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『奇奇怪怪』の少年ジャンプ的な冒険心、あるいは上品さについて

昨日は仕事を早めに切り上げて、代官山蔦屋書店に行ってきた。発売を心待ちにしていた『奇奇怪怪』という本を手に入れるためだ。

この本は、TaiTanと玉置周啓という二人のアーティストによる同名のPodcast番組を書籍化したものだ。映画、音楽、小説、漫画や日常の出来事を切り口に、文化や経済、社会を横断しながら縦横無尽に広がるトークが人気を博し、番組のフォロワー数は一万人を超える。

この番組が本になるのは、今回が初めてではない。去年の二月の出版に続く書籍化第二弾だ。したがってこれは「続編の刊行」にあたるのだが、実際のところ、それほどカンタンな話ではなかった。

前回の書籍化を手がけたのは、国書刊行会という出版社だ。創業50年を超える実績豊富な出版社である。担当の編集者は石原さんという方だった。それから一年と少しの月日が流れ、石原さんは国書刊行会を離れて「石原書房」という出版社を立ち上げる。そして、独立後に初めて作ることになったのが今回の『奇奇怪怪』なのであった。

前回の本づくりも、Podcastの書籍化という試みや事典を模した装丁など、挑戦的な面はいくつもあったと思う。しかし、大きな出版社から数ある出版物のうちの一冊として出すのと、後ろ盾のない状態から自分たちの力で本を作って売り出すのでは、まったく別次元のチャレンジだ。

もちろん、石原さんがプロの編集者であることに変わりはない。しかし、前回と今回とでは制作の心構えから現実の責任まで、まったく違う経験が求められたはずだ。それに、プロジェクトが上手くいかなければ、その結果は石原さんの日々の生活に直接影響を与える。というか、このプロジェクトは一連の事情から十分な資金の用意がなく、なぜか著者の側であるTaiTan自身が資金集めに奔走するという奇奇怪怪な状況まで発生していた。

まったくのゼロからというわけではないが、それでも一筋縄ではいかない大変な道のりだったと思う。だから、こうして無事に刷り上がった作品を手にできたのは、本当に嬉しいことなのだ。

今回の本には、資金集めの一環として(またデザイン上の演出も兼ねて)紙面に設けられた広告枠を販売する施策が行われた。実は、僕も自分が手がけているサービスの名前で一枠協賛させてもらっている。

今年五月、下北沢のカレー屋・ムーナでTaiTanから出版の企画を聞いたとき、彼は「少年ジャンプのような本を作りたい」と言った。

それは、具体的には本の判型や印刷の質、紙面のデザイン、それらが組み合わさって生まれる読書体験を指していた。しかし、より大きな意味では、最近の彼らの喋り、その営為自体の「ノリ」を具現化する形態として「少年ジャンプ」がイチバンしっくり来るという話だった。

つい最近まで「奇奇怪怪」は「奇奇怪怪明解事典」という名称だった。番組発足時からのコンセプトとして、二人の会話が一冊の事典を編む行為になぞらえていたからだ。しかし、長くPodcastを続けて来るなかで、話題となる物事と彼らの距離感、接する角度、語り手としての態度は自然と洗練されてきていた。その気分の変化として、次の書籍は「事典」ではなく「少年ジャンプ」へと形態を変えたいのだ、と彼は説明した。

僕はこの話を(直近の配信回で玉置周啓が「複雑な味がしていて良い」と絶賛していたので思わず注文してしまった)ホタルイカを乗せたカレーをせっせと口に運びながら「漫画雑誌ではなく、少年ジャンプというところがいいなあ」と思って聞いていた。「マガジン」でも「サンデー」でもなく、明確に「ジャンプ」というところに心を打たれたのだ。ジャンプには特別な印象がある。それは「ジャンプが漫画雑誌の第一想起だから」というだけではないと思う。

小学校の中学年、高学年になった頃、家族と過ごす時間を居心地悪く感じるようになった経験はないだろうか。親の車に乗せられてショッピングモールに行くよりも、友達と自転車に乗って遊びに行きたい。友達の家や公園でゲームをしたい。あるいは、それまで一緒に遊んでいたクラスメートの容姿が気になりだして、性差を意識しはじめた。けれど、それはまだ性欲とは結びついていない。そんなかんじの、手足が生えかけたオタマジャクシのような時期があると思う。

そして人間には、この年頃の精神性を借りることでしか描けないものがある。それを、比喩的な意味も含めて「冒険に出る」という形で引き受けているのがジャンプ漫画の主人公たちなのだ。少年ジャンプには、そんな想像力がぎっしりと詰まっている。

「少年ジャンプのような本にしたい」という言葉に僕がうんうんそうかと素直に頷けたのは、普段から「奇奇怪怪」を聞いていて、二人の会話にジャンプに通じる生き生きとした想像力を感じ取っていたからだ。決してホタルイカが美味しくて頷いていただけではない。

今回の『奇奇怪怪』の表紙には、「日々を薄く支配する文化と経済の謎と不条理を強引に面白がる、ポッドキャスト発マガジン」という一文が添えられている。謎と不条理を前にして「ニッ」と笑って歩みを進める姿勢。それはまさにジャンプらしい冒険の心だと思う。

さて、「奇奇怪怪」について思うことをもう一つだけ書いておこうと思う。

この番組の名物といえば、彼らの口から飛び出す荒っぽいセリフの数々である。以前はTaiTanに限った持ち味だったが、回を追うごとに玉置周啓も釣られて口が悪くなっていき、いまでは頻繁に「お前ふざけんなよ!」「なんだテメー、はっ倒すぞ!」といったやりとりが飛び交うようになった。

これは毒舌のような話芸ではなく、単純に口が悪いという性質のもので、「TBSラジオの上層部はその言葉遣いを好意的に思っていないらしい」というエピソードが自虐的に語られたこともあった。それでもこの露悪的な口調は番組の魅力として愛され、もはや「火事と喧嘩は江戸の華」に類する風情すら感じさせるようになってきた。

そんな番組なので、一見不似合いな表現かもしれないが、実は僕はしばしば彼らの会話を聞いていて「上品だなあ」と思うことがある。今回、文字に起こされた内容を確認して、改めてそう思った。

たしかに、悪態は頻繁に登場する。しかし、乱暴な言葉が用いられることと、言葉遣いが乱暴であることは別だ。「奇奇怪怪」における二人の言葉遣いは非常に繊細で、自分たちの発する言葉を敏感にコントロールしているように感じる。

彼らの会話には、敬意と思いやりがある。それはこの世界に存在する多様な他者に向けられたものだ。他者とは、人だけでなく、出来事や事物も含んでいる。その前提に立っているからこそ、配慮を感じさせる言葉遣いが生まれるのだ。一部は意識的な努力かもしれないが、その大部分はすでに彼らの内面に染み込んでいるのだろう。

ちなみに、ここでの「配慮のある発言」とは、単にコンプライアンスやポリティカル・コレクトネスに上手に対応しているという意味ではない(それもまた巧みではあるのだが)。むしろ、それらを唯一のモノサシにして世の中をアウトとセーフとに分けていく想像力の低さを、彼らは軽蔑しているはずだ。

これは僕の勝手な憶測だが、きっと彼らは日々を過ごすなかで、無配慮や想像力の欠如に傷つくことが少なくないのではないだろうか。それは他人から受けるものだけではなく、自分自身が友達に言ってしまった言葉について、枕元で後悔しながら眠りに就くようなことを繰り返してきたのではないかと思う。

書籍化された文面を目で追ってみると、彼らの丁寧な言い回しや修飾語句が削られずに残っていることに気がつく。喋った内容を文字に起こして紙面に押し込むためには、それなりの文字数を削らなければならない。その選別を経てもなおこれらの言葉が残されているところに「奇奇怪怪」の品性が表れていると思う。

「奇奇怪怪」は単なるエンターテインメント以上のものであり、僕たちが外の世界とどのようにコミュニケーションを取るべきかのヒントを与えてくれる場でもある。どうか悪態に惑わされず、二人の心のあり方を感じながら読んで/聴いてもらいたいと思う。