穀物及び労働が下落した時は、それらが蒙ることを吾々が認める所のすべての変動にもかかわらず、かくの如く言うのは極めて不当である。正しい言葉としては、穀物及び労働は静止しており、そして他のすべてのものは価値において騰貴したと、言うべきであろう、と。
 さて、私が抗議するのはこの言葉に対してである。金の場合におけるが如く、穀物と他の物との間の変動の原因は、正しく、穀物を生産するに必要な労働の分量の減少であることを、私は発見する、従ってあらゆる正当な推理によって、私は、穀物及び労働の変動をもってそれらの価値における下落と呼び、そしてそれらが比較される物の価値における騰貴ではないと言わざるを得ない。もし私が一週間の間、一人の労働者を雇わねばならず、そして私が彼に十シリングではなく八シリング支払うとしても、貨幣の価値に何らの変動も起らなければ、この労働はおそらくその八シリングをもって彼が前に十シリングで得たよりもより多くの食物及び必要品を獲得し得よう。しかしこれは、アダム・スミスによって述べられ、更に近くはマルサス氏によって述べられた如く、彼れの労賃の真実価値における騰貴によるものではなく、彼れの労賃が費される物の価値における下落によるのであり、この二つは全く異なるのである。しかもなお私がこれをもって労賃の真実価値の下落と呼ぶのに対し、経済学の真実の原理と相容れない所の新しいかつ異常の言葉を用いるものといわれている。私にとっては異常なそして実に矛盾した言葉とは、私の反対論者によって使用されているものこそそれであるように思われる。
 穀物が一クヲタア八〇シリングの時、一労働者が一週間の仕事に対し穀物一ブッシェルの支払を受け、かつ価格が四〇シリングに下落した時、彼が一ブッシェル四分の一の支払を受けるとせよ。更に、彼は、彼自身の家庭内において一週間に半ブッシェルの穀物を消費し、その残りを、燃料、石鹸、蝋燭、茶、砂糖、塩、等々のごとき他の物と交換するとせよ。もし後の場合に彼れの手許に残るべき四分の三ブッシェルが、前の場合に半ブッシェルが彼に齎したと同じだけの上記の貨物を齎し得なければ、――それは実際齎さないであろうが――労働は価値において騰貴したのであろうか、または下落したのであろうか? 騰貴した、とアダム・スミスは言わなければならぬ、けだし彼れの標準は穀物であり、そして労働は一週間の労働に対してより多くの穀物を受取るからである。下落した、とこの同じアダム・スミスは言わなければならぬ、『けだし一物の価値は、その物の所有が齎す所の、他の財貨を購買する力に依存し、』そして労働はかかる他の財貨を購買するよりわずかな力しか有っていないからである。

第二節 異る質の労働は異った報酬を受ける。このことは貨物の相対価値における変動の原因ではない。
(一三)しかしながら労働をもってすべての価値の基礎であると論じ、かつ労働の相対的分量をもってほとんど全く貨物の相対価値を決定するものであると論ずるに当って、私は、労働の異る質を、また一つの事業における一時間または一日の労働を他の事業における同時間の労働と比較する困難を、考慮に入れぬものと考えられてはならない。異る質の労働の評価は、すべての実際的目的のためには十分正確に、市場において速かに調整され、そして労働者の比較的熟練、及びなされたる労働の強度に依存するものである。この準尺は、一度形成されれば、ほとんど変化を蒙らない。もし宝石工の一日の労働が、普通労働者の一日の労働よりも価値がより大であるならば、それは久しい以前から調整されているのであり、価値の準尺における適当の位置に置かれているのである(註)。
(註)『しかし、労働がすべての貨物の交換価値の真実の尺度であるとはいえ、それらの貨物の価値が普通これによって測られるのではない。二つの異る労働量の間の比例を確めることはしばしば困難である。二つの異る種類の仕事に費された時間は、単独では、常にこの比例を決定するものとはきまらないであろう。忍ばれた困難や発揮された才能の異れる諸程度が、同様に斟酌されなければならない。二時間の容易な仕事によりも、一時間の困難な仕事に、より多くの労働があるかもしれない。あるいは通常の誰も知っている事業における一月の勤労に従事するよりも、それを習得するに十年の労働を要する職業に一時間従事する方に、より多くの労働があるかもしれない。しかし、困難にしろ才能にしろ、それの正確な尺度を見出すことは容易ではない。実際異る種類の労働の異る生産物を相互に交換する際には、ある酌量が普通両者に対してなされている。しかしながらそれは正確な尺度によって調整されているのではなくて、正確ではないが、日常生活の仕事を行うに十分であるという種類の、大ざっぱな平等に従って、市場の駈引によって調節されているのである。』――『諸国民の富』第一篇、第十章(これは誤りである。正しくは第五章である。――訳者註) 従って、異る時期に同一の貨物の価値を比較する際には、その特定貨物の生産に要した労働の比較的熟練及び強度についての考慮は、ほとんど必要がない、けだし労働は両方の時期において同様に作用しているからである。ある時におけるある種類の労働が、他の時における同じ種類の労働に比較されているのである。もし十分の一、五分の一、または四分の一が附加されまたは減少されたならば、この原因に比例せる結果がその貨物の相対価値の上に生み出されるであろう。
 もし今毛織布一片がリンネル二片の価値に等しく、そしてもし十年後に毛織布一片の通常の価値がリンネル四片に等しくなるとするならば、吾々は毛織布を作るにより多くの労働が必要であるか、またはリンネルを作るに労働がより少くて足るか、または両方の原因が作用した、のいずれかである、と安全に結論し得るであろう。
 私が読者の注意をひこうと欲する研究は、貨物の相対価値における変動の結果に関するものであって、その絶対価値におけるそれに関するものではないから、種々なる種類の人間労働の評価されるその比較的程度を検討することはさして重要ではないであろう。吾々は、種々なる種類の労働の間に本来いかなる不平等があろうと、またある種の手先の技術を習得するに必要な才能、熟練、または時間が、他の種のもの以上にどれだけであろうと、それは一時代より次の時代に引続きほとんど同様であるか、または少くともその変動は、年々に亙って、極めて小なるものであり、従って短期間内では、貨物の相対価値に対しほとんど影響を及ぼし得ないものであると、正当に結論し得るであろう。『労働及び資本の種々なる用途における労賃及び利潤の両者の種々なる率の比例は、既に述べた如くに、社会の貧富、社会の進歩的、停止的、または退歩的状態によって、多くの影響を蒙るものではないように思われる。公共の福祉のかかる変革は、労賃及び利潤の両者の一般率には影響を及ぼすけれども、結局はすべての異れる職業において両者の率に一様に影響しなければならない。従ってそれらの間の比例は引続き同一でなければならず、そして少くともあるかなりの長期間に亙ってかかる変革によってよく変更され得ないものである。』(註)
(註)『諸国民の富』第一篇、第十章(キャナン版、一四四頁――訳者註)

第三節 啻に貨物に直接に加えられた労働がその価値に影響を及ぼすばかりでなく、かかる労働を補助する所の、器具、道具、及び建物に投ぜられた労働もまた、そうである。
(一四)アダム・スミスが述べている初期の状態においてすら、狩猟者をしてその鳥獣を殺すことを得しめるためには、おそらく彼自身によって作られかつ蓄積されたものであろうとはいえ、ある資本が必要であろう。ある武器がなければ、海狸も鹿も殺され得なかったであろう、従ってこれらの動物の価値は、それを殺すに必要な時間と労働とだけによってではなく、狩猟者の資本、すなわちその助力によってそれを殺す所の武器を、作るに必要な時間と労働とによってもまた、左右されるであろう。
 海狸を殺すに必要な武器は、それに近づくことが鹿に近づくよりもより困難であり、従って標準がより正確であることが必要であるために、鹿を殺すに必要な武器よりも遥かにより多くの労働をもって作られたと仮定せよ。一匹の海狸は当然に二頭の鹿よりも価値がより多いであろう。そしてそれはまさに全体としてより以上の労働がそれを殺すために必要であるという理由の故である。または両方の武器を作るに同一の分量の労働が必要であるが、しかし両者は非常に耐久力が異ると仮定せよ。耐久的な器具からはその価値のわずか一小部分が貨物に移転されるであろうが、より耐久的ならざる器具からは、それがその生産に寄与する所の貨物に、その価値の遥かにより大なる一部分が実現されるであろう。
 海狸及び鹿を殺すに必要なすべての器具は一階級の人々に属し、そしてそれを殺すために用いられる労働は他の階級によって提供されることもあろう。しかも両者の比較価格は、資本の形成と動物の捕殺との両者に投ぜられた現実の労働に比例するであろう。資本が労働に比して豊富でありまたは稀少であるという、事情の異る場合においては、人間の生活に欠くべからざる食物及び必要品が豊富でありまたは稀少であるという事情の異れる場合においては、同一の価値の資本を一つのまたは他の事業に提供した者は、取得された生産物の半分、四分の一、または八分の一を得、残りは労賃として労働を提供した者に支払われるであろう、しかしこの分割は、これらの貨物の相対価値には少しも影響を及ぼし得ないであろうが、それはけだし資本の利潤が多かろうと少かろうと、それが五〇%であろうと、二〇%であろうと、一〇%であろうと、または労働の労賃が高かろうと低かろうと、これらは両方の事業に一様に作用するであろうからである。
(一五)もし吾々が、社会の職業の範囲が拡張し、ある者は漁撈に必要な独木舟及び船具を作り、また他の者は種子及び始めて農業に用いられる粗末な機械を作ると仮定しても、しかもなお生産された貨物の交換価値は、その生産に――啻にその直接の生産にばかりではなく、更に器具または機械がそれに用いられる特定労働を有効ならしめるに必要なすべての器具または機械の生産に――投ぜられた労働に比例するであろう、という同一の原理は依然真実であろう。
 たとえ吾々が、より以上の進歩がなされ、かつ技術と商業の繁栄せる社会状態を見ても、吾々はなお、貨物がこの原理に従って価値において変動するのを見出すであろう。すなわち例えば、靴下の交換価値を測るに当って、吾々は、他の物と比較してのその価値が、それを製造しかつそれを市場に齎すに必要な全労働量に依存することを見出すであろう。第一に、原棉が栽培される土地の耕作に必要な労働がある。第二に、靴下が製造されるべき国に綿を運搬する労働があるが、それは綿を運搬する船舶の建造に投ぜられた労働の一部分を含み、そしてそれはこの財の運賃に算入されている。第三に、紡績工及び機械工の労働がある。第四に、その生産を助ける建物及び機械を作った所の機械工、鍛冶屋、及び大工の労働の一部分がある。第五に、小売商人その他これ以上特記する必要のない多くの者の労働がある。これら種々なる種類の労働の総額が、これらの靴下と交換せらるべき他の物の分量を決定するのである。他方投ぜられた種々なる分量の労働に関する同一の考察が、同様に、靴下に対し与えらるべきそれらのものの分量を支配するであろう。
 これが交換価値の真の基礎であることを確信するために、製造された靴下が他の物と交換されるために市場に来るまでに、原棉が通過しなければならぬ種々なる行程のいずれか一つにおいて、労働を節約する手段中においてある改良がなされたと仮定し、そしてそれに随伴する諸結果を観察しよう。もし原棉を栽培するに必要な人間が減少するか、または航海に従事する船員、または原棉をわが国に運搬する船舶を建造する造船工が減少するならば、またもし建物及び機械を作るに人手が減少するか、またはそれが作られた時に能率を増加せしめられたならば、靴下は必然的に価値において下落し、従ってより少量の他の物を支配するであろう。それが下落するのは、けだしより少量の労働がその生産に必要であり、従ってかかる労働の節約のなされなかった物のより少い分量と交換されるからである。
 労働の使用を節約すれば、その節約が貨物そのものの製造に必要な労働で行われようと、またはその生産を援助する資本の形成に必要な労働で行われようと、必ず貨物の相対価値は下落する。いずれの場合においても靴下の製造に直接必要な人々たる漂白工、紡績工及び機械工として用いられる者が減少したにしろ、またはより間接に関係している人々たる船員、運搬夫、機械工、及び鍛冶工として用いられるものが減少したにしろ、靴下の価格は下落するであろう。一方の場合には一部分のみに靴下が帰属し、残りはその生産のために建物、機械、及び車輛が役立つ所の、すべての他の貨物に帰するであろう。
 社会の初期の段階において、狩猟者の弓及び矢と漁夫の独木舟及び器具は共に同一の分量の労働の生産物であって、等しい価値を有ち等しい耐久力を有つものと仮定せよ。かかる事情の下においては、狩猟者の一日の労働の生産物たる鹿の価値は、漁夫の一日の労働の生産物たる魚の価値と、正確に等しいであろう。魚と獣との比較価値は、生産物の量がどれだけであろうと、または一般的労賃または利潤が高かろうと低かろうと、全然その各々に実現された労働の分量によって左右されるのである。もし例えば、漁夫の独木舟及び器具は一〇〇磅ポンドの価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼は十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇磅ポンドであり、また彼らは一日にその労働によって二十匹の鮭を得るとすれば、またもし狩猟家が使用する武器もまた一〇〇磅ポンドの価値があり、そして十年間保つと計算され、かつ彼もまた十名の人を雇い、これらの人々の一年間の労働は一〇〇磅ポンドであり、また彼らは一日に彼に十頭の鹿を獲得するとすれば、一頭の鹿の自然価格は、全生産物がそれを獲得した人々に与えられる比例は大であろうと小であろうと、それには関係なく、二匹の鮭であろう。労賃として支払われる比例は利潤の問題においては最も重要なものである、けだし労賃が低いか高いかに比例して、利潤は高くまたは低いであろうということは、直ちに判るべきことであるからである。しかし労賃は同時に高くも低くもあるであろうから、それは決して魚及び獣の相対価値に影響を及ぼし得ないであろう。もし狩猟者が労賃として、彼れの獲物の大部分をまたはその大部分の価値[#「価値」は底本では「値値」]を、支払うという口実をもって、彼れの獲物と交換してより多くの魚を与えるように漁夫に誘うならば、漁夫は、彼も等しく同一の原因によって影響を蒙ったと述べるであろう。従って労賃及び利潤の変動がどうあろうと、資本蓄積の結果がどうあろうと、彼ら各々一日の労働によって同一量の魚と同一量の獣を捕獲し続けている限り、自然的交換率は、鹿一頭対鮭二匹である。
 もし同一量の労働をもってより少い分量の魚またはより多い分量の獣が捕獲されるならば、魚の価値は獣のそれに比較して騰貴するであろう。もし反対に、同一量の労働をもってより少い分量の獣またはより多い分量の魚が捕獲されるならば、獣は魚に比較して騰貴するであろう。
(一六)もしその価値が不変なある他の貨物があるとするならば、吾々は、魚及び獣の価値をこの貨物と比較することによって、この変動のうちどれだけが魚の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべく、またそのうちどれだけが獣の価値に影響を及ぼせる原因に帰せらるべきかを、確かめ得るであろう。
 貨幣がかかる貨物であると仮定しよう。もし一匹の鮭が一磅ポンドに値し、一頭の鹿が二磅ポンドに値するならば、一頭の鹿は二匹の鮭に値するであろう。しかし鹿を捕獲するにより多くの労働が必要になり、または鮭を得るにより少い労働が必要になり、あるいはまたこれらの原因が同時に作用したために、一頭の鹿が三匹の鮭の価値を有つようになることもあろう。もし吾々がこの不変的標準を有つならば、吾々は容易に、これの諸原因のいずれがいかなる程度に作用したかを確め得るであろう。もし鹿が三磅ポンドに騰貴したのに鮭が引続き一磅ポンドで売れるならば、吾々は、鹿を捕獲するのにより多くの労働が必要になったのである、と結論し得よう。もし鹿は二磅ポンドという同一の価格を続け、そして鮭は十三シリング四ペンスで売れたならば、吾々は、鮭を得るのにより少い労働で足るものと確信し得よう。またもし鹿は二磅ポンド一〇シリングに騰貴し、鮭は一六シリング八ペンスに下落したならば、吾々は、これらの貨物の相対価値の変動を生ずるに両方の原因が働いたものと信ずるであろう。
 労働の労賃におけるいかなる変動も、これらの貨物の相対価値の変動を生み出し得ないであろう、けだし、それが騰貴したと仮定しても、これらの職業のいずれにおいてもより大なる労働量が必要になったのではなく、労働がより高い価格で支払を受けるのに過ぎず、そして狩猟者及び漁夫をしてその獣及び魚の価値を引上げんと努力せしめると同一の理由が、鉱山の所有者をしてその金の価値を引上げようとさせるであろうから。かかる誘引はすべてのこれら三つの職業において同一の力をもって働き、そしてそれに従事する者の相対的地位は、労賃の騰貴の前と後とで同一であるから獣と魚と金との相対価値は引続き変らないであろう。労賃は二〇%騰貴し、利潤はその結果それ以上または以下の割合で下落するであろうが、これらの貨物の相対価値には少しも変動が起らないのである。
 さて、同一の労働と固定資本とをもって生産し得る魚は増加するが、しかし金または獣は増加しないと仮定するならば、魚の相対価値は金または獣に比較して下落するであろう。もし、二十匹の鮭ではなく二十五匹が一日の労働の生産物であるならば、一匹の鮭の価格は一磅ポンドではなく十六シリングとなり、そして、二匹の鮭ではなくて二匹半の鮭が一頭の鹿と交換して与えられるであろうが、しかし鹿の価格は以前と同様に引続き二磅ポンドであろう。同様に同一の資本及び労働をもって獲得し得る魚が減少するならば、魚は比較価値において騰貴するであろう。かくて魚は、その一定量を得るのにより多くのまたはより少い労働が必要とされるという理由のみによって、交換価値において騰落するであろう。そしてそれは、必要な労働量の増加または減少の比例以上には決して騰落し得ないであろう。
 かくてもし吾々がそれによって他の貨物における変動を測り得る不変の標準を有っているとするならば、貨物が、仮定にあるような事情の下において生産されるとした時に、それらの貨物が永続的に騰貴し得る最高限度は、その生産に必要とされる附加的労働量に比例し、かつより以上の労働がその生産に必要とされない限り、それはいかなる程度にも騰貴し得ないことを、見出すであろう。労賃の騰貴は、貨物を、貨幣価値においても、またその生産に何らの附加的労働量を必要とせず、かつ同一比例の固定資本及び流動資本を、また同一耐久力の固定資本を、使用した所の、ある他の貨物との比較においても、その価値を騰貴せしめないであろう。もし他の貨物の生産により多くのまたはより少い労働が必要とされるならば、吾々の既に述べた如く、このことは直ちにその相対価値に変動を惹起すであろうが、しかしかかる変動は必要労働量の変動によるものであって、労賃の騰貴によるものではないのである。

第四節 貨物の生産に投ぜられた労働の分量がその相対価値を左右するという原理は、機械その他の固定的かつ耐久的な資本の使用によって著しく修正される。
(一七)前節においては、吾々は、鹿及び鮭を殺すに必要な器具及び武器の耐久力は等しく、かつ同一労働量の結果であると仮定し、そして鹿及び鮭の相対価値における変動は、一にそれを獲得するに必要な労働量の変動に依存するものであることを見た、――しかし社会のあらゆる状態においては、種々なる事業に用いられる道具や器具や建物や機械は、耐久力の程度を異にし、そしてそれを生産するに種々異った労働量を必要とするであろう。労働を支持すべき資本と、道具や機械や建物に投下される資本との比例もまた、種々異って組合わされるであろう。固定資本の耐久度におけるかかる相違、及び二種類の資本が組合わされる比例のこの差異は、貨物の生産に必要な労働量の大小ということの他に、その相対価値を変動せしめる他の一原因を導入する、――この原因とは[#「は」は底本では欠落]労働の価値における騰貴及び下落である。
 労働者によって消費される食物及び衣服、その中で彼が働く建物、彼れの労働を助ける器具は、すべて、消耗すべき性質を有っている。しかしながらこれらの種々なる資本がもちこたえる時間には莫大な差異がある、すなわち蒸気機関は船舶よりも、船舶は労働者の衣服よりも、労働者の衣服は彼が消費する食物よりも、より長く保つであろう。
 資本が速かに消耗ししばしば再生産される必要があるか、またはゆっくりと消費されるものであるかによって、それは流動資本または固定資本の部類に種別される(註)。高価な耐久的な建物や機械を有つ醸造業者は多量の固定資本を使用するといわれる。反対に、その資本が主として労賃の支払に用いられ、その労賃は建物及び機械よりもより消耗的な貨物たる食物及び衣服に費される所の、製靴業者は、その資本の大部分を流動資本として使用するといわれている。
(註)本質的ではなく、かつ境界線を正確に引き得ない所の、区別である。 流動資本は、極めて時を異にして循環すること、すなわちその使用者に囘収されるということもまた、観察されるべきである。播種のために農業者が購入した小麦は、パンを焼くためにパン焼業者が買い入れた小麦に対しては、比較的に固定資本である。一方はそれを地中に遺し、一年の間は何らの報酬も獲得し得ないが、他方は麦粉に挽かせパンとしてそれをその顧客に売り、そして彼は一週間の後には、同一の事を繰返すか、またはある他の仕事を始めるために、彼の資本を解放し得るのである。
 かくて、二つの事業が同一量の資本を使用するかもしれぬが、しかし固定した部分と流動する部分とについては極めて種々に異って分割されもしよう。
 一つの事業においては極めてわずかな資本が流動資本として、換言すれば労働を支持するために、用いられるにすぎず――すなわち資本は主として機械、器具、建物等に、すなわち比較的に固定的かつ耐久的な性質の資本に投ぜられるであろう。他の事業においては、同一量の資本が用いられるであろうが、しかしそれは主として労働の支持に用いられ、そして極めてわずかが、器具、機械、及び建物に投ぜられるであろう。労働の労賃の騰貴がかかる異った事情の下において生産される貨物に対して及ぼす影響は、異らざるを得ない。
 更に、二人の製造業者が同一量の固定資本と同一量の流動資本とを用いるが、しかし彼らの固定資本の耐久力は極めて不等であることがあろう。一方は一〇、〇〇〇磅ポンドの価値の蒸気機関を有ち、他方は同じ価値の船舶を有つこともあろう。
 もし人々が生産に何ら機械を用いずただ労働のみを用い、そしてその貨物を市場に齎すまでにすべて同一時間を要するとすれば、彼らの財貨の交換価値は用いられた労働の分量に正確に比例するであろう。
 もし彼らが同一の価値を有ちかつ同一の耐久力を有つ固定資本を使用するならば、その時にもまた、生産された貨物の価値は同一であり、そしてそれはその生産に使用された労働量の大小に応じて変動するであろう。
(一八)しかしたとえ、同様の事情の下において生産された貨物は、その一または他を生産するに必要な労働の分量の増加または減少を除くいかなる原因によっても、相互に対して変動しないであろうとはいえ、しかも同一の比例の量の固定資本をもって生産されない所の他のものに比較するならば、たとえそのいずれの貨物の生産に必要な労働量には増減がなくとも、私が先きに述べた他の原因、すなわち労働の価値の騰貴によってもまた変動するであろう。大麦及び燕麦は労賃がいかに変動するとも、相互に引続き同一の関係を維持するであろう。綿製品及び毛織布も、それがもし相互に正確に同様な事情の下において生産されるならば、前の場合と同様であろう、しかしながら労賃の騰貴または下落と共に、大麦は綿製品に比較して、また燕麦は毛織布に比較して、価値がより多くもまたはより少くもなるであろう。
 二人の人が各々百名の人間を二台の機械の建造に一年間用い、そしてもう一人の人が同一数の人間を穀物の耕作に用いると仮定すれば、各々の機械は、その年の終りに、穀物と同一の価値を有つであろうが、それは、それらが各々同一の労働量によって生産されるであろうからである。この機械の一つの所有者が、翌年、百名の人間の助力によって、それを毛織布の製造に使用し、そしてもう一つの機械を所有する人もまた、同様に百名の人間の助力によって、彼れの機械を綿製品の製造に使用し、他方農業者は引続き以前と同様に百名の人間を穀物の耕作に雇っていると仮定せよ。第二年目中に、彼らはすべて同一の分量の労働を使用するであろう。しかし、毛織物業者並びにまた綿織物業者の有する財貨と機械との合計は、二百名の人間を一年間使用した労働の結果であり、またはむしろ百名の人々の二年間の労働の結果であろう。しかるに穀物は百名の人間の一年間の労働によって生産されるであろう、従ってもし穀物が五〇〇磅ポンドの価値であるとすれば、毛織物業者の機械と毛織布との合計は一、〇〇〇磅ポンドの価値でなければならず、そして綿織物業者の機械と綿製品もまた、穀物の価値の二倍でなければならない。しかしながらこれらのものは穀物の価値の二倍以上であろう、何故なれば、第一年目の毛織物業者及び綿織物業者の資本に対する利潤がその資本に附加されているが、しかるに農業者の利潤は費消されかつ享楽されてしまっているからである。かくして彼らの資本の耐久力の程度の異るがために、または同じことであるが、一群の貨物が市場に齎され得るまでに経過すべき時間のために、それらの価値は、正確にそれに投ぜられた労働の分量に比例しないであろう――すなわちそれらは二対一ではなく、最も価値の多いものが市場に齎され得るまでに経過しなければならぬより長い時間を償うために、幾らかそれよりもより多くなるであろう。
 各労働者の労働に対し一年に五〇磅ポンドが支払われ、または五、〇〇〇磅ポンドの資本が使用され、そして利潤は一〇%であるとすれば、機械の各々並びに穀物の価値は、第一年目の終りに、五、五〇〇磅ポンドであろう。第二年目には、製造業者及び農業者は再び各々労働を支持するために五、〇〇〇磅ポンドを用い、従って再び彼らの財貨を五、五〇〇磅ポンドで売るであろうが、しかし機械を用いる者は、農業者と均衡を保つためには、啻に労働に使用された五、〇〇〇磅ポンドなる同額の資本に対して五、五〇〇磅ポンドを得なければならぬばかりでなく、更に機械に投ぜられた五、五〇〇磅ポンドに対する利潤として、より以上に五五〇磅ポンドの額を得なければならず、従って彼らの財貨は六、〇五〇磅ポンドで売れなければならない。しからばここに、年々彼らの貨物の生産に正確に同一の分量の労働を使用する資本家達があるが、しかも彼らの生産する財貨の価値は、その各々によって用いられる固定資本すなわち蓄積労働の分量の異るために、異っているのである。毛織布と綿製品との価値は同一であるが、それはこれらが同一の分量の労働と同一の分量の固定資本との生産物であるからである。しかし穀物の価値はこれらの貨物と同一ではないが、それは固定資本に関する限りにおいて、異る事情の下で生産されるからである。
 しかし、それらの相対価値は、いかにして労働の価値における騰貴によって影響を蒙るであろうか? 毛織布及び綿製品の相対価値が何らの変化をも蒙らないであろうことは明かである、けだし仮定された事情の下においては、一方に影響を及ぼすものは他方にも等しく影響を及ぼさなければならぬからである。小麦及び大麦の相対価値もまた何らの変化も蒙らないであろう、けだしそれらは、固定資本及び流動資本の関係する限りにおいて同一の事情の下で生産されるからである。しかし毛織布または綿製品に対するその相対価値は、労働の騰貴によって変更されなければならない。
 利潤の下落なくしては、労働の価値における騰貴はあり得ない。もし穀物が農業者と労働者との間に分たるべきであるとするならば、後者に与えられる割合が大きければ大きいほど、前者に残る所はわずかであろう。同様に、もし毛織布または綿製品が労働者とその雇傭者との間に分たれるとするならば、前者に与えられる比例が大きければ大きいほど、後者に残る所はわずかである。そこで労賃の騰貴により利潤が一〇%から九%に下落すると仮定すれば、製造業者は、その固定資本に対する利潤として、その財貨の共通の価格に(すなわち五、五〇〇磅ポンドに)五五磅ポンドを附加せずに、その額に九%すなわち四九五磅ポンドしか附加せず、従って価格は六、〇五〇磅ポンドではなくて五、九九五磅ポンドとなるであろう。穀物は引続き五、五〇〇磅ポンドで売れるであろうから、より以上の固定資本が使用された製造財貨は、穀物またはその他のより少い分量の固定資本が入込んでいる財貨に比較して、下落するであろう。労働の騰落による財貨の相対価値の変動の程度は、固定資本が使用された全資本に対して有つ比例に依存するであろう。極めて高価な機械により、または極めて高価な建物の中で、生産される所の、またはそれが市場に齎され得るまでに長い時間を必要とする所の、すべての貨物は、相対価値において下落するであろうが、しかるに、主として労働によって生産され、または速かに市場に齎されるであろう所の、すべてのものは、相対価値において騰貴するであろう。
 しかしながら、読者は、貨物のこの変動原因は、その結果において比較的軽微であることを注意すべきである。利潤において一%の下落を惹起す如き労賃の騰貴があれば、私が仮定した事情の下で生産された財貨の相対価値は、わずか一%だけ変動する。それは利潤のかかる大下落があるのに、六、〇五〇磅ポンドから五、九九五磅ポンドに下落するに止る。労賃の騰貴によりこれらの財貨の相対価値に対し生み出され得る最大の影響といえども、六%または七%を超過し得ないであろう。けだし利潤はおそらくいかなる事情の下においてもかかる額以上の一般的なかつ永続的な下落を許し得ないであろうからである。
 貨物の価値の変動の他の大原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の増減は、これと異る。もし穀物を生産するに百名ではなく八十名が必要とされるならば、穀物の価値は二〇%、すなわち五、五〇〇磅ポンドから四、四〇〇磅ポンドに下落するであろう。もし毛織布を生産するに、百名ではなく八十名の労働で十分であるならば、毛織布は六、〇五〇磅ポンドから四、九五〇磅ポンドに下落するであろう。大なる程度における永久的利潤率の変動は、多年の間においてのみ作用する原因の結果である。しかるに貨物を生産するに必要な労働の分量の変動は、日々起るものである。機械や道具や建物や原料の生産に[#「生産に」は底本では「生産やに」]おけるあらゆる改良は、労働を節約し、吾々をしてかかる改良の加えられた貨物をより容易に生産することを得せしめ、従ってその価値が変更するのである。しからば貨物の価値の変動の原因を測定するに当って、労働の騰落によって生み出される結果を全く度外視するのは正しくないであろうが、それに多くの重要さを附するのも同等に正しくないであろう。従って本書の以下の部分においては、時に私はこの変化の原因にも触れはしようが、私は、貨物の相対価値に起るすべての大なる変化をもって、その時にそれを生産するために必要とされる労働の分量の大小によって生み出されたものと、考えるであろう。
 その生産に投ぜられた労働の同一な諸貨物は、もしそれらが同一の時間で市場に齎され得ないならば、交換価値において異るであろうということは、ほとんどいうをまたない所である。
 私が一貨物の生産に一年間一、〇〇〇磅ポンドの費用で二十名を雇い、そしてその年の終りに、再び翌年度のために更に一、〇〇〇磅ポンドの費用を出して、同じ貨物の仕上または完成に、二十名を雇い、そして私はそれを二年の終りに市場に齎すと仮定すれば、もし利潤が一〇%であるならば、私の貨物は二、三一〇磅ポンドで売れなければならない、けだし私は一年間一、〇〇〇磅ポンドの資本を用い、更に一年間二、一〇〇磅ポンドの資本を使用したからである。もう一人の人は、正確に同一の分量の労働を雇うけれども、しかし彼はそれをすべて第一年目に雇うのであり、すなわち彼は二、〇〇〇磅ポンドの費用で四十名を雇うのであって、第一年目の終りには彼はそれを一〇%の利潤を得て、すなわち二、二〇〇磅ポンドで売るのである。しからばここに、正確に同一の分量の労働が投ぜられていて、その一つは二、三一〇磅ポンドに売れ――他は二、二〇〇磅ポンドに売れる所の、二つの貨物があるわけである。
 この場合は前の場合と異るようであるが、実際は同一である。双方の場合において、一方の貨物の価格がより高いのは、それが市場に齎され得るまでに経過しなければならない時がより長いのによる。前の場合においては、機械及び毛織布は、それらにわずか二倍の労働量が投ぜられているに過ぎないにもかかわらず、穀物の価値の二倍以上であった。第二の場合においては、一方の貨物はその生産により以上の労働が用いられていないにもかかわらず、他方よりも価値がより多い。この価値の相違は、双方の場合において、利潤が資本として蓄積されるのによるのであり、そして単に、利潤が留保された時間に対する正当な報償に過ぎないものである。
 しからば、異る事業に用いられる資本が、固定資本と流動資本との種々な割合に分たれることは、労働がほとんどもっぱら生産に使用される際に普遍的に適用される所の法則、すなわち貨物は、その生産に投ぜられる労働の分量の増減がなければ、決して価値において変動しない、という法則に、かなりの修正を齎すように思われる。それは本節において、労働の分量に何らの変動なくとも、単にその価値の騰貴は、それらの生産に固定資本が用いられる所の財貨の交換価値の下落を惹起すであろうし、固定資本の量が多ければ多いほど、下落は大である、ということが示されているからである。

第五節 価値は労賃の騰落と共に変動しないという原理は、資本の不等な耐久力、及び資本がその使用者に囘収される速度の不等なこと、によってもまた修正される。
(一九)前節において吾々は、二つの異れる職業における二つの相等しい資本について、固定資本及び流動資本の比例を不等なものと仮定したが、今度はそれらは同一の比例にあるが耐久力が不等である、と仮定しよう。固定資本の耐久力がより小となるに比例して、それは流動資本の性質に接近する。製造業者の資本を維持するためには、それはより短時間に消費され、かつその価値は再生産されるであろう。吾々はいま、一製造業において固定資本が重きをなすに比例して、労賃が騰貴する時には、その製造業において生産される貨物の価値は、流動資本が重きをなす製造業において生産される貨物の価値よりも、相対的により低い、ということを見た。固定資本の耐久力がより小となり、流動資本の性質に接近するに比例して、同一の結果が同一の原因によって生み出されるであろう。
 もし固定資本が耐久的性質のものでないならば、それをその本来の能率状態を維持するためには、年々多量の労働を必要とするであろう、しかしそのために投ぜられた労働は、かかる労働に比例して一つの価値を有たねばならぬ製造物に真に費されたものと考え得るであろう。もし私が二〇、〇〇〇磅ポンドに値する一台の機械を有ち、それは極めてわずかの労働で貨物の生産をなし得るとし、かつもしかかる機械の損耗磨滅は僅少量であり、一般的利潤率は一〇%であるとするならば、私はその機械を使用したという理由で、遥かに二、〇〇〇磅ポンド以上の財貨の価格に附加されるべきことを、要求しないであろう。しかしもし機械の損耗磨滅が大きく、それを有効の状態に保っておくに必要な労働の分量が年々に五十名の労働に当るとすれば、私は、他の財貨の生産に五十名を使用し、かつ機械を全然使用しない所の、他の製造業者によって得られると等しい附加的価格を、私の財貨に対して要求するであろう。
 しかし労働の労賃の騰貴は、急速に消費される機械によって生産される貨物と、遅々として消費される機械によって生産される貨物とに、等しくは影響を及ぼさないであろう。一方の生産においては、生産された貨物に多量の労働が引続き移転されるであろう。――他方においては、極めてわずかがかく移転されるに過ぎないであろう。労賃のあらゆる騰貴、または同じことであるが、利潤のあらゆる下落は、耐久的性質を有つ資本をもって生産された貨物の相対価値を下落せしめ、そして消耗的な資本をもって生産された貨物の相対価値を比例的に高めるであろう。
 私は既に、固定資本は種々なる程度の耐久力を有つことを述べた、――今、ある特定の事業において用いられ得る一台の機械は一年間に百名の人間の仕事をなし、かつ一年間だけ持続するものと仮定せよ。また機械は、五、〇〇〇磅ポンドに値し、かつ年々百名の人間に支払われる労賃は五、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、製造業者にとってはこの機械を買うか人間を雇い入れるかは無関心事であろうことは、明かである。しかし労働が騰貴し従って一年間百人の労賃が五、五〇〇磅ポンドに上ると仮定すれば、製造業者は今や躊躇しないであろうことは明かである。機械を買いそして彼れの仕事を五、〇〇〇磅ポンドで済ませるのが彼れの利益であろう。しかし、労働が騰貴せる結果、機械は価格において騰貴し、すなわちそれもまた五、五〇〇磅ポンドに値しないであろうか? それは、もしいかなる資本もその製造に使用されず、そしてその製造者に支払われるべきいかなる利潤も無いならば、価格において騰貴するであろう。例えばもしこの機械が、各々五〇磅ポンドの労賃で一年間その製造に働く所の百名の人間の労働の生産物であり、従ってその価格は五、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、それらの労賃が五五磅ポンドに騰貴するならば、その価格は五、五〇〇磅ポンドになるであろうが、しかしこれはあり得ないことである。用いられるのは百名以下の人間である、しからざれば、五、〇〇〇磅ポンドの中から人間を雇傭した資本の利潤が支払われなければならぬから、それは五、〇〇〇磅ポンドで売れないはずである。そこで単に八十五名の人間が各々五〇磅ポンドすなわち一年につき、四、二五〇磅ポンドの費用で雇われ、そしてこの機械を売ったためにこれらの人々に前払された労賃以上に生ずる七五〇磅ポンドが、機械製造者の資本の利潤を構成していると仮定せよ。労賃が一〇%騰貴した時には、彼は四二五磅ポンドの附加的資本を用いるを余儀なくされ、従って彼は四、二五〇磅ポンドではなく四、六七五磅ポンドを用いるであろう。この資本に対して彼は、もし引続き彼れの機械を五、〇〇〇磅ポンドで売るならば、単に三二五磅ポンドの利潤を得るに過ぎないであろう。しかしこれがまさに、すべての製造業者及び資本家にとって事実である。労賃の騰貴は彼らすべてに影響を及ぼすのである。従ってもし機械の製造者が労賃の騰貴せる結果機械の価格を引上げるならば、異常な分量の資本がかかる機械の製造に用いられることとなり、ついにその価格は単に普通の利潤率を与えるに過ぎなくなるであろう(註)。かくて吾々は、労賃の騰貴せる結果、機械は価格において騰貴しないであろうということを、知るのである。
(註)吾々はここになぜ旧国は機械の使用を常に余儀なくされ、かつ新国は労働の使用を余儀なくされているかの理由を、知るのである。人間の生活資料を供給することが困難になるごとに労働は必然的に騰貴し、そして、労働の価格が騰貴するごとに機械の使用への新しい誘因が与えられる。人間の生活資料を供給することのこの困難は旧国においては常に作用しているが、新国においては、労賃が少しも騰貴せずに人口の極めて大なる増加が起り得よう。七百万、八百万、及び九百万の人間に食物を供給することは、二百万、三百万、及び四百万に食物を供給するのと同様に容易であろう。 しかしながら労賃の一般的騰貴の際に、彼れの貨物の生産費を増加せざるべき機械に頼り得る製造業者は、もし彼れが引続きその財貨に対して同一の価格を要求することが出来るならば、特殊の利益を享受するであろう。しかし吾々の既にみた如くに、彼はその貨物の価格を低下するを余儀なくされるであろう、しからざれば資本が彼れの事業に流入して来、ついに彼れの利潤は一般水準にまで下落するであろう。しからばかくの如くして公衆は機械によって利益を受けるのである、けだしこの沈黙せる作業者は、それが代位する労働と同一の貨幣価値を有っている時ですら、常にそれよりも遥かにより少い労働の生産物である。機械のはたらきによって、労賃を騰貴せしめる食料品の価格の騰貴は、より少数の人々にしか影響を及ぼさないであろう。それは、上例におけるが如く、百名ではなく八十五名に及び、そしてその結果たる節約は製造貨物の価格低減となって現われる。彼らによって製造された機械も貨物も真実価値において騰貴することはないが、しかし機械によって製造されるあらゆる貨物は下落し、そして機械の耐久力に比例して下落するのである。
(二〇)しからば、次の如くわかるであろう、すなわち、未だ多くの機械や耐久的資本が用いられない社会の初期においては、等しい資本によって生産される貨物はほとんど等しい価値を有ち、そしてその生産に必要とされる労働の増減によってのみ、貨物は相互に相対的に騰落するであろう。しかしこれらの高価なかつ耐久的な器具が導入されて後は、等しい資本の使用によって生産された貨物は極めて不等な価値を有つであろう。そしてその生産に必要な労働の増減に従って、それらはなお相互に騰落を蒙るであろうけれども、それらは労賃及び利潤の騰落によってもまた、一つの他の変動――小さな変動ではあるが、――を蒙るであろう。五、〇〇〇磅ポンドに売れる財貨が、一〇、〇〇〇磅ポンドに売れる他の財貨が生産される所の資本と同一量の資本の、生産物であることもあろうから、その製造に対する利潤は同一であろう。しかしもし利潤率の騰落と共に財貨の価格が変動しなかったならば、それらの利潤は不等であろう。
 次のこともまた明かであろう、すなわちある種の生産に用いられる資本の耐久力に比例して、その生産にかかる耐久的資本が用いられる貨物の相対価格は労賃と反比例して変動するであろう。労賃の騰貴する時にはそれは下落し、そして労賃の下落する時には騰貴するであろう。これに反し価格を測る媒介物よりも少い固定資本をもって、またはそれよりも耐久力の少い固定資本をもって、主として労働により生産されるものは、労賃の騰貴する時には騰貴し、そして労賃の下落する時に下落するであろう。

第六節 価値の不変的尺度について
(二一)貨物が相対価値において変動した時には、そのいずれが真実価値において下落しまたいずれが騰貴したのかを確かめる手段を有つことが、望ましいであろう。そしてこのことは、それを順次に、それ自身他の貨物が蒙る変動を全く蒙らざるべきある不変的の価値の標準尺度に比較することによってのみなされ得るものである。かかる尺度を有つことは不可能であるが、それはけだし、それ自身、その価値を確かめようとする物と同一の変化を蒙らない貨物は、ないからである、換言すれば、その生産に要する労働の増減しないものはないからである。しかしこの媒介物の価値の変動の原因が除去されたとしても、――例えば吾々の貨幣の生産において、同一量の労働があらゆる時に必要とせらるべきであるということが、可能であるとしても、それはなお価値の完全な標準または不変的尺度ではないであろう、けだし私が既に説明せんと努めた如くに、貨幣を生産するに必要であろう所の固定資本と、その価値の変動を吾々が確かめようとする貨物を生産するに必要な固定資本との比例が異るがために、貨幣は労賃の騰落による相対的変動を蒙るであろうからである。それはまたその生産に用いられる固定資本と、それと比較さるべき貨物の生産に用いられる固定資本との耐久力の程度が異るがために、――すなわち一方を市場に齎すに必要な時間がその変動を決定しようとする他の貨物を市場に齎すに必要な時間よりも、より長くまたはより短いがために、労賃の騰落という同一の原因によって変動を蒙るであろう。あらゆるかかる事情は、考え得られるいかなる貨物をも、完全に正確な価値の尺度たるの資格を喪失せしめるのである。
 例えばもし吾々が金を一標準と定めるとしても、それがあらゆる他の貨物と同一の事情の下で獲得され、従ってそれを生産するに労働と固定資本とを必要とする所の、一貨物たるに過ぎないことは、明かである。あらゆる他の貨物と同様に、労働の節約における改良はその生産に適用され、従って、その生産がいっそう増せるがためのみによって、それは他の物に対する相対価値において下落するであろう。
 もし吾々がこの変動原因が除去されそして同一の分量の金を獲得するに同一の分量の労働が常に必要とせられるとしても、しかもなお金は、それによって吾々が正確にあらゆる他の物の変動を確め得る完全な価値の尺度では、あり得ないであろう。けだしそれはあらゆる他の物と正確に同一の固定資本及び流動資本の組合せをもってしても、または同一の耐久力を有つ固定資本をもってしても、生産されないであろうし、またそれが市場に齎され得るまでに、正確に同一の時間を必要としないであろうからである。それは、それ自身と正確に同一の事情の下で生産されるすべての物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしその他の物に対してはそうではない。例えばもし、吾々が毛織布及び綿製品を生産するに必要であると仮定したと同一の事情の下でそれが生産せられるならば、それはこれらの物に対しては完全な価値尺度であろうが、しかしより少いかより多いかの比例の固定資本をもって生産された穀物や石炭やその他の貨物に対してはそうではない、けだし吾々が示した如くに、永久的利潤率のあらゆる変動は、その生産に用いられる労働の分量の変動とは無関係に、あらゆるこれらの財貨の相対価値に、幾らかの影響を及ぼすであろうからである。もし金が穀物と同一の事情の下で生産されるとしても、その事情は決して変化しなくとも、それは、同一の理由によって、あらゆる時において毛織布及び綿製品の価値の完全な尺度ではないであろう。しからば、金にしても他のいかなる貨物にしても、あらゆる物に対する完全な価値尺度では決してあり得ない、しかし私は既に、利潤の変動による物の相対価格への影響は比較的軽微であり、最も重要な影響は生産に必要とされた労働の分量の変動によって生み出されることを、述べた。従ってもし吾々が、この重要な変動原因が金の生産から除去されたと仮定するならば、吾々はおそらく、理論上考え得る価値の標準尺度に最も近いものを所有することになろう。金は、大部分の貨物の生産に用いられる平均的分量に最も近接せる如き二種の資本の比例をもって生産された所の貨物と、考えられ得ないであろうか? これらの比例は、一はほとんど固定資本が用いられず、他はほとんど労働の用いられないという、二つの極端からほぼ等しい距離にあって、これらのものの正しい中項をなしてはいないであろうか?
 しからばもし私自身が、不変的標準にかくも近い一標準を有つとするならば、その利益は、それで価格及び価値が測定される所の媒介物の価値におけるあり得べき変動を考えてあらゆる場合に当惑することなしに、他の物の変動について語り得るであろう、という点である。
 しからば、本研究の目的を容易ならしめんがために、金で作られた貨幣は他の物の変動の大部分を同じく蒙ることは十分に認めはするけれども、――私は、それは不変であり、従って価格のすべての変動は、それにつき私が論じている貨物の価値のある変動によって惹起されたものと、仮定するであろう。
 この問題を終る前に、アダム・スミス及び彼を祖述せるすべての学者は、私の知る所では一人の例外もなく、労働の価格の騰貴は一様にあらゆる貨物の価格の騰貴を随伴するであろうと主張したことを、述べるのが正当であろう。私は、かかる意見には何らの根拠もなく、労賃が騰貴する時には、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い固定資本をその生産に用いた貨物のみが騰貴し、またそれ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が下落するであろう、ということを、示すに成功したと考える。これに反し、もし労賃が下落すれば、単にそれによって価格が測られる媒介物よりも少い比例の固定資本をその生産に用いた貨物のみは下落し、それ以上の固定資本を用いたものはすべて確実に価格が騰貴するであろう。
 私にとってまた、一貨物はそれに一、〇〇〇磅ポンドに値するであろうだけの労働が投ぜられ、そして他の貨物はそれに二、〇〇〇磅ポンドに値するであろうだけの労働が投ぜられているという故をもって、従って一方は一、〇〇〇磅ポンドの価値を有ち、他方は二、〇〇〇磅ポンドの価値を有つであろう、と私は言ったのではなく、それらの価値は、相互に一に対する二であり、そしてかかる比例でそれは交換されるであろう、と言ったのであることも、注意しておく必要がある。これらの貨物の一方が一、一〇〇磅ポンドに売れ、そして他方が二、二〇〇磅ポンドに売れようと、または一方が一、五〇〇磅ポンドに売れ、そして他方が三、〇〇〇磅ポンドに売れようと、それはこの学説の真理に対しては少しも重要ではない。この問題は今これを研究しない。私は単に、それらの相対価値は、その生産に投ぜられた労働の相対的分量によって支配されるであろうということを、注意するだけである(註)。
(註)マルサス氏はこの学説について次の如く述べている、『実際吾々は勝手に、一貨物に用いられた労働をその真実価値と呼ぶことが出来る。しかしかくすることによって、吾々は、この言葉を、それが慣習的に用いられると異った意味に用いていることになる。吾々は、直ちに費用と価値という極めて重要な区別を混同することになり、そして実際上この区別に依存する所の富の生産に対する主たる刺戟を明かに説明することを、ほとんど不可能ならしめている。』(『経済学の諸原理』、一八二〇年、第二章第二節、六一頁――編者註) マルサス氏は、一物の費用と価値とは同一でなければならぬというのが、私の学説の一部であると考えているように思われる――もしも彼が費用というのが、利潤を含む『生産費』の意味であるならば、その通りである。しかし右の章句においては、これは彼れの意味しない所であり、従って彼は明かには私を理解していないのである。

第七節 それによって価格が常に表現される媒介物たる貨幣の価値における変動による、または貨幣が購買する貨物の価値における変動による、種々なる結果。
(二二)既に述べた如くに、他の物の価値の相対的変化の原因をより明かに指摘せんがために、私は、貨幣は価値において不変であると考える場合があろうけれども、財貨の価格が、私の既に言及した原因、すなわちそれを生産するに必要な労働の分量の異るによって変動することに伴う結果と、それが貨幣そのものの価値の変動によって変動することに伴う結果との相違を、注意することは有用であろう。
 貨幣は、一つの可変的貨物であるから、貨幣労賃の騰貴はしばしば、貨幣価値の下落によって惹起されるであろう。この原因による労賃の騰貴は普あまねく、貨幣の貨物の価格の騰貴を伴うであろう、しかしかかる場合には、労働とすべての貨物とが相互の関係において変動しておらず、かつ変動が貨幣に限られていたことが、見出されるであろう。
 貨幣は、外国から取得される貨物であり、あらゆる文明諸国間の交換の一般的媒介物であり、更に商業と機械とのあらゆる進歩と共に、また増加しつつある人口に対して食物及び必要品を獲得することがますます困難となるごとに、これらの諸国の間に分配される割合が絶えず変ることからして、不断の変化を蒙るのである。交換価値及び価格を左右する諸原理を述べるに当り、吾々は貨物自身に属する変動と、それによって価値が測られまたは価格が表現される所の媒介物の変動によって齎される変動とを、注意して区別しなければならぬ。
(二三)貨幣の価値の変動による労賃の騰貴は、価格の上に一般的影響を生み出し、かつその理由によって、利潤の上には何らの真実の影響をも生み出さない。これに反し、労働者の報酬がより豊かになったとか、または労賃がそれに費される必要品の獲得が困難になったとかによる所の、労賃の騰貴は、若干の場合を除けば、価格を騰貴せしめるという結果は生じないが、利潤を低めるという大きな結果を有っている。一方の場合には、その国の年々の労働のより多くの部分が労働者の支持に向けられるのではないが、他方の場合にはより多くの部分がそれに向けられるのである。
 吾々が地代、利潤、及び労賃の騰落について判断するのは、ある特定農場の土地の全生産物の、地主、資本家、及び労働者の三階級への分割によるべきであって、明かに可変的な媒介物で測られた生産物の価値によるべきではない。
 吾々が正確に利潤、地代、及び労賃の率について判断し得るのは、各階級の獲得する生産物の絶対的分量によるのではなく、その生産物を獲得するに必要な労働量によるのである。機械や農業における諸改良によって全生産物は倍加されるかもしれないが、しかしもし労賃、地代、及び利潤もまた倍加されるならば、これらの三つは相互に以前と同一の比例を保ち、そのいずれも相対的に変化したとは言い得ないであろう。しかしもし労賃がこの増加の全部に与らず、それが倍加されずして単に半分増加されるに過ぎず、地代は倍加されずして単に四分の三増加されるに過ぎず、そして残りの増加が利潤に帰属したとすれば、思うに、地代と労賃とは下落したが利潤は騰貴したと言うのは私にとって正しいであろう。けだし、もし吾々が、それによってこの生産物の価値を測る所の不変的標準を有つとするならば、吾々は以前に与えられていたよりもより少い価値が労働者と地主との階級に帰属しより多くの価値が資本家階級に帰属したことを見出すべきであろうからである。例えば吾々は、貨物の絶対量は倍加したにもかかわらず、それが正確に以前と同一量の労働の生産物であることを見出すであろう。生産された百宛オンスの帽子、上衣、及び百クヲタアの穀物のうち、
労働者が以前に得た所は…………………………二五
地主は………………………………………………二五
そして資本家は……………………………………五〇
                 ――――――
                    一〇〇
であり、そしてもしこれらの貨物の分量が二倍となった後に、各一〇〇のうち、
労働者の得る所はわずかに………………………二二
地主は………………………………………………二二
そして資本家は……………………………………五六
                 ――――――
                    一〇〇
であるとすれば、その場合に私は、貨物が豊富な結果労働者及び地主に支払われる分量は二五対四四の比例で増加したであろうけれども、労賃及び地代は下落し利潤は騰貴したと言うべきである。労賃は、その真実価値によって、すなわちその生産に用いられる労働及び資本の分量によって、測られるべきであり、上衣か帽子か貨幣か穀物かの形におけるその名目価値によって測られるべきではない。私が今仮定した事情の下においては、貨物はその以前の価値の半分に下落したであろうし、そしてもし貨幣が変動しなかったならば、その以前の価格の半分にも下落したであろう。しからばもし、価値において変化しなかったこの媒介物で労働者の労賃が下落したことが見出されるならば、彼れの以前の労賃よりもより多くの廉価な貨物を与えるであろうからといって、それはやはり真実の下落であろう。
 貨幣の価値の変動は、いかにそれが大であろうとも、利潤の率には何らの異動も生じない、けだし製造業者の財が一、〇〇〇磅ポンド磅ポンドから二、〇〇〇磅ポンドに、すなわち一〇〇%騰貴すると仮定しても、もし彼れの資本、――貨幣の変動は生産物の価値に及ぼすと同じだけの影響をそれに及ぼすが、――すなわち彼れの機械、建物、及び在庫品もまた一〇〇%騰貴するならば彼れの利潤率は同一であり、彼はその国の労働の生産物の同一の分量を支配し得べく、それ以上は支配し得ないであろう。
 もし一定の価値の資本をもって、彼が、労働の節約によって、生産物の分量を倍加し得、そしてそれがその以前の価格の半分に下落しても、それは、それを生産した資本に対し以前と同一の比例を保ち、従って利潤は依然同一率にあるであろう。
 もし、彼が同一の資本を用いて生産物の分量を倍加すると同時に、貨幣の価値が何らかの出来事によって半分に下落するならば、生産物は以前の二倍で売れるであろう。しかしその生産に用いられる資本もまた、その以前の貨幣価値の二倍となるであろう。従ってこの場合においてもまた、生産物の価値は、資本の価値に対し以前と同一の比例を保つであろう。そして生産物が倍加されたにもかかわらず、地代、労賃及び利潤はただ、この二倍の生産物がこれを分つ三階級の間に分割される比例が変動するにつれて、変動するに過ぎないであろう。
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    第二章 地代について

(二四)しかしながら、土地の占有とその結果たる地代の発生とが、生産に必要な労働量とは無関係に、貨物の相対価値に変動を惹起すか否か、の問題が残っている。問題のこの部分を理解せんがためには、吾々は、地代の性質、及びその騰落を左右する法則を、研究しなければならない。
 地代とは、土地の生産物の中、土壌の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して地主に支払われる所の部分である。
 しかしながら、それはしばしば資本の利子及び利潤と混同されている。そして、通俗の用語では、この言葉は、農業者によってその地主に年々支払われるものには、その何たるを問わず適用されている。もし、同一の面積を有ちかつ同一の自然的肥沃度を有つ二つの相隣れる農場のうち、一方は、農耕用建物について一切の利便を有ち、更にその上に適当に灌漑され、施肥され、そして都合よく籬まがきや柵や壁で区分されているが、しかるに他方は、これらの利便は何も有たないとすれば、一方の使用に対しては、他方の使用に対してよりも、より多くの報酬が当然支払われるであろう。しかも双方の場合にこの報酬は地代と呼ばれるであろう。しかし次のことは明かである、すなわち改良された農場に対して年々支払わるべき貨幣の一部分のみが、土壌の本来的なかつ不可壊的な力に対して与えられたものであり、その他の部分は、地質の改良のためにまた生産物を保全し貯蔵するに必要な建物の建造のために用いられた資本の使用に対して支払われたものであろう。アダム・スミスは時に私がそれに限定せんと欲する厳格な意味における地代について論じているが、しかしこの言葉が通常使用されている通俗の意味におけるそれを論ずることがより多い。彼は吾々に、ヨオロッパの南方諸国における木材に対する需要とその結果たる高き価格が、以前には地代を生じ得なかったノルウェイにおける森林に対して支払わるべき地代を齎した、と語っている。しかしながら、彼がかくの如く地代と呼ぶ所のものを支払った人は、その時地上に生長しているこの価値多い貨物を考慮してそれを支払ったのであり、そして彼は木材の売却によって、現実に利潤と共にそれを囘収したことは、明白ではないか? もし実際木材が伐り去られた後に、未来の需要を考えて木材またはその他の生産物を栽培する目的をもって、土地の使用に対してある報償が地主に支払われるならば、かかる報償は、土地の生産力に対して支払われるのであるから、正当に地代と呼ばれ得よう。しかし、アダム・スミスによって述べられている場合においては、報償は木材を伐り去りかつ売却する自由に対して支払われたのであって、それを栽培するの自由に対して支払われたのではない。彼は炭鉱の地代及び採石場の地代についても論じているが、これに対しても同一の議論が当てはまる、――すなわち鉱山または採石場に対し与えられる報償は、それから採掘され得る石炭または石材の価値に対して支払われるのであって、土地の本来的なかつ不可壊的な力とは何らの関係もない。これは、地代及び利潤に関する研究において極めて重要な区別である。けだし地代の増進を左右する所の法則は、利潤の増進を左右する法則とは大いに異っており、同一の方向に作用することは稀であることが、見出されるからである。あらゆる進歩せる国においては、地主に年々支払われるものは、地代及び利潤という両性質を兼ね有しているから、時には対立する原因の結果によって静止しており、また他の時には、これらの原因の一方または他方が優勢を占めるに従って増進または減退する。かくて本書の以下において、私が土地の地代を論ずる時は常に、土地の本来的なかつ不可壊的な力の使用に対して土地の所有者に支払われる報償について論じているものと、了解されんことを希望する。
(二五)そこには豊饒にして肥沃な土地が豊富にあり、現実の人口を支えるためにはその極めて小部分が耕作される必要があるに過ぎぬか、または実にそれがその人口の自由にし得る資本で耕作され得るという所の、一国の最初の植民の際には、地代は無いであろう。けだし未だ占有されておらず、従って、それを耕さんと欲する何人もこれを自由に処分し得る所の、土地が豊富な量にある時には、土地の使用に対して何人も支払をしないであろうからである。
 供給及び需要の普通の原理によって、空気や水の使用に対し、または無限に存在するある他の自然の賜物に対し、何物も支払われない訳を説明したと同一の理由で、かかる土地に対しては地代は支払われ得ないであろう。一定量の原料と、気圧や蒸気の伸縮力の助けによって、機関は仕事をし、そして極めて大きな程度に人間の労働を節約するであろう。しかしこれらの自然的補助物の使用に対してはいかなる料金も課せられない、それはけだしそれらが無尽蔵でありかつ万人の自由に為し得る所であるからである。同様に、醸造家や蒸酒家や染物屋は、彼らの貨物の生産のために、空気や水を不断に使用している。しかしその供給が無限であるから、それらのものは何らの価格も有たない(註)。もしすべての土地が同一の性質を有つならば、もしその量が無限であり、地質が一様であるならば、それが特殊な位置の利便を有たない限り、その使用に対しては、何らの料金も課せられ得ないであろう。しからば、地代がその使用に対し常に支払われるのは、ただ、土地の量が無限でなくそして地質が一様でないからであり、そして人口の増加につれて劣等の質または利便のより少い土地が耕作されるようになるからに他ならない。社会の進歩につれて、第二等の肥沃度の土地が耕作されるに至る時は、地代は直ちに第一等地に発生し、そしてその地代の額は、これら二つの土地部分の質の差違に依存するであろう。
(註)『土地は、吾々の既に見た如く、生産力を有つ唯一の自然的因子ではない。しかしそれは一群の人が他人を排して我が物とすることが出来、その結果として、彼らがその利益を占有することが出来る、唯一のまたはほとんど唯一の、自然的因子である。川や海の水もまた、吾々の機械を運転せしめ、吾々の船舶を浮べ、吾々の魚を養う力によって、生産力を有っている。吾々の風車を廻転させる風やまた太陽の熱でさえ、吾々のために働くものである。しかし幸にして、何人も「風と太陽とは私の物であり、従ってそれらが与える仕事に対して支払を得なければならない、」と言い得る者は未だなかった。』――ジー・セイ著、経済学、第二巻、一二四頁。 第三等地が耕作されるに至る時には、地代は直ちに第二等地に発生し、そしてそれは以前の如くにそれらの生産力によって左右される。同時に第一等地の地代は騰貴するであろう、けだしそれは常に、一定量の資本及び労働をもって両者が産出する生産物の差違だけ、第二等地の地代よりもより多くなければならぬからである。人口が増加するごとに、――これは一国をして、その食物の供給を増加し得しめるためにより劣等の土地に頼らざるを得ざらしめるであろうが、――地代はすべてのより肥沃な土地において騰貴するであろう。
 かくて、土地――第一等地、第二等地、第三等地――が、等しい資本及び労働を用いて、小麦一〇〇、九〇、及び八〇クヲタアの純生産物を生産すると仮定せよ。人口に比較して肥沃な土地が豊富にあり、従って、第一等地の耕作を必要とするのみで足る所の、新しい国においては、総純生産物は耕作者に帰属し、そしてそれは彼が前払した資本の利潤たるものであろう。人口が、第二等地――それからは、労働者を支持した後に九〇クヲタアが獲得され得るに過ぎぬ、――の耕作を必要ならしめるほどに大いに増加するや否や、地代は第一等地に発生するであろう。けだしそうならなければ農業資本に対し二つの利潤率がなければならぬことになるか、あるいはある他の目的のために十クヲタアがまたは十クヲタアの価値が、第一等地の生産物から引去られなければならぬことになるからである。第一等地を、土地所有者が耕作しようとまたはある他の人が耕作しようと、この十クヲタアは等しく地代を形造るであろう。けだし第二等地の耕作者は地代として十クヲタアを支払って第一等地を耕作しようと、または何ら地代を支払わず引続き第二等地を耕作しようと、その資本をもって同一の結果を得るであろうからである。同様にして第三等地が耕作されるに至る時には第二等地の地代は十クヲタアで、または十クヲタアの価値で、なければならないが、しかるに第一等地の地代は二十クヲタアに騰貴するであろう、ということが証明され得よう。けだし第三等地のの耕作者は、第一等地の地代として二十クヲタアを支払おうと、第二等地の地代として十クヲタアを支払おうと、または全く地代を支払わずに第三等地を耕作しようと、同一の利潤を得るであろうからである。
(二六)第二等地、第三等地、第四等地、または第五等地、または更に劣等な土地が耕作されるに先だって、資本が既に耕作されている土地の上により生産的に用いられ得るということは、しばしば、そして実に通常、起ることである。第一等地に用いられる最初の資本を倍加することにより、生産物は倍加されず、すなわち一〇〇クヲタアだけは増加されないであろうが、それは八十五クヲタアだけ増加され得、そしてこの量は同一の資本を第三等地に用いて獲得され得る量を超過することが、おそらく見出されるであろう。
 かかる場合には資本はむしろ旧地に用いられ、そして等しく地代を作り出すであろう。けだし地代は常に、等量の二つの資本及び労働の使用によって得られた生産物の差額であるからである。もし一、〇〇〇磅ポンドの資本をもって一借地人が一〇〇クヲタアの小麦をその土地から得、そして第二の一、〇〇〇磅ポンドの資本の使用によって更に八十五クヲタアを、またはそれと等しい価値を、支払わしめる力を有つであろうが、それはけだし二つの利潤率は有り得ないからである。もしこの借地人が彼れの第二の一、〇〇〇磅ポンドに対する報酬における十五クヲタアの減少に満足するとするならば、それはより有利な用途がそれに対し見出され得ないからである。通常の利潤率はその比例にあるのであり、そして元の借地人が、この利潤率を超過するすべてを、彼がそれからそのものを得た所の土地の所有者に与えることを拒むとしても、ある他の者がこれを喜んで与えることが、見出されるであろう。
 この場合にも他の場合にも、最後に用いられたる資本は何らの地代も支払わない。第一の一、〇〇〇磅ポンドのより大なる生産力に対しては、十五クヲタアが地代として支払われ、第二の一、〇〇〇磅ポンドの使用に対してはいかなる地代も全く支払われない。もし第三の一、〇〇〇磅ポンドが同一の土地に用いられ、七十五クヲタアの報酬を齎すならば、地代は第二の一、〇〇〇磅ポンドに対して支払われ、そしてそれはこれら両者の生産物の差違に、すなわち十クヲタアに等しいであろう。そして同時に、第一の一、〇〇〇磅ポンドに対する地代は十五クヲタアから二十五クヲタアに騰貴するであろう。しかるに最後の一、〇〇〇磅ポンドはいかなる地代も全く支払わないであろう。
 しからば、もし良い土地が、増加しつつある人口に対する食物の生産が必要とするよりも遥かにより豊富な量において存在するならば、またはもし資本が報酬の減少を齎すことなくしてして旧地に無限に用いられ得るならば、地代の騰貴はあり得ないであろう。けだし、地代はあまねく、比例的な報酬の減少を伴う附加的労働量の使用から発生するものであるからである。
(二七)最も肥沃にしてかつ最も位置の便利の良い土地が、第一に耕作されるであろう。そしてその生産物の交換価値は、あらゆる他の貨物の交換価値と同様に、それを生産し、それを市場に齎すに必要な、最初から最後までに種々なる形をとる所の、労働の全量によって、調整されるであろう。劣等の質の土地が耕作されるに至る時には、粗生生産物の交換価値は、それを生産するためにより多くの労働が必要であるために、騰貴するであろう。
 すべての貨物の交換価値は、それが製造品であろうと、または鉱山の生産物であろうと、または土地の生産物であろうとに論なく、常に、極めて有利な、かつ生産の特殊便益を有つ者が独占的に享受している所の事情の下において、その生産に足りるであろう所の、比較的少量の、労働によって左右されるのではなく、かかる便益を有たず、引続き最も不利な事情――ここに最も不利な事情とは、必要とされる生産物量を供給するためにその下でなお生産を行うことの必要な、その最も不利な事情を意味する――の下においてそれを生産する者によって、その生産に対し必然的に投下される所の比較的多量の労働によって左右されるのである。
 かくて、貧民が慈善家の基金で仕事に従事させられている慈善的施設においても、かかる仕事の生産物たる貨物の一般的価格は、これらの労働者に与えられた特殊便益によっては支配されずに、あらゆる他の製造業者が遭遇しなければならぬ一般的の通常のかつ自然的の困難によって支配されるであろう。もしこれらのめぐまれた労働者によってなされる供給が社会のすべての欲求する所と等しいならば、これらの便益を一つも享有しない製造業者は実際、全然市場から駆逐されるであろう。しかしもし彼が事業を継続するとするならば、それは、彼がそれから資本に対する通常のかつ一般的の利潤率を取得する、という条件の下においてのみであろう。そしてこのことは、彼れの貨物がその生産に投ぜられた労働量に比例する価格で売られる時にのみ、起り得ることであろう(註)。
(註)セイ氏は次の章句において、終局的に価格を左右する所のものは生産費であることを、忘れていないであろうか? 『土地に用いられる労働の生産物はこういう特性を有っている、すなわち、それはより稀少になったからとて、より高価にはならない、けだし人口は常に食物が減少すると同時に減少するからである。しかのみならず、穀物は、完全に耕作されている国よりも、未耕地の多い地方において、より高価であるとは、されていない。英国及びフランスは、現在よりも中世の方がより不完全に耕作されていた。両国は遥かにより少い粗生生産物を生産していた。それにもかかわらず、吾々が他の諸物の価値との比較によって判断し得るすべてから推せば、穀物はより高い価格では売られていなかった。生産物がより少なかったとしても、人口もまたそうであった。需要の弱小が供給の微弱を償っていた。』第二巻、三三八頁(編者註一)。セイ氏は、貨物の価格は労働の価格によって左右されるという意見に感銘し、そして正当に、すべての種類の慈善的施設は、人口をしからざればそうあるべき以上に増加せしめ、従って、労賃を低下せしめる所の、傾向を有つと推測しつつ、次の如く言う、『私は、英国から来る財貨の低廉なのは、一部分は、その国に存在する多くの慈善的施設に起因するものではないかと考える。』第二巻、二七七頁(編者註二)、これは、労賃が価格を左右すると主張する者にあっては、論理一貫せる意見である。(編者註一)正確には、三三七頁、註二。(編者註二)同頁、註一。 なるほど、最良の土地では、以前と同一の労働をもってなお以前と同一の生産物が得られるであろうが、しかしその価値は、肥沃度のより劣る土地に新しい労働及び資本を用いた者の得る報酬が減少した結果、高められるであろう。しからば、肥沃度が劣等地以上に有つ利益は決して失われず、単に耕作者または消費者から地主に移転されるに過ぎぬにもかかわらず、しかも劣等地にはより多くの労働が必要であり、そして吾々が粗生生産物の附加的供給を得ることが出来るのはただかかる土地からのみであるために、その生産物の比較価値は引続き永久的にその以前の水準以上にあり、かつそれをして、その生産にかかる附加的労働量を必要としない所の帽子、毛織布、靴、等々の、より多くと、交換せしめるであろう。
 しからば粗生生産物が比較価値において騰貴する理由は、より多くの労働が、獲得される最後の部分の生産に用いられるからであって、地代が地主に支払われるからではない。穀物の価値は、何ら地代を支払わない所の、その等級の土地の上で、またはその部分の資本をもって、その生産に投ぜられた労働量によって左右されるのである。地代が支払われるから穀物が高いのではなくて、穀物が高いから地代が支払われるのである。従って、地主が彼らの地代の全部を抛棄しても穀価には何らの下落も起らないであろうと云われているのは、正当である。かかる方策は単にある農業者をして紳士の様な生活をすることを得しめるに過ぎず、最も生産力の少い耕作地で粗生生産物を生産するに必要な労働量を減少せしめないであろう。
(二八)地代の形で土地が剰余を産出するという故をもってする、有用なる生産物のあらゆる他の源泉以上に、土地が有つ所の、得点ほど、普通に耳にするものはない。しかも土地が最も豊富であり、最も生産的であり、かつ最も肥沃である時には、それは何らの地代も生み出さない。そしてより肥沃な部分の本来的生産物の一部分が地代として分離されるのは、その力が衰え、そして労働に対する報酬としてより少ししか産出しなくなった時においてのみである。製造業者がそれによって援助される自然力に比較すれば欠点と云わるべき所の、土地のこの性質が、その特殊なる優越をなすものとして指摘され来っているのは、奇妙なことである。もし空気や水や蒸気の弾力性や気圧が種々なる品質を有っているならば、もしそれらは占有され得、かつ各品質は単に相当の分量に存在するに過ぎないならば、それらは、土地と同じく、逐次劣等の品質のものが使用されるに至るにつれて、賃料を与えるであろう。より劣れる品質のものが用いられるごとに、その製造にそれらが用いられた貨物の価値は、等量の労働の生産力がより小になるから、騰貴するであろう。人間は額に汗してより多くをなし、自然はより少ししかなさないであろう。そして土地は、その力が限られているという点について他に優越しはしなくなるであろう。
 もし土地が地代という形で与える所の剰余生産物が一長所であるならば、年々、新しく造られた機械が旧いものよりも能率がより小になることが望ましい訳である。けだし、それは疑いもなく、啻にその機械のみならず更に王国内のあらゆる他の機械によって製造される財貨に、より大なる交換価値を与え、そして最も生産的な機械を所有するすべての者に賃料レントが支払われるであろうからである(註)。
(註)アダム・スミスは曰く、『農業においてもまた自然は人間と共に労働する。そしてその労働は何らの出費を要しないけれども、しかしその生産物は最も高価な労働者の生産物と同様にその価値を有つものである。』自然の労働が支払を受けるのはそれが多くをなすからではなく、それが少ししかしないからである。自然がその賜物を惜しむに比例して、それはその仕事に対してより大なる価格を要求する。それが寛大に多くを与える場合には、それは常に無償で働く。『農業において使用される労働家畜は、啻に、製造業における労働者の如く、彼ら自身の消費する所に、または彼らを用いる資本に、等しい価値を、その所有者の利潤と共に、再生産するのみならず、更に遥かにより大なる価値を再生産する。農業者の資本とそのすべての利潤以上に、彼らは規則正しく地主の地代の再生産を齎す。この地代は、その使用を地主が農業者に貸与する所の自然の力の生産物と考えられ得よう。その大小は、かかる力の想定された大いさにより、または土地の想定された自然のまたは改良された肥沃度による。人間のなせる所と看做され得るすべての物を控除または補償した後に残るものが、自然のなせる所である。それは総生産物の四分の一以下であることは稀でありしばしばその三分の一以上である。製造業において用いられる等量の生産的労働は、決してかくも大なる再生産を齎すことは出来ない。製造業においては自然は何事もなさず、人間がすべてをなす。そして再生産は常に、それを齎す因子の力に比例しなければならない。従って農業において用いられる資本は啻に製造業において用いられるいかなる等量の資本よりもより大なる生産的労働の分量を動かすのみならず、更にまたそれが用いる生産的労働の分量に比例して、それはその国の土地及び労働の年々の生産物に、その住民の真実の富及び収入に、遥かにより大なる価値を附加する。資本が使用され得るすべての方法の中で、それは社会にとり遥かに最も有利なものである。』第二編、第五頁。(訳者註――キャナン版、第一巻、三四三――三四四頁、傍点はリカアドウの施せるもの。) 自然は製造業においては人間に対して何事もなさないであろうか? 吾々の機械を動かし、かつ航海を助ける所の風や水の力は、何物でもないか? 吾々をして最も巨大な機関を動かし得せしめる気圧や蒸気の弾力性――それは自然の賜物ではないか? 金属を軟かにしまた熔解する際の可燃焼物の有つ諸結果や、染色及び醗酵の過程における大気の分解力の有つ諸結果については言わぬとしても。製造業において自然が人間にその補助を与えず、かつまたそれを寛大に無償で与えないという製造業は、これを挙げることが出来ない。
 私が右にアダム・スミスから写し取った章句を論評するに当って、ビウキャナン氏は次の如く云う、『私は、第四巻に含まれている生産的労働及び不生産的労働に関する諸観察において、農業は他のいかなる種類の産業よりも国民的貯財に対し附加する所より大なるものではないことを、証明せんと努力した。地代の再生産をもって社会に対する極めて大なる利益であると論ずるに当って、スミス博士は、地代は高き価格の結果であり、かつ地主がかくの如くして利得する所は彼が社会全体を犠牲にして利得しているのであることを、考えていない。地代の再生産によって社会が絶対的に利得する所は何もない。一階級が他の階級を犠牲にして利得しているに過ぎない。自然は耕作過程において人間の勤労と協力する故に、農業は生産物を、従って地代を、生むという提議は、単なる空想である。地代が得られるのは、生産物からではなくて、その生産物が売られる価格からである。そしてこの価格が得られるのは、自然が生産において援助するからではなく、それが消費を生産に適合せしめる所の価格であるからである。』(編者註――ビウキャナン版『諸国民の富』第二巻、五五頁。)

(二九)地代の騰貴は常に、増加しつつある国富の結果であり、その増加せる人口に対する食物供給の困難の結果である。それは富の徴候ではあるが、しかし決してその原因ではない。けだし富はしばしば、地代が静止的であるかまたは低下しつつある間にも、最も速かに増加するからである。地代は、自由に処分し得る土地の生産力が減退する際に、最も速かに増加する。富は、自由に処分し得る土地が最も肥沃であり、輸入が制限されること最も少く、かつ農業上の改良によって労働量の比較的増加なくして生産物が増加され得、従って地代の増進が遅々たる所の、国において、最も速かに増加するのである。
 もし穀物の高き価格が、地代の結果であって原因でないとするならば、価格は地代の高低に従って比例的に影響され、そして地代は価格の一構成部分となるであろう。しかし、最大量の労働をもって生産された穀物が穀物の価格の支配者であり、そして地代は、毫もその価格の一構成部分として入り込まず、また入り込み得ないのである(註)。従ってアダム・スミスが、貨物の交換価値を左右した本来的規則、すなわち、それによって貨物が生産された比較的労働量が、土地の占有と地代の支払とによって、いやしくも変更され得る、と想像したのは、正確であり得ない。粗生原料品は大抵の貨物の構成に参加するが、しかし、その粗生原料品の価値は、穀物と同様に、最後に土地に使用されかつ地代を支払わない所の資本部分の生産性によって、左右され、従って地代は貨物の価格の一構成部分ではないのである。
(註)この原理を明瞭に理解することは、私の信ずる所によれば、経済学にとって最も重要なことである。(三〇)吾々は今まで、その土地が種々なる生産力を有っている国において、富及び人口の自然的増進が地代に及ぼす結果を、考察し来った。そして吾々は、より少い生産上の報酬をもって土地上に用いられることが必要となる所の、附加的資本部分が投ぜられるごとに、地代は騰貴するであろうということを見た。同一の原理よりして、土地に同一額の資本を用いることを不必要ならしめるべき、従って最後に用いられる部分をより生産的ならしめるべき、社会における何らかの事情は、地代を低めるであろう、ということになる。労働の支持に向けられた基金を大いに減少すべき一国の資本の大減少は、当然この結果を有つであろう。人口は、それを雇うべき基金によって自らを調整し、従って常に資本の増減と共に増減する。従って資本のあらゆる減少は必然的に、穀物に対する有効需要の減少、価格の下落、及び耕作の減少を伴う。資本の蓄積が地代を引上げるのとは反対の順序において、その減少は地代を低めるであろう。より生産的ならざる質の土地は順次に抛棄され、生産物の交換価値は下落し、そしてより優良な質の土地が最後に耕作される土地となり、かつ地代を支払わない土地となるであろう。
(三一)しかしながら、一国の富及び人口が増加される時にも、もしその増加が、より痩せた土地を耕作するの必要を減少するか、またはより肥沃な部分の耕作に同一量の資本を投下する必要を減少するという、前と同一の結果を齎す如き、かかる顕著な農業上の進歩を伴うならば、同一の結果が生み出されるであろう。
 もし一定の人口を支持するに一百万クヲタアの穀物が必要であり、そしてそれは第一等地、第二等地、第三等地において得られるとし、またもし後に一改良が発見され、それによってそれが、第三等地を用いずに第一等地及び第二等地で得られ得るに至ったとすれば、その直接の結果が地代の下落でなければならぬことは明かである。けだしこの際には、第三等地ではなく第二等地が、何らの地代をも支払わずに耕作されるであろうし、そして第一等地の地代は、第三等地と第一等地との生産物の差違ではなくして、単に第二等地と第一等地との差違に過ぎないであろうからである。人口が同一でありそしてそれが増加しなければ、より以上の穀物量に対する需要はあり得ない。第三等地に用いられていた資本及び労働は、社会にとり好ましい他の貨物の生産に向けられるであろうし、そして他の貨物を造る粗生原料品が、資本を地上により不利に用いるにあらざれば獲得され得ない場合の他は、――この場合には、第三等地が再び耕作されなければならぬ――地代を引上げるという結果を有ち得ないのである。
 農業上の改良の結果、またはむしろその生産により少い労働が投ぜられるに至った結果たる、粗生生産物の相対価格における下落は、当然に蓄積の増加に導くべきことは、疑いもなく真実である、けだし資本の利潤は大いに増加されるであろうから。この蓄積は、労働に対する需要の増加に、労賃の騰貴に、人口の増加に、粗生生産物に対する需要の増大に、そして耕作の拡張に、導くであろう。しかしながら、地代が以前の高さになるのは、人口の増加の後のことであり、換言すれば第三等地が耕作されるに至って後のことである。それまでには、地代の積極的減少を伴う所の長い時期が経過していることであろう。
 しかし、農業上の改良には二種ある、すなわち、土地の生産力を増加するものと、吾々をして機械の改良によってより少い労働でその生産物を獲得し得しめるものとである。これら両者は、共に粗生生産物の価格の下落に導く、これら両者は共に地代に影響を及ぼさない。もしそれらが粗生生産物の価格の下落を惹起さないならばそれは改良ではないであろう、けだし、以前に一貨物を生産するに要した労働量を減少することが、改良の本質であり、そしてこの減少はその価格または相対価値の下落なくしては起り得ないからである。
 土地の生産力を増加した改良とは、より巧妙な輪作、あるいは肥料のより良き選択というが如きものである。これらの改良は、絶対的に吾々をして、より少量の土地から同一の生産物を獲得し得せしめる。もし蕪菁かぶらの栽培法の導入によって、私が、私の穀物の生産と並んで私の羊を飼い得るならば、羊が以前に飼われていた土地は不要に帰し、そして同一量の粗生生産物がより少量の土地を用いて得られることになる。もし私が、それによって私が一片の土地をして二〇%だけより多くの穀物を生産せしめ得るようにさせる所の、肥料を発見するならば、私は資本の少くとも一部分を、私の農場の最も不生産的な部分から引去り得よう。しかし私が前に観察したるが如くに、この際地代を低減するために土地の耕作を止める必要はない。この結果を齎すためには、同一の土地に、その齎す所の異る資本の諸部分が、逐次投ぜられており、そしてその齎す所の最小なる部分が引去られるだけで、十分である。もし蕪菁耕作の導入により、またはより有効な肥料の使用によって、私が、より少量の資本をもって、また逐次投ぜられる資本の諸部分の生産力の間の差違を紊みだすことなくして、同一の生産物を獲得し得るならば、私は地代を低めるであろう。けだし別のより生産的な部分が、その点からあらゆる他の部分が計算されるであろう所の、標準たるべき部分となるであろうからである。もし例えば、逐次投下される資本が、一〇〇、九〇、八〇、七〇を生産するならば、私がこれらの四部分を用いる間は、私の地代は六〇であり、すなわち、
七〇と一〇〇との差===三〇
七〇と九〇との差 ===二〇
七〇と八〇との差 ===一〇
         ―――――
            六〇
}に等しく、[#「}に等しく、」は前の5行にわたる]
 他方生産物は三四〇、すなわち、
 一〇〇
  九〇
  八〇
  七〇
――――
 三四〇
}であろう、[#「}であろう、」は前の6行にわたる」]
そして私がこれらの部分を用いている間は、その各部分の生産物が等しい増加をなしても、地代は依然として同一であろう。もし生産物が、一〇〇、九〇、八〇、七〇ではなく、一二五、一一五、一〇五、九五に増加されたとしても、地代は依然として六〇であり、すなわち、
九五と一二五との差===三〇
九五と一一五との差===二〇
九五と一〇五との差===一〇
         ―――――
            六〇
}に等しく、[#「}に等しく、」は前の5行にわたる]
 他方生産物は四四〇に、すなわち、
 一二五
 一一五
 一〇五
  九五
――――
 四四〇
}に増加されるであろう。[#「}に増加されるであろう。」は前の6行にわたる]
しかし、生産物のかかる増加があっても、需要の増加がなければ(註)、これだけの資本を土地に用いる動機は存在し得ないであろう。一部分は引去られ、従って資本の最後の部分は、九五ではなく一〇五を生産し、そして地代は三〇に、すなわち、
一〇五と一二五との差===二〇
一〇五と一一五との差===一〇
          ―――――
             三〇
}に下落するであろう、[#「}に下落するであろう」は前の4行にわたる]
他方生産物はなお人口の欲求する所を満たすに足るであろう、けだし需要は単に三四〇クヲタアに過ぎないのに、それは三四五クヲタア、すなわち、
 一二五
 一一五
 一〇五
――――
 三四五
}であろうから。[#「}であろうから。」は前の5行にわたる]
しかし、土地の貨幣地代は低めるであろうが、穀物地代は低めることなくして、生産物の相対価値を低める所の改良がある。かかる改良は土地の生産力を増加しないが、しかしそれは吾々をしてより少ない労働をもってその生産物を獲得し得せしめるものである。それは土地自身の耕作に向けられるよりはむしろ、土地に充用される資本の構成に向けられる。鍬や打穀機の如き農業器具の改良、耕作に用いられる馬の使用上の節約、及び獣医術の知識の進歩は、かかる性質のものである。より少い資本――それはより少い労働と同じことであるが――が土地に用いられるであろう。しかし同一の生産物を得るためには、より少い土地が耕作されるのでは足りない。しかしながら、この種の改良が穀物地代に影響を及ぼすか否かは、資本の種々なる部分の使用によって得られる生産物の差違が、増加したか、停止的であるか、または減少したかの問題に、依存しなければならない。もし同一の結果を各々与える所の五〇、六〇、七〇、八〇という資本の四部分が土地に使用され、そしてかかる資本の構成におけるある改良が私をして、その各々から、五を引去ることを得しめ、それがためにそれらが四五、五五、六五、及び七五となるならば、穀物地代には何らの変動も起らないであろう。しかしもしその改良が私をして、最も不生産的に使用されている資本部分の全部の節約をなし得せしめるというが如きものであるならば、穀物地代は直ちに下落するであろうが、それはけだし最も生産的な資本と最も不生産的な資本との差違が減少せしめられるからであり、そして地代を形造るものはこの差違であるからである。
(註)私は、農業におけるあらゆる種類の改良が地主に対して有する重要性を過少評価するものと、理解されざらんことを希望する、――その直接の結果は地代を低めることである。しかしそれは人口に対して大なる刺戟を与え、かつそれと同時に吾々をしてより少い労働でより貧弱な土地を耕作し得せしめるから、それは終局的には地主に対し大いに有利なものである。しかしながらそれまでには、この改良が彼に対し積極的に不利な時期が経過しなければならない。 これ以上例を列挙しなくとも、私は、同一のまたは新しい土地に、逐次用いられる資本部分から得られる生産物の不平等を減少せしめるものは何でも、地代を低下せしめる傾向があり、そしてこの不平等を増加せしめるものは何でも、必然的に反対の結果を生み、そして地代を引上げる傾向があることを、証明するに足るだけのことを、述べたと考える。
 地主の地代について論ずるに当り、吾々はむしろそれを、ある一定の農場に投ぜられた一定の資本によって得られた生産物の一部分と看做し、その交換価値には少しも触れなかった。しかし生産の困難という同一の原因が、粗生生産物の交換価値を引上げ、かつまた地主に地代として支払われる粗生生産物のその部分をも引上げるのであるから、地主は生産の困難によって二重に利益を受けることは明かである。第一に、彼はより大なる分け前を得、そして第二にそれによって彼が支払を受ける貨物の価値が騰貴するのである(註)。
(註)このことを明瞭ならしめ、かつ穀物地代と貨幣地代とが変動する程度を示すために、次の如く仮定しよう。すなわち十名の人間の労働が一定の地質の土地において一八〇クヲタアの小麦を得、そしてその価値は一クヲタアにつき四磅ポンドすなわち七二〇磅ポンドであり、そして十名の附加された人間の労働は同一のまたは異る土地において、単に一七〇クヲタアしか余計に生産するに過ぎないとしよう。小麦は四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンスに、騰貴するであろう、けだし、170:180::£4:£4 4s. 8d. であるから、または一七〇クヲタアの生産において、一方の場合には十名の人間の労働が必要であり、他方の場合には単に九・四四名の労働が必要であるに過ぎぬのであるから、その騰貴は九・四四から一〇に、すなわち四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンスになるであろう。もし十名の人間が更に用いられ、そして収穫が一六〇であるならば、価格は四磅ポンド一〇シリング〇ペンスに騰貴し、
一五〇であるならば、価格は四磅ポンド一六シリング〇ペンス、
一四〇であるならば、価格は五磅ポンド二シリング〇ペンスに騰貴するであろう。
 さてもし、穀物が一クヲタアにつき四磅ポンドである時に、一八〇クヲタアを産出する土地に対し何らの地代も支払われないならば、単に一七〇が得られるに過ぎない時には、一〇クヲタアの価値が支払われるであろうが、それは四磅ポンド四シリング八ペンスならば四二磅ポンド七シリング六ペンスであろう。
一六〇が生産される時には、二〇クヲタア、すなわち四磅ポンド一〇シリングならば九〇磅ポンド。
一五〇が生産される時には、三〇クヲタア、すなわち四磅ポンド一六シリングならば一四四磅ポンド。
一四〇が生産される時には、四〇クヲタア、すなわち五磅ポンド二シリング一〇ペンスならば二〇五磅ポンド一三シリング四ペンス。
 穀物地代は{一〇〇/二〇〇/三〇〇/四〇〇}の比例において、かつ貨幣地代は{一〇〇/二一二/三四〇/四八五}の比例において増加するであろう。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
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    第三章 鉱山の地代について

(三二)金属は、他の物と同様に、労働によって得られる。もちろん、自然がそれを生産するのではあるが、しかしそれを地球の内部から採掘し、そして吾々の使用に備えるのは、人間の労働である。
 土地と同じく鉱山も一般にその所有者に地代を支払う、そして土地の地代と同じく、この地代は、その生産物の高き価格の結果であって決してその原因ではない。
 もし、何人も占有し得る所の、等しく肥沃な鉱山が豊富にあるとすれば、それは地代を生じ得ないであろう。その生産物の価値は、鉱山から金属を採掘しそれを市場に齎すに必要な労働の分量に依存するであろう。
 しかし等しい分量の労働をもって極めて異れる産物を与える所の、種々なる等級の鉱山がある。採掘されている最劣等の鉱山から生産された金属も、少くとも、啻にそれを採掘しその生産物を市場に齎すことに従事する者によって消費される所のあらゆる衣服、食物、その他の必要品を取得するに足るばかりではなく、更にまたこの企業を経営するに必要な資本を前貸する人に、一般通常の利潤を与えるに足る所の、交換価値を有たなければならぬ。何ら地代を支払わない最劣等の鉱山からの資本への報酬が、他のより生産的なすべての鉱山の地代を左右するであろう。この鉱山は通常の資本の利潤を生むものと仮定されている。この鉱山以上に他の鉱山が生産する所のすべては必然的に地代として所有者に支払われるであろう。この原理は、吾々が土地について既に述べた所と正確に同一であるから、それを更に敷衍する必要はなかろう。
 粗生生産物及び製造貨物の価値を、左右すると同一の一般的規則が、金属にもまた適用され得るものであり、その価値は、利潤率にも労賃率にも、また鉱山に対して支払われる地代にも依存せず、金属を獲得し、それを市場に齎らすに必要な労働の全量によって定まるのであることを、注意すれば足るであろう。
 あらゆる他の貨物と同様に、金属の価値は変化を蒙る。採鉱に用いられる器具及び機械に、改良がなされ、これによって等しく労働が節約されるかもしれず、新しいより生産的な鉱山が発見され、そこでは同一の労働をもって、より多くの金属が得られるかもしれず、またはそれを市場に齎す利便が増すかもしれない。これらの場合のいずれにおいても、金属は価値において下落し、従って他のより少い分量と交換されるであろう。他方において鉱山が採掘されなければならぬ深度の増大や、溜水や、その他の出来事によって惹起される所の、金属獲得の困難の増大のために、他の物と比較してその価値は、著しく騰貴することもあろう。
 従って、いかに正直に一国の鋳貨がその本位に一致していようとも、金及び銀で造られた貨幣はなお価値における変動を蒙り、他の貨物と同様に、啻に偶然的な一時的な変動のみならず、更にまた永続的な自然的な変動をも蒙る、といわれているが、それは正当である。
 アメリカの発見と、そこに多くある豊富な鉱山の発見によって、貴金属の自然価格に対し、極めて大きな影響が生み出された。この影響は、多くの者によって、未だ終っていないと想像されている。しかしながらおそらく、アメリカ発見の結果生じた所の、金属の価値に対するあらゆる影響は、疾とうに終ってしまっているであろう。そしてもし近年その価値において下落が起ったとすれば、それは鉱山採掘法における諸改良に帰せらるべきものである。
 いかなる原因からそれが起ったにしろ、その影響は極めて緩慢でかつ徐々たるものであったために、金及び銀がすべての他の物の価値を評価する一般的媒介物であることには、ほとんど実際上の不便は感ぜられなかった。それは疑いもなく価値の可変的尺度ではあるが、おそらくこれよりも変動を蒙ることの少い貨物はないであろう。これらの金属が有つこの得点、及びその他の例えばその硬性、その展性、その可分性、その他多くの得点の故に、それは正当にも文明国の貨幣の標準として到る処で使用され来ったのである。
 もし等しい分量の労働が、相等しい分量の固定資本をもって、あらゆる時において、地代を支払わない鉱山から等しい分量の金を取得し得るならば、金は事の性質上吾々が有ち得る限りでのほとんど不変的な価値尺度であろう。分量は実際需要につれて増加するであろうがしかしその価値は不変であろう。そしてそれはあらゆる他の物の価値の変動を測定するに、優れて良く適するであろう。私は既に本書の前の部分において、金はこの不変性を有つものと仮定したが、次の章においても私はこの仮定を続けるであろう。従って価格の変動について論ずる際には、その変動は常に貨物にあるものであり、決してそれが評価される所の媒介物には無いものであると、看做されるであろう。
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    第四章 自然価格及び市場価格について

(三三)労働をもって貨物の価値の基礎となし、かつその生産に必要な労働の比較的分量をもって、相互の交換において与えらるべき財貨の各々の分量を決定する規則となすに際して、吾々は、貨物の実際価格、すなわち市場価格が、この、それらのものの第一次的かつ自然価格から、偶然的なかつ一時的な偏倚をすることを否定するものと、想像されてはならない。
 通常の事態においては、かなり久しく、人類の欲望及び願望が要求する正確にその程度に、豊富に、引続き供給される貨物はなく、従って偶然的なかつ一時的な価格の変動を蒙らないものはない。
 資本が、たまたま需要されている種々なる貨物の生産に対し、過不足なきちょうどその必要な分量において、正確に割当てられるのは、ただかかる変動の結果たるに過ぎない。価格の騰落と共に、利潤はその一般的水準以上に騰貴しまたはそれ以下に下落する、そして資本は、そこで変動が起った所の特定の職業に入り込むように刺戟されるか、またはそれから退去するように警告されるのである。
 あらゆる者がその資本をその好む所に自由に用い得る間は、彼は当然に最も有利な職業をそのために求めるであろう。彼は当然に、彼れの資本を移せば一五%の利潤を獲得し得るならば、一〇%の利潤をもって満足しないであろう。より有利な事業に向わんがためにより不利益なものを棄てんとする、あらゆる資本使用者の側のこの不断の願望は、すべてのものの利潤率を均等ならしめ、もしくは、一人が他人に優れて有つべき、または有つと思わるべき所の、得点に対し、当事者の評価の上で補償するが如き比例に、利潤率を固定する、強い傾向を有っている。この変化が行われる過程を辿ることはおそらく極めて困難であろう。それはおそらく製造業者がその職業を絶対的には変更しないがただその職業に彼が投じている資本の分量を減少するということによって、行われるであろう。すべての富める国においては、金持階級と呼ばれるものを構成しているある数の人がいる。これらの人はいかなる事業にも従事せず、手形の割引や、または社会のより勤勉な部分に対する貸金に用いられている所の、彼らの貨幣の利子で生活している。銀行業者もまた同一の目的物に大資本を用いている。かくの如く用いられた資本は多額の流動資本を形造り、そしてその比例には大小があるが、一国のあらゆる種々なる事業によって用いられている。おそらくいかに富んでいても、その事業を彼自身の資本だけでなし得る範囲内にのみ限る製造業者はないであろう、彼は常にこの流動資本のある部分を有し、それは彼れの貨物に対する需要の活溌かっぱつ性に応じ増減しつつある。絹布に対する需要が増加し、毛織布に対するそれが減少する時には、毛織布業者は、彼れの資本と共に絹織業には移らずに、彼れの労働者の若干を解雇し、銀行業者や金持からの貸金に対する需要を止める。他方絹布製造業者の場合は反対である。彼はより多くの労働者を使用せんと欲し、かくて借入に対する彼れの動機は増加する。彼はより多くを借入れ、かくて資本は、一製造業者がその常職業を止める必要なしに、一職業から他のそれに移転される。吾々が大都市の市場に注目し、そしていかに規則正しく、それが、趣味の変遷や人口数の変化から起るあらゆる事情の下において、国内のまたは外国の貨物の必要な分量の供給を受け、しかも余りに豊富な供給による滞貨や供給が需要に等しくないことから起る著しく高い価格という諸結果をしばしば生ずることのないのを観察する時には、吾々は、資本を事業に、そのまさに必要とする分量において割当てる所の原理が、一般に想像されているよりもより活溌に働いていることを、認めなければならないのである。
(三四)一資本家は、その資金に対して有利な用途を探し求めるに当り、一つの職業が他の職業以上に有つ所のすべての得点を、当然考慮に入れるであろう。従って彼は、一つの職業が他の職業以上に有つ所の、安固や清潔や容易やその他の実際のまたは想像上の得点を考慮して、その貨幣利潤の一部分を喜んで抛棄することもあろう。
 もし、かかる事情についての考慮によって、資本の利潤が調整され、その結果一つの事業においては利潤は二〇%、ある他の事業においては二五%、またある他の事業においては三〇%となるならば、これらはおそらく引続き永久的に、この相対的差異を、そしてこの差異のみを、維持するであろう。けだしもし何らかの原因がこれらの事業の一つにおける利潤を一〇%だけ引上げたとしても、しかもかかる利潤は一時的であってまもなく再びその通常の地位に復帰するか、または他の職業の利潤が同一の比例において引上げられるであろうからである。
 現在はこの記述の正当性に対する例外の一つであるように思われる。戦争の終結が、以前に存在したヨオロッパにおける職業の分割を大いに狂わしたために、あらゆる資本家は、なお未だ、現在必要になっている新しい分割において占むべき彼れの地位を発見していないのである。
 すべての貨物がその自然価格にあり、従ってすべての職業における資本の利潤が正確に同一の率にあり、または当事者が所有しあるいは抛棄するある真実のまたは想像上の得点に、彼らの評価において、等しい額だけ、異なるに過ぎない、と仮定しよう。今、流行の変化が、絹布に対する需要を増加し、そして毛織物に対するそれを減少した、と仮定せよ。それらの自然価格すなわちその生産に必要な労働量は引続き不変であろうが、しかし絹布の市場価格は騰貴し、毛織物のそれは下落するであろう。従って絹布製造業者の利潤は一般的のかつ調整された利潤以上に、他方毛織物製造業者のそれはそれ以下に、なるであろう。啻に利潤のみならず労働者の労賃もまた、これらの職業において、影響を蒙るであろう。しかしながら、絹布に対するこの需要増加は、毛織物製造から絹布製造へ資本と労働とが移転することによって、直ちに供給されるであろう。その時には絹布及び毛織物の市場価格は再びその市場価格に接近し、かくて通常の利潤がこれらの貨物の各々の製造業者によって取得されるであろう。
 かくして、貨物の市場価格が引続きある期間に亙ってその自然価格の遥か上または遥か下にあることを妨げるものは、あらゆる資本家がその資金をより不利な職業からより有利なそれに転じようとする願望である。貨物の生産に必要な労働に対する労賃と、用いられた資本をその本来的能率状態に置くために必要なすべての他の費用とを、支払った後に、残余の価値すなわち余剰があらゆる事業において使用された資本の価値に比例するように、貨物の可変的価値を調整するのは、この競争である。
『諸国民の富』の第七章(編者註一)において、この問題に関するすべてが最も巧みに取扱われている。資本の特定の用途において、偶発的原因によって、諸貨物の価格、並びに労働の労賃及び資本の利潤、の上に生み出されるが、貨物の一般的価格、一般的労賃、または一般的利潤には、――社会のあらゆる段階において平等に作用するから、――影響することのない、一時的諸結果を十分認めたのであるから、吾々は、これらの偶発的原因とは全然無関係な諸結果たる、自然価格、自然労賃及び自然利潤を左右する法則を取扱う間は、それを全然度外視するであろう(編者註二)。しからば貨物の交換価値すなわちある一貨物が有つ購買力について論ずるに当っては、私は常に、ある一時的なまたは偶発的な原因によって妨げられないならばそれが有するであろう所のその力を意味するのであり、そしてそれはその自然価格である。
(編者註一)第一巻。(編者註二)『あなたは常に特定の変化の直接のかつ一時的の諸結果を心に画えがいているが、しかるに私はこれらの直接のかつ一時的の諸結果を全然度外視し、そして私の全注意を、それから結果するであろう所の永久的な事物の状態に固着させている。おそらくあなたはこれらの一時的諸結果を余りに高く評価し過ぎているが、しかるに私は余りにそれらを過少評価せんとする気になっているのである。』――マルサスへのリカアドウの書簡、一八一七年一月二十四日。書簡集、一二七頁。[#改ページ]

    第五章 労賃について
(三五)労働は、売買され、かつ量において増減され得るすべての他の物と同じく、その自然価格とその市場価格とを有っている。労働の自然価格とは、労働者をして共に生存しかつその種族を増加も減少もせずに永続し得せしめるに必要な価格である。 労働者が、彼自身、及び労働者の数を維持するに必要であろう所の家族を、支持する力は、彼が労賃として受取る貨幣量には依存するものではなくて、その貨幣が購買するであろう所の、慣習により彼に不可欠となってなっている食物、必要品、及び便利品の量に依存するものである。従って労働の自然価格は、労働者及び彼れの家族の支持に必要とされる食物、必要品、及び便利品の価格に依存する。食物及び必要品の価格の騰貴と共に労働の自然価格は騰貴し、その価格の下落と共に、労働の自然価格は下落するであろう。 社会の進歩と共に、労働の自然価格は常に騰貴する傾向を有っているが、けだしそれによってその自然価格が左右される主たる貨物の一つが、その生産の困難の増大によって、より高くなる傾向を有つからである。しかしながら、農業における改良そこから食物が輸入される新市場の発見は、必要品の価格の騰貴への傾向を一時妨げ、そしてその自然価格を下落せしめることさえあるから、この同一の原因は労働の自然価格の上にそれに相応ずる結果を生み出すであろう。 粗生生産物及び労働を除くすべての貨物の自然価格は、富と人口との増進につれて、下落する傾向を有っている、けだし、一方においてそれは、それをもって造られる所の粗生原料の自然価格の騰貴によって、真実価格が騰貴しはするけれども、これは、機械の改良により、労働のより良き分割及び分配により、及び生産者の知識と技術と両者における熟練の増加によって、相殺されて余りあるからである。(三六)労働の市場価格とは、需要に対する供給の比例の自然的作用によって、労働に対して実際支払われる価格である。労働はそれが稀少な時に高く、そしてそれが豊富な時に低廉である。労働の市場価格がその自然価格からいかに離れようとも、それは、諸貨物と同様に、これに一致せんとする傾向を有っているのである。 労働者の境遇が繁栄なかつ幸福なものであり、彼が生活の必要品及び享楽品のより多くの分量をその力の中に支配し、従って健康なかつ数多き家族を養う力を有つのは、労働の市場価格がその自然価格に超過している時においてである。しかしながら、高き労賃が人口の増加に対し与える奨励によって、労働者数が増加される時には、労賃は再びその自然価格にまで下落し、そして事実反動によって、時にはそれ以下に下落するのである。(三七)労働の市場価格がその自然価格以下にある時には、労働者の境遇は最も悲惨である。その時には、貧困が彼らから、慣習が絶対必要品たらしめている慰楽物を奪ってしまう。労働の市場価格がその自然価格にまで騰貴し、そして労働者が労賃の自然率の与える相当の慰楽品を手に入れるようになるのは、彼らの窮乏が彼らの数を減じ、または労働に対する需要が増加した後のことでしかない。 その自然率に一致せんとする労賃の傾向にもかかわらず、その市場率は、進歩しつつある社会においては、不定の時期の間、絶えずそれ以上にあるであろう。けだし、増加資本が労働に対する新しい需要に与える刺戟が満たされるや否や、直ちに他の資本増加が同一の結果を生み出すからである。かくて資本の増加が漸次かつ不断であるならば、労働に対する需要は、人口の増加に対して連続的の刺戟を与えるであろう。 資本はその価値の騰貴と同時に分量において増加し得よう。以前よりもより多くの労働が附加的分量を生産するに必要とされると同じ時に、一国の食物及び衣服に附加がなされ得よう。その場合には啻に資本の分量のみならず更にその価値もまた増大するであろう。 または資本は、その価値が増加することなしに、、かつその価値が実際減少しつつある間にすら、増加し得よう。啻に一国の食物及び衣服に附加がなされ得るのみならず、更にその附加は、機械の援助によって、それを生産するに必要な労働の比例的分量の増加なくして、かつその絶対的の減少をすら伴って、なされ得よう。資本の量は増加するであろうが、しかるに、その全部の合計にしろ、またはその一部分単独にしろ、以前よりもより大なる価値を有たず、実際により少い価値を有つであろう。 第一の場合においては、常に食物、衣服、その他の必要品の価格に依存する労働の自然価格は、騰貴するであろう。第二の場合においては、それは引続き静止的であるかまたは下落するであろう。しかし双方の場合において、資本の増加に比例して労働に対する需要の増加があるであろうし、なさるべき仕事に比例してそれをなすべき人々に対する需要があるであろうから、労賃の市場率は騰貴するであろう。 双方の場合においてまた、労働の市場価格はその自然価格以上に騰貴するであろう。そして双方の場合において、それはその自然価格に一致せんとする傾向を有つであろうが、しかしそれは多くは改善されないであろう。けだし食物及び必要品の価格の騰貴は、彼れの労賃の騰貴の大部分を吸収してしまうであろうから。従って、労働の少しの供給は、または人口の僅少の増加は、市場価格をその時の騰貴した労働の自然価格にまでまもなく低下せしめるであろう。 第二の場合においては、労働者の境遇は極めて著しく改善せられるであろう。彼は、自分とその家族とが消費する貨物に対して、騰貴せる価格を支払うの必要なくして、かつおそらく下落せる価格をさえ支払って、騰貴せる貨幣労賃をば受取るであろう。そして労働の市場価格が再びその時の低きかつ下落せるその自然価格にまで下落するのは、人口に大なる増加が起って後のことであろう。 かくてしからば、社会の進歩ごとに、その資本の増加ごとに、労働の市場労賃は騰貴するであろう。しかしその騰貴が永続するか否かは、労働の自然価格もまた騰貴したか否かの問題に依存するであろう。そしてこの問題はまたも、それに労働の労賃が費される所の必要品の自然価格の騰貴に依存するであろう。 労働の自然価格は、食物及び必要品でもって測られた時ですら、絶対的に固定的であり恒久的であると考えてはならない。それは、同一国においても異なる時には変動し、そして異なる国においては極めて著しく異なっている(註)。それは本質的に人民の習癖及び慣習に依存する。英国の労働者は、もしその労賃が彼をして、馬鈴薯以外の食物を購買し得しめず、また土小屋よりも良い住宅に住み得しめないならば、それはその自然率以下にあり、そして少きに過ぎて家族を支持し得ない、と考えるであろう。しかもこれは、しばしば、十分であると看做されているのである。英国の小屋で今日享受されている便利品の多くは、吾々の歴史の初期においては贅沢品と考えられたことであろう(編者註)。(註)『一国において不可欠な家屋及び衣服も、他の国においては決して必要ではないこともあろう。そしてヒンドスタンの労働者は、彼れの自然労賃として、ロシアの労働者を死から免れしめるに足らぬような被服の供給を受けているに過ぎぬとはいえ、元気一杯に働き続け得よう。同一の気候に位置する国においてさえ、異る生活習慣は、しばしば、自然的原因によって生み出されるものと同様に顕著な労働の自然価格における変動を惹起するであろう。』――アール・トランズ殿著『外国穀物貿易に関する一論』、六八頁。 この問題の全体はカアネル・トランズによって最もよく例証されている。
(編者註)この章句及びこれに類する他の章句は、常にまたはほとんど常に、彼らがリカアドウの労賃鉄則と名づけているものと嫌忌をもって語る人々によっては、忘れられている。しかしながらそれは最も重要なものである。 社会の進歩につれて、製造貨物は常に下落しそして粗生生産物は常に騰貴することによって、富める国においては、労働者は彼れの食物のわずかに少量を犠牲にすれば、彼れのすべての他の欲する所を豊富に備えることが出来る、というような、両者の価値の不釣合が遂に作られるのである。
 貨幣価値の変動――それは必然的に貨幣労賃に影響を及ぼすが、しかし吾々は、貨幣は常に同一の価値を有つものと考えて来たから、ここでは何らの作用もないものと仮定して来た――を別とすれば、労賃は二つの原因によって騰落を蒙るように思われる、すなわち、
 第一、労働者の供給及び需要。
 第二、それに労働の労賃が費される貨物の価格。
(三八)社会の異る段階においては、資本または労働を雇傭する手段の蓄積は、その速度の速いことも遅いこともあり、そしてそれはあらゆる場合において労働の生産力に依存しなければならない。労働の生産力は、肥沃な土地が豊富にある時に、一般に最大である。かかる時期においては蓄積はしばしば極めて速かであるために、労働者は資本と同一の速度で供給され得ないのである。
 好都合な事情の下においては人口は二十五年で倍加し得ると計算されている。しかし、同様の好都合な事情の下においては、一国の全資本はおそらくより短い時期に倍加され得よう。その場合には、労賃は全期を通じて、騰貴する傾向を有つであろうが、けだし労働に対する需要が供給よりもなおより速かに増加するであろうからである。
 遥かに文明の進んだ国の技術及び知識が導入された新植民地においては、資本はおそらく人間よりもより速かに増加する傾向を有つであろう。そしてもし労働者の欠乏がより人口稠密な国によって供給されないならば、この傾向は極めて著しく労働の価格を騰貴せしめるであろう。これらの国が人口稠密となり、そしてより悪い質の土地が耕作されるに至るに比例して、資本の増加への傾向は減少する、けだし現存の人口の欲望を満した後に残る剰余生産物は、必然的に、生産の容易さに、すなわち生産に使用される人数のより小なるに、比例しなければならぬからである。しからば、たとえ最も有利な事情の下においてはおそらく生産力は人口の増加力よりもなおより大であろうとはいえ、それは久しくそうではないであろう。けだし土地はその量が限られておりかつその質が異っているから、その上に用いられる資本全部が増加するごとに、生産率は減少するであろうが、しかし人口増加力は常に引続き同一であるからである。
 肥沃な土地は豊富であるが、しかし、住民の無智、怠惰、及び野蛮のために彼らが欠乏及び饑饉のあらゆる害悪に曝されており、かつ人口が生活資料を圧迫しているといわれている所の国においては、粗生生産物の供給率が逓減するために過剰人口のあらゆる害悪が経験されている旧開国において必要なそれとは、極めて異る救治策が用いられなければならない。一方の場合においては、悪政、財産の不安固、及び人民のあらゆる階級における教育の欠乏から、害悪が発生するのである。より幸福にされんがためには、人口増加以上の資本の増加が不可避な結果であろうから、人民はただ、より良く統治されかつ教育される必要があるのみである。いかなる人口増加も多過ぎることは有り得ないが、それは生産力が更により大であるからである。他方の場合においては、人口はその支持に必要とされる基金よりもより速かに増加する。あらゆる勤労の努力も、人口増加率の減少を伴わぬ限り、生産が人口と歩調を共にし得ないから害悪を増加するであろう。
 人口が生活資料を圧迫している時には、唯一の救治策は、人口の減少かまたは資本のより速かな蓄積かである。すべての肥沃な土地が既に耕作されている富める国においては、後者の救治策は極めて行いやすいわけでもなくまた極めて望ましいわけでもない、けだしその結果は、それが行われ過ぎるならば、すべての階級を等しく貧しくすることであろうからである。しかし肥沃な土地がなお未だ耕作されていないために豊富な生産手段が貯えられてある貧しい国においては、特にその結果は人民のすべての階級を向上せしめることにあるから、それは唯一の安全なかつ有効な害悪除去の方法である。
 人道の友は、すべての国において、労働階級が愉楽品及び享楽品に対して嗜好を有ち、かつ彼らが、あらゆる法律上の手段によって、それらを獲得せんと努力するのを奨励されることを、希望せざるを得ない。これ以上の保証は過剰人口に対して有り得ない。労働階級が最少の欲望を有ちかつ最も低廉な食物で満足している国においては、人民は最大の不安と窮乏とに曝されている。彼らは災害から逃れる避難所を有たない。彼らはより低い地位に安全を求めることは出来ない。彼らの地位は既に極めて低いのでより低く落ちることもできない。彼らの主たる生存資料が少しでも欠乏する場合には、彼らが手にし得る代用品はほとんどなく、そしてその欠除は饑饉の害悪のほとんどすべてを伴うのである。
(三九)社会の自然的進歩につれて、労働の労賃は、それが供給と需要とによって左右される限り、下落する傾向を有つであろう。けだし、労働者の供給は引続き同一率で増加するであろうが、他方彼らに対する需要はより遅い率で増加するであろうからである。例えばもし労賃が、二%の率における資本の年々の増加によって左右されているとするならば、それが単に一・二分の一%の率において蓄積されるに過ぎない時には、労賃は下落するであろう。それが単に一%または二分の一%の率において増加するに過ぎない時には労賃はより低く下落し、そして資本が停止的になるまで引続き下落するであろうが、その時には労賃もまた停止的となり、そしてわずかに現実の人口数を維持するに足るに過ぎないであろう。かかる事情の下においては、もし労賃が単に労働者の供給及び需要によって左右されるに過ぎなければ、それは下落するであろう、と私はいう。しかし吾々は、労賃は、それに労賃が費される貨物の価格によってもまた左右されることを忘れてはならない。
 人口が増加するにつれて、かかる必要品はその生産により多くの労働が必要となるから、絶えず価格において騰貴しつつあるであろう。しからば、もし労働の貨幣労賃が下落し、他方それに労働の労賃が費されるあらゆる貨物が騰貴するならば、労働者は二重に影響を蒙り、そしてまもなく全然生存を奪われるであろう。従って労働の貨幣労賃は下落せずして騰貴するであろう、しかしそれは、労働者をして、慰楽品及び必要品の価格騰貴の前に彼が購入したと同一のそれらの貨物をば買い得しめるほど十分には騰貴しないであろう。もし彼れの年々の労賃が、以前には、二四磅ポンド、すなわち価格が一クヲタアにつき四磅ポンドの時に六クヲタアの穀物であったならば、穀物が一クヲタアにつき五磅ポンドに騰貴した時には、彼はおそらく単に五クヲタアの価値を受取るに過ぎないであろう。しかし五クヲタアは二五磅ポンドを要費するであろうし、従って彼は、その貨幣労賃においてある附加を受取るであろう。もっともこの附加をもってしても、彼は以前にその家庭において消費していたと同一量の穀物その他の貨物を手に入れることは出来ないであろうが。
 しからば労働者は実際により悪い支払を受けるであろうにもかかわらず、しかも彼れの労賃のこの増加は必然的に製造業者の利潤を減少せしめるであろう。けだし彼れの財貨は決してより高い価格で売れはしないであろうが、しかもなおそれを生産する費用は増加されるであろうからである。しかしながら、このことは、吾々が利潤を左右する諸原理を検討する際に、考察するであろう。
 しからば、地代を高めると同一の原因すなわち食物の同一量を同一比例の労働量をもって供給する困難の増加がまた、労賃をも高めることがわかる。従って、もし貨幣が不変的価値を有つならば、地代と労賃との両者は、富と人口との増進につれて騰貴する傾向を持つであろう。
 しかし地代の騰貴と労賃の騰貴との間には、こういう本質的の差異がある。地代の貨幣価値における騰貴は生産物の分前の増加を伴う。啻に地主の貨幣地代がより大となるばかりでなく、更に彼れの穀物地代もまたより大となる。彼はより多くの穀物を得、かつその穀物の各一定分量は、価値が騰貴しなかったすべての他の財のより大なる分量と、交換されるであろう。労働者の運命は地主よりも不幸であろう。なるほど彼はより多くの貨幣労賃を受取るであろうが、しかし、彼れの穀物労賃は減少するであろ[#「ろ」は底本では欠落]う。そして啻に穀物に対する彼れの支配が減ずるばかりでなく、更に彼れの一般的境遇も、労賃の市場率をその自然率以上に支持することのより困難なことを見出すであろうから、また悪化するであろう。穀物の価格が一〇%騰貴するとしても、労賃は常に一〇%以下しか騰貴しないであろうが、しかし地代は常により以上騰貴するであろう。労働者の境遇は一般的に下落し、そして地主のそれは常に改善されるであろう。
 小麦が一クヲタアについて四磅ポンドの時、労働者の労賃は一年二四磅ポンドまたは小麦六クヲタアの価値であると仮定し、また彼れの労賃の半ばは小麦に費され、そして他の半ば、すなわち一二磅ポンドは他の物に費されると仮定しよう。彼は、
 小麦が{四磅ポンド四シリング/四磅ポンド一〇シリング/四磅ポンド一六シリング/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時に{二四磅ポンド一四シリング/二五磅ポンド一〇シリング/二六磅ポンド八シリング/二七磅ポンド八シリング六ペンス}を、または{五・八三クヲタア/五・六六クヲタア/五・五〇クヲタア/五・三三クヲタア}の価値を、受取るであろう。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
彼はこれらの労賃を得ても、以前とちょうど同じに生活することは出来るが、より良くは生活し得ないであろう。けだし穀物が一クヲタアにつき四磅ポンドの時には、彼は穀物三クヲタアに対して、一クヲタアにつき四磅ポンドで…………一二磅ポンドそして他の物に…………一二磅ポンド―――二四磅ポンドを費すであろう。
小麦が四磅ポンド四シリング八ペンスの時には、彼と彼れの家族とが消費する三クヲタアは、彼に…………一二磅ポンド一四シリング価格の変動しない他の物は…………一二磅ポンド〇シリング―――――――――二四磅ポンド一四シリング費さしめるであろう。
四磅ポンド一〇シリングの時には、三クヲタアの小麦は…………一三磅ポンド一〇シリングそして他の物は…………一二磅ポンド〇シリング―――――――――二五磅ポンド一〇シリング費さしめるであろう。
四磅ポンド一六シリングの時には、三クヲタアの小麦は…………一四磅ポンド八シリングそして他の物は…………一二磅ポンド〇シリング――――――――二六磅ポンド八シリング五磅ポンド二シリング一〇ペンスの時には、三クヲタアの小麦は…………一五磅ポンド八シリング六ペンスそして他の物は…………一二磅ポンド〇シリング〇ペンス――――――――――――二七磅ポンド八シリング六ペンス費さしめるであろう。
 穀物が高くなるに比例して、彼はより少い穀物労賃を受取るであろうが、しかし彼れの貨幣労賃は常に増加するであろう。他方彼れの享楽品は上の仮定によれば正確に同一であろう。しかし、粗生生産物が他の貨物の構成に参加するに比例してそれは価格において引上げられるであろうから、彼はそのあるものに対しより多くを支払わなければならぬであろう。彼れの茶や砂糖や石鹸や蝋燭や家賃はおそらく決してより高くはならないであろうけれども、彼はそのベイコンやチイズやバタや亜麻布や靴や毛織布に対して、より多くを支払うであろう。従って右の如き労賃の騰貴をもってしても、彼れの境遇は比較的にはより悪くなるであろう。
(四〇)しかし私は、金すなわち貨幣の材料たる金属は労賃の変動した国の生産物である、という仮定の上で、価格に及ぼす労賃の影響を考察しつつあったし、また金は外国で生産された金属であるから、私が演繹した結論は事物の実情とほとんど一致しない、といわれるかもしれない。しかしながら、金が外国の生産物であるという事情は、議論の真理を無効ならしめることはないであろう、けだしそれが国内において見出されようともまた外国から輸入されようとも、結果は窮極的にしかも実に直接的にも同一であろうということが、証明され得ようからである。
 労賃が騰貴する時には、それは一般に、富及び資本の増加が確実に貨物の生産増加を伴うべき労働に対する新需要を齎したからなのである。これらの増加せる貨物を流通させるためには、以前と同一の価格においてですら、より多くの貨幣が貨幣の材料であり、そして輸入によってのみ取得され得る所のこの外国貨物のより多くが、必要とされる。一貨物が以前よりもより多くの分量において必要とされる時には常に、その相対価値は、それでこの貨物の購買がなされる他の貨物に比較して騰貴する。もしより多くの帽子が求められる時には、その価格は騰貴し、そしてより多くの金が、それに対して与えられるであろう。もしより多くの金が必要とされるならば、金は価格において騰貴し、そして帽子は下落するであろうが、それは、その時には、帽子及び他のすべての物のより大なる分量が同一量の金を購買するために必要であろうからである。しかし仮定された場合において、労賃が騰貴するから貨物が騰貴するであろうというのは、明かな矛盾を肯定することになる。けだし吾々は第一に、金は需要の結果相対価値において騰貴するであろうと言い、そして第二に、それは物価が騰貴するから相対価値において下落するであろうと言っているが、これは互に全然両立し得ない二つの結果であるからである。価格において貨物が騰貴すると言うのは、相対価値において貨幣が下落すると言うのと同一である。けだし金の相対価値が測られるのは貨物によってであるから。しからばもしすべての貨物が価格において騰貴するならば、金は、これらの高価なる貨物を購買するために、外国から来ることは出来ないが、しかしそれは比較的により低廉な外国貨物の購買に用いるのが有利であるから、それに用いるために国内から出て行くであろう。しからば労賃の騰貴は、貨幣の材料たる金属が国内で生産されようとまたは外国で生産されようと、貨物の価格を引上げはしないであろうと思われる。すべての貨物は、貨幣の分量の附加なくしては同時に騰貴し得ない。この附加は、既に示した如くに、内国においても取得され得ず、また外国からも輸入され得ない。金のある附加量を外国から購買するためには、内国の貨物が高価でなく低廉でなければならぬ。金の輸入と、それで金が購買されまたは支払われるあらゆる国産貨物の価格騰貴とは、絶対的に両立し得ない二結果である。紙幣の広汎なる使用もこの問題を変更しはしない、けだし、紙幣は金の価値に一致するかまたは一致すべきであり、従ってその価値はこの金属の価値に影響する原因によってのみ影響されるからである。
 しからばかかるものが、労賃を左右し、かつあらゆる社会の最大部分の幸福を支配する所の、法則である。あらゆる他の契約と同様に、労賃は市場の公正なかつ自由な競争に委ねらるべく、決して立法の干渉によって支配されてはならない。
(四一)救貧法の明白なかつ直接的な傾向は、かかる明白な諸原理に全く反するものである。それは、立法者が慈悲深くも意図したが如くに、貧民の境遇を改善すべきものではなくして、富者と貧者との双方の境遇を悪化せしむべきものである。貧民を富ましめることはなくして、それは富者を貧しくせんとするものである。そして現在の法律の施行中は、貧民を維持するための基金は逓増的に増加して、ついにそれは国の純収入のすべてを、または少くとも公共の支出に対する国家自身の欠くべからざる必要を満たした後に国家が吾々に残す純収入のすべてを、吸収するのは、全く事理の当然である(註)。
(註)次のビウキャナン氏の章句に、私は、もしそれが窮乏の一時的状態を指すものであるならば、その限りにおいて同意する、すなわち、『労働者の境遇の大なる害悪は、食物の不足かまたは仕事の不足から起る貧困である。そしてあらゆる国において無数の法律が彼れの救済のために施行され来った。しかし立法が救済し得ない窮乏が社会状態にある。従って、行い得ないことを目指すがために真に吾々がなし得る善を見失わないために、その限界を知ることが有用である。』ビウキャナン、六一頁。 かかる法律の有害なる傾向は、マルサス氏の有為な手によって十分に展開されているから、もはや神秘ではない(編者註)。そしてあらゆる貧民の友は熱心にその廃止を希望しなければならない。しかしながら不幸にして、それは極めて古くから行われ来っており、かつ貧民の慣習はその作用に基いて形造られ来っているから、吾々の政治組織から安全にそれを取除くことは、最も注意深くかつ巧妙な処理を必要とする。この法律の廃止に最も賛成な人々は、その利益のためにこの法律が誤って設けられた所の者に対する、最も恐るべき惨苦を妨げるのが望ましいならば、その廃止は最も徐々たる順序によってなさるべきであることに、すべて一致している。
(編者註)『人口論』第三篇、第五、六、七章、第四篇、第八章。
 貧民の慰楽と福祉とは、彼らの数の増加を規制し、かつ早婚や不用意な結婚を彼らの間で減少せしめるために、彼らの側での幾らかの注意か、立法者の側での幾らかの努力がなければ、永久に確保され得ないことは、疑を容れない真理である。救貧法の制度の作用はこれに正反対であった。それは抑制を余計のものとし、そして慎慮と勤労とによって得た労賃の一部分をそれに与えることによって、不慎慮を招いたのである(註)。
(註)この題目に関し、一七九六年以来下院において表明された知識の進歩は、救貧法に関する委員会の最近の報告と、一七九六年におけるピット氏の次の如き意見とを、対照することによって見られる如く、幸にして少からざるものがあった。 彼は曰く、『恥辱と軽蔑との理由ではなくして、正義と名誉との事柄たる、子だくさんの場合に、救済をしよう。このことは、大家族を呪詛たらしめずして祝福たらしめるであろう。そしてこのことは、自らの労働によって自らを養いうる人々と、多くの子供でその国を富ましめた後に生活維持に対する国家の援助を請求し得る人々との間に、適当な分界線を劃するであろう。』ハンサアド議会史、第三二巻、七一〇頁。
 この害悪の性質が救治法を指示している。救貧法の範囲を漸次に縮小することによって、貧民に独立なる者の価値を印象づけることによって、彼らに、生活のためには組織的のまたは偶然の慈善に頼らずに彼ら自身の努力に頼らねばならぬこと、また慎慮と先見とは不必要な徳性でもなければ不利益な徳性でもないことを、教えることによって、吾々は順次により健全なより健康的な状態に接近するであろう。
 救貧法の廃止をその終極目的としない救貧法修正案は、全然注意に値しない。そしていかにしてこの目的が最も安全にかつ同時に最少の暴力をもって達せられ得るかを指示し得る者こそが、貧民に対しかつ人道に対する最良の友である。害悪が軽減され得るのは、現在と異る方法で貧民が支持される基金を、徴収することによってではない。それは、啻に改良ではないのみならず、もしこの基金の額が増加せしめられるかまたはある最近の提議によってこの国全般から一般基金として賦課されるならば、吾々が除去されんことを望む所の災害の加重であろう。現在のその徴収方法及び使用方法は、その有害な結果を軽減するに役立って来た。各教区はそれ自身の貧民の支持のために別々の基金を徴収している。従って一般基金が全王国の貧民救済のために徴収される場合よりも、税金を低くしておくことがより有利でありかつより行いやすいこととなっている。一教区は、数百の他の教区がそれに参加している場合よりもはるかに、この税金の経済的な徴収をより利益あることとし、かつ節約の全部がそれ自身の利益になるであろうから救助を少ししか分配しないことをより利益あることとしているのである。
 吾々は、救貧法が未だこの国の全純収入を吸収してしまっていないという事実を、この原因に帰しなければならぬ。それが驚くべく圧制的になっていないことの理由は、その適用が厳正であることにある。もし法律によって、生計に困っているあらゆる者に確実に生計を得しめ、しかも生活を相当に愉楽ならしめる程度に生計を得しめることが出来るならば、理論は吾々を導いて、他の租税を全部合せてもこの救貧税という単一の租税と比較して軽微なものであろうと、期待せしめるであろう。かかる法律が、富と力とを貧と弱とに変え、労働の努力を単なる生活資料供給の目的以外のあらゆる目的から引離し、すべての知的優越を無にし、精神を絶えず肉体的欲求物の供給に忙殺せしめ、ついに一切の階級を一般的貧困という悪疫にかからせる、という傾向のあることは、重力の原理と同様に確実である。幸にしてかかる法律は、労働維持のための基金が規則正しく増加し、かつ人口の増加が自然的に必要とされた所の、進歩的繁栄期に、行われ来った。しかしもし吾々の進歩がより遅くなるならば、もし吾々が静止的状態――吾々はかかる状態からはなお未だ遠く隔っていると私は信ずるが――に達するならば、その時にこの法律の有害な性質はより明かにかつ脅威的になり、またその時にはこの法律の廃止は多くのより以上の困難によって妨害されるであろう。
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    第六章 利潤について

(四二)資本の利潤は、種々なる職業において、相互に一つの比例を保ち、かつすべて同一の程度にかつ同一の方向に変動する傾向を有つことが、説明されたから、利潤率の永続的変動、及びそれに従って起る利子率における永続的変動の原因は何であるか、を考察することが、吾々にとって残っていることになる。
 吾々は、穀物の価格(註)が資本のうち地代を何ら支払わない部分をもってそれを生産するに必要な労働量、によって左右されることを、見た。吾々はまた、すべての製造貨物は、その生産に必要となる労働の大小に比例して、価格において騰落することも、見た。価格を左右する質(訳者註)の土地を耕作する農業者も財貨を製造する製造業者も、生産物の何らの部分をも地代として犠牲にしない。彼らの貨物の全価値は単に二つの部分に分たれるに過ぎない、すなわちその一は資本の利潤を成し、他は労働の労賃を成すのである。
(註)読者は、この主題をより明かならしめんがために、私が、貨幣をもって価値において不変なものと看做し、従って価格のあらゆる変動は貨物の価値における変動に帰せらるべきものと看做していることを、記憶せられんことを乞う。(訳者註)『地質なる語は、原本第一版及び第二版の quality の訳語であるが、原本第三版には、これが quantity となっている。』――堀經夫博士訳書、一一〇頁。 穀物及び製造財貨が常に同一の価格で売れると仮定すれば、利潤は、労賃が低いか高いかに比例して高くあるいは低いであろう。しかし穀物が、それを生産するにより多くの労働が必要であるために、価格において騰貴したと仮定せよ。この原因は、その生産において何ら附加的労働量も必要とされない所の製造財貨の価格を騰貴せしめないであろう。しからば、もし労賃が引続き同一であるならば、製造業者の利潤は依然として同一であろう。しかし、もし労賃が穀物の騰貴と共に騰貴するならば、――このことは絶対に確実であるが――彼らの利潤は必然的に下落するであろう。
 もし、製造業者が常に彼れの財貨を同一の貨幣額、例えば一、〇〇〇磅ポンドに対して、売るとするならば、彼れの利潤はそれらの財貨を製造するに必要な労働の価格に依存するであろう。彼が六〇〇磅ポンドを支払うに過ぎなかった時よりも、労賃が八〇〇磅ポンドに達した時の方が、彼れの利潤はより少いであろう。かくて労賃が騰貴するに比例して、利潤は下落するであろう。しかしもし粗生生産物の価格が騰貴するならば、農業者は労賃として追加額を支払わなければならなくとも、少くとも同一の利潤率を得ないであろうか? と問われるかもしれない。確かにそれは得られない、けだし彼は啻に製造業者と共に、彼が雇傭する各労働者に労賃の増加を支払わなければならないであろうのみならず、更に彼は地代を支払うか、または同一生産物を獲得するために労働者の附加数を雇傭するのいずれかを余儀なくされるであろうし、また粗生生産物の価格における騰貴は、この地代またはこの附加数に比例するに過ぎぬものであって、従って労賃の騰貴に対して彼に償いをしないであろうからである。
 もし製造業者及び農業者の両者が十名の人間を用いるとすれば、労賃が一人当り一年間二四磅ポンドから二五磅ポンドに騰貴する場合には、その各々によって支払われる全額は二四〇磅ポンドではなく二五〇磅ポンドであろう。しかしながら、これが製造業者が同一分量の貨物を得るために支払うであろう所の附加の全部である。しかし新しい土地における農業者はおそらく、一名の附加的労働者を使用し、従って労賃として二五磅ポンドの附加額を支払うを余儀なくされるであろう。そして旧い土地における農業者は地代として二五磅ポンドという正確に同一の附加額の支払を余儀なくされるであろう。この附加的労働がなければ、穀物も騰貴しなかったであろうし、また地代も増加しなかったであろう。従って一方は労賃のためのみに二七五磅ポンドを支払わなければならず、他方は労賃と地代との合計のためにこの額を支払わなければならないであろう。各々は製造業者よりも二五磅ポンドだけより多く支払わなければならない。この後の二五磅ポンドを、農業者は粗生生産物の価格の附加によって償われ、従って彼れの利潤はなお製造業者の利潤と一致する。この命題は重要であるから、私はなお更に、その説明に努めるであろう。
 吾々は既に、社会の初期においては、土地生産物の価値に対する地主及び労働者の両方の分前は僅少に過ぎないであろうし、かつそれは富の増進及び食物獲得の困難に比例して増加するであろうということを、証明した。吾々はまた、労働者の収得する価値は食物の高い価値によって増加されるであろうけれども、彼れの真実の分前は減少するであろうが、しかるに地主のそれは啻に価値において増加されるばかりでなく、更に分量においても増加されるであろう、ということを証明した。
 地主及び労働者が支払を受けた後に残る土地の生産物の残りの分量は、必然的に農業者に帰属し、そして彼れの資本の利潤をなすものである。しかし、社会が進歩するにつれ全生産物に対する彼れの分前は減少するであろうけれども、しかもそれは価値において騰貴するであろうから、地主及び労働者と同様に彼もまた、それにもかかわらず、より多くの価値を受けるであろう、と主張されるかもしれない。
 例えば、穀物が四磅ポンドから一〇磅ポンドに騰貴した時には、最良の土地から得られる一八〇クヲタアは七二〇磅ポンドではなく、一、八〇〇磅ポンドで売れ、従って地主及び労働者は地代及び労賃としてより多くの価値を得るということが証明されたとしても、しかも農業者の利潤の価値もまた増大されるであろう、といわれるかもしれない。しかしながらかかることは、私がいま次に説明を試みる如く、不可能なことである。
 第一に、穀物の価格はただ、より劣等な品質の土地においてそれを栽培する困難の増加に比例して騰貴するに過ぎないであろう。
 次のことは既に述べた所である、すなわち、もし十名の人間の労働が、一定の品質の土地において、一八〇クヲタアの小麦を獲得し、その価値が一クヲタアにつき四磅ポンド、すなわち七二〇磅ポンドであるとし、かつもし十名の附加された人間の労働が同一のまたはある他の土地において、更に加うるに一七〇クヲタアを生産するに過ぎないならば、170:180:£4:£4 4s. 8d. であるから小麦は四磅ポンドから四磅ポンド四シリング八ペンス(編者註)に騰貴するであろう。換言すれば、一七〇クヲタアの生産に対して、一方の場合には十名の人間の労働が必要であり、そして他方の場合には九・四四名のそれが必要であるに過ぎないから、騰貴は九・四四対一〇であり、または四磅ポンド対四磅ポンド四シリング八ペンスであろう。同様にして、もし十名の附加された人間の労働が一六〇クヲタアを生産するに過ぎなければ、価格は更に四磅ポンド一〇シリングに騰貴するであろうし、一五〇クヲタアならば、四磅ポンド一六シリングに騰貴するであろう、等々、ということが証明され得よう。
(編者註)概算すれば四磅ポンド四シリング八ペンス[#「ペンス」は底本では「ペニス」]二分の一により近い。
しかし、地代を支払わない土地において一八〇クヲタアが生産され、かつその価格が一クヲタアについて四磅ポンドの時には、それは次の価格で売られる、…………七二〇磅ポンドそして地代を支払わない土地において一七〇クヲタアが生産され、かつ価格が四磅ポンド四シリング八ペンスに騰貴した時には、それはなお次の価格で売られる、…………七二〇磅ポンドかくて四磅ポンド一〇シリングで一六〇クヲタアは次を生む、…………七二〇磅ポンドそして四磅ポンド一六シリングで一五〇クヲタアは同一の額を生む、…………七二〇磅ポンド さて、もしこれらの相等しい価値から、農業者がある時には四磅ポンドの小麦の価格によって左右される労賃を支払うを余儀なくされ、そして他の時にはより高い価格によって左右される労賃を支払うを余儀なくされるならば、彼れの利潤率は穀価の騰貴に比例して減少するであろう、ということは明かである。
 従ってこの場合において、労働者の貨幣労賃を騰貴せしめる穀価の騰貴は農業者の利潤の貨幣価値を減少する、ということが明かに証明されている、と私は考えるのである。
 しかし旧いかつより良い土地の農業者の場合も決してこれと少しも異る所はないであろう。彼もまた騰貴した労賃を支払わなければならず、かつ、その労賃はいかに高くとも、彼自身及び常に同数なる彼れの労働者の間に分割されるべき生産物の価値は、七二〇磅ポンド以上を保有しないであろう。従って彼らがより多くを得るに比例して彼はより少しを保有しなければならぬのである。
 穀価が四磅ポンドであった時には全一八〇クヲタアは耕作者に帰属し、そして彼はそれを七二〇磅ポンドで売った。穀物が四磅ポンド四シリング八ペンスに騰貴した時には、彼は地代としてその一八〇クヲタアから一〇クヲタアの価値を支払うを余儀なくされ、従って残りの一七〇クヲタアは彼に七二〇磅ポンドを与えるに過ぎなかった。それが更に四磅ポンド一〇シリングに騰貴した時には、彼は地代として二〇クヲタアを、あるいはその価値を支払い、従って一六〇クヲタアを保有したに過ぎず、それは七二〇磅ポンドという同一の額を与えたのである。
 しからば次のことがわかるであろう、すなわち生産物の一定の附加量を得るためにより以上の労働と資本とを用いることが必要である結果として穀価がいかに騰貴しようとも、かかる騰貴は、附加的地代により、あるいは用いられる附加的労働により、価値において常に相殺されてしまうであろうから、従って、穀物が四磅ポンドに売れても四磅ポンド一〇シリングに売れてもまたは五磅ポンド二シリング一〇ペンスに売れても、農業者は、地代を支払った後彼れの手に残るものとしては、同一の真実価値を得るであろう。かくて吾々は、農業者に帰属する生産物が一八〇クヲタアであっても一七〇クヲタアであっても一六〇クヲタアであってもまたは一五〇クヲタアであっても、彼はそれに対し常に七二〇磅ポンドという同一額を得ることを知るが、それは価格が分量に反比例して騰貴するからである。
 かくて地代は、思うに、常に消費者の負担となり決して農業者の負担にはならない、けだしもし彼れの農場の生産物が一様に一八〇クヲタアであるならば、価格の騰貴と共に、彼は自分自身に対しより少い分量の価値を保有し、彼れの地主にはより大なる分量の価値を与えるけれども、しかしこの控除は彼に常に七二〇磅ポンドという同一額を残すように行われるからである。
 すべての場合において、七二〇磅ポンドという同一額が労賃と利潤とに分割されなければならぬこともまた、わかるであろう。もし土地からの粗生生産物の価値がこの価値を超過するならば、その額が幾何いくばくであろうと、それは地代に属する。もし何ら超過がないならば、地代はないであろう。労賃または利潤が騰貴しようと下落しようと、この両者が与えられなければならない原本はこの七二〇磅ポンドという額である。一方において利潤は労働者に絶対必要品を与えるに十分な額が残されないくらいにこの七二〇磅ポンドの中の多くを吸収してしまうほど騰貴することは出来ない。他方において労賃は、この額のうち利潤には何物も残さないというほどに騰貴することは出来ない。
 かくて、あらゆる場合において、農業利潤並びに製造業利潤は、粗生生産物の価格の騰貴――もしそれが労賃の騰貴を伴うならば、――によって低下せしめられる(註)。もし農業者が、地代を支払った後彼れの手に残る穀物に対し何らの附加的価値をも得ず、もし製造業者が、彼が製造する財貨に対して何らの附加的価値をも得ず、またもし両者が労賃により大なる価値を支払うを余儀なくされるならば、労賃の騰貴と共に利潤は下落しなければならぬということ以上に明瞭に確証され得る事柄があろうか?
(註)読者は、季節の良否から、または人口の状態に対する突然の影響のために起る需要の増減から、発生する所の、偶然の変動は、吾々はこれを考慮外に置いていることを知っている。吾々は、穀物の自然的な恒常的な価格について論じているのであって、その偶然的な動揺的な価格について論じているのではない。 かくて農業者は、その地主の地代――それは常に生産物の価格によって左右され、そして常に消費者の負担に帰するものであるが――のいかなる部分をも支払いはしないけれども、しかも地代を低く保つことに、またはむしろ生産物の自然価格を低く保つことに、極めて明かな利害を有っているものである。粗生生産物の、及び粗生生産物が一構成部分として入り込んでいる物の、消費者として、彼は、あらゆる他の消費者と共通に価格を低く保つことに利害を有つであろう。しかし彼は、穀物の高い価格は労賃に影響を及ぼすが故に、それに最も重大な関係を有っているのである。穀価のあらゆる騰貴と共に、彼は、七二〇磅ポンドという等しくかつ変動しない額から、附加的額を労賃として、彼が常に用いるものと仮定されている十名の人間に支払わねばならぬであろう。吾々は労賃を論ずる際に、それは常に粗生生産物の価格の騰貴と共に騰貴することを見た。一一三頁において、計算のために仮定された基礎によれば、もし小麦が一クヲタアにつき四磅ポンドである時に、労賃が一年につき二四磅ポンドであるならば、次のことがわかるであろう。
 小麦が{四磅ポンド四シリング八ペンス/四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四磅ポンド一六シリング〇ペンス/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時には、労賃は{二四磅ポンド一四シリング〇ペンス/二五磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二六磅ポンド八シリング〇ペンス/二七磅ポンド八シリング六ペンス}であろう。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
 さて労働者と農業者との間に分配せらるべき七二〇磅ポンドなる不変の基金のうち、
 小麦の価格が{四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四磅ポンド四シリング八ペンス/四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四磅ポンド一六シリング〇ペンス/五磅ポンド二シリング一〇ペンス}の時には、労働者は{二四〇磅ポンド〇シリング/二四七磅ポンド〇シリング/二五五磅ポンド〇シリング/二六四磅ポンド〇シリング/二七四磅ポンド五シリング}農業者は{四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/四四五磅ポンド一五シリング〇ペンス}を受取るであろう(註)。[#この行「{}」に挟まれ「/」で区切られた要素は、底本では真横に並ぶ]
 そして農業者の最初の資本が三、〇〇〇磅ポンドであると仮定すれば、彼れの資本の利潤は第一の場合には四八〇磅ポンドであるから、一六%の率にあろう。彼れの利潤が四七三磅ポンドに下落した時にはそれは一五・七%の率(編者註一)。
四六五磅ポンド………………………………………………一五・五%
四五六磅ポンド………………………………………………一五・二%
四五五磅ポンド………………………………………………一四・八%
であろう。
(註)一八〇クヲタアの穀物は、上記の価格の変動と共に、次の比例において、地主、農業者、及び労働者の間に分たれるであろう。 一クヲタアの価格/地代小麦で/利潤小麦で/労賃小麦で/合計四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/一二〇クヲタア/六〇クヲタア}一八〇[#「}一八〇」はこの後の5行にわたる]四磅ポンド四シリング八ペンス/一〇クヲタア/一一一・七/五八・三四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二〇/一〇三・四/五六・六四磅ポンド一六シリング〇ペンス/三〇/九五/五五五磅ポンド二シリング一〇ペンス/四〇/八六・七/五三・三そして同一の事情の下において、貨幣地代、貨幣労賃、及び貨幣利潤は次の如くであろう。
 一クヲタアの価格/地代/利潤/労賃/合計
四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/七二〇磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド四シリング八ペンス/四二磅ポンド七シリング六ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四七磅ポンド〇シリング〇ペンス/七六二磅ポンド七シリング六ペンス
四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/九〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/二五五磅ポンド〇シリング〇ペンス/八一〇磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド一六シリング〇ペンス/一四四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/二六四磅ポンド〇シリング〇ペンス/八六四磅ポンド〇シリング〇ペンス
五磅ポンド二シリング一〇ペンス/二〇五磅ポンド一三シリング四ペンス/四四五磅ポンド一五シリング〇ペンス/二七四磅ポンド五シリング〇ペンス/九二五磅ポンド一三シリング四ペンス(編者註二)
(編者註一)これは一五・八%であるべきである。それは正確には一五・七六である。(編者註二)以上の表は一見そう見えるほど精密に正確なわけではない。与えられた二表の中の第二表では、合計は第二行と第五行とで不正確である。一クヲタアにつき四磅ポンド四シリング八ペンスでの一〇クヲタアの価格は、四二磅ポンド七シリング六ペンスではなく、四二磅ポンド六シリング八ペンスである。更に、クヲタア当り同価格で一八〇クヲタアは七六二磅ポンド七シリング六ペンスでは売れず、七六二磅ポンドに売れる。また、五磅ポンド二シリング一〇ペンスでの一八〇は九二五磅ポンド一〇シリングであって、九二五磅ポンド一三シリング四ペンスではない。修正し概数で現わせば表は次の如くである。―― 一クヲタアの価格/小麦地代/小麦利潤/小麦労賃/合計四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/一二〇/六〇/一八〇四磅ポンド四シリング八ペンス/九・九二/一一一・七三/五八・三五/一八〇四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/二〇/一〇三・四/五六・六/一八〇四磅ポンド一六シリング〇ペンス/三〇/九五/五五/一八〇五磅ポンド二シリング一〇ペンス/一〇/三九・九七/八六・六九/五三・三四/一八〇そしてもし貨幣で測られるならば。――
 一クヲタアの価格/地代/利潤/労賃/合計
四磅ポンド〇シリング〇ペンス/無し/四八〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/七二〇磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド四シリング八ペンス/四二磅ポンド〇シリング〇ペンス/四七三磅ポンド〇シリング〇ペンス/二四七磅ポンド〇シリング〇ペンス/七六二磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド一〇シリング〇ペンス/九〇磅ポンド〇シリング〇ペンス/四六五磅ポンド〇シリング〇ペンス/二五五磅ポンド〇シリング〇ペンス/八一〇磅ポンド〇シリング〇ペンス
四磅ポンド一六シリング〇ペンス/一四四磅ポンド〇シリング〇ペンス/四五六磅ポンド〇シリング〇ペンス/二六四磅ポンド〇シリング〇ペンス/八六四磅ポンド〇シリング〇ペンス
五磅ポンド二シリング一〇ペンス/二〇五磅ポンド一〇シリング〇ペンス/四四五磅ポンド一四シリング〇ペンス/二七四磅ポンド五シリング〇ペンス/九二五磅ポンド一〇シリング〇ペンス
 しかし、利潤の率はなおより以上下落するであろうが、けだし農業者の資本は、――想起さるべきであるが――生産物の騰貴の結果すべて価格が騰貴するであろう所の、彼れの穀物や乾草堆、彼れの打穀しない小麦や大麦、彼れの馬や牛の如き粗生生産物から、大部分成っているからである。彼れの絶対利潤は、四八〇磅ポンドから四四五磅ポンド一五シリングに下落するであろう。しかしもし私が今述べた原因によって彼れの資本が三、〇〇〇磅ポンドから三、二〇〇に騰貴するならば、彼れの利潤の率は、穀物が五磅ポンド二シリング一〇ペンスである時には、一四%以下になるであろう。
 もし製造業者もまたその業務に三、〇〇〇磅ポンドを使用していたとすれば、彼は、労賃の騰貴の結果、同一の業務を営んで行くことが出来るためには、その資本を増加するを余儀なくされるであろう。もし彼れの貨物が以前には七二〇磅ポンドで売れたとすれば、それは引続き同一の価格で売れるであろうが、しかし以前には二四〇磅ポンドであった労働の労賃は、穀物が五磅ポンド二シリング一〇ペンスの時には二七四磅ポンド五シリングに騰貴するであろう。第一の場合には、彼は、三〇〇〇磅ポンドに対する利潤として四八〇磅ポンドの残額を得るであろうが、第二の場合には、彼は、増加された資本に対し単に四四五磅ポンド一五シリングの利潤を得るに過ぎず、従って彼れの利潤は、農業者の変更された利潤率に一致するであろう。
 粗生生産物の騰貴によってその価格が多かれ少かれ影響を蒙らない貨物はほとんどない、けだし土地からのある粗生原料品が大部分の貨物の構成に入り込むからである。綿製品や亜麻布や毛織布は、すべて小麦の騰貴と共に価格において騰貴するであろう。しかしそれらが騰貴したのは、それでそれらの物が作られる粗生原料品により多くの労働量が投ぜられたためであって、製造業者がこれらの貨物の製造に用いた労働者に対して彼がより多くを支払ったためではない。
 あらゆる場合において、貨物が騰貴するのはそれにより多くの労働が投ぜられるからであって、それに投ぜられる労働がより高い価値にあるからではない。宝石や鉄や銀や銅の品物は、地表から得られる粗生生産物が何らその構成に入り込まないから騰貴しないであろう。
(四三)私は貨幣労賃は粗生生産物の価格の騰貴と共に騰貴すべきことを異論のないことと認めているが、しかし、労働者はより少い享楽物で満足するかもしれないから、これは決して必然的帰結ではない、と言われるかもしれない。なるほど労賃は以前には高い水準にあったが、それは若干の低減に耐えることもあろう。もしそうであるならば利潤の下落は妨げられるであろう。しかし必要品の価格が徐々と騰貴しているのに労賃の貨幣価格は下落しまたは静止している、と考えることは不可能である。従って通常の事情の下においては、労賃の騰貴を惹起さずに、またはそれに先行されずに、必要品の価格が永久的に騰貴することはないということを、異論のないことと認め得よう。
 もし、それに労働の労賃が費される所の、食物以外の他の必要品の価格に、騰貴が起ったとすれば、利潤の上に生み出される影響は、同一であるかまたはほとんど同一であったであろう。かかる必要品に対し騰貴せる価格を支払わねばならぬという労働者の必要は、彼をしてより多くの労賃を要求するを余儀なからしめるであろう。そして労賃を騰貴せしめるものはいかなるものも必然的に利潤を低減する。しかし、労働者が必要としない所の絹や天鵞絨ビロードや什器やその他の貨物が、それにより多くの労働が投ぜられる結果騰貴すると仮定すれば、このことは利潤に影響を及ぼさないであろうか? 確かに及ぼさない。けだし労賃の騰貴以外に何物も利潤に影響を及ぼし得ないが、絹や天鵞絨ビロードは労働者によって消費されず、従って労賃を騰貴せしめ得ないからである。
 私は利潤に関し一般的に論じているのであることを了解してもらいたい。私は既に、貨物の市場価格は、その貨物に対する新しい需要が要求するよりもより少い分量において生産されることがあろうから、その自然価格または必要価格を超過することがあろう、と述べた、しかしながら、このことは単に一時的結果に過ぎない。その貨物の生産に用いられる資本に対する高い利潤は当然に資本をその事業に吸引するであろう。そして必要な資金が供給され、かつその貨物の分量が適当に増加されるや否や、その価格は下落し、そしてその事業の利潤は一般水準に一致するであろう。一般利潤率の下落は、特定職業の利潤の部分的騰貴と決して両立し得ないものではない。資本が一職業から他の職業に移転されるのは、利潤の不平等によってである。かくて、一般利潤が、労賃の騰貴と増加しつつある人口に必要品を供給する困難の増加との結果として、下落しつつあり、そして徐々により低い水準に落着きつつある間は、農業者の利潤は、ある短い時期の間、前の水準以上にあり得よう。外国貿易及び植民地貿易の特定の部門にもまた、ある時期の間、異常の奨励が与えられ得よう。しかしこの事実の認容は決して、利潤は労賃の高低に依存し、労賃は必要品の価格に、そして必要品の価格は主として食物の価格に依存する――けだしすべての他の必要品はほとんど限り無く増加され得ようから――という理論を、無効ならしめるものではない。
 価格は常に、市場において変化し、そして第一に、需要と供給との比較的状態によって変動することを、想起せらるべきである。たとえ毛織布が一ヤアルにつき四〇シリングで供給され、かつ資本の日常利潤を与えることが出来るとしても、流行の一般的変化によりまたは突然に予想外にその需要を増加しまたはその供給を減少するある他の原因によって、それは六〇シリングまたは八〇シリングに騰貴するであろう。毛織布の製造者は一時の間異常の利潤を得るであろうが、しかし、資本は当然にその製造業に流入し、ついに供給と需要とは再びその正当な水準にあるようになり、その時には毛織布の価格は再びその自然価格または必要価格たる四〇シリングに下落するであろう。同様にして、穀物に対する需要の増加するごとに、それは農業者に一般利潤よりより以上を与えるほどに騰貴するであろう。もし豊富な沃土があるならば、必要な資本量がその生産に用いられた後は、穀物の価格は再びその以前の標準に下落し、そして利潤は依然の如くなるであろうが、しかしもし、豊富な沃土がなく、もしこの附加的分量を生産するに普通の分量以上の資本と労働とが必要とされるならば、穀物はその以前の水準にまで下落しないであろう。その自然価値は騰貴するであろう。そして農業者は、永続的により大なる利潤を取得することなく、必要品の騰貴により齎される労賃の騰貴の不可避的結果たる、減少せる率に満足するの余儀なき立場に立つであろう。
(四四)しからば、利潤の自然的傾向は下落することである。けだし、社会及び富の進歩につれて、必要とされる食物の附加的分量はますますより多くの労働の犠牲によって得られるからである。利潤のこの傾向、すなわちいわばこの重力は、幸にして、しばしば、必要品の生産と関連せる機械の改良により、並びに吾々をして以前に必要とされた労働の一部分を不要にし得しめ、従って労働者の第一次的必要品の価格を引下げ得せしめる農学上の発見によって、妨げられている。しかしながら、必要品の価格と労働の労賃との騰貴は限られている。けだし労賃が(前に述べた場合における如く)農業者の全受取額たる七二〇磅ポンドに等しくなるや否や、蓄積は終らねばならず、またけだしいかなる資本もかかる時には何らの利潤をも生出し得ず、そして何らの附加的労働も需要され得ず、従って人口はその頂点に到達しているであろうからである。実際この時期の遥か以前に極めて低い利潤率がすべての蓄積を制止しているであろう、そして一国のほとんど全部の生産物は、労働者に支払った後に、土地の所有者及び十分の一税と租税との受取人の財産となるであろう。
 かくて、前の極めて不完全な基礎を私の計算の根拠とするならば、次のことがわかるであろう。すなわち穀物が一クヲタアにつき二〇磅ポンドの時には国の全純所得は地主に帰属するであろうが、それはけだしその時には、本来一八〇クヲタアを生産するために必要であったと同一量の労働が三六クヲタアを生産するために必要となるであろう、何となれば、£20:£4::180:36 であるから。しからば一八〇クヲタアを生産する農業者は(もしかかる者がいるといると仮定すれば――というわけは、土地に用いられる旧資本と新資本とは、決して区別され得ないように混合されるであろうから)、
一八〇クヲタアを一クヲタア二〇磅ポンドで売るであろう、すなわち……三、六〇〇磅ポンド
一四四クヲタアの価値を地代として地主に、これは三六クヲタアと
      一八〇クヲタアとの差である……………………………二、八八〇
――――――                        ―――――
三六クヲタア                          七二〇
三六クヲタアの価値を十名の労働者に、……………………………………七二〇
                              ―――――
 かくて利潤としては何物も残さないであろう。
私はこの二磅ポンドなる価格において労働者は引続き毎年三クヲタアを消費すると仮定し……六〇磅ポンド
かつ他の貨物に彼らは次を費すと仮定した、…………………………………………………………………一二
                                      ―――――――――
                                      各労働者に対し七二
従って十名の労働者は一年につき七二〇磅ポンドに値するであろう。
 すべてのこれらの計算において、私は、単に原理を闡明せんめいしようと希望しているのであって、私の全基礎が勝手に仮定されているのであり、しかも単に例証のために過ぎないことを述べる必要はほとんどない。増加しつつある人口によって必要とされる穀物逐次の分量を獲得するに必要な労働者数の差違を説明する際に、労働者の家族が消費する分量、等々を、述べることで、私がいかに正確に叙述を始めようとも、その結果は、程度こそ異ろうが、原理においては同一であったであろう。私の目的は問題を簡単にすることであった、だから私は、労働者の食物以外の他の必要品の価格騰貴を考慮に入れなかったが、この増加は、それによってそれらが造られる粗生原料品の価値騰貴の結果であり、またもちろん労賃を更に騰貴せしめ利潤を低下せしめるものであろう。
 私は既に、この価格の状態が永久的ならしめられる遥か前に、蓄積に対する動因はなくなるであろうが、それはけだし何人も、彼れの蓄積を生産的ならしめんと考えることなくして蓄積する者はなく、また蓄積が利潤に影響を及ぼすのは、それが生産的に用いられる時に限るからである、と述べた。動因がなければ蓄積はあり得ず、従ってかかる価格の状態は決して起り得ないであろう。農業者も、製造業者も、労働者が労賃なくしては生活し得ないと同様に、利潤なくしては生活し得ない。彼らの蓄積に対する動因は利潤が減ずるごとに減少し、そして、彼らの利潤が、彼らの労苦と彼らがその資本を生産的に用いるに当って必然的に遭遇しなければならぬ危険とに対して、彼らに適当な報償を与えない時には、全然止んでしまうであろう。
 私は再び、私の計算において測ったよりも利潤率は遥かにより速かに下落するであろうが、それはけだし、生産物の価値が、仮定された事情の下において、私の述べた如くであるとするならば、農業者の資本の価値は、それが必然的に価値において騰貴した貨物の多くから成っていることによって、大いに増加せしめられているであろうからである、ということを、述べなければならない。穀物が四磅ポンドから一二磅ポンドに騰貴し得る前に、彼れの資本はおそらく交換価値において倍加され、そして、三、〇〇〇磅ポンドではなく六、〇〇〇磅ポンドに値するであろう。かくてもし彼れの利潤が、一八〇磅ポンド、または彼れの元の資本に対し六%であるならば、利潤はその時には実際三%よりもより高い率にはないであろう。けだし、六、〇〇〇磅ポンドに対する三%は一八〇磅ポンドであるから。そしてかかる条件においてのみ六、〇〇〇磅ポンドの貨幣をその懐中に有っている新農業者は農業に入り得るであろう。
 多くの事業は同じ源泉から多かれ少かれある利益を得るであろう。醸造業者、酒類蒸溜業者、毛織物業者、亜麻布製造業者は、粗生原料品及び精製原料品の貯財の価値騰貴によって、その利潤の減少を一部分償われるであろう。しかし、金物や宝石やその他多くの貨物の製造業者、並びにその資本が一様に貨幣から成る者は、何らの補償もなくして、利潤率の全下落を蒙るであろう。
 吾々はまた、土地に対する資本の蓄積と労賃の騰貴との結果、いかに資本の利潤率が減少しても、しかも利潤の総額は増加するであろうと、期待しなければならぬ。かくて、一〇〇、〇〇〇磅ポンドの蓄積が繰返されるたびに、利潤率は、二〇%から一九%に、一八%に、一七%にと、絶えず逓減する率で、下落すると仮定するならば、吾々は、かかる逐次の資本所有者が受取る利潤の全額は常に逓増して行き、すなわちそれは、資本が一〇〇、〇〇〇磅ポンドの時よりも二〇〇、〇〇〇磅ポンドの時の方がより大であり、三〇〇、〇〇〇磅ポンドの時は更により大である、等々、資本が増加するごとに、逓減的率においてではあるが、しかも増加して行くことと、期待しなければならぬ。しかしながら、この逓増は一定の期間だけ真実であるに過ぎぬ。かくて二〇〇、〇〇〇磅ポンドに対する一九%は、一〇〇、〇〇〇磅ポンドに対する一九%よりもより大である。しかし資本が多額にまで蓄積され、そして利潤が下落して後はより以上の蓄積は利潤の総額を減少する。かくて蓄積が一、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドであり、そして利潤が七%であると仮定すれば、利潤の全量は七〇、〇〇〇磅ポンドであろう。さてもし一〇〇、〇〇〇磅ポンドの資本の附加がこの一百万に対してなされ、そして利潤が六%に下落するならば、資本の全額は一、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから一、一〇〇、〇〇〇磅ポンドに増加されるであろうけれども、資本の所有者は、六六、〇〇〇磅ポンドすなわち四、〇〇〇磅ポンドだけ減少せるものを受取るであろう。
(四五)しかしながら、資本がいやしくも何らかの利潤を生む限り、資本の蓄積があり得るからには、必ずそれは啻に生産物の増加のみならず価値の増加をも生むものである。一〇〇、〇〇〇磅ポンドの附加的資本を用いることによって、以前の資本のいかなる部分もより不生産的にはせしめられないであろう。国の土地と労働との生産物は増加しなければならず、そしてその価値は、以前の生産物量に対してなされた附加の価値だけ引上げられるのみならず、更にその最後の部分を生産する困難の増大によって土地の全生産物に与えられる新しい価値だけ引上げられるであろう。しかしながら、資本の蓄積が極めて大になる時には、この価値の騰貴にもかかわらず、それは、それは、以前よりも小なる価値が利潤に当てられ、他方地代及び労賃に向けられるものは増加されるというように、分配されるであろう。かくて資本に対して一〇〇、〇〇〇磅ポンドの附加がなされるごとに、二〇%から一九%に、一八%に、一七%に、一六%に、等と利潤率が下落するにつれて、年々得られた生産物は、量において増加し、それは二〇、〇〇〇磅ポンドから三九、〇〇〇磅ポンド以上に騰貴し、そして更に五七、〇〇〇磅ポンド以上に騰貴するであろう。そして、吾々が前に仮定した如くに、用いられる資本が一百万磅ポンドの時に、もし更に一〇〇、〇〇〇磅ポンドがそれに附加されかつ利潤の総額は以前よりも実際より低いとしても、それにもかかわらず六、〇〇〇以上が国の収入に附加されるであろうが、しかしそれが附加されるのは地主及び労働者の収入に対してであろう。彼らは附加的生産物よりもより多くを取得しそして彼らの地位によって、資本家の以前の利得をさえ侵し得るであろう。かくて、穀物の価格が一クヲタアにつき四磅ポンドであり、従って吾々の以前に計算した如くに、農業者が地代を支払った後彼れの手に残る七二〇磅ポンドごとにつき四八〇磅ポンドが彼れの手に留まり、そして二四〇磅ポンドが彼れの労働者に支払われるとせよ。価格が一クヲタアにつき六磅ポンドに騰貴する時には、彼はその労働者に三〇〇磅ポンドを支払いそして利潤としては単に四二〇磅ポンドをその手に留めるを余儀なくされるであろう。すなわち彼は、彼らをして以前とまさに同一量の必要品を消費し得せしめるために、彼らに三〇〇磅ポンドを支払うのを余儀なくされるであろう。さてもし用いられる資本が七二〇磅ポンドの十万倍七二、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドを生むほど大であるならば、小麦が一クヲタアにつき四磅ポンドである時は、利潤の総額は四八、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドであろう。そしてもしより大なる資本を用いることによって、小麦が六磅ポンドである時に、七二〇磅ポンドの一〇五、〇〇〇倍すなわち七五、六〇〇、〇〇〇磅ポンドが獲得されるならば、利潤は四八、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから四四、一〇〇、〇〇〇すなわち四二〇磅ポンドの一〇五、〇〇〇倍に下落し、そして労賃は二四、〇〇〇、〇〇〇磅ポンドから三一、五〇〇、〇〇〇磅ポンドに騰貴するであろう。労賃は資本に比例してより多くの労働者が用いられるであろうから騰貴するであろう。そして各労働者はより多くの貨幣労賃を受取るであろう。しかし労働者の境遇は、吾々の既に示した如くに、国の生産物のより少い分量しか彼が支配しない限り、より悪くなるであろう。唯一の真実の利得者は地主であろう。彼らはより高い地代を受取るであろうが、それはけだし第一に、生産物がより高い価値を有つであろうからであり、また第二に、彼らはその生産物の大いに増加された比例を得るであろうからである。
 たとえより大なる価値が生産されたとしても、その価値の中から地代を支払って後に残るもののより大なる割合が生産者によって消費され、そして利潤を左右するものは、これでありかつこれのみである。土地が豊富に産出する間は、労賃は一時的に騰貴し、そして生産者は彼らの習慣となっている比例以上のものを消費し得よう。しかしかくて人口に対し与えらるべき刺戟は、急速に労働者を彼らの日常の消費にまで引下げるであろう。しかし貧弱な土地が耕作されるに至った時には、またはより以上の資本と労働とが旧い土地の上に投ぜられ、より少い生産物の報酬を齎す時には、その結果は永続的でなければならない。地代を支払った後に資本の所有者と労働者との間に分割されるべく残っている生産物部分のより大なる比例は後者に割当てられるであろう。各人はより少い絶対量を得るかもしれず、またおそらく得るであろう。しかし農業者の手に残る全生産物に比例してより多くの労働者が雇傭されるのであるから、全生産物のうちでより大なる部分の価値が労賃に吸収され、従ってより小なる部分の価値が利潤に向けられるであろう。このことは必然的に、土地の生産力を制限した自然の法則によって、永続的たらしめられるであろう。
 かくて吾々はまたも、以前に吾々が樹立せんと企てたと同一の結論に到達する、――すなわち、すべての国及びすべての時において、利潤は、地代を生まないその土地においてまたはその資本をもって労働者に必要品を供給するに必要な労働量に依存する、ということこれである。しからば蓄積の結果は異る国においては異り、かつ主として土地の肥沃度に依存するであろう。その土地が貧しい質でありかつそこでは食物の輸入が禁止されている国が、いかに広大な面積を有とうとも、資本の最も適度な蓄積でさえ、利潤率の著しい減退と地代の急速な増加とを伴うであろう。そして反対に、小国ではあるが肥沃な国は、殊にもしそれが食物の輸入を自由に許すならば、利潤率の著しい減少も土地の著しい増加をも伴わずして、大なる資本を蓄積し得よう。労賃に関する章において吾々は、貨幣の本位たる金が我国の生産物であると仮定しても、またはそれが外国から輸入されると仮定しても、貨物の貨幣価格は労賃の騰貴によって騰貴せしめられないことを示さんと努めた。しかしもしそれがそうでないとしても、もし貨物の価格が永続的に高い労賃によって騰貴せしめられるとしても、高い労賃は常に、労働の雇傭者からその真実利潤の一部分を奪うことによって、彼らに影響を及ぼすと主張するこの命題は、その真実なることを害されないであろう。帽子製造業者と靴下製造業者と靴製造業者とが、彼らの貨物の特定分量の製造において各々一〇磅ポンドだけより多くの労賃を支払い、また帽子と靴下と靴との価格がこの製造業者に一〇磅ポンドを償うに足る額だけ騰貴したと仮定しても、彼らの境遇はかかる騰貴が何ら起らなかった場合よりもよりよいことは少しもないであろう。もしこの靴下製造業者が、彼れの靴下を一〇〇磅ポンドではなく一一〇磅ポンドで売ったとしても彼れの利潤は以前と正確に同一の貨幣額であろう。しかしながら彼はこの等しい額と交換に帽子や靴やその他のあらゆる貨物の十分の一だけより少い量を得、そして彼れの以前の貯蓄額をもっては騰貴せる労賃でより少い労働者しか用い得ずまた騰貴せる価格でより少い粗生原料品しか購買し得ないのであるから、彼はその貨幣利潤が実際額において減少し、そしてあらゆる物がその以前に留まっている場合よりもよりよい境遇にはいないであろう。かくて私は、第一に労賃の騰貴は貨物の価格を騰貴せしめないであろうが、しかし常に利潤を下落せしめるであろうということ、及び第二に、もしすべての貨物の価格が騰貴せしめられ得るとしても、しかも利潤に対する影響は同一であろうし、そして事実上、価格及び利潤を測定する媒介物の価値のみが下落せしめられるであろう、ということを、示さんと努めたのである。
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    第七章 外国貿易について

(四六)いかなる外国貿易の拡張も、それは極めて有力に貨物量従って享楽品の数量を増加するに寄与するとはいえ、直ちに一国の価値額を増加することはないであろう(編者註)。すべての外国財貨の価値は、それと交換に与えられる我国の土地と労働との生産量の分量によって測られるのであるから、もし新市場の発見によって吾々が我国の財貨の一定量と交換して外国財貨の二倍の量を獲得するとしても、吾々は決してより大なる価値を有たないであろう。もし一、〇〇〇磅ポンドに当る英国財貨の販売によって、一商人が、英国市場において一、二〇〇磅ポンドで売ることが出来る外国財貨のある分量を獲得することが出来たとするならば、彼はその資本をかくの如く用いることによって二〇%の利潤を得るであろう。しかし彼れの利得にしろまたは輸入貨物の価値にしろ、取得される外国財貨の量が大なるか小なるかによって増減はされはしないであろう。例えば彼が二十五樽の葡萄酒を輸入しようとまたは五十樽を輸入しようと、もしある時には二十五樽が、また他の時には五十樽が、等しく一、二〇〇磅ポンドで売れるとしても、彼れの利益は何らの影響も蒙り得ないであろう。そのいずれの場合においても、同一の価値が英国に輸入されるであろう。もし五十樽が一、二〇〇磅ポンド以上に売れるならば、この商人個人の利潤は一般利潤率を超過するであろう、そして資本は当然にこの有利な事業に流入し、ついに葡萄酒の価格の下落が万事を以前の水準にまで齎すことであろう。
(編者註)この区別を十分に理解するためには、第二十章を参照せよ。 実に、外国貿易において特定商人が時に上げる大なる利潤は、その国における一般利潤率を高め、そして新しいかつ有利な外国貿易に携わるために資本を他の職業から引去ることは、一般に価格を高めかつそれによって利潤を増加するであろう、と主張され来っている。有力な権威者によって、より少い資本が、穀物の栽培に、毛織布、帽子、靴、等の製造に、必然的に向けられているならば、需要が引続き同一である間は、これらの貨物の価格は、農業者、帽子製造業者、織布業者、及び靴製造業者が外国商人と同様に利潤の増加を受けるに至るように、増加されるであろう、と云われている(註)。
(註)アダム・スミス、第一篇、第九章を見よ(訳者註――キャナン版第一巻九五頁)。
 この議論を主張している者は、種々なる職業の利潤は相互に一致せんとする傾向があり、相共に増減する傾向がある、ということでは、私の云う所に一致する。吾々の相違点は次の一点に存する、すなわち彼らは、利潤の平等は利潤の一般的騰貴によって齎されるであろうと主張し、そして私は、有利な事業の利潤は急速に一般的水準に下降するであろうという意見なのである。
 けだし第一に、私は、穀物の栽培に、毛織布、帽子、靴等の製造に、それらの貨物に対する需要が減少しない限り――そしてもし減少するならばその価格は騰貴しないであろう、――より少い資本が必然的に向けられるに至るべきことを、否定するからである。外国貨物の購買において、英国の土地及び労働の生産物の、同一の、より大なる、またはより小なる部分が、用いられるであろう。もし同一の分量がそれに用いられるならば、毛織布や靴や穀物や帽子に対しては以前と同一の需要が存在し、そして同一の資本部分がその生産に向けられるであろう。もし、外国貨物の価格がより低廉である結果として、英国の土地及び労働の年々の生産物より小なる部分が外国貨物の購買に当って用いられるならば、他の物の購買に対してはより多くが残るであろう。もし帽子、靴、穀物、等に対して以前よりもより大なる需要があるならば、――これは、外国貨物の消費者は彼らの自由に処分し得る収入の附加的部分を有つのであるから、あり得ることであろう、――それをもってより大なる価値の外国貨物が以前購買された所の資本もまた自由に処分し得ることとなる。従って穀物、靴、等に対する需要の増加と共に、供給の増加を達する手段もまた存在し、従って価格も利潤も永続的に騰貴することは出来ない。もし英国の土地及び労働の生産物のより多くが外国貨物の購買に用いられるならば、より少い額が他の物の購買に用いられ得るに過ぎず、従ってより少い帽子、靴、等が必要とされるであろう。資本が靴、帽子、等の生産から解放されると同時に、より多くが、それで外国貨物が購買される貨物の製造に用いられなければならない。従ってあらゆる場合において、外国及び内国の貨物に対する需要の合計は、価値に関する限りにおいて、国の収入及び資本によって限定される。もし一方が増加すれば他方は減少しなければならぬ。もし英国貨物の同一量と交換して輸入される葡萄酒の量が倍加されるならば、英国人は、彼らが以前に消費した二倍の量の葡萄酒を消費し得るか、または葡萄酒の同一量と英国貨物のより大なる分量とを消費し得る。もし私の収入が一、〇〇〇磅ポンドであり、それをもって私が年々一〇〇磅ポンドで葡萄酒一樽を、そして九〇〇磅ポンドで一定量の英国貨物を購買していたとするならば、葡萄酒が一樽につき五〇磅ポンドに下落した時には、私は支出しなかった五〇磅ポンドを、もう一樽の葡萄酒の購買に支出するかまたはより多くの英国貨物の購買に支出するであろう。もし私がより多くの葡萄酒を購買し、かつあらゆる葡萄酒飲用者が同様にしたならば、外国貿易は少しも乱されないであろう。英国貨物の同一分量が葡萄酒と交換に輸出され、そして吾々は葡萄酒の二倍の価値ではないが二倍の分量を受取るであろう。しかしもし私と他の者とが、以前と同一量の葡萄酒で満足するならば、より少い英国貨物が輸出され、そして葡萄酒飲用者は、以前に輸出されていた貨物を消費するか、または彼らが嗜好を有つある他のものを消費するであろう。その生産に必要とされる資本は、外国貿易から解放された資本によって供給されるであろう。
 資本が蓄積される方法には、二つある、すなわち、それは収入の増加の結果として、または消費の減少の結果として貯蓄され得よう。もし私の利潤が一、〇〇〇磅ポンドから一、二〇〇磅ポンドに引上げられたが、私の支出は引続き同一であるならば、私は以前になしたよりも年々二〇〇磅ポンドだけより多く蓄積する、もし私が二〇〇磅ポンドを私の支出から節約するが、私の利潤は引続き同一であるならば、同一の結果が生み出され、すなわち一年につき二〇〇磅ポンドが私の資本に附加されるであろう。利潤が二〇%から四〇%に騰貴した後に葡萄酒を輸入した商人は、一、〇〇〇磅ポンドで彼れの英国財貨を購買せずして八五七磅ポンド二シリング一〇ペンスで購買しなければならぬが、これらの財貨と交換に輸入する葡萄酒は依然一、二〇〇磅ポンドで売っているのである。またはもし彼が引続きその英国財貨を一、〇〇〇磅ポンドで購買するならば彼れの葡萄酒の価格を一、四〇〇磅ポンドに引上げなければならない。彼はかくてその資本に対して二〇%ではなく四〇%の利潤を取得するであろう。もし、それに彼れの収入が費されるすべての貨物が低廉である結果、彼及びすべての他の消費者が、以前に費した一、〇〇〇磅ポンドごとに二〇〇磅ポンドの価値を節約し得るならば、彼らは国の真実の富をより有効に増加するであろう。一方の場合においては貯蓄は収入の増加の結果なされたものであり、他方の場合において支出の減少の結果なされたものであろう。
 もし機械の導入により、収入がそれに費される貨物の大部分が価値において二〇%下落するならば、私は、私の収入が二〇%だけ増加したと同様に有効に貯蓄し得るであろう。しかし一方の場合においては利潤率は静止的であり、他方の場合においてはそれは二〇%騰貴せしめられているのである――もし低廉な外国財貨の導入により、私が二〇%だけ私の支出から節約し得るならば、その結果は、機会がその生産費を引下げた場合と正確に同一であろうが、しかし利潤は騰貴しないであろう。
 従って、利潤率が騰貴するのは市場の拡張の結果ではない、たとえかかる拡張は貨物量を増加するには等しく有効であり、かつそれによって、吾々をして、労働の維持に向けられる基金、及びそれに労働が用いられる原料を増加し得しめるであろうとはいえ。吾々の享楽品が、労働のより良き分配により、また各国がその位置やその気候やその他の自然的なまたは人工的な利便のためにその生産に適当する貨物を生産することにより、かつそれを各国が他国の貨物と交換することにより、増加されることは、この享楽品が利潤率の騰貴によって増加されるのと同様に、人類の幸福にとり重要なことである。
 利潤率は労賃の下落によってにあらずんば決して騰貴し得ず、かつそれに労賃が費される必要品の下落の結果としてにあらずんば労賃の永続的下落はあり得ないということを、本書全巻を通じて証明しようというのが、私の努力であった。従ってもし、外国貿易の拡張によりまたは機械の改良によって、労働者の食物及び必要品が低減せる価格で市場に齎され得るならば、利潤は騰貴するであろう。もし、吾々自身の穀物を栽培しまたは労働者の衣服その他の必要品を製造する代りに、吾々が、そこからより低廉な価格でそれを得ることの出来る新市場を発見するならば、労賃は下落しそして利潤は騰貴するであろう。しかしもし、外国商業の拡張によりまたは機械の改良によって、より低廉な率で取得される貨物が、もっぱら富者によって消費される貨物であるならば、利潤率には何らの変動も起らないであろう。葡萄酒や天鵞絨ビロードや絹やその他の高価な貨物が五〇%下落しても、労賃率は影響を受けず、従って利潤は引続き変動しないであろう。
 かくて外国貿易は、それに収入が費される物の分量と種類とを増加し、そして貨物の豊富と低廉とによって、節約並びに資本の蓄積に対して刺戟を与えるから、一国にとり極めて有利ではあるが、輸入貨物がそれに労働の労賃が費される種類のものでない限り、資本の利潤を引上げる傾向を有たないであろう。
 外国貿易についてなされた叙述は内国商業にも同様に妥当する。利潤率は、労働のより良き分配により、機械の発明により、道路及び運河の建設により、または財貨の製造か運搬かにおける労働を節約する手段によっては、決して増加されない。これらのものは価格に作用を及ぼす原因ではあり、そして必ずや消費者に極めて有利なものである、けだしそれは彼らをして、同一の労働をもって、または同一の労働の生産物の価値をもって、それに改良が加えられた貨物のより大なる分量を交換して取得し得せしめるからである。しかしそれは利潤に対しては何らの影響も及ぼさない。他方において、労働の労賃のあらゆる減少は利潤を高めるが、しかし貨物の価格に対しては何らの影響をも生み出さない。一方はすべての階級にとり有利であるが、それはすべての階級は消費者であるからである。他方は生産者にとり有利であるのみである。彼らはより多く利得する、しかしあらゆる物は引続きその以前の価格にあるのである。第一の場合においては彼らは以前と同じものを得る、しかしそれに彼らの利得が費されるあらゆる物は、交換価値において減少しているのである。
(四七)一国における貨物の相対価値を左右すると同一の規則は、二つまたはそれ以上の国の間に交換される貨物の相対価値を左右しはしない。
 完全な自由貿易の制度の下においては、各国は当然にその資本及び労働を各々にとり最も有利な職業に向ける。この個人的利益の追求は全体の普遍的幸福と驚嘆すべきほどに結びついている。勤労を刺戟し、器用さに報酬を与え、かつ自然の与える力を最も有効に使用することによって、それは最も有効にかつ最も経済的に労働を分配し、他方、生産物総量を増加することによって、それは一般的便益を公布し、そして利益と交通という一つの共通の紐帯によって、文明世界を通じて諸国民の普遍的社会を結成する。葡萄酒はフランス及びポルトガルにおいて造らるべく、穀物はアメリカ及びポウランドにおいて栽培さるべく、かつ金物その他の財貨は英国において製造せらるべきである、ということを決定する所のものは、この原理である。
 同一国内においては、利潤は、一般的に言えば、常に同一の水準にあり、または資本の用途の安固と快適との大小に従って異るのみである。異れる国の間ではそうではない。
 もしヨオクシアにおいて用いられている資本の利潤が、ロンドンにおいて用いられている資本のそれを超過するならば、資本は急速にロンドンからヨオクシアに移動し、そして利潤の平等が達せられるであろう。しかしもし資本及び人口の増加によって英国の土地における生産率の減少せる結果、労賃が騰貴しそして利潤が下落しても、資本及び人口が必然的に英国から、利潤のより高いオランダやスペインやロシアへ移動するということには、ならないであろう。
 もしポルトガルが他国と何らの商業関係をも有たないならば、この国は、その資本及び勤労の大部分を、葡萄酒――それをもってこの国は他国の毛織布や金物を自国自身の使用のために購買するのであるが、――の生産に用いずに、その資本の一部をかかる貨物のの製造に向けざるを得ないであろうが、かくてこの国はおそらく質並びに量において劣れるものを取得することになろう。
 この国が英国の毛織布と交換に与えるであろう葡萄酒の分量は、もし双方の貨物が英国において製造されるかまたは双方がポルトガルにおいて製造される場合の、その各々の生産に投ぜられる労働の各分量によっては、決定されない。
 英国は、毛織布を生産するに一年間に一〇〇名の人間の労働を必要とする状態にあるであろう。そしてもしこの国が葡萄酒を造ろうと企てるならば、同一期間に一二〇名の人間の労働を必要とするであろう。英国は従って、葡萄酒を輸入し、そしてそれを毛織布の輸出によって購買するのが、その利益であることを見出すであろう。
 ポルトガルにおいて葡萄酒を生産するには一年間に単に八〇名の労働を必要とするのに過ぎぬであろうし、また同一国において毛織布を生産するには、同一期間に九〇名の労働を必要とするであろう。従ってこの国にとっては、毛織布と交換に、葡萄酒を輸出するのが有利であろう。ポルトガルが輸入する貨物が、英国におけるよりそこでより少い労働をもって生産され得るにもかかわらず、この交換はなお行われるであろう。この国が九〇名の労働をもって毛織布を製造し得ても、この国はそれを生産するに一〇〇名の労働を必要とする国から、それを輸入するであろう、けだしこの国にとって、その資本の一部分を葡萄の栽培から毛織布の製造に移すことによって生産し得るよりもより多くの毛織布を英国から取得するであろうところの、葡萄酒の生産に、その資本を用いる方が、むしろ有利であるからである。
 かくて英国は、八〇名の労働の生産物に対して、一〇〇名の労働の生産物を与えるであろう。かかる交換は同一国の個人の間では起り得ないであろう。一〇〇名の英国人の労働は、八〇名の英国人のそれに対して与えられ得ない、しかし一〇〇名の英国人の労働の生産物は、八〇名のポルトガル人の、六〇名のロシア人の、または一二〇名の東印度人の労働の生産物に対して、与えられ得よう。一国と多くの国との間のこの点に関する相違は、資本がより有利な職業を求めて一国から他国に移動する困難と、同一国において資本が常に一つの地方から他の地方に移る敏速さとを考慮すれば、容易に説明されるのである(註)。
(註)しからば、機械及び技術に極めて著しい便益を有し、従ってその隣国よりも極めてより少い労働をもって貨物を製造し得る国は、たとえその土地がより肥沃であり、そしてそこから穀物を輸入する国におけるよりも、より少い労働をもって穀物が栽培され得るとしても、その消費のために必要とされる穀物の一部分を製造貨物と引換に輸入するであろう。二名の人が共に靴と帽子とを造ることが出来、そして一方はこの両職業において他方に優越しているとし、ただし帽子を造る上では、彼はその競争者に単に五分の一すなわち二〇%優れているに過ぎず、そして靴を造る上では、彼は競争者に三三%優れているとする、――優越せる人はもっぱら靴の製造に従事し、そして劣れる人は帽子の製造に従事するというのが、双方の利益ではないであろうか? 英国の資本家と両国の消費者にとっては、かかる事情の下においては、葡萄酒と毛織布との双方がポルトガルにおいて造られ、従って毛織布の製造に用いられている英国の資本と労働とがその目的のためにポルトガルへ移されるのが、疑いもなく有利であろう。その場合には、これらの貨物の相対価値は、一方がヨオクシアの産物であり他方がロンドンの産物である場合と、同一の原理によって左右されるであろう。そしてあらゆる他の場合において、もし資本が最も有利に用いられ得る国へ自由に流入するならば、利潤率の差違はあり得ず、また貨物が売却されるべき種々なる市場へそれを運搬するに必要な労働量の附加以外の、貨物の真実価格すなわち労働価格の差違はあり得ないであろう。
 しかしながら経験は、その所有者の直接的統制下にない時の資本の想像上のまたは真実の不安固と、並びにあらゆる人が自ら生れかつ諸関係を有っている国を棄てて彼れの固定せる習慣の一切を持ちながら異る政府と新しい法律とに身を委ねることを嫌う自然的性情は、資本の移出を妨げるものであることを、示している。かかる感情は、私はそれが弱められるのは遺憾なことと思うが大部分の財産家をして、外国民の間で彼らの富に対するより有利な用途を求めるよりもむしろ、自国内で低い利潤率に満足せしめるのである。
(四八)金と銀は流通の一般的媒介物に選ばれているから、それらは商業上の競争によって、もしかかる金属が存在せずかつ諸国間の貿易が純粋に物々交換である場合に発生すべき自然的交易に適応する如き比例において、世界の種々なる国々の間に分配されている。
 かくて毛織布は、ポルトガルにおいてはその輸出国において値するよりもより多くの金に対して売れない限り、ポルトガルに輸入され得ない。そして葡萄酒は、英国においてはそれがポルトガルにおいて値するよりもより多くに対して売れない限り、英国には輸入され得ない。もし貿易が純粋に物々交換であるならば、英国が葡萄を栽培するよりも毛織布を製造することによって、一定量の労働をもってより大なる分量の葡萄酒を取得するほどに毛織布を低廉に製造し得る間だけ、そしてまたポルトガルの産業が反対の結果を伴う間だけ、それは継続し得るであろう。さて英国が葡萄酒製造の一行程を発見し、そのためにそれを輸入するよりもそれを造った方がその利益となったと仮定しよう。この国は当然その資本の一部分を外国貿易から内国商業に移すであろう。この国は輸出のための毛織布の製造を止め、自ら葡萄酒を造るであろう。これらの貨物の貨幣価格はこれにつれて左右されるであろう。我国においては葡萄酒は下落するであろうが、毛織布はその以前の価格に止っているであろうし、またポルトガルにおいてはいずれの貨物の価格にも何らの変動も起らないであろう。毛織布は引続きある時期の間我国から輸出されるであろうが、それはけだしその価格が、我国よりもポルトガルにおいて引続きより高いからである。しかし葡萄酒の代りに貨幣がそれと交換に与えられついに我国における貨幣の蓄積と外国におけるその減少とが、両国における毛織布の相対価値に影響を及ぼし、ためにその輸出がもはや有利ではなくなるに至るであろう。もしも葡萄酒製造上の改良が極めて重要なる種類のものであるならば、両国にとり職業を交換することが有利となり、英国にとっては両国が消費するすべての葡萄酒を、ポルトガルにとっては両国が消費するすべての毛織布を、製造することが有利となるであろう。しかしこのことは、英国においては毛織布の価格を引上げポルトガルにおいてはそれを引下げるべき貴金属の新たな分配、によってのみなされるであろう。葡萄酒の相対価格はその製造上の改良から起る真実の利益の結果として英国において下落するであろう。換言すればその自然価格は下落するであろう。毛織布の相対価格は貨幣の蓄積により英国において騰貴するであろう。
 かくて、英国における葡萄酒製造の改良の前に、葡萄酒の価格が我国において一樽につき五〇磅ポンドであり、そして一定分量の毛織布の価格が四五磅ポンドであり、他方ポルトガルにおいては、同一量の葡萄酒の価格は四五磅ポンドであり、そして同一量の毛織布のそれは五〇磅ポンドであると仮定すれば、葡萄酒は五磅ポンドの利潤をもってポルトガルから輸出され、そして毛織布は同一額の利潤をもって英国から輸出されるであろう。
(四九)改良の後に、葡萄酒は英国において四五磅ポンドに下落し、毛織布は引続き同一の価格にあると仮定せよ。商業におけるあらゆる取引は独立の取引である。一商人が英国において毛織布を四五磅ポンドで買いかつポルトガルにおいてそれを通常の利潤をもって売ることが出来る間は、彼れは引続き英国からそれを輸出するであろう。彼れの営業は単に、英国の毛織布を購買し、そして彼がポルトガルの貨幣をもって買入れる為替手形でそれに対し支払をなすことである。彼れの取引は疑いもなく、彼がそれによってこの手形を取得し得る条件によって左右されるが、しかしその条件はその時彼に判っている。そして手形の市場価格、すなわち為替相場に影響を及ぼすべき原因は、彼れの関せぬ所である。
 もし市場がポルトガルから英国への葡萄酒の輸出にとり有利であるならば、葡萄酒の輸出業者は手形の売手となり、その手形は毛織布の輸入業者かまたは、彼にその手形を売った人かによって、買われるであろう。かくして貨幣がそのいずれの国からも移動する必要なしに、各国の輸出業者はその財貨に対して支払を受けるであろう。相互に何らの直接的取引関係をも有たないのに、毛織布の輸入業者がポルトガルにおいて支払う貨幣は、ポルトガルの葡萄酒輸出業者に支払われるであろう。そして英国においては同一の手形の授受によって、毛織布の輸出業者は葡萄酒の輸入業者からその価値を受取る権限を与えられるであろう。
 しかしもし葡萄酒の価格が、葡萄酒が全然英国に輸出され得ないという程度であっても、毛織布の輸入業者は等しく手形を買うであろう。しかしその手形の売手が、それによって彼が終局的に二国間の取引を決済し得る所の出合手形が市場に無いことを知っているから、その手形の価格はより高くなるであろう。彼は、英国の取引先をして自己が彼に権能を与えた支払の要求に対し支払し得せしめるために、取引先に実際に輸出しなければならないことを、知っているであろう、従って彼は、彼れの手形の価格の中に、彼れの正当にして普通なる利潤と共に、一切の諸掛を請求するであろう。
 かくてもし英国宛手形に対するこの打歩が毛織布の輸入に対する利潤に等しいならば、この輸入はもちろん止むであろう。しかしもしこの手形に対する打歩が二%に過ぎず、英国における一〇〇磅ポンドの債務を支払い得るためにポルトガルにおいて一〇二磅ポンドを支払わなければならぬけれども、四五磅ポンドを費した毛織布が五〇磅ポンドで売れるならば、毛織布は輸入され、手形は買われ、そして貨幣は輸出され、ついにポルトガルにおける貨幣の減少と英国におけるその蓄積とがかかる取引を続けるのがもはや有利でなくなるような価格の状態を生み出すに至るであろう。
 しかし一国における貨幣の減少と及び他国におけるその増加とは、一貨物の価格に影響するばかりでなく、すべての貨物の価格に影響を及ぼし、従って、葡萄酒と毛織布との双方の価格は英国において高められ、そして双方はポルトガルにおいて低下せしめられるであろう。毛織布の価格は、一方の国においては四五磅ポンド他方の国においては五〇磅ポンドであるのが、おそらくポルトガルにおいては四九磅ポンドまたは四八磅ポンドに下落し、また英国においては四六磅ポンドまたは四七磅ポンドに騰貴し、そして手形に対する打歩を支払った後にはその貨物の輸入を商人に誘うに足るほどの利潤を与えないであろう。
 各国の貨幣が、有利な物々貿易を左右するに必要である如きかかる分量においてのみ、それに割当てられるのはかくの如くにしてである。英国は葡萄酒と交換に毛織布を輸出したが、それはかくすることによってその産業が英国にとりより生産的にされたからである。そしてポルトガルは毛織布を輸入し、そして葡萄酒を輸出したが、それはポルトガルの産業は葡萄酒を生産することによって両国にとってより有利に用いられ得たからである。
(五〇)英国において毛織布を生産するに、またはポルトガルにおいて葡萄酒を生産するに、より多くの困難があるとせよ、あるいは英国において葡萄酒を生産するに、またはポルトガルにおいて毛織布を生産するに、より多くの利便があるとせよ、しかる時は貿易は直ちに止むであろう。
 ポルトガルの事情には何らの変化も起らないが、しかし英国は、葡萄酒の製造にその労働をより生産的に用い得ることを見出したとすれば、直ちに二国間の物々貿易は変化する。啻にポルトガルからの葡萄酒の輸出が停止されるばかりでなく、更に貴金属の新しい分配が起り、そして英国の毛織布の輸入もまた妨げられる。
 両国はおそらく、それ自身の葡萄酒とそれ自身の毛織布とを造るのが彼らの利益であることを見出すであろう、だが次の奇妙な結果が起ることであろう、すなわち英国においては、葡萄酒はより低廉になるであろうが毛織布は価格騰貴し、それに対し消費者はより多くを支払うであろう、しかるにポルトガルにおいては、毛織布と葡萄酒との両者の消費者はそれらの貨物をより低廉に購買し得るであろう。改良のなされた国においては価格は騰貴するであろう。何らの変化も起らなかったがしかし外国貿易の有利な部門を奪われた国においては価格は下落するであろう。
 しかしながらこのことはポルトガルにとり単に見かけの上での利益に過ぎない、けだしその国において生産される毛織布と葡萄酒との分量の合計は減少されるであろうが、英国において生産される分量は増加されるであろうからである。貨幣は二国においてある程度においてその価値を変化するであろう。それは英国においては低められ、ポルトガルにおいては高められるであろう。貨幣で測ればポルトガルの全収入は減少し、同じ媒介物で測れば英国の全収入は増加するであろう。
 かくて、ある国における製造業の改良は、世界の諸国民間の貴金属の分配を変更する傾向があるように思われる。それは、改良が行われる国における一般物価を引上げると同時に、貨物の分量を増加する傾向があるのである。
(五一)問題を簡単にするために、私は、二国間の貿易は二つの貨物――葡萄酒と毛織布――に限られるものと仮定して来た。しかし多くのかつ種々なる財貨が輸出入品表にあることは、人の知る所である。一国から貨幣を引去りそれを他国において蓄積することによって、あらゆる貨物は価格において影響を蒙り、従って貨幣の他の遥かにより多くの貨物の輸出に奨励が与えられ、従ってこのことは、しからざれば起るものと期待すべきほどの大なる結果が二国における貨幣価値に起るのを、妨げるであろう。
 技術及び機械における改良の他に、貿易の自然的通路に常に作用しており、かつ均衡及び貨幣の相対価値を乱す所の、種々なる他の原因がある。輸出奨励金または輸入奨励金、貨物に対する新しい租税は、時にはその直接のまた他の時にはその間接の作用によって、自然的物々貿易を紊みだし、かつその結果として、物価を商業の自然的通路に適応させるために貨幣を輸入しまたは輸出することを必要ならしめる。そしてこの結果は、啻に混乱原因が起った国においてのみならず、更にまたその程度は多かれ少かれ、商業界のあらゆる国においても、生み出されるのである。
 このことはある程度において、異れる国において貨幣価値の異ることを説明するであろう。それは、内国貨物及び比較的小なる価値を有つものではあるが嵩高かさだかの貨物の価格が、他の原因とは無関係に、製造業の栄えている国においてより高い理由を吾々に説明するであろう。正確に同一の人口と等しい肥沃度の耕地の同一量とを有ち、また同一の農業知識を有つ、二国の中で、輸出貨物の製造により大なる熟練とより良い機械とが用いられている国においては粗生生産物の価格が最高であろう。利潤率はおそらくほとんど異らないであろう。けだし労働者の労賃または真実の報酬は両国において同一であろうからである。しかしこの労賃は粗生生産物と同様に、その技術と機械とに伴う利益によって豊富な貨幣がその財貨と交換して輸入される国においては、貨幣においてはより高く測られるであろう。
 これら二国の中、もし一方はある質の財貨の製造に得点を有ち、そして他方はある他の質の財貨の製造に得点を有つとすれば、そのいずれにも多くの貴金属流入はないであろう。しかしもしそのいずれかの有つ得点が他方に甚しく優越するならば、この結果は避け得ないであろう。
 本書の前の部分において吾々は、議論の便宜上、貨幣は常に引続き同一の価値を有つものと仮定した。吾々は今や貨幣の価値の通常の変動と全商業界に共通な変動との以外に、貨幣が特定の国において蒙る部分的変動もあることを説明しそして実際(編者註)、貨幣価値はそれが現在しかるが如くに、相対的課税に製造上の熟練に、気候や自然的産物やその他多くの原因に関する利便に、依存するものであるから、ある二国において決して同一ではないことを、説明しようと努めているのである。
(編者註)原書に to fact とあるのは in fact の誤植であろう。(五二)しかしながら、貨幣はかかる不断の変動を蒙り、従って大部分の国に共通な貨物の価格もまたかなりの相違を免れないであろうけれども、しかも貨幣の流入によっても流出によっても、利潤率には何らの結果も生み出されないであろう。資本は、流通の媒介物が増加されたからとて、増加されないであろう。もし農業者がその地主に支払う地代とその労働者に支払う労賃とが、ある国においては他国よりも二〇%だけより高く、またもし同時に、農業者の資本の名目価値が二〇%だけより多くなったとすれば、彼がその粗生生産物を二〇%だけ高く売っても、彼は正確に同一の利潤率を受取るであろう。
 利潤は――これはいくら繰返しても繰返し過ぎるということはないが――労賃に、名目労賃でなく真実労賃に、労働者に年々支払われる貨幣量ではなくこの貨幣量を得るに必要な日労働数に依存する(訳者註)。従って労賃は二国において正確に同一であろう。これらの国の一方においては労働者は一週につき十シリングを受取り、他方において十二シリングを受取るとも、それは地代及び土地から得られる全生産物に対して同一の比例を有つであろう。
(訳者註)傍点は編者の施せる所である。
 製造業がほとんど進歩しておらず、そしてすべての国の生産物がほとんど類似していて、嵩高なかつ最も有用な貨物から成っている所の、社会の初期の段階においては、異れる国における貨幣価値は、主として貴金属を供給する鉱山からのその距離によって左右されるであろう。しかし、社会の技術と改良とが進歩し、そして異る国民が特定の製造業において優越するに従って、距離はなお計算には入るであろうけれども、貴金属の価値は主としてそれらの製造業の優越によって左右されるであろう。
 あらゆる国民が単に穀物や家畜や粗布のみを生産し、そして金がそれらの貨物を生産する国またはかかる国を征服している国から取得され得るのは、かかる貨物の輸出によってのみであると仮定するならば、金は当然に、英国におけるよりもポウランドにおいてより大なる交換価値を有つであろうが、それは穀物の如き嵩高な貨物をより遠い航海で送ることの費用のより大なるためであり、また金を金をポウランドへ送ることに伴う費用のより大なるためである。
 金の価値のこの相違は、――または同じことであるが――この二国における穀価のこの相違は、英国において穀物を生産する便益が、土地のより大なる肥沃度と労働者の熟練及び器具における優越によって、ポウランドのそれよりも遥かにより以上であっても、なお存在するであろう。
 しかしながらもしポウランドが最初にその製造業を改良するならば、もしこの国が、小なる容積中に大なる価値を含む所の一般に欲求される貨物を製造することに成功するならば、またはもしこの国のみが、一般に欲求されかつ他国が所有せぬある自然的生産物に恵まれているならば、この国は、この貨物と交換に金の附加的分量を取得するであろうが、それはこの国の穀物や家畜や粗布の価格に影響を及ぼすであろう。遠距離という不利益は、おそらく、大なる価値を有つ輸出貨物を有つという利益によって相殺されて余りあるであろう、そして貨幣は英国におけるよりもポウランドにおいて永続的により低い価値を有つであろう。もし反対に、技術及び機械の利益が英国によって所有されるならば、何故なにゆえに金がポウランドにおけるよりも英国においてより少い価値を有ち、かつ何故なにゆえに穀物や家畜や衣服が英国においてより高い価格にあるのかについての、もう一つの理由が、以前に存在した理由に附加されるであろう。
 以上が世界の異る国における比較的貨幣価値を左右するただ二つの原因であると私は信ずる。けだし、課税は貨幣の平衡を攪乱するけれども、それは課税されている国から、熟練、勤労、及び気候に伴う利益のあるものを奪うことによって、攪乱するのであるからである。
 貨幣の低き価値と、穀物その他の貨幣がそれと比較される貨物の高き価値とを、注意深く区別しようというのが、私の努力であった。この両者は、一般的には、同じことを意味するものと考えられ来った。しかし、穀物が一ブッシェルにつき五シリングから十シリングに騰貴する時には、それは貨幣価値の下落かまたは穀物の価値の騰貴かによるものであろうことは、明かである。かくて吾々は、増加しつつある人口を養わんがために逐次ますますより劣れる質の土地に頼らねばならぬ必要によって、穀物は他の物に対する相対価値において騰貴しなければならない、ということを見た。従ってもし引続き永続的に同一の価値を有つならば、穀物はかかる貨幣のより多くと交換され、換言すればそれは価格において騰貴するであろう。同一の穀価の騰貴は、吾々をして特殊の利便をもって貨物を造るを得せしめるべきような製造業の機械の改良によっても、惹起されるであろうが、それはけだし、貨幣の流入がその結果として起るであろうからである。それは価値において下落し、従ってより少い穀物と交換されるであろう。しかし穀物の高き価格の結果起る諸結果は、それが穀価の騰貴によって惹起された場合と貨幣価値の下落によって惹起された場合とでは、全然異っている。双方の場合において労賃の貨幣価格は騰貴するであろうが、しかしもしそれが貨幣価値の下落の結果であるならば、単に労賃及び穀物のみならず、更にすべての他の貨物も騰貴するであろう。製造業者は労賃としてより多くを支払わなければならぬとしても、彼れの製造財貨に対し彼はより多くを受取り、そして利潤率は依然影響を受けないであろう。しかし穀価の騰貴が生産の困難の結果である時には、利潤は下落するであろう、けだし製造業はより多くの労賃を支払うを余儀なくされ、そして彼れの製造貨物の価格の引上げによって補償を得ることが出来ないであろうから。
(五三)鉱山採掘の便宜における進歩によって貴金属類がより少い労働をもって生産され得るに至るならば、貨幣価値は一般に下落するであろう。その時にはそれはすべての国においてより少い貨物と交換されるであろう。しかしある特定の国が製造業において優越し、そのためその国への貨幣の流入が惹起される時には、その国においては他の国におけるよりも貨幣はより低く、そして穀物及び労働の価格は相対的により高いであろう。
 このより高い貨幣価値は為替相場によっては表示されないであろう。手形は、一つの国においては他国よりも穀物及び労働の価格が一〇%、二〇%、または三〇%だけより高くあっても、引続き額面で授受されるであろう。仮定された事情の下においてはかかる価格の差異は事理の当然であり、そして為替相場は、製造業に優越する国に十分な分量の貨幣が導入され、ためにその国の穀物及び労働の価格が引上げられる時においてのみ、平価にあり得るのである。もし外国が貨幣の輸出を禁止し、そしてかかる法律の遵守を強制することに成功するならば、その国は実際は、製造業国の穀物及び労働の価格騰貴を妨げ得るであろう。けだし、紙幣が用いられていないと仮定すれば、かくの如き騰貴は、貴金属の流入の後にのみ起り得るからである。しかしそれは為替相場がその国に著しく逆となるのを防ぎ得ないであろう。もし英国がこの製造業国であり、そして貨幣の輸入を妨げ得るとすれば、フランス、オランダ、及びスペインとの為替相場は、これらの国々に対して五%、一〇%、または二〇%逆になるであろう。
 貨幣の流通が強制的に停止され、そして貨幣がその正当な水準に落着くことを妨げられる時には、いつでも、為替相場の起り得べき変動には限りがない。その結果は持参人の要求に応じて正金と兌換され得ない紙幣が強制的に流通せしめられる時に随伴するものと同様である。かかる通貨は必然的に、それが発行される国に限定される。すなわちそれは過多の時といえども、一般に他国へは普及され得ない。流通の水準が破壊され、そして為替相場は不可避的に、紙幣量が過剰なる国に対し逆となるであろう。貿易の流れが貨幣に国外流出の動因を与えた時に、もし強制的な手段により遁のがれ得ざる法律によって貨幣が一国に留置かれるならば、金属貨幣流通の結果も右の紙幣の場合と同様であろう。
 各国がその当然有つべき貨幣量を正確に有っている時においても、多くの貨物についてそれは五%か一〇%かまたは二〇%も異っていようから、貨幣は実際その各々において同一の価値を有たないであろうが、しかし為替相場は平価であろう。英国における一〇〇磅ポンド、または一〇〇磅ポンドに含まれている銀は、フランスやスペインやオランダにおいて、一〇〇磅ポンドの手形、または同一量の銀を購買するであろう。
 為替相場及び異る国における貨幣の比較価値を論ずるに当って、吾々は決して、その各国において貨物において評価された貨幣の価値に関説してはならない。為替相場は、穀物、毛織布、またはいかなる貨物において貨幣の比較価値を評価しても、確かめられるものではなく、それは一国の通貨の価値を他国の通貨において評価することによって確かめられるものである。
 それはまた、それと両国に共通なある標準に比較することによっても、確かめられ得よう。もし一〇〇磅ポンドの英国宛手形がフランスかスペインにおいて、同額のハムブルグ宛手形が購買すると同一量の財貨を購買するならばハムブルグと英国との間の為替相場は平価である。しかしもし一三〇磅ポンドの英国宛手形が、一〇〇磅ポンドのハムブルグ宛手形と同じだけを購買するに過ぎないならば、為替相場は英国に対し三〇%逆である。
 英国において一〇〇磅ポンドは、オランダにおいて一〇一磅ポンド、フランスにおいて一〇二磅ポンド、及びスペインにおいて一〇五磅ポンドを受取る権利、すなわち手形を購買し得よう。その場合には英国との為替相場は、オランダにとり一%逆、フランスにとり二%逆、そしてスペインにとり五%逆、と言われる。それは、これらの国においては通貨の水準が当然あるべきよりもより高いことを示すものであり、そして英国のそれは、これらの国から通貨を引出すかまたは英国の通貨を増加せしめることによって、直ちに平価に囘復されるであろう。
 我国の通貨が最近十年間減価し、その間に為替相場は我国に二〇ないし三〇%逆となった、と主張した人々も、貨幣は一国において、種々なる貨物との比較において、他国におけるよりもより大なる価値を有ち得ないとは――彼らはかく主張したと非難されているが、――主張したのでは決してない。彼らは、一三〇磅ポンドが、ハムブルグまたはオランダの貨幣で評価して、一〇〇磅ポンドに含まれる地金よりもより多くの価値を有たない時には、それが減価せられざる限り、それは英国に留置され得ない、と主張したのである。
 一三〇磅ポンドの純良な英国磅ポンド貨幣をハムブルグへ送ることによって、五磅ポンドの費用を要しても、私はハムブルグで一二五磅ポンドを得るであろう。しからばハムブルグにおいて一〇〇磅ポンドを私に与える手形に対し一三〇磅ポンドを支払うことを私に承諾せしめるものは、私の磅ポンドが純良な磅ポンド貨幣でないということ以外の理由で有り得ようか? ――私の磅ポンドは減価せられたのであり、その内在価値においてハムブルグの磅ポンド貨幣以下に低下せしめられたのであり、そしてもし実際五磅ポンドの費用でその地へ送られるならば一〇〇磅ポンドにしか売れぬであろう。金属磅ポンド貨幣をもってすれば私の一三〇磅ポンドはハムブルグにおいて私に一二五磅ポンドを与えるであろうが、しかし磅ポンド貨幣をもってすれば私は単に一〇〇磅ポンドを取得し得るに過ぎないということは、否定されていないが、しかし紙幣での一三〇磅ポンドは銀または金での一三〇磅ポンドと等しい価値を有つ、と主張されたのである。
 ある人々は実際紙幣での一三〇磅ポンドは金属貨幣での一三〇磅ポンドと等しい価値を有たないと主張したが、それはより正当である。しかし彼らはその価値を変じたのは金属貨幣であって紙幣ではないと云った。彼らは、減価なる語の意味を実際の価格下落の場合に限定しようと欲し、そして貨幣の価値と法律によってそれを定める本位との比較的差違に限定しようとは欲しなかった。英国貨幣の一〇〇磅ポンドは以前にはハムブルグ貨幣の一〇〇磅ポンドと等しい価値を有ち、そしてこれを購買することが出来た。他のいかなる国においても、英国宛またはハムブルグ宛の一〇〇磅ポンド手形は、正確に同一量の貨物を購買することが出来た。近頃は同一の物を取得するために、ハムブルグはハムブルグ貨幣の一〇〇磅ポンドでそれを取得することが出来たのに、私は英国貨幣の一三〇磅ポンドを支払うを余儀なくされた。かくてもし英国の貨幣は以前と同一の価値を有つならば、ハムブルグの貨幣が価値において騰貴したのに相違ない。しかしどこにこのことの証拠があるか? 英国の貨幣が下落したのかまたはハムブルグの貨幣が騰貴したのかは、いかにして確かめらるべきであるか? このことを決定し得る標準は無い。それは証拠を許さない推測であり、そして積極的に肯定することもまた積極的に否定することも出来ない。世界の諸国民は、夙つとに早くから、誤りなくそれに頼り得る価値の標準は本来ないことを確信しているに相違なく、従って彼らは、大体において他のいかなる貨物よりも変動しないように彼らに思われた媒介物を、選んだのである。
 法律が変更されるまで、そしてある他の貨物――その使用によって吾々が樹立した標準よりもより完全な標準を取得すべき所の貨物――が発見されるまで、吾々はこの標準に従わなければならない。金が我国においてもっぱら標準である間は、金が一般価値において騰貴すると下落するとにかかわらず、磅ポンド貨幣が本位たる金の五ペニウェイト三グレインと等しい価値を有たない時には、貨幣は減価されていることになるであろう。
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    第八章 租税について

(五四)租税とは、一国の土地及び労働の生産物の中、政府の処分に委ねられた所の一部分であり、そして常に終局においては、一国の資本かまたは収入かから支払われるものである。
 吾々は既にいかにして一国の資本が、その耐久性の多少に従って、固定資本かまたは流動資本かになることを示した。流動資本と固定資本との区別がどこから始まるかを、厳密に定義するのは困難であるが、それはけだし資本の耐久力にはほとんど無限の各程度があるからである。一国の食物は少くとも毎年一度は消費されかつ再生産される。労働者の衣服は、おそらく二年以内に消費されかつ再生産されはしないであろう。しかるに彼れの家屋や什器は十年または二十年の間耐えるものと計算されている。
 一国の年々の生産がその年々の消費を代置して余りある時には、それはその資本を増加せしめると言われる。その年々の消費が少くともその年々の生産によって代置されない時には、それはその資本を減少すると言われる。従って資本は、生産の増加によりまたは不生産的消費の減少によって、増加され得よう。
 もし政府の消費が附加的税の賦課によって増加された時に、人民の側における生産の増加かまたは消費の減少かがあるならば、租税は収入の負担する所となり、そして国民資本は何らの害を蒙らないであろう。しかしもし人民の側において生産の増加または不生産的消費の減少がないならば、租税は必然的に資本の負担する所となり、換言すれば、それは生産的消費に当てられた資金を害するであろう(註)。
(註)一国のすべての生産物は消費されるが、しかしそれが、再生産する者によって消費されるか、または他の価値を再生産しない者によって消費されるかは、想像し得る最大の相違をなすものであることを、理解しなければならない。吾々が、収入が貯えられそして資本に附加される、と言う時には、吾々の意味する所は、資本に附加されると言われる収入の部分が、不生産的労働者ではなく生産的労働者によって消費される、ということである。資本は非消費によって増加されると想像するよりもより大なる誤謬はあり得ない。もしも労働の価格が、資本の増加にもかかわらず、より多くの労働を雇い得ないほど騰貴したならば、私は、かかる資本の増加はなお不生産的に消費されるであろう、と言わなければならない。 一国の資本が減少するに比例して、その生産物は必然的に減少するであろう。従って、もし人民の側と政府の側とにおける同一の不生産的支出が続くのに、年々の再生産が不断に減少して行くならば、人民と国家との資源は加速度的に失われ、そして惨苦と破滅とがそれに随伴するであろう。
 過去二十年間(編者註)における英国政府の莫大な支出にもかかわらず、人民の側における生産の増加がこれを償って余りあったことは、ほとんど疑い得ない。国民資本が啻に害されなかったのみならず、それはまた大いに増加され、そして人民の年々の収入は、その租税を支払った後にすら、おそらく、現在においては吾々の歴史のいかなる以前の時代におけるよりもより大であろう。
(編者註)一七九三――一八一五年。
 この証拠として吾々は、人口の増加や、――農業の拡張や、――航海業及び製造業の増加や、――船渠の建造や、――多数の運河の開設や、並びに多くの他の費用を多く要する企業を、挙げ得ようが、そのすべては、資本及び年々の生産の両者の増加を示すものである。
 しかしながらそれでもなお、租税がなければこの資本増加が遥かにより大であったであろうことは確実である。蓄積の力を減少せしめる傾向を有たない租税はない。すべての租税は資本か収入かの負担する所とならねばならない。もしそれが資本を蚕食するならば、それは、その程度に応じて国の生産的産業の範囲が常に左右されねばならぬ所の資金を比例的に減少しなければならない。そしてもしそれが収入の負担する所となるならば、それは蓄積を減少せしめるか、または、納税者をして、彼らの以前の生活の必要品及び奢侈品の不生産的消費をその租税の額だけ減少せしめることによって、この額を貯蓄せしめるか、でなければならない。ある租税は、かかる結果を、他の租税よりも、遥かにより大なる程度において産み出すであろう。しかし課税の大なる害悪は、その目的物の選択にあるよりは、全体としてのその結果の総額にあることが見出さるべきである。
 租税は資本に課せられたという故をもって必然的に資本に対する租税であるわけではなく、また所得に課せられたという故をもって所得に対する租税であるわけでもない。もし私の一年一、〇〇〇磅ポンドの所得から、私が一〇〇磅ポンドを支払わせられても、私が残りの九〇〇磅ポンドの支出で満足するならば、それは真実に私の所得に対する租税であろうが、しかしもし私が引続き一、〇〇〇磅ポンドを支出するならば、それは資本に対する租税であろう。
 そこから私の一、〇〇〇磅ポンドの所得が得られる資本が一〇、〇〇〇磅ポンドの価値を有つとすれば、資本に対する一%の租税は一〇〇磅ポンドであろう。しかしもし私が、この租税を支払った後に同様に、九〇〇磅ポンドの支出をもって満足するならば、私の資本は影響を受けないであろう。
 生活上のその地位を維持し、かつその富を一度達せられた高さに維持せんとする、あらゆる人の有つ願望は、大抵資本に課せられたものでも所得に課せられたものでもその大抵の租税を、所得から支払わせるようにする。従って租税が増進するにつれまたは政府がその増加するにつれて、人民の年々の享楽は、彼らが比例的にその資本との所得とを増加し得ない限り、減少せしめられなければならない。
(五五)人民の間にこのことをなさんとする志向を奨励し、そして常に資本の負担に帰すべき租税を決して賦課しないというのが、政府の政策でなければならない。けだしかくすることによって、それは労働の支持のための基金を害し、それによって国の将来の生産を減少せしめるからである。
 英国においては、遺言検認税、遺贈税、及び死者より生者への財産の移転に影響を及ぼすあらゆる租税を課して、この政策を無視している。もし一、〇〇〇磅ポンドの遺産が一〇〇磅ポンドの租税を負担するならば、遺産相続人はその遺産を単に九〇〇磅ポンドと考えるに過ぎず、そして彼れの支出の中から、一〇〇磅ポンドの税を節約しようとする何らの特定の動機をも感ぜず、かくて国の資本は減少せしめられる。しかしもし彼が真実に一、〇〇〇磅ポンドを受取り、そして所得や葡萄酒や馬や僕婢に対する租税として、一〇〇磅ポンドを支払わしめられるならば、彼はおそらくその額だけ、その支出を減じまたはむしろ増加せしめなかったであろうし、そして国の資本は害されなかったであろう。
 アダム・スミスは曰く、『死者から生者への財産の移転に対する租税は、終局的にかつ直接的に、財産が移転せられる人の負担する所となる。土地の売却に対する租税は全然売手の負担する所となる。売手はほとんど常に売却せねばならぬ地位にあるのであり、従って彼が得ることの出来るどんな価格でも受取らなければならない。買手はほとんど購買せねばならぬ地位にあるのではなく、従って彼は単に自己の好む価格を与えるに過ぎないであろう。彼は租税と価格とを合計して土地が幾干いくばくに値するかを考慮する。租税の方に多くを支払うを余儀なくされるほど、彼は価格の方により少く与える気になるであろう。従ってかかる租税はほとんど常に必要に迫られている人の負担する所となり、従って極めて惨酷にして圧制的でなければならない。』(編者註一)『印紙税及び借金証書と借金契約との登記に対する租税は、全然借手の負担する所となり、そして事実上常に彼によって支払われる。訴訟に対する同種の租税は原告の負担する所となる。それは両者にとって係争物の資本価値を減少せしめる。ある財産を獲得するに費用が多くかかればかかるほど、それが得られた時の純価値は少くなければならない。あらゆる種類の財産の移転に対するすべての租税は、それがその財産の資本価値を減少する限り、労働の支持に向けられた資金を減少する傾向がある。それらはすべて主権者の収入を増加せしめる多かれ少かれ浪費的な租税であるが、それは生産的労働者以外のものを支持しない国民資本を犠牲として、不生産的労働者以外の者を支持することの稀なものである。』(編者註二)
(編者註一)『諸国民の富』第五篇第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三四六頁)。
(編者註二)同上(訳者註――三四六――三四七頁)。
 しかしこれは財産の移転に対する租税への唯一の反対論ではない。それは国民資本が社会に最も有利に分配されることを妨げるものである。一般的繁栄のためには、あらゆる種類の財産の移転及び交換にいかに便宜が与えられても多過ぎるということは無い、けだしあらゆる種類の資本が、国の生産を増加するためにそれを最もよく使用する者の手に入るようになるのは、かかる手段によるものであるからである。セイ氏は問う、『何故なにゆえに一個人はその土地を売らんと欲するのであるか? それは彼が、その資金がより生産的となるべき他の用途を考えているからである。何故に他の人はこの同じ土地を買わんと欲するのであるか? それは、彼に余りにわずかしか齎さず、または用途がなく、または彼がその使用を改善し得ると考える、ある資本を用いんがためである。この交換は一般所得を増加せしめるであろうが、それはけだしこれらの当事者の所得を増加せしめるからである。しかしもし、賦課がこの交換を妨げるほどに過大であるならば、それは一般所得のこの増加に対する障害である。』(編者註)しかしながらこれらの租税は容易に徴収される、そしてこのことは多くの人々によって、その有害な結果に対する幾らかの補償を与えるものと考えられるであろう。
(編者註)経済学、第三篇、第八章、三〇九頁。
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    第九章 粗生生産物に対する租税

(五六)本書の前の部分において、私は、穀価は何ら地代を支払わない土地のみにおける、またはむしろ何ら地代を支払わない資本のみをもってする穀物の生産費によって左右される、という原則を、望むらくは満足に、樹立したから、生産費を増加せしめるものはいかなるものも価格を騰貴せしめるであろうし、それを減少せしめるものはいかなるものも価格を下落せしめるであろう、ということになるであろう。より貧弱な土地を耕作し、または既耕地へ一定の附加的資本を用いてより少い収穫を取得する必要は、粗生生産物の交換価値を不可避的に高めるであろう。耕作者をしてより少い生産費をもってその穀物を取得し得せしめるべき機械の発明は、その交換価値を必然的に低めるであろう。地租の形においてであろうと十分一税の形においてであろうとまたは取得された時に生産物に課せられる租税の形においてであろうと、とにかく耕作者に課せられるあらゆる租税は、粗生生産物の生産費を増加せしめ、従ってその価格を高めるであろう。
 もし粗生生産物の価格が耕作者にその租税を補償するほど騰貴しないならば、彼は当然に、彼れの利潤が利潤の一般水準以下に低減せしめられた職業を、中止するであろう。このことは供給の減少を惹起し、ついに、以前通りの需要は、粗生生産物の耕作をして他の職業への資本投下と同様に有利ならしめる如くに、その価格を騰貴せしめるであろう。
 価格の騰貴ということが、彼が租税を支払い、かつ彼れの資本をこのように用いることより通常のかつ一般の利潤を引続き得ることが出来る、唯一の手段である。彼は租税を彼れの地代から差引き、そして彼れの地主をしてそれを支払わしめることは出来ないであろうが、それはけだし彼は何ら地代を支払っていないからである。彼はそれを彼れの利潤から差引かないであろうが、それは、あらゆる他の職業がより大なる利潤を産出している時に彼が引続き小なる利潤を産出す職業に従事すべき理由はないからである。かくて、彼は租税に等しい額だけ粗生生産物の価格を引上げる力を有つであろうということは、疑問のあり得ぬ所である。
 粗生生産物に対する租税は地主によって支払われることはないであろう。それは農業者によって支払われることはないであろう。それは消費者によって価格の騰貴により支払われるであろう。
 地代は、同一のまたは異る質の土地に用いられた等量の労働と資本とによって取得せられた生産物の間の差違である、ということを想起してもらいたい。土地の貨幣地代と土地の穀物地代とは同一の比例において変動するものではない、ということもまた想起してもらいたい。
 粗生生産物に対する租税、地租、または十分一税の場合には、土地の穀物地代は変動するであろうが、他方貨幣地代は引続き以前と同一であろう。
 吾々が前に仮定した如くに、耕地は、三つの質を有ち、そして等しい額の資本をもって、
第一等地からは一八〇クヲタアの穀物が取得され、
第二等地からは一七〇クヲタアの穀物が取得され、
第三等地からは一六〇クヲタアの穀物が取得されるならば、
第一等地の地代は、第三等地と第一等地とのそれの差額たる二〇クヲタアであり、そして第二等地の地代は、第三等地と第二等地とのそれの差額たる一〇クヲタアであろうが、しかるに第三等地は何らの地代をも支払わないであろう。
 さてもし穀価が一クヲタアにつき四磅ポンドであるならば、第一等地の貨幣地代は八〇磅ポンドであり、また第二等地のそれは四〇磅ポンドであろう。
 一クヲタアにつき八シリングの租税が穀物に対し課せられたと仮定せよ。しかる時は価格は四磅ポンド八シリングに騰貴するであろう。そしてもし地主が以前と同一の穀物地代を取得するならば、第一等地の地代は八八磅ポンド、第二等地のそれは四四磅ポンドとなるであろう。しかし彼らは同一の穀物地代を取得しないであろう。租税は第二等地より第一等地の負担となる事より重く、また第三等地よりも第二等地の負担となる事より重いであろうが、けだしそれはより大なる分量の穀物に課せられるであろうから。価格を左右するのは第三等地における生産の困難である。そして穀物は第三等地に用いられる資本の利潤が資本の一般利潤と同一水準になるように四磅ポンド八シリングに騰貴するのである。
 この三つの質の土地における生産物及び租税は次の如くであろう。
第一等地、一クヲタア四磅ポンド八シリングで一八〇クヲタアを産す……………………七九二磅ポンド
 差引{一六・三の価値、
    すなわち一八〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………七二磅ポンド
 純穀物生産物一六三・七[#「一六三・七」の両側に傍線]                            純貨幣生産物七二〇磅ポンド[#「物七二〇磅ポンド」の両側に傍線]
第二等地、一クヲタア四磅ポンド八シリングで一七〇クヲタアを産す……………………七四八磅ポンド
 差引{四磅ポンド八シリングで一五・四クヲタアの価値、
    すなわち一七〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………六八磅ポンド
 純穀物生産物一五四・六[#「一五四・六」の両側に傍線]                            純貨幣生産物六八〇磅ポンド[#「物六八〇磅ポンド」の両側に傍線]
第三等地、四磅ポンド八シリングで一六〇クヲタアを産す…………………………………七〇四磅ポンド
 差引{四磅ポンド八シリングで一四・五クヲタアの価値、
    すなわち一六〇クヲタアに対し一クヲタアにつき八シリング}……………六四磅ポンド
 純穀物生産物一四五・五[#「一四五・五」の両側に傍線]                            純貨幣生産物六四〇磅ポンド[#「物六四〇磅ポンド」の両側に傍線]
 第一等地の貨幣地代は引続き八〇磅ポンドすなわち六四〇磅ポンドと七二〇磅ポンドとの差額であり、また第二等地のそれは四〇磅ポンドすなわち六四〇磅ポンドと六八〇磅ポンドとの差額であって、以前と正確に同一である。しかし穀物地代は、第一等地においては二〇クヲタアから、一四五・五クヲタアと一六三・七クヲタアとの差額たる一八・二クヲタアに、そして第二等地においてはそれは一〇クヲタアから、一四五・五クヲタアと一五四・六クヲタアとの差額たる九・一クヲタアに、減少されるであろう。
 しからば穀物に対する租税は穀物の消費者の負担する所となり、そして租税に比例する程度だけその価値を他のすべての貨物に比較して高めるであろう。粗生生産物が他の貨物の構成に入り込むに比例して、それらの価値もまた、租税が他の原因によって相殺されない限り、高められるであろう。それらは事実間接に課税されることとなり、そしてその価値は租税に比例して騰貴するであろう。
 しかしながら、粗生生産物及び労働者の必要品に対する租税は、もう一つの結果を有つであろう、――すなわちそれは労賃を高めるであろう。人口の原理の人類の増加に及ぼす結果によって、最下級の労賃は決して引続き、自然と習慣によって労働者の支持上必要となっている率の遥か上にあることはない。この階級は決して多額の課税を負担し得ない。従ってもし彼らが小麦に対して一クヲタアにつき更に八シリング支払わねばならず、そして他の必要品に対してあるより少い比例だけ更に支払わなければならないとすれば、彼らは以前と同一の労賃で生存しそして労働者の種族を維持することは出来ないであろう。労賃は不可避的にかつ必然的に騰貴するであろう。そしてそれが騰貴するに比例して利潤は下落するであろう。政府は、国内において消費されるすべての穀物に対し一クヲタアにつき八シリングの租税を受取るであろうが、その一部分は直接に穀物の消費者によって支払われ、他の部分は間接に労働を使用する人々によって支払われ、そして、労働に対する需要がその供給に比して増加したために、または労働者の必要とする食物及び必要品の獲得の困難が増加して行くために、労賃が騰貴した場合と同様に、利潤に影響を及ぼすであろう。
(五七)租税が消費者に影響を及ぼす限りにおいて、それは平等な租税であるが、しかしそれが利潤に影響を及ぼす限りにおいて、それは偏頗へんぱな租税であろう。けだし、それは地主に対しても株主に対しても影響を及ぼさないであろうからであるが、その理由は、彼らは引続き、一方は以前と同一の貨幣地代を、また他方は以前と同一の貨幣配当を、受取るであろうからである。しからば土地の生産物に対する租税は、次の如く作用するであろう。
第一、それは租税に等しい額だけ粗生生産物の価格を引上げ、従って各消費者の消費に比例して彼れの負担する所となるであろう。第二、それは労働の労賃を引上げ、そして利潤を引下げるであろう。 しからばかかる租税に対しては次の如き反対がなされ得よう。
第一、労働の労賃を引上げそして利潤を引下げることによって、それは不平等な租税であるが、それはけだし、それが農業者や商人や製造業者の所得には影響を及ぼし、そして地主や株主やその他の固定的所得を享受する者の所得を課税[#「税」は底本では「説」]されぬままにしておくからである、ということ。第二、穀価の騰貴と労賃の騰貴との間にはかなりの時の隔りがあり、その間に労働者は多くの惨苦を経験するであろうということ。第三、労賃の引上と利潤の引下とは蓄積の阻害であり、そして土壌の自然的疲瘠ひせきと同様の作用をすること。第四、粗生生産物の価格を引上げることによって、粗生生産物が入っているすべての貨物の価格は引上げられ、従って吾々は一般市場において外国製造業者に平等な条件で対抗し得ないであろうということ。(五八)労働の労賃を引上げ、そして利潤を引下げることによって、それは不平等な作用をするが、それはけだし、それが農業者や商人や製造業者の所得には影響を及ぼし、そして地主や株主やその他の固定的所得を課税されぬままにしておくからである、という第一の反対論に関しては、もしも租税の作用が不平等であるならば、立法府にとっては、土地の地代及び株式からの配当に直接に課税することによってそれを平等ならしめるべきである、と答え得よう。かくすることによって、所得税のすべての目的は、各人の私事に立入りかつ官吏に自由国の慣習と感情とに矛盾する権力を賦与するという忌わしい手段に頼るの不便なしに、達せられるであろう。
(五九)穀価の騰貴と労賃の騰貴との間にはかなりの時の隔りがあり、その間に下層階級は多くの惨苦を経験するであろう、という第二の反対論に関しては、異る事情の下においては、労賃は極めて異る程度の速力をもって粗生生産物の価格に追従し、ある場合においては穀物の騰貴によっては労賃には何らの結果も起らず、他の場合においては労賃の騰貴は穀価の騰貴に先行し、更にある場合においては労賃に対する結果は遅く、また他の場合においては速い、と私は答える。
 常に社会の進歩の特定状態を斟酌して、労働の価格を左右するものは必要品の価格である、と主張する人々は、必要品の価格の騰貴及び下落は、極めて徐々として労賃の騰貴及び下落を伴うであろうということを、余りに即座に同意してしまっているように思われる。食料品の高き価格は、各種各様の原因から起るであろうし、またそれに従って各種各様の結果を生み出すであろう。それは次の如き原因から起るであろう。
第一、供給の不足。
第二、結局においては生産費の増加を伴うべき徐々たる需要の増加から。
第三、貨幣価値の下落から。
第四、必要品に対する租税から。
 これら四つの原因は、必要品の高き価格が労賃に及ぼす影響を研究した人々によっては、十分に弁別され分離されていない。吾々はこれらを各別に検討するであろう。
 不作は食料の高き価格を齎すであろう、そしてこの高き価格は、それによって消費が供給の状態に一致せざるを得ざらしめられる唯一の手段である。もしすべての穀物購買者が富んでいるならば、価格は、いかなる程度にまでも騰貴し得ようが、しかしその結果には変りがないであろう。すなわち価格はついに、富める程度の最も少い者がその通常の消費量の一部分の使用を止めざるを得なくなるほど高くなるであろう。けだし消費の減少によってのみ、需要は供給の限界にまで引下げられ得るからである。かかる事情の下においては、救貧法の誤用によってしばしばなされているように貨幣労賃を食物の価格によって強制的に左右するという政策以上に、不合理な政策はあり得ない。かかる方策は労働者に対し何らの真実の救済をも与えるものではないが、けだし、その結果は穀価を更により以上騰貴せしめることであり、そしてついに彼はその消費を限られた供給に比例して制限せざるを得なくなるに相違ないからである。条理上不作による供給の不足は、有害かつ不賢明な干渉がなければ、労賃の騰貴を伴わないであろう。労賃の騰貴はそれを受取る者によっては単に名目的であるに過ぎない。それは穀物市場における競争を増加せしめ、そしてその終局的政策は穀物の栽培者と商人の利潤を高めることである。労働の労賃は実際は、必要品の供給と需要、及び労働の供給と需要との間の比例によって左右される。そして貨幣は単に労賃を言表わす媒介物または尺度であるに過ぎない。しからばこの場合においては、附加的食物の輸入によるかまたは最も有用な代用品の採用による他は、労働者の困厄は不可避的であり、そしていかなる立法も救済を与え得ないのである。
 穀物の高き価格が需要増加の結果である時には、それは常に労賃の騰貴によって先行される、けだし需要は、その欲する物に対して支払うべき人民の資力の増加なくしては、増加し得ないからである。資本の蓄積は当然に、労働の雇傭者の間の競争を増加せしめ、そしてその結果たる労働の騰貴を惹起す。労賃の騰貴は、常に必ずしも直ちに食物に費されるとは限らず、最初には労働者の他の享楽に寄与せしめられる。しかしながら、彼れの境遇の改善は、彼を誘って結婚せしめ、またそれを可能ならしめる。しかる時は彼れの家族の支持のための食物に対する需要は当然に、彼れの労賃が一時費された他の享楽品に対する需要を排除する。かくて穀物は、それに対する支払の資力をより多く有つ者が社会にあるためそれに対する需要が増加するから、騰貴する。そして農業者の資本の利潤は一般水準以上に高められ、ついに必要な資本量がその生産に用いられるに至るであろう。このことが起った後に穀物が再びその以前の価格にまで下落するか、または引続き永続的により高くあるかは、それより穀物の分量増加が供給された土地の質に依存するであろう。もし、それが、最後に耕作された土地と同一の肥沃度を有つ土地から、またより大なる労働の支出なしに、得られるならば、価格はその以前の状態にまで下落するであろう。もしより貧しい土地からであるならば、それは引続き永続的により高いであろう。第一の場合の高き労賃は労働に対する需要の増加から起ったものである。それが結婚を奨励し子供を支持したが故にそれは労働の供給を増加するの結果を生み出したのである。しかしこの供給が得られた時には、もし穀物がその以前の価格まで下落したならば、労賃は再びその以前の価格にまで下落し、もし穀物の供給の増加が、より劣等の質の土地から生産せられたならば以前の価格よりより高い価格にまで下落するであろう。高き価格は決して豊富な供給と両立し得ないものではない。価格が永続的に高いのは、分量が不足であるからではなく、その生産費が増加したからである。人口に刺戟が与えられた時には、その場合に必要とされる以上の結果が生み出されるということは、実際一般に起る所である。人口は、労働に対する需要の増加にかかわらず、労働者を支持するための基金に対して資本の増加の前よりもより大なる比例を有つほどに増加され得ようし、また事実一般に増加されたのである。この場合には反動が起り、労賃はその自然的水準以下となり、そして供給と需要との間の通常の比例が囘復されるまでは引続きそれ以下にあるであろう。しからばこの場合においては、穀価の騰貴は労賃の騰貴によって先行され、従ってそれは労働者に何らの困厄をも蒙らせないのである。
 鉱山からの貴金属の流入の結果たる、または銀行の特権の濫用による、貨幣価値の下落は、食物の価値騰貴に対するもう一つの原因である。しかしそれは生産される分量には何らの変動をも起さないであろう。それは労働者の数も彼らに対する需要も同一にしておく。けだし資本の増加も減少もないであろうからである。労働者に割当てられるべき必要品の分量は、労働の比較的需給に対する必要品の比較的需給に依存する。貨幣はそれによってこの分量が現わされる媒介に過ぎない。そしてこれらの両者のいずれもが変動していないから、労働者の真実の報酬は変動しないであろう。貨幣労賃は騰貴するであろうが、しかしそれは単に彼をして以前と同一の必要品量を手に入れることを得さしめるに過ぎないであろう。この原理を論難しようとする者は、何故なにゆえに、貨幣の増加は、分量の増加しなかった労働の価格をを騰貴せしめるという同一の結果を有たないかということを、説明すべきである、けだし彼らは、もし靴や帽子や穀物の分量が増加しなかったならば、それらの貨物の価格に対し、それは同一の結果を有つであろうということを、認めているからである。帽子と靴との相対的市場価値は、靴の需給と比較しての帽子の需給によって左右され、そして貨幣はこれらの貨物の価値を言い現わす媒介に過ぎない。もし靴が価格において二倍となるならば、帽子もまた価格において二倍となるであろう、そして両者は同一の相対価値を保持するであろう。同様に、もし穀物及び労働者のすべての必要品が価格において二倍となるならば、労働もまた価格において二倍となるであろう、そして必要品及び労働の通常の需給に対し何らの妨げも存しない間は、それらがその相対価値を保持しないという理由はあり得ないのである。
 貨幣価値の下落も粗生生産物に対する租税も、その各々は価格を引上げるであろうが、粗生生産物の分量を、またはそれを購買することが出来、かつそれを消費せんと欲する者の数を、必然的に妨げるわけではないであろう。何故なにゆえに、一国の資本が不規則に増加する時に、労賃は騰貴するがしかるに穀価は静止しまたはより少い比例で騰貴するかを、そして何故なにゆえに、一国の資本が減少する時に、労賃は下落するがしかるに穀価は静止しまたは遥かにより少い比例で下落し、しかもこのことがかなりの期間そうであるかを、了解することは、極めて容易である。その理由は、労働は随意に増減し得ない貨物であるからである。もし需要に対し市場に余りに少い帽子しかないならば、価格は騰貴するであろうが、しかしそれは単に短い期間に過ぎない。けだし一年経てば、より多くの資本をその職業に用いることによって、帽子の分量がある適当な量だけ増加され、従ってその市場価格は久しくその自然価格を極めて甚しく超過し得ないからである。しかし人間の場合はこれと異る。人は彼らの数を、資本の増加がある時に一二年で増加することは出来ず、またその数を、資本が退歩的状態にある時に急速に減少することも出来ない。従って、人間の数は遅々として増加するが労働維持のための基金は速かに増減するのであるから、労働の価格が穀物及び必要品の価格によって正確に規制されるまでにはかなりの時の隔りがなければならない。しかし貨幣の下落、または穀物に対する租税の場合には、必ずしも労働の供給の超過もなく、需要の減退もなく、従って労働者が労賃の真実の減少を受けるという理由はあり得ぬのである。
 穀物に対する租税は必ずしも穀物の分量を減少せしめず、ただその貨幣価格を騰貴せしめるに過ぎない。それは必ずしも労働の供給と比較しての需要を減少せしめない。しからば何故なにゆえにそれは労働者に支払われる分前を減少せしめなければならないか? それが労働者に与えられる分量を減少せしめるということを、換言すれば、租税が彼れの消費する穀物の価格を騰貴せしめると同一の比例においてそれは彼れの貨幣労賃を騰貴せしめるものではないということを、真実なりと仮定しよう。穀物の供給は需要を超過しないであろうか?――それは価格において下落しないであろうか? またかくて労働者は彼れの通常の分前を取得しないであろうか? かかる場合には実際、資本は農業から引き去られるであろう、けだしもし価格が租税の金額だけ騰貴しないならば、農業利潤は利潤の一般水準よりもより低くなるであろうし、そして資本はより有利な用途を探求するであろうからである。かくて問題の点たる粗生生産物に対する租税に関しては、粗生生産物の価格の騰貴と労働者の労賃の騰貴との間には、労働者に対して圧迫する時期はなく、従ってこの階級がある他の課税方法によって蒙る不便、換言すれば、租税が労働の支持のために向けられた基金を害し従って労働に対する需要を妨げまたは減少するかもしれぬという危険の他には、彼らは何らの不便をも蒙らないであろうと、私には思われるのである。
(六〇)粗生生産物に対して課せられる租税に対する第三の反対論、すなわち労賃の引上と利潤の引下とは蓄積の阻害であり、そして土壌の自然的疲瘠と同様の作用をする、という反対論に関しては、私は、本書の他の部分において、貯蓄は、生産からと同様に有効に支出から、利潤率の騰貴からと同様に有効に貨物の価値の下落から、なされ得ようことを、示さんと努めた。物価が引続き同一である時に私の利潤を一、〇〇〇磅ポンドから一、二〇〇磅ポンドに増加せしめることによって、私が貯蓄によって資本を増加する力は増加されるけれども、しかしこの力は、私の利潤は引続き以前と同一であるが貨物が価格において下落したために以前には一、〇〇〇磅ポンドで購買しただけの分量を八〇〇磅ポンドで取得し得るに至った場合ほどには、増加されないであろう。
 さて、租税によって要求される額は徴収されなければならない、そこで問題は単にこの額は個人の利潤を減少せしめることによって個人から徴収せらるべきであるか、または彼らの利潤がそれに支出される貨物の価格を引上げることによって徴収せらるべきであるか、ということである。
 課税はいずれの形においても諸害悪についての一選択であるに過ぎない。もしそれが利潤その他の所得の源泉に影響を及ぼさなければ、それは支出に影響を及ぼすに相違ない。そして負荷が平等に負担されかつ再生産を圧迫しない限り、それはいずれに賦課されても構わない。生産に対する租税または資本の利潤に対する租税は、直接に利潤に対し課せられようと、または土地あるいは土地の生産物に対して課税することにより、間接に課せられようとに論なく、他の租税以上にこの得点を有っている、すなわちすべての他の所得が課税されぬ限り、社会のいかなる階級もそれを免れ得ず、そして各人はその資力に応じて納税するのである。
 支出に対する租税は吝嗇家りんしょくかが遁のがれるであろう。彼は毎年一〇、〇〇〇磅ポンドの所得を有ち、そして単に三〇〇磅ポンドを費すに過ぎないであろう。しかし直接的のものであろうと間接的のものであろうと利潤に対する租税からは、彼は遁れ得ない。彼は、その生産物の一部分、またはその一部分の価値を、抛棄して、納税することになるであろう、しからざれば生産に欠くべからざる必要品の価格の騰貴によって、彼は以前と同一の率で蓄積を続け得なくなるであろう。もちろん彼は同一の価値を有つ所得を得るであろうが、しかし彼は、労働に対する同一の支配力も有たず、またはそれにかかる労働が用いられ得る原料品の等しい分量に対する同一の支配力をも有たないであろう。
 もし一国がすべての他国より孤立し、その隣国のいずれとも商業をしないならば、それは決してその租税のいかなる部分をも他国に転嫁し得ない。その土地と労働との生産物の一部分は、国家の用に供せられるであろう。そして私は、それが蓄積しかつ貯蓄する階級に対し不平等の圧迫を加えぬ限り、租税が利潤に課せられようと、農業貨物に課せられようと、または製造貨物に課せられようと、それはほとんどどうでもよいと考えざるを得ない。もし私の収入が一年につき一、〇〇〇磅ポンドであり、そして私は一〇〇磅ポンドに当る額の租税を支払わなければならぬとすれば、私がそれを私の収入から支払って九〇〇磅ポンドを手許に残そうと、または私の農業貨物または私の製造財貨に対し一〇〇磅ポンドだけより多く支払おうと、それはほとんどどうでもよいことである。もし一〇〇磅ポンドが国家の経費に対する私の正当なる割当であるならば、課税のなすべきことは、私をしてそれ以上でもそれ以下でもなくまさに一〇〇磅ポンドを確実に支払わしめることである。そしてそれは労賃か利潤かまたは粗生生産物に対する租税によって最も確実に行われ得るのである。
(六一)第四のそして注意すべき最後の反対論は、粗生生産物の価格を引上げることによって、粗生生産物が入っているすべての貨物の価格は引上げられ、従って、吾々は一般市場において外国製造業に平等な条件で対抗し得ないであろう、というのである。
 第一に、穀物及びすべての内国貨物は、貴金属の流入なくしては価格において著しく高められ得ないであろう、けだし同一量の貨幣は高い価格においても低い価格の場合と同様に同一量の貨物を流通せしめ得ず、そして貴金属は決して高価な貨物をもっては購買され得ないであろうからである。より多くの金が必要とされる時には、それはそれと交換してより少い貨物ではなくより多くの貨物を与えることによって、取得されなければならない。貨幣の不足は紙幣によっても満みたされ得ないであろう、けだし貨物としての金の価値を左右するものは紙幣ではなく、紙幣の価値を左右するものは金であるからである。しかる時は金の価値が引下げられ得ない限り、減価されずして紙幣は流通に加えられ得ないであろう。そして金の価値が引下げられ得ないであろうことは、吾々が一貨物としての金の価値は、それと交換に外国人に与えられねばならぬ財貨の分量によって左右されなければならぬことを考える時に明かになる。金が低廉である時には貨物は高く、そして金が高い時には貨物は低廉であり、価格において下落する。さて外国人が彼らの金を通常よりもより安く売るべき原因は何ら示されていないのであるから、少しでも金の流入が起ろうとは思われない。かかる流入なくしては、その量の増加は、その価値の下落は、財貨の一般価格の騰貴は、あり得ないのである(註)。
(註)単に租税のみによって価格が騰貴した貨物が、その流通のためあるより多くの貨幣を必要とするか否かは、疑い得よう。私はそれを必要としないであろうと信ずる。 粗生生産物に対する租税の蓋然的結果は、粗生生産物の及び粗生生産物が入り込めるすべての貨物の価格を騰貴せしめることであろうが、しかしその程度は決して租税に比例しない。しかるに金属や土で造った物の如き何らの粗生生産物も入り込まぬ他の貨物は価値において下落するであろう。従って以前と同一量の貨幣が全流通に対し適当であるであろう。
 すべての内国生産物の価格を高める結果を有つべき租税は、はなはだ短い期間を除けば輸出を阻害しないであろう。もしそれが国内で価格において高められるならばそれは実際直ちに有利に輸出されることを得ないであろう、けだしそれは国内において外国では免れている負担を蒙るからである。この租税はすべての国に一般でありかつ共通であるものではなくして、ある一単独国に限られている所の貨幣価値の変動と、同一の結果を生み出すであろう。もしも英国がその国であるとするならば、英国は売却することは出来ないかもしれぬが、購買することは出来るであろう、けだし輸入される貨物は価格において騰貴しないであろうからである。かかる事情の下においては、貨幣以外に何物も外国貨物と引換えに輸出され得ないであろうが、しかしこれは久しく続き得ない取引である。一国民はその貨幣を消尽してしまうことは出来ない、けだし一定量がその国民を去った後にはその残りのものの価値は騰貴し、そしてその結果として貨物の価格は、それが再び有利に輸出され得るように変動するであろうからである。従って貨幣が騰貴した時には吾々はもはや財貨と引換えにそれを輸出せずして、吾々はまずその原料たる粗生生産物の価格の騰貴によって価格が騰貴し次いで再び貨幣の輸出によって下落した所の製造品を、輸出するであろう。
 しかし、貨幣が価値においてかくの如く騰貴した時には、それは内国貨物に関してと同様に外国貨物に関しても騰貴するであろうし、従って、外国財貨の輸入に対するあらゆる奨励が停止するであろう、という反対がなされるかもしれない。かくて吾々が外国において一〇〇磅ポンドを費しそして我国において一二〇磅ポンドに売れる財貨を輸入したと仮定するならば、貨幣価値が英国において騰貴せる結果それが単に一〇〇磅ポンドに売れるに過ぎなくなった時には、吾々はそれを輸入することを止めるであろう。しかしながらこのことは決して起り得ないであろう。一貨物を輸入することを吾々に決心せしめた動機はそれが外国においては相対的に低廉であることを発見したにある。それは外国でのその価格と内国でのその価格との比較である。もし一国が帽子を輸出し毛織布を輸入するとすれば、そうする理由は帽子を造ってそれを毛織布と交換することにより、毛織布を自国で造る場合よりもより多くの毛織布を取得することが出来るからである。もし粗生生産物の騰貴が帽子の製造における生産費の増加を齎すならば、それは毛織布の製造における費用の増加をも齎すであろう。従って、もし双方の貨物が国内において造られるならば、それらは双方共に騰貴するであろう。しかしながら一方は、吾々が輸入する貨物であるから、貨幣価値が騰貴した時にも、騰貴もしなければ下落もしないであろう。けだし下落せざることによって、それは輸出貨物に対するその自然的関係を恢復するであろうからである。粗生生産物の騰貴は帽子をして三〇シリングから三三シリングに、または一〇%騰貴せしめる。同一の原因はもし吾々が毛織布を製造していたならば、それを一ヤアルにつき二〇シリングから二二シリングに騰貴せしめるであろう。この騰貴は毛織布と帽子との関係を破壊するものではない。一箇の帽子は一ヤアル半の毛織布に値したし、また引続きそれに値する。しかしもし吾々が毛織布を輸入するならば、その価格はまず貨幣価値の下落によって影響を蒙らず、次いでその騰貴によって影響を蒙らずして、引続き一様に一ヤアルにつき二〇シリングであろう。しかるに三〇シリングから三三シリングに騰貴している帽子は再び三三シリングから三〇シリングに下落するであろう、そしてこの点において毛織布と帽子との間の関係は恢復されるであろう。
 この問題の考察を簡単にするために、私は、粗生原料品の価値の騰貴は、すべての内国貨物に等しい割合で影響を及ぼすものであり、すなわちもし一貨物に対して及ぼす影響がそれを一〇%騰貴せしめることであるならば、それはすべての貨物を一〇%騰貴せしめるであろうと、仮定して来たが、しかし貨物の価値が粗生原料品及び労働から出来上っている割合は極めて異っており、またある貨物例えば金属から造られているすべてのものは、地表からの粗生生産物の騰貴によって影響を受けないであろうから、粗生生産物に対する租税によって貨物の価値に対し及ぼされる影響には各種各様の最大の種類があることは明かである。この影響が生み出される限り、それは特定貨物の輸出を奨励したり阻害したりし、そして疑いもなく、貨物の課税に伴うと同一の不便を伴うであろう。それは各々の価値の間の自然的関係を破壊するであろう。かくて一箇の帽子の自然価格は、一ヤアル半の毛織布と同一ではなくして、単に一ヤアル四分の一の価値を有つに過ぎないか、または一ヤアル四分の三の価値を有つことになり、従ってむしろ異る方向が外国貿易に対して与えられるであろう。すべてのこれらの不便はおそらく輸出品及び輸入品の価値に影響を及ぼさないであろう。それは単に全世界の資本の最上の分配を妨げるに過ぎないであろうが、かかる分配は、あらゆる貨物が人為的制限によって束縛されずに自由にその自然価格に落着くに委ねられる時に最も適宜に調整されるのである。
 しからばたとえ我国自身の貨物の大抵のものの騰貴が、一時の間一般に輸出を妨げ、そして永続的に若干の貨物の輸出を妨げるとしても、それは外国貿易を大いに妨げることは出来ず、そして外国市場における競争に関する限りにおいては吾々を他に比較して不利益な地位に置くことはないであろう。
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    第十章 地代に対する租税

(六二)地代に対する租税は地代にのみ影響を及ぼすであろう。それは全然地主の負担する所となり、そしていかなる消費者階級へも転嫁され得ないであろう。地主は、最も不生産的な耕地から得られる生産物とあらゆる他の質の土地とから得られるそれとの間の差違を不変にしておくであろうから、その地代を高め得ないであろう。第一、第二、及び第三の三種の土地が耕作されており、そして各々同一の労働をもって、一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアの小麦を産出する。しかし第三等地は何ら地代を支払わず、従って課税されない。かくて第二等地の地代は十クヲタアの価値を、また第一等地のそれは二十クヲタアの価値を、超過せしめられ得ない。かかる租税は粗生生産物の価格を高め得ないが、それは、第三等地の耕作者は地代もまた租税も支払わないから、彼は決して生産された貨物の価格を高め得ないからである。地代に対する租税は新しい土地の耕作を阻害しないであろう、けだしかかる土地は地代を支払わず、かつ課税されないであろうから。もし第四等地が耕作されるに至り、そして一五〇クヲタアを産出するとしても、いかなる租税もかかる土地に対して支払われないであろうが、しかしそれは第三等地に十クヲタアの地代を発生せしめ、かくて第三等地は租税を支払い始めるであろう。
(六三)地代が構成されるにつれて地代に課せられる租税は、耕作を阻害するであろうが、けだしそれは地主の利潤に対する一租税となるであろうからである。土地の地代なる言葉は、私が他の場所で論じた如くに、農業者がその地主に支払う価値の全額に適用されているが、その一部のみが厳密には地代なのである。建物や造作、及び地主の支払うその他の費用は、厳密には農場の資本の一部をなし、そして地主によって供給されなければ借地人によって備えられねばならなかったものである。地代とは土地の使用に対しそして土地の使用に対してのみ、地主に支払われる額である。地代の名の下に支払われるより以上の額は建物等の使用に対するものであり、そして実際は地主の資本の利潤である。地代に課税する際には土地の使用に対し支払われる部分と、地主の資本の使用に対し支払われるそれとの間には、何らの区別もされないであろうから、租税の一部分は地主の利潤の負担する所となり、従って、粗生生産物の価格が騰貴しない限り、耕作を阻害するであろう。その使用に対しては何らの地代も支払われない土地においては、地主に対し彼れの建物の使用に対して、その名の下にある補償が与えられるであろう。粗生生産物が売られる価格が、啻にすべての通常の支出を支払うのみならず、更に租税というこの附加的支出を支払うまでは、これらの建物が建てられることもないであろうし、また粗生生産物がかかる土地に栽培されることもないであろう。租税のこの部分は地主の負担にも農業者の負担にも帰せず、粗生生産物の消費者の負担する所となる。
 もしも租税が地代に課せられるならば、地主は直ちに、土地の使用に対して彼らに支払われるものと、建物の使用及び地主の資本によってなされた改良に対して支払われるものとを、弁別する方法を発見するであろうことは、ほとんど疑いはあり得ない。後者が家屋及び建物の賃料と呼ばれるに至るか、または耕作されるに至ったすべての新しい土地においては、地主によってではなく借地人によって、かかる建物が建てられかつ改良がなされるに至るかであろう。地主の資本が実に実際にはその目的のために用いられるであろう。名目上はそれは借地人によって費され、地主は、貸金の形かまたは借地期間に亘る年金の購買で、彼にその資を支給するのである。区別されていてもいなくとも、地主がこれらの種々なる目的物に対して受取る所の補償の性質の間に真実の差違がある。そして、土地の真実地代に対する租税は全然地主の負担する所となるが、地主が農場に投ぜられたその資本の使用に対して受取る補償に対する租税は、進歩的国家においては、粗生生産物の消費者の負担する所となることは、全く確実である。もし租税が地代に賦課され、そして現在借地人が地代の名の下に地主に支払う報償を区分する何らの方法も採用されないとしても、租税は、それが建物その他の造作に対する地代に関する限り、決してどんな短い間でも地主の負担する所とはならず、消費者の負担する所となるであろう。これらの建物等に投ぜられた資本は、資本の通常利潤を与えなければならない。しかしもしそれらの建物の費用が借地人の負担する所とならなければ、それは最後に耕作される土地においてこの利潤を与えないであろう。そしてもしそれが借地人の負担する所となるならば、借地人はそれを消費者に転嫁しない限り、彼れの資本の通常利潤を得なくなるであろう。
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    第十一章 十分一税

(六四)十分一税は土地の総生産物に対する租税であり、そして粗生生産物に対する租税と同様に、全然消費者の負担する所となる。それは地代に対する租税が達しない土地に影響を及ぼす限りにおいてそれと異り、そしてこの地代に対する租税が変動せしめないであろう所の、粗生生産物の価格を引上げる。最も劣等の土地も、最良の土地と同様に、十分一税を、しかもそれらの土地から得られる生産物量に正確に比例して、支払う。従って十分一税は平等な租税である。
 もしも最後の質の土地、すなわち何らの地代も支払わず穀価を左右するそれが、農業者に資本の通常利潤を与えるに足る分量を産出し、その時に小麦の価格が一クヲタアにつき四磅ポンドであるならば、価格は、十分一税が賦課された後に同一の利潤が取得され得る以前に、四磅ポンド八シリングに騰貴しなければならない、けだし小麦一クヲタアごとに耕作者は教会に八シリングを支払わなければならず、そしてもし彼が同一の利潤を得ないとすれば、彼が他の事業においてかかる利潤を得ることが出来る時にその職業を中止しないという理由はないからである。
 十分一税と粗生生産物に対する租税との間の唯一の差違は、一方は可変的貨幣租税であり他方は定額貨幣租税であることである。穀物を生産する便宜が増加もせず減少もしない所の、社会の停止的状態においては、それらはその結果において正確に同一であろう、けだしかかる状態においては、穀物は不変的価格にあり、従って租税もまた不変であろうからである。退歩的状態か、または農業において大改良がなされ従って粗生生産物が他の物に比較して価値において下落するであろう所の状態かにおいては、十分一税は永続的貨幣租税よりもより軽い租税であろう。けだしもし穀価が四磅ポンドから三磅ポンドに下落するならば、租税は八シリングから六シリングに下落するであろうからである。社会の進歩的状態――しかも農業における何らの著しい改良もない状態――においては、穀価は騰貴し、そして十分一税は永続的貨幣租税よりもより重い租税となろう。もし穀物が四磅ポンドから五磅ポンドに騰貴するならば、同一の土地に対する十分一税は八シリングから十シリングに騰貴するであろう。
 十分一税も貨幣租税も地主の貨幣地代には影響を及ぼさないであろうが、しかし両者は穀物地代には著しく影響を及ぼすであろう。吾々は既に、貨幣租税が穀物地代に影響する仕方を論じたが、同様な結果が十分一税によっても生み出さるべきことは等しく明かである。もし第一、第二、第三等地が各々一八〇、一七〇、及び一六〇クヲタアを生産するならば、地主は第一等地に対しては、二十クヲタア、また第二等地に対しては十クヲタアであろう。しかしそれらは十分一税を支払った後には、もはやこの比例を維持しないであろう。けだしもしその各々から十分の一が徴収されるならば、残りの生産物は一六二クヲタア、一四四クヲタアとなり、従って第一等地の穀物地代は一八クヲタアに、また第二等地のそれは九クヲタアに、減少させられるであろうからである。しかし穀価は四磅ポンドから四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスに騰貴するであろう。けだし一四四クヲタアが四磅ポンドに対する割合は、一六〇クヲタアが四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスに対する割合であるからである、従って貨幣地代は第一等地に対しては八〇磅ポンドであり(註一)、また第二等地に対して四〇磅ポンドであろうから(註二)、貨幣地代は引続き不変であろう。
(註一)四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスで一八クヲタア
(註二)四磅ポンド八シリング一〇・三分の二ペンスで九クヲタア
 十分一税に対する主たる反対論は、それは永続的なかつ固定的な租税ではなくて、穀物を生産する困難が増加するに比例して価値において増加する、ということである。もしかかる困難が穀価を四磅ポンドならしめるならば租税は八シリングとなり、もしそれが穀価を五磅ポンドに増加するならば租税は一〇シリングとなり、そして六磅ポンドの時にはそれは一二シリングとなる。それは啻に価値において騰貴するのみならず、更にまた額において増加する。かくして第一等地が耕作された時には、租税は単に一八〇クヲタアに対して課せられるに過ぎず、第二等地が耕作された時には、それは180+170すなわち三五〇クヲタアに対して課せられ、そして第三等地が耕作された時には、180+170+160=510クヲタアに対して課せられた。生産物が一百万クヲタアから二百万クヲタアに増加される時には、租税の額が一〇〇、〇〇〇クヲタアから二〇〇、〇〇〇に附加されるのみならず、更に第二の一百万を生産するに必要な労働の増加によって、粗生生産物の相対価値は増進せしめられ、その結果二〇〇、〇〇〇クヲタアは、量においては単に以前に支払われた一〇〇、〇〇〇クヲタアのそれの二倍に過ぎないが、しかも価値においては三倍であるであろう。
 もし等しい価値が、教会のために、十分一税の増加と同様に耕作の困難に比例して増加する所のある他の手段によって、徴収されるならば、その結果は同一であろう、従って、それは土地から徴収される故に、ある他の方法によって徴収された場合の同額よりも、耕作をより多く阻害する、と想像するのは、誤りである。教会は双方の場合において、国の土地及び労働の純生産物の増加せる部分を不断に取得しつつあるであろう。社会の進歩しつつある状態においては、土地の純生産物は常にその総生産物に比例して逓減しつつある。しかし進歩的な国においても静止的な国においても、すべての租税が終局的に支払われるのは、国の総収入からである。総収入と共に増加しかつ純収入の負担とする所となる租税は、必然的に、極めて重荷的なかつ極めて堪え難い租税でなければならない。十分一税は、土地の総生産物の十分の一であり、その純生産物の十分の一ではなく、従って社会が富において進歩するにつれて、それは、総生産物については同一比例であるが、純生産物についてはますますより大なる比例とならなければならない。
(六五)しかしながら、十分一税は、外国穀物の輸入が妨害されていない間は、内国穀物の栽培に課税することによって、それが輸入に対する奨励金として作用する限りにおいて、地主によって有害である、と考えられるであろう。そしてもし、地主を、かかる奨励金が促進するはずの土地に対する需要の減少の結果から、救済するために、輸入穀物もまた、国内で栽培される穀物と等しい程度において課税され、そして生産物が国家に支払われるならば、いかなる方策もより正当かつ公平ではあり得ないであろう。けだしこの租税によって国家に支払われるものはいかなるものも、政府の経費が必要ならしめる他の租税を減少せしめるに至るであろうからである。しかしもしかかる租税が単に教会に支払われる資金を増加することに向けられるならば、それは実際全体としては生産の全量を増加することは出来ようが、しかしそれは生産階級に割当てられた額の部分を減少するであろう。
 もし毛織布の貿易が完全に自由に委ねられているならば、我国の製造業者達は、吾々が毛織物を輸入し得るよりもより低廉にそれを売却し得よう。もし租税が国内の毛織物製造業者に賦課され、そしてその輸入業者には賦課されないならば、資本は害を受けて毛織布の製造からある他の貨物の製造に追いやられるであろうが、それはけだし毛織布はその際には国内で製造され得るよりもより低廉に輸入され得ようからである。もし輸入毛織布もまた課税されるならば毛織布は再び国内において製造されるであろう。消費者は最初は国内において毛織布を買ったが、けだしそれが外国毛織布よりもより低廉であったからである。彼は次いで外国毛織布を買ったが、けだし課税された国内毛織布よりもそれは課税されずしてより低廉であったからである。彼は最後にそれを国内で買ったが、けだし内国及び外国の毛織布の双方が課税された時には内国のものがより低廉であったからである。彼がその毛織布に対し最大の価格を支払うのは最後の場合であるが、しかしすべての彼れの附加的支払は国家の利得となるのである。第二の場合においては、彼は第一の場合よりもより多く支払うが、しかし彼が附加的に支払うすべては、国家の受取る所とはならない、彼に課せられるのは生産の困難により惹起される増加価格である、けだし最も容易な生産の手段が、租税の束縛を受けて吾々から遠ざけられているからである。
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    第十二章 地租

(六六)土地の地代に比例して賦課され、かつ地代の変動ごとに変動する地租は、結果において地代に対する課税である。そしてかかる租税は、何らの地代をも生じない土地には、または単に利潤のみを目的として土地の上に使用されかつ決して地代を支払わない所の資本の生産物にも、適用されないから、それは決して粗生生産物の価格に影響を及ぼさないであろうが、しかし全く地主の負担する所となるであろう。いかなる点においてもかかる租税は地代に対する租税と異らないであろう。しかしもし地租がすべての耕地に対して課せられるならば、それがいかに適当であろうとも、それは生産物に対する租税であり、従って生産物の価格を高めるであろう。もし第三等地が最後に耕作される土地であるならば、たとえそれは何らの地代をも支払わなくとも、それは、課税された後は、生産物の価格が租税の支払に応ずるために騰貴せざる限り、耕作され得ずかつ利潤の一般率を与え得ない。資本がその職業から抑留されて、ついに需要の結果、穀物価格が通常利潤を与えるに足るほど騰貴するに至るか、またはもし既にかかる土地に用いられているならば、それは、より有利な職業を求めてこの土地を去るか、であろう。この租税は地主には転嫁され得ない、けだし仮定によれば彼は何らの地代をも受取らないからである。かかる租税は、土地の質及びその生産物量に比例せしめられるべく、しかる時にはそれはいかなる点においても、十分一税と異らない。あるいはそれはあらゆる耕地――その地質がいかなるものであろうとも――に対するエーカア当りの固定的租税であろう。
(六七)この最後の種類の地租は極めて不平等な租税であり、そしてアダム・スミス(編者註)によればすべての租税がそれに一致しなければならない租税一般に関する四公理の一つに反するであろう。この四公理は次の如くである。
一、『あらゆる国家の臣民は彼らの各々の能力に出来得る限り比例して政府の支持に寄与すべきである。二、『各個人が支払わざるべからざる租税は確定的であるべく、恣意的であってはならない。三、『あらゆる租税は、納税者にとりそれを支払うに最も便利なように思われる時または方法において、賦課せらるべきである。四、『あらゆる租税は、それが国庫に齎す以上には出来るだけ少く人民の懐中から取り去りかつ出来るだけ少く人民の懐中以外にあらしめるように、工夫せらるべきである。』(編者註)第五篇、第二章、(訳者註――キャナン版、第二巻、三一〇――三一一頁)。 無差別的にかつその地質の区別を無視してあらゆる耕地に課せられる平等な地租は、最も悪質の土地の耕作者によって支払われる租税に比例して穀価を騰貴せしめるであろう。質を異にする土地は、同一の資本を用いて、極めて異る分量の粗生生産物を産出するであろう。もし、一定の資本をもって一千クヲタアの穀物を産する土地に、一〇〇磅ポンドの租税が課せられるならば、穀物は、農業者にこの租税を補償するために、一クヲタアにつき二シリング騰貴するであろう。しかし、より良き質の土地に同一の資本を用いれば、二、〇〇〇クヲタアが生産され得ようが、それは一クヲタアにつき二シリング騰貴した時には、二〇〇磅ポンドを与えるであろう。しかしながら、租税は双方の土地に平等に課せられるからより良い土地に対しても劣等の土地に対すると同様に一〇〇磅ポンドであろう、従って穀物の消費者は、啻に国家の必要費を支払うためにのみならず、更にまたその借地期限の間より良い土地の耕作者に一年につき一〇〇磅ポンドを与え、またその以後には地主の地代をその額だけ高めるために課税されるであろう。かくてこの種の租税はアダム・スミスの第四の公理に反するであろう、すなわち、それは、それが国庫に齎した額以上を人民の懐中以外にあらしめるであろう。革命前のフランスにおけるタイユはこの種の租税であった。平民の保有地のみが課税され、粗生生産物の価格は租税に比例して騰貴し、従ってその所有地の課税されなかった人々は彼らの地代の増加によって利益を受けた。粗生生産物に対する租税並びに十分一税は、この反対論から免れる。それらは、粗生生産物の価格を騰貴せしめるが、しかしそれらは、各々の質の土地に、その実際の生産物に比例して納税させ、そして生産力の最小なるものの生産物に比例しては納税させないのである。
 アダム・スミスが地代についてとった特殊な見解からして、すなわち、あらゆる国において、何らの地代もそれに対して支払われない土地に多くの資本が投ぜられていることを、彼が観察しなかったことからして、彼は、土地に対するすべての租税は、それが地租または十分一税の形において土地そのものに対して賦課せられようと、または農業者の利潤から徴収されようと、すべて常に地主によって支払われるものであり、そして租税は一般に名目上借地人によって前払されてはいるが、すべての場合において地主が真実の納税者である、と結論した。彼は曰く、『土地の生産物に対する租税は実際においては地代に対する租税である。そしてそれは初めは農業者によって前払されるかもしれぬが、終局的には地主によって支払われる。生産物の一定部分が租税として払い出さるべき時には、農業者は出来るだけ詳しくこの部分の価値が年々幾何いくばくに上りそうであるかを計算し、そして彼が地主に対して支払うことを同意している地代をそれに比例して減額する。この種の地租たる教会十分一税が年々幾何に上りそうであるかをあらかじめ計算しない農業者はない。』(訳者註)農業者が彼れの農場の地代について彼れの地主と約定する時にあらゆる種類の蓋然的支出を計算することは疑いもなく真実である。そしてもし教会に支払われる十分一税に対し、または土地の生産物に対する租税に対して、彼がその農場の生産物の相対価値の騰貴によって補償されないならば、彼は当然にそれを彼れの地代から控除せんと努めるであろう。しかしまさにこれが、すなわち、彼は結局それを彼れの地代から控除するであろうか、または生産物の価格騰貴によって補償されるであろうか、ということが、論争のある問題なのである。既に述べた理由により、私は彼らが生産物の価格を引上げるであろうことを、従ってアダム・スミスはこの重要な問題について誤れる見解をとっていたことを、少しも疑い得ないのである。
(訳者註)キャナン版、第二巻、三二一頁。
 スミス博士のこの主題に関する見解がおそらく彼をして次の如く述べしめた理由である、すなわち、『十分一税、及びこの種のあらゆる他の地租は、完全な平等の外観を有ちながら極めて不平等な租税であり、それは、生産物の一定分量も、事情の異る場合には、はなはだ異る分量の地代に相当するからである。』(訳者註)かかる租税は重さを異にして農業者または地主の異る階級の負担する所とはならないが、けだし彼らは共に粗生生産物の騰貴によって補償され、そして単に彼らが粗生生産物の消費者たるに比例してこの租税を納付するに過ぎないからである、ということを、私は説明せんと努力し来った。実に労賃が、そして労賃を通じて利潤率が、影響を蒙る故に、地主はかかる租税に対し彼らの十分な分前を納付せず特に免除された階級なのである。その基金が不十分なために租税を支払い得ない所の労働者の負担に課せられる租税部分が引き出されるのは、資本の利潤からである。この部分は資本の使用によりその所得を得るすべての者のもっぱら負担する所であり、従ってそれは毫も地主に影響を及ぼさない。
(訳者註)キャナン版、同上。
(六八)十分一税及び土地と生産物とに対する租税に関するこの見解からして、それらは耕作を阻害しないと推論してはならぬ。極めて一般的に需要されているいかなる種類でもの[#「でもの」はママ]貨物の交換価値を騰貴せしめるあらゆるものは、耕作及び生産の両者を阻害する傾向がある。しかしこれはあらゆる課税から免れ得ぬ害悪であり、そして吾々が今論じている特定の租税に限られるものではない。
 このことはもちろん国家によって受領されかつ支出されるすべての租税に伴う不可避的な不利益と考え得よう。あらゆる新労働の一部分は今や国家の自由になし得る所となり、従って生産的に使用され得ない。この部分が極めて大となり、そのために、通常彼らの貯蓄によって国家の資本を増大する者の努力を刺戟するに足る剰余生産物が、残されなくなるであろう。課税は幸さいわいにして、未だいかなる自由国家においても、不断に年々その資本を減少せしめるほどに行われたことはない。かかる課税状態は久しく耐えられ得ないであろう。またはもし耐えられたとしても、それは極めて多くの国の年々の生産物を吸収し、ために最も広大なる範囲の窮乏、飢饉、及び人口減少を惹起すに至るであろう。
 アダム・スミスは曰く、『大英国の地租の如くに、各地方において一定不変の標準によって課せられる地租は、その最初の設定の時には平等であっても、時を経るにつれ国の種々なる地方の耕作の改良または等閑の程度の不平等なのに従って、必然的に不平等になる。英国においては、種々なる州及び教区がウィリアム及メアリの第四年の法律によって地租の課せられた基準となった評価は、その最初の設定の時ですら、極めて不平等であった。従ってこの租税はそれだけ上述の四公理の第一のものに反するものである。それは他の三つには完全に合致する。それは完全に確実である。その租税の支払期が地代の支払期と同一であることは、納税者にとり最も便利である。地主がすべての場合において真実の納税者ではあるけれども、この租税は普通借地人によって前払され、地主は彼に対して地代の支払においてそれを差引かなければならないのである。』(訳者註)
(訳者註)キャナン版、三一三頁。
 もし借地人によって租税が地主にではなく消費者に転嫁されるならば、しかる時は、もしそれが最初に不平等でないならば、それは決して不平等にはなり得ない。けだし生産物の価格は租税に比例して直ちに引上げられたのであり、そしてその故をもってその以後にもはや変化することはないであろうからである。もし不平等であるならば、私はそうであろうことを証明せんと試みたのであり、それは上述の第四の公理に反するであろうが、しかし第一の公理には反しないであろう。それは国庫に齎す額以上を人民の懐中から取り去るであろうが、しかしそれは不平等に納税者のある特定階級の負担する所とはならないであろう。セイ氏は、次の如く言う時に、英国の地租の性質及び結果を誤解しているように私には思われる、『多くの人は英国農業の大繁栄をこの固定的評価に帰している。それがこれにはなはだ多く寄与したことには、疑いは有り得ない。しかし小商人に向って次の如く云う政府には、吾々は何と云うべきであろうか、すなわち、「小さな資本をもって君は小さな商売を営んでいる、そしてその結果君の直接納税は極めて小である。資本を借り入れかつ蓄積せよ。君の商売が巨大な利潤を君に齎すように、それを拡張せよ、しかも君にはより多くの納税はさせないであろう。しかのみならず君の相続者が君の利潤を相続し、かつそれを更に増加せしめる時に、君の場合よりも彼らの場合にその評価をより高くはしないであろう。そして君の相続者はより多額の公の負担を負わせはしないであろう」と。
『疑いもなく、これは製造業及び取引に対して与えられる大なる奨励であろう。しかしそれは正当であろうか? それらの進歩はある他の代価によって得ることを得ないであろうか? 英国自身において、製造業及び商業はこの時期以来、かくも多くの差別待遇を受けることなくて、かえってより大なる進歩をすらなしはしなかったか? 一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加するとする。もし国家が彼からその増加された所得の五分の一を請求するとしても、彼れのより以上の努力を刺戟すべく四、〇〇〇フランの増加が残らないであろうか?』(編者註)
 セイ氏は、『一地主は彼れの勤勉や節約や熟練によって彼れの年収入を五、〇〇〇フランだけ増加する』(編者註)と想像している。しかし一地主は彼がそれを自身耕作せざる限り、彼れの勤勉や節倹や熟練を彼れの土地に用うべき何らの手段をも有たない。そしてその場合には彼が改良をなすのは資本家及び農業者たる資格においてであって、地主たる資格において[#「て」は底本では欠落]ではない。まず彼れの農場に用いられる資本の分量を増加することなくして、彼が彼として有つ任意の特殊な熟練によってその生産物をかく増加し得ようとは考えられない。もし彼が資本を増加したとしても、彼れのより大なる収入は彼れの増加された資本に対して、あらゆる他の農業者の収入が彼らの資本に対すると同一な比例を保つであろう。
(編者註)『経済学』第三篇、第八章、三五三――四頁。
 もし、セイ氏の教える所に従い、そして国家は農業者の増加せる所得の五分の一を請求すべきであるとするならば、それは農業者に対する局部的租税となり、彼らの利潤には影響を及ぼすけれども、他の職業の者の利潤には影響を及ぼさないであろう。この租税は、あらゆる土地によって、すなわち産出額の乏しい土地によっても産出額の多い土地によっても、支払われるであろう。そしてある土地においては、何らの地代も支払われていないのであるから、地代の低減によってのそれに対する補償はあり得ないであろう。利潤に対する局部的な租税は決してそれが課せられた事業の負担する所とはならない、けだし事業者は彼れの職業を中止するか、またはその租税に対して補償を受けるか、であろうからである。さて何らの地代をも支払わない者は、生産物の価格騰貴によってのみ補償され得る、かくてセイ氏の提議せる租税は消費者の負担する所となり、そして地主の負担にも農業者の負担にもならないであろう。
 もしこの提議された租税が、土地から得られた総生産物の分量または価値の増加に比例して増加されるならば、それは十分一税と何ら異る所なく、そして等しく消費者に転嫁されるであろう。しからばそれが土地の総生産物の負担する所となろうとまたはその純生産物の負担する所となろうと、それは等しく消費に対する租税であり、そして単に粗生生産物に対する他の租税と同様な仕方で地主及び農業者に影響を及ぼすに過ぎないであろう。
 もしいかなる種類の租税も土地に対して賦課されず、そして同一額がある他の手段によって徴収されたとしても、農業は少くとも実際に同じほど繁栄したであろう。けだし、土地に対するいかなる租税も農業に対する奨励であり得ることは不可能であるからである。適度な租税は大いに生産を妨げ得ないであろうし、またおそらく妨げないが、しかしそれは生産を奨励することは出来ない。英国政府はセイ氏が想像したような言葉は用いなかった。それは農業階級とその相続者とをあらゆる将来の課税から除外し、そして国家が必要とすべきそれ以上の資は他の社会階級から徴収するとは、約束しなかった。それは単に次の如く云ったに過ぎない、すなわち、『かくの如くして、吾々は、土地にこれ以上の負担をかけないであろう。しかし吾々は、君らをしてある他の形において国家の将来の必要費に対する君らの十分な割当額を支払わしめる最も完全なる自由を保留する』と。
 物納租税または十分一税と正確に同一なる生産物の一定の比例の租税について、セイ氏は曰く、『この課税方法は最も公平であるように思われる。しかしながらこれよりも不公平なものはない。すなわちそれは全然生産者によってなされる前払を考慮せず、それは総収入に比例せしめられ、純収入には比例せしめられない。二人の農業者が異る種類の粗生生産物を耕作する。一人は中等の土地で穀物を耕作し、その支出は年々平均して八、〇〇〇フランに当る。彼れの土地から得られる粗生生産物は一二、〇〇〇フランで売れる。しかる時は彼は四、〇〇〇フランの純収入を得る。
『彼の隣人は牧場または森林地を有し、それは毎年同額の一二、〇〇〇フランを齎すが、しかし彼れの支出は単に二、〇〇〇フランに当るに過ぎない。従って彼は平均して一〇、〇〇〇フランの純収入を得る。
『一法律が、すべての土壌の果実の生産物の十二分の一を、それが何であろうとに論なく、実物で徴収すべきことを命ずるとする。第一の者からはこの法律の結果として一、〇〇〇フランの価値の穀物が徴収され、また第二の者からは同じく一、〇〇〇フランの価値を有つ枯草や家畜や木材が徴収される。そこで何事が起ったか? 一方からは、彼れの純所得、四、〇〇〇フランの、四分の一が徴収され、その所得が一〇、〇〇〇になる他方からは、わずかに十分の一が徴収されたに過ぎない。所得とは資本を正確にその以前の状態に囘復した後に残る純利潤である。一商人は、彼が一年の間になすすべての販売に等しい所得を得るか? 確かにそうではない。彼れの所得は単に、彼れの販売が彼れの前払を超過する額に当るに過ぎず、そして所得税を負担すべきものはこの超過額のみである。』(編者註)
(編者註)前掲書、三四四頁、三五〇頁。
 上記の章句におけるセイ氏の誤謬は、これらの二つの農場の一方の生産物の価値が、資本を囘収した後に、他方の生産物の価値よりもより大であるから、その故に、耕作者の純所得はこの額だけ異るであろう、と想像していることにある。森林地の地主と借地人との純所得の合計は、穀物地の地主と借地人との純所得よりも遥かにより大であるかもしれない。しかしそれは地代の相違の故であって、利潤率の相違の故ではない。セイ氏は、これらの耕作者が支払わなければならぬ地代の量の異ることに関する考察を、全然省略したのである。同一の職業には二つの利潤率はあり得ず、従って、生産物の価値が資本に対し異る比例にある時には、異るべきものは地代であって利潤ではない。いかなる口実によって、八、〇〇〇フランの資本を有する他の人が四、〇〇〇フランを取得するに過ぎないのに二、〇〇〇フランの資本を有する人は、それを用いて一〇、〇〇〇フランの純利潤を取得することを許されるであろうか? セイ氏をして地代を適当に斟酌せしめよ。彼をして更に、かかる租税がこれらの異る種類の粗生生産物の価格に対して及ぼすべき影響を斟酌せしめよ、しからば、彼はそれは不平等な租税ではなく、更にまた、生産者自身はいかなる他の消費者階級とも異った方法では租税に貢献しないであろうということを、理解するであろう。
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    第十三章 金に対する租税

(六九)貨物の価格騰貴は、課税または生産の困難の結果として、あらゆる場合において結局生ずるであろう。しかし市場価格が自然価格に一致するまでの時の隔りは、貨物の性質に、及びその量が減ぜられ得る難易に、依存しなければならぬ。もし課税された貨物の量が減少され得ないならば、もし例えば農業者または帽子製造業者の資本が他の職業へ向って引き去られ得ないならば、彼らの利潤が租税によって一般水準以下に低減されることは、少しも重大事ではないであろう。彼らの貨物に対する需要が増加しない限り、彼らは決して穀物及び帽子の市場価格をその騰貴したる自然価格にまで引上げ得ないであろう。その職業を去りかつその資本をより有利な事業に移転するという彼らの威嚇は、実行され得ない所の無益な脅迫と看做され、従って価格は生産の減少によって引上げられることはないであろう。しかしながらあらゆる種類の貨物はその量を減少し得、かつ資本はより不利な事業からより有利な事業に――その速度は異るが――移転され得る。特定の貨物の供給が生産者に対する不便を伴わずしてより容易に減少され得るに比例して、その価格は、その生産の困難が課税またはその他の手段によって増加された後に、より速かに騰貴するであろう。穀物はあらゆる者にとって不可欠の必要貨物であるから、租税の結果としてそれに対する需要に対してほとんど影響は起らないであろう、従って、たとえ生産者達が彼らの資本を土地から移転するのが極めて困難であるとしても、その供給はおそらく久しく過剰ではないであろう。この理由のために、穀物の価格は課税によって急速に高められ、そして農業者は租税を彼自身から消費者に転嫁し得るに至るであろう。
 もし吾々に金を供給する鉱山が我国にあり、そしてもし金が課税されているとするならば、それはその分量が減少されるまでは他の物に対する相対価値において騰貴し得ないであろう。このことは、金がもっぱら貨幣として用いられる場合には、特にますます事実であろう。生産力の最も少い鉱山、何らの地代をも支払わない鉱山は、金の相対価値が租税に等しい額だけ騰貴するまでは一般利潤率を与え得ないから、もはや採掘され得ないことは、真実である。金の分量に[#「に」は底本では欠落]従って貨幣の分量は徐々に減少されるであろう。それはある年には少し減少され、他の年には更にもう少し減少され、そしてついにその価値は租税に比例して騰貴せしめられるであろう。しかしそれまでの間は、所有者または保有者が租税を支払うであろうから、彼らが被害者であり、貨幣を使用した者は被害を蒙らないであろう。もし国内における小麦一、〇〇〇クヲタアごとに、及び将来における一、〇〇〇クヲタアごとに、政府が一〇〇クヲタアを租税として徴収するならば、残りの九〇〇クヲタアは、以前に一、〇〇〇クヲタアと交換されたと同一の分量の他の貨物と交換されるであろう。しかしもし同一のことが金に関して起るならば、すなわちもし現在国内にある貨幣一、〇〇〇磅ポンドごとに、または将来国内に齎さるべき一、〇〇〇磅ポンドごとに、政府が一〇〇磅ポンドを租税として徴収し得るならば、残りの九〇〇磅ポンドは、以前に九〇〇磅ポンドが購買した以上にはほとんど購買しないであろう。この租税は財産が貨幣から成る人の負担する所となり、そしてその量が、租税によって起ったその生産費の増加に比例して、減少されるまでは、引続きそうであろう。
(七〇)このことはおそらく、他のいかなる貨物よりも貨幣として使用される金属に関して、特に事実であろう。けだし貨幣に対する需要は、衣服や食物に対する需要の如くに、一定分量に対するものではないからである。貨幣に対する需要は、全くその価値によって左右され、そしてその価値はその分量によって左右される。もし金が二倍の価値を有つならば、半分の分量が流通において同一の職能を果すであろうし、またもしそれが半分の価値を有つならば、二倍の分量が必要とされるであろう。もし穀物の市場価値が、課税または生産の困難によって、十分の一だけ騰貴せしめられるとしても、消費量に何らかの影響が惹起されるか否かは、疑わしいことである、けだしあらゆる者の欲望は一定量に対するものであり、従ってもし彼が購買の資力を有つならば、彼は引続き以前と同様に消費するであろうからである。しかし貨幣に対しては需要はその価値に正確に比例する。何人も彼を支えるために通常必要な穀物量の二倍を消費し得ないであろうが、しかし単に同一量の財貨を売買するに過ぎないあらゆる者は、この貨幣量の二倍、三倍、または何倍でもを、使用するを余儀なくされることもあろう。
 私が今述べて来た議論は、貴金属類が貨幣として使用されかつ紙幣信用が樹立されていない社会状態にのみ、妥当するに過ぎない。金属金は、すべての他の貨物と同様に、その市場における価値を、結局それを生産する難易によって左右される。そしてたとえその耐久的性質とその分量を減少することの困難とによってそれはその市場価値の変動に容易に服せぬとはいえ、しかもこの困難はそれが貨幣として用いられるという事情によって大いに増加される。もし商業のみの目的のために用いられる市場における貨幣量が一〇、〇〇〇オンスであり、そして我国の製造業における消費が年々二、〇〇〇オンスであるならば、年々の供給を抑止することによって、一年にしてそれはその価値において四分の一すなわち二五%だけ騰貴するであろう。しかしそれが貨幣として用いられる結果として使用量が一〇〇、〇〇〇オンスであるならば、それは十年以内には価値において四分の一だけ騰貴することはないであろう。紙幣は分量において直ちに減少され得ようから、その価値は、たとえその本位は金であっても、もしその金属が流通の極めて小部分を形造ることによって貨幣と極めて軽微な関係しか有たぬ場合には、金属それ自身の価値と同様に速かに増加されるであろう。
(七一)もし金が一国のみの生産物であり、かつそれが普遍的に貨幣として用いられるならば、かなりの多額の租税がそれに賦課され得、それが、人々が金を製造業において及び什器のために用いるに比例しての他は、いかなる国の負担する所ともならないことがあろう。貨幣として用いられる部分に対しては、多額の租税が収納されても、何人もそれを支払わないであろう。これは貨幣に特有な性質である。限られた量しか存在せずかつ競争によって増加され得ないすべての他の貨物は、その価値については、購買者の嗜好や気紛れや資力に依存している。しかし貨幣はいかなる国もそれを増加せんとする願望を有たずまたは必要を有たない貨物である。通貨を二千万使用することからは、一千万使用することから起る以上の利益はない。一国が絹または葡萄酒の独占権を有っていても、しかも気紛れや流行や嗜好のために、毛織布及びブランデイが好まれかつ代用されるであろう故に、絹製品及び葡萄酒の価値は下落するであろう。同一の結果は、金の使用が製造業に限られている限り、ある程度において金についても起り得よう。しかし貨幣は交換の一般的媒介物であるから、それに対する需要は決して選択事項でなく、常に必要事である。諸君は諸君の財貨と交換にそれを受取らなければならず、従ってもしその価値が下落するならば、外国貿易によって諸君が受取らせられる分量には限りがなく、またもしそれが騰貴するならば、諸君はいかなる減少にも服さなければならないのである。もちろん諸君は紙幣を代用し得ようが、しかしこれによって諸君は貨幣の分量を減少しないし、また減少し得ない、けだしその分量はそれと交換されるその本位の価値によって左右されるものであるからである。僅少な貨幣をもって貨物が購買される国からそれがより多くの貨幣に対して販売され得る国へと、貨物が輸出されるのを、諸君が妨げ得るのは、貨物の価値の騰貴によってのみであり、そしてこの騰貴は外国からの金属貨幣の輸入により、または国内における紙幣の創造または附加によってのみ、行われ得るものである。かくてもし、スペイン王が鉱山を独占的に所有すると仮定し、そして金のみが貨幣として用いられると仮定すれば彼が金に対し大なる租税を賦課するとするならば、彼はその自然価格を極めて多く引き上げるであろう。そしてヨオロッパにおけるその市場価格は、終局においてはスペイン領アメリカにおけるその自然価値によって左右されるのであるから、一定分量の金に対しヨオロッパによってより多くの貨物が与えられるであろう。しかし同一分量の金はアメリカにおいては生産されないであろう、けだしその価値は単にその生産費の増加の結果たる分量の減少に比例して増加されるに過ぎないからである。かくてアメリカにおいてはその輸出されたすべての金と交換に以前よりもより多くの財貨が取得されはしないであろう。そこでしからば、スペインとその植民地にとってどこに利益があるか? と問われ得よう。その利益はこういうことであろう、すなわち、もしより少い金が生産されるならば、より少い資本がその生産に用いられ、以前により大なる資本の使用によって取得されたと同一の価値を有つヨオロッパからの財貨が、より小なる資本の使用によって輸入され、従って鉱山から引き去られた資本の使用によって得られたすべての生産物は、スペインが租税の賦課によって得、かつそれが他のいかなる貨物の独占権の所有によってもかくも豊富にかつかくも確実に取得し得ないであろう所の、利益であろう。かかる租税からは、貨幣の関する限りにおいては、ヨオロッパの諸国民は何らの害をも蒙らないであろう。彼らは以前と同一の分量の財貨を有ち、従って同一の享楽手段を有つであろうが、しかしこれらの財貨は、貨幣価値が騰貴しているから、より少い分量の貨幣をもって流通されるであろう。
 もし租税の結果として金の現在量の単に十分の一が鉱山から得られるに過ぎないとするならば、その十分の一は現在生産されている十分の一と等しい価値を有つであろう。しかしスペイン王は貴金属の鉱山を独占的に所有してはいない。そしてもし彼がそれを独占しているとしても、その所有による彼れの利益及び課税権力は大なり小なりの程度における紙幣の普遍的代用の結果として、ヨオロッパにおける需要と消費との制限によって、極めて著しく減ぜられるであろう。あらゆる貨物の市場価格と自然価格との一致は、あらゆる時において、供給が増減され得る容易さに依存する。金や家屋や労働や並びにその他の多くの物の場合には、ある事情の下においては、この結果は急速に齎され得ない。しかし帽子や靴や穀物や毛織布の如き、年々消費されかつ再生産される貨物の場合はこれと異る。それらは、必要の際には、減ぜられ得よう、そして供給がそれらの生産費の増加に比例して縮小されるまでの時の隔りは、長くあり得ないのである。
 土地の表面からの粗生生産物に対する租税は、吾々の既に見た如くに、消費者の負担する所となり、そして毫も地代には影響を及ぼさないであろう。ただしそれが労働の維持のための基金を減少することによって、労賃を低め、人口を減じ、そして穀物に対する需要を減少する場合は、この限りではない。しかし金鉱の生産物に対する租税は、この金属の価値を騰貴せしめることによって、必然的にそれに対する需要を減じ、従って必然的に資本が用いられていた職業からその資本を排除しなければならない。しからば、金に対する租税から前述のすべての利益をスペインは得るであろうにもかかわらず、資本が引き去られた鉱山の所有者はすべての彼らの地位を失うであろう。これは個人に対する損失ではあろうが、しかし国民的損失ではないであろう。地代は富の創造ではなく単にその移転に過ぎないからである。スペイン王と、引続き採掘される鉱山の所有者は、相共に、啻に解放された資本が生産したすべてを受取るのみならず、更に他の所有者が失ったすべてをも受取るであろう。
 第一等、第二等、及び第三等の質の鉱山が採掘されており、そして各々一〇〇、八〇、及び七〇封度ポンドの重量の金を生産し、従って第一等鉱山の地代は三十封度ポンドであり、第二鉱山のそれは十封度ポンドであると仮定せよ。今租税は採掘されている各鉱山に対して年々七十封度ポンドの金であり、従って第一等鉱山のみが有利に採掘され得ると仮定せよ。すべての地代が直ちに消失すべきことは明かである。租税の賦課以前には、第一等鉱山で生産された一〇〇封度ポンドの中から三十封度ポンドの地代が支払われ、そしてこの鉱山の採掘者は、最も生産力の小なる鉱山の生産物に等しい額たる七十封度ポンドを保有した。しからば第一等の鉱山の資本家の手に残るものの価値は、以前と同一でなければならず、しからざれば彼は資本の通常利潤を取得しないであろう。従って租税として、彼れの一〇〇封度ポンドの中から七〇封度ポンドを支払った後に、残りの三十封度ポンドの価値は以前の七十封度ポンドの価値と同じ大きさでなければならず、従って全百封度ポンドの価値は以前の二三三封度ポンドの価値と同じ大いさでなければならない。その価値はより高いかもしれないが、しかしそれはより低くはあり得ないであろう、しからざればこの鉱山ですら採掘されざるに至るであろう。それは独占貨物であるからその自然価値を超過し得るであろう、そしてその際には、それはその超過に等しい地代を支払うであろう。しかしながらそれがこの価値以下であるならば、何らの資金も鉱山に用いられないであろう。鉱山に用いられる労働と資本との三分の一と引替に、スペインは、以前と同一の、またはほとんど全く同一の分量の貨物と交換されるべきほどの金を取得するであろう。この国は鉱山から解放された三分の二のものの生産物だけより富むであろう。もし一〇〇封度ポンドの金の価値が以前に採掘された二五〇封度ポンドのそれに等しいとするならば、スペイン王の収得分たる彼れの七十封度ポンドは、以前の価値における一七五封度ポンドに等しいであろう。国王の租税の大部分は資本のより良き分配によって取得されるから、その小部分が彼自身の臣民の負担する所となるに過ぎないであろう。
 スペインの計算書は次の如くなるであろう。

    以前の生産額
 金二五〇封度ポンド、その価値(仮定)…………毛織布一〇、〇〇〇ヤアル

    新生産額
 鉱山を中止せる二人の資本家により生産さる、金一四〇封度ポンドが以前に交換されたと同一の価値。その大いさは…………毛織布五、六〇〇ヤアル
 第一等鉱山を採掘する資本家により生産さる、一対二・二分の一にて価値騰貴せる三十封度ポンドの金、従ってその現在価値は…………毛織布三、〇〇〇ヤアル
 七十封度ポンドの王への租税、同じく一対二・二分の一にて価値騰貴、従ってその現在価値は…………毛織布七、〇〇〇ヤアル
一五、六〇〇
 王の受取る七、〇〇〇のうち、スペインの臣民は一、四〇〇を納めるに過ぎず、そして五、六〇〇は、解放された資本によって齎された純利得であろう。
 もし租税が、採掘鉱山についての固定額のものではなくして、その生産物の一定割合であるならば、生産量はその結果として直ちに減少されないであろう。もし各鉱山の産額の二分の一、四分の一、または三分の一が租税として徴収されても、それにもかかわらず彼らの鉱山をして以前と同様豊富に産出せしめるのが所有者の利益であろう。しかしもしその分量が減ぜられずして、単にその一部分が所有者から国王に移転されるに過ぎないならば、その価値は騰貴しないであろう。租税は、植民地の人民の負担する所となり、そして何らの利益も得られないであろう。この種の租税は、アダム・スミスが、粗生生産物に対する租税が土地の地代に及ぼすと想像した影響を有つであろう――すなわちそれは全然鉱山の地代の負担する所となるであろう。実にもしこれ以上もう少しく進められるならば、この租税は、啻に全地代を吸収するのみならず、鉱山の採掘者から資本の普通利潤を奪うこととなり、従って彼はその資本を金の生産から引き去るであろう。もしこれ以上、更にもう少し拡大されるならば、更により良い鉱山の地代は吸収され、そして資本は更にその上引き去られるであろう。かくて分量は不断に減少され、そしてその価値は高められ、そして吾々が指摘したと同一の結果が起るであろう。租税の一部はスペイン植民地の人民によって支払われ、そして他の部分は、交換の媒介物として用いられる用具の力を増大せしめることによって、生産物の新創造となるであろう。
 金に対する租税には二種類あり、その一は流通している金の実際の分量に課せられるものであり、他方は鉱山から年々生産される分量に課せられるものである。両者は金の分量を減じて価値を騰貴せしめる傾向を有っている。しかしそのいずれによってもその分量が減少せしめられるまではその価値は騰貴せしめられないであろう、従ってかかる租税は、供給が減少せしめられるまではしばらくの間貨幣の所有者の負担する所となるであろうが、しかし終局的には、永続的に社会の負担する所となるべき部分は、地代の減少という形で鉱山の所有者によって、及び、金のうち、人類の享楽に寄与する貨物として用いられ流通用具として取除けられることのない部分の、購買者によって、支払われるであろう。
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    第十四章 家屋に対する租税

(七二)金の他にもまた、急速にその量を減少させられ得ない他の貨物がある。従ってそれに対するいかなる租税も、価格の騰貴が需要を減少させるならば、所有者の負担となるであろう。
 家屋に対する租税はこの種のものである。たとえ居住者に課せられても、それはしばしば家賃の減少によって、家主の負担する所となるであろう。土地の生産物は年々消費されかつ再生産され、そして他の多くの貨物も同様である。従ってそれらは急速に需要と同一水準に齎され得ようから、久しくその自然価格を越していることは出来ない。しかし家屋に対する租税は、借家人によって支払われる家賃の附加と考えてよかろうから、その傾向は、家屋の供給を減少することなくして同一の年家賃の家屋に対する需要を減少することであろう。従って家賃は下落し、そして租税の一部分は間接に家主によって支払われるであろう。
(七三)アダム・スミスは曰く、『家屋の家賃は二つの部分に区別し得よう。その一方は極めて正当に建築物家賃と呼ばれ得ようし、他方は普通敷地地代と呼ばれている。建築物家賃は家屋の建築に費された資本の利子または利潤である。建築業者の職業を他の職業と同一水準に置くためには、この家賃は第一に、彼がその資本を良好な担保を取って貸附けた場合に、彼がその資本に対して得べきと同一の利子を支払うに足り、また第二に、家屋を絶えず修繕しておくことに、または同じことになるが、一定年限にそれを建築するに使用された資本を囘収するに足ることが、必要である。』(訳者註一)『もし金利に比例して、建築業者の職業が、ある時において、これよりも遥かにより大なる利潤を与えるならばそれは直ちに他の諸々の職業から極めて多くの資本を引去り、その結果この利潤をその正当な水準まで低下せしめるであろう。もしもそれがある時においてこれよりも遥かにより以下を与えるならば、他の職業は直ちにこの職業から多くの資本を引去り、その結果再びその利潤を高めるであろう。家屋の全家賃のうちこの正当な利潤を与えるに足る額を越えるすべては、当然に敷地地代に属する。そして土地の所有者と建築物の所有者とが、二人の異る人である場合には、それは大抵の場合において完全に前者に支払われる。大都市から遠く離れ、土地を広く選択し得る、田舎家屋にあっては、敷地地代は、家屋のある場所が農業に用いられた場合に支払う所以上ではほとんどなく、またはそれ以上では全くない。ある大都市の近郊における田舎の別墅べっしょにあっては、それは時に大いにより高く、そしてその特殊の便益または地の利はそこにおいてはしばしば極めて高い支払を受ける。敷地地代は一般に、首都において、また、取引や事業のためであろうと、娯楽や社交のためであろうと、または単なる虚栄や流行のためであろうと、その需要の理由が何であるかを問わず、とにかく家屋に対する需要の最大な首都の特殊部分において、最高である。』(訳者註二)家屋の家賃に対する租税は、居住者か土地地主かまたは建物家主かの負担となるであろう。普通の場合においては、全租税は直接的にかつ終局的に居住者によって支払われると推定し得よう。
(訳者註一)『諸国民の富』キャナン版、第二巻、三二四頁。
(訳者註二)同上、三二五頁。
 もしこの租税が適量であり、そして国の事情によりその国が静止的かまたは進歩的かであるならば、家屋の居住者には、より悪い種類の家屋で満足しようという動機は、ほとんど起らないであろう。しかしもしこの租税が高いか、もしくはある他の事情が家屋に対する需要を減少するならば、家主の所得は下落するであろうが、けだし居住者は租税の一部を家賃の減少によって償われるであろうからである。しかしながら、租税のうち家賃の下落によって居住者が免れた部分が、いかなる割合において、建築物家賃と敷地地代との負担する所となるであろうかをいうことは困難である。最初にはおそらく双方が影響を蒙るであろう。しかし家屋は徐々としてではあるがしかし確実に破滅して行くものであるから、そして建築業者の利潤が一般水準にまで囘復されるまではそれ以上家屋は建築されないであろうから、建築物家賃はしばらくの後には、その自然価格にまで囘復されるであろう。建築業者は単に建物が存続する間家賃を受取るに過ぎないのであるから、最も不幸な事情の下においては、彼は、それ以上の期間、租税のいかなる部分をも支払い得ないであろう。
 かくてこの租税の支払は終局的には居住者及び土地地主の負担する所となるであろう、しかし、『いかなる割合においてこの終局の支払が彼らの間に分たれるかは』とアダム・スミスは曰う、『これを確かめることは、おそらくは極めて容易ではない。この分割はおそらく、異る事情においては極めて異るであろう、そしてこの種の租税は、それらの異る事情に従って、家屋の住人と土地の所有者との双方に極めて不平等に影響を及ぼすであろう。』(註)
(註)第五篇、第二章(訳者註――キャナン版、三二六頁)。
 アダム・スミスは敷地地代をもって特に適当な課税物件であると考えている。彼は曰く、『敷地地代及び通常の土地地代の両者は、所有者が多くの場合において、彼自身の配慮や注意を要せずして享受する収入の一種である。たとえこの収入の一部分が、国家経費を支払うために、彼から取去られたとしても、いかなる種類の産業もそれによっては阻害されないであろう。社会の土地及び労働の年々の生産物は、人民の大多数の真実の富及び収入は、かかる租税が課せられた後においてもその以前も同一であろう。従って敷地地代及び通常の土地地代はおそらく、それらに対して特殊の租税が課せられてもそれを最も良く負担し得るという種類の収入である。』(訳者註)これらの租税の結果がアダム・スミスの述べた如きものであろうことは、認めなければならない。しかし、もっぱら社会のある特定階級の収入にのみ課税するというのは、確かに極めて不正であろう。国家の負荷はすべての者がその資力に応じて負担しなければならない。これは、すべての課税を支配すべきものとしてアダム・スミスが挙げている四つの公理の一つである。賃料はしばしば、多年の辛苦の後にその利得を実現しそしてその財産や土地や家屋の購買に支出した人々に、帰属する。そして財産に不平等に課税することは、確かに、財産の安固という常に神聖に保たるべき原理の一侵害となるであろう。土地財産の移転が負っている印紙税がおそらくそれを最も生産的ならしめるべき人々へのその移転を著しく害しているのは、悲しむべきことである。そして土地が、適当な単一課税物件と看做されて、啻に、その課税の危険を償うために価格において低下せしめられるのみならず、更にその危険の不確定的性質と不確実な価値とに比例して、真面目な事業というよりは、賭博の性質をより多く有つ所の投機の恰好な目的物となることを、考えるならば、その場合土地を最も所有しそうな人は、おそらく、その土地を最も有利になるように使用する如き真面目な所有者の性質よりも、賭博者の性質をより多く有つ人であろう。
(訳者註)同上、三二八頁。
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    第十五章 利潤に対する租税

(七四)一般に奢侈品と名づけられている貨物に対する租税は、それを使用する者のみの負担する所となる。葡萄酒に対する租税は葡萄酒の消費者によって支払われる。娯楽用馬匹ばひつまたは馬車に対する租税は、かかる享楽物を備えている者により、かつ彼らがそれらを備えている程度に正確に比例して、支払われる。しかし必要品に対する租税は必要品の消費者達に対し、彼らによって消費される分量に比例して影響するものではなく、しばしば遥かにより高い比例において影響する。穀物に対する租税は、既に述べた如くに、製造業者に対し、啻に彼及びその家族が穀物を消費するに比例して影響するのみならず、更にそれは資本の利潤率をも変更せしめ、従って彼れの所得にも影響する。労働の労賃を騰貴せしめるものは何でも資本の利潤を下落せしめ、従って、労働者によって消費されるいかなる貨物に対する租税も、すべて利潤率を下落せしめる傾向を持つものである。
 帽子に対する租税は帽子の価格を騰貴せしめるであろう。靴に対する租税は靴の価格を騰貴せしめるであろう。もしそうでなければ租税は結局製造業者によって支払われるであろう。彼れの利潤は一般水準以下に下落しそして彼はその職業を中止するであろう。利潤に対する部分的租税は、それを負担する貨物の価格を騰貴せしめるであろう。例えば帽子製造業者の利潤に対する租税は帽子の価格を騰貴せしめるであろう。けだしもし彼れの利潤が課税され、そしていかなる他の職業のそれも課税されないならば、彼れの利潤は、彼がその帽子の価格を引上げない限り、一般利潤率以下となり、そして彼はその職業を中止して他の職業に赴くであろうからである。
 同様にして農業者の利潤に対する租税は穀価を騰貴せしめるであろう。毛織物製造業者の利潤に対する租税は毛織布の価格を騰貴せしめるであろう。そして利潤に比例しての租税がすべての職業に賦課せられるならばあらゆる貨物は価格において騰貴せしめられるであろう。しかしもし吾々に我国の貨幣の本位を供給する鉱山が我国にあり、そして鉱山業者の利潤もまた課税されるならば、いかなる貨物の価格も騰貴せず、各人はその所得の等しい割合を与え、そして万事は以前の通りであろう。
 もし貨幣が課税されず、従ってその価値を保持することが許されるが、しかるに他のあらゆる物は課税され、そして価値において騰貴せしめられるならば、各々同一の資本を使用しかつ同一の利潤を得ている帽子製造業者、農業者、及び毛織物製造業者は同一額の租税を支払うであろう。もし租税が一〇〇磅ポンドであるならば、帽子、毛織布、及び穀物は各々価値において一〇〇磅ポンドだけ騰貴せしめられるであろう。もし帽子製造業者が彼れの帽子によって一、〇〇〇磅ポンドではなく一、一〇〇を利得するとしても、彼は租税として政府に一〇〇



底本:「經濟學及び課税の諸原理」春秋社
   1948(昭和23)年5月20日第1刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「敢て→あえて 恰かも→あたかも 貴方→あなた 普く→あまねく 予め→あらかじめ 非ざれば→あらざれば 非ずんば→あらずんば 凡ゆる→あらゆる 或る→ある 或は、或いは→あるいは 雖も→いえども 如何→いか 何れ→いずれ 一々→いちいち 何時→いつ 一層→いっそう 於いて・於て→おいて 於ける→おける 恐らく→おそらく 却って→かえって 拘わらず→かかわらず 斯く→かく 且つ→かつ 嘗て・曾て→かつて 可成、可成り、可なり→かなり かも知れ→かもしれ 位→くらい 蓋し→けだし 子沢山→子だくさん 毎→ごと 此の→この 之→これ 左程→さほど 然し→しかし 而も→しかも 然ら→しから 然り→しかり 然る→しかる 屡々→しばしば 暫く→しばらく 即ち→すなわち 総べて・総て→すべて 精々→せいぜい 其処→そこ 其の、其→その 度い→たい 唯→ただ 但し→ただし 度→たび 多分→たぶん 偶々→たまたま 為・為め→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 就いて→ついて 遂に→ついに 就き→つき (て)置→(て)お (て)居→(て)お (て)貰→(て)もら 如何→どう 何処→どこ 兎に角・とに角→とにかく 乃至→ないし 乍ら→ながら 何故→なぜ 成程・成る程→なるほど 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 延いては→ひいては 一と度→ひとたび 程→ほど 殆んど・殆ど→ほとんど 正に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 又、亦→また 迄→まで 儘→まま 間もなく→まもなく 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 以て・以って→もって 専ら→もっぱら 最早→もはや 易い→やすい 矢張り→やはり 稍々→やや 所以→ゆえん 等→ら 訳→わけ 僅か→わずか」
また、底本では格助詞の「へ」が「え」に、連濁の「づ」が「ず」になっていますが、それぞれあらためました。
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年7月2日作成
2014年4月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

  1. このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。

  2. [#…]は、入力者による注を表す記号です。

  3. アクセント符号付きラテン文字は、画像化して埋め込みました。



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