身をほどく
夜、明日は早いので今日は早く寝ようと10時に床についた、でも子供達は明日休みなので遅くまで起きていてリビングで運動会をやっていてケンカして母ちゃんが叫んでいて、とてもじゃないけど眠れなかった、ネット記事かなにかで睡眠について書かれていたのを思い出して、寝付きの悪い時は一度布団から出たほうが良いと書かれていたことを思い出した。
パブロフの犬の実験のように、環境に記憶が結びついてしまい、「この布団で寝ようとしたけど寝れなかった」ということを想起してしまうようになると、ますます寝れなくなってしまうということが書かれていてナルホドと思ったんだよね。
そこで泣くおチビを抱っこしてし体の温もりに接して、母ちゃんに渡したあと、薄暗い電灯のついた玄関の本棚で背中からは子供達の喧騒が聞こえるけれど玄関外に向いて座って適当に手をとって読書する、眠くなるような古い言葉の本がいいな、手に取ったのは安西均の「邪悪な蛍」内容はよくわからないけれど万葉集についてのエッセイのようなものかな、日本各地の地名や、いろいろな思い出を万葉集の詩を抜き出して書く不思議なスタイルな本で、読んでいるとタイムスリップしたようになってまどろんできた。
本当は、10時に布団に入り込んでから手元の照明をつけて読んでいた本があって、それは坂口恭平の「生きのびるための事務」という本でこれがなかなかのペーパードラッグ危険な本だ。
この本を読んでいると本の中で進行していく登場人物が僕の脳の中にも誕生してきて、そいつが僕の人生を測量し、自分の中でスープのよう混ざり合ったたくさんの、したいこと、いつかしたいこと、なりたい自分、理想の生活、将来のヴィジョン、といったものたちがまな板の鯉というような感じでスパスパ切り分けられ、昆虫の標本箱に並ぶように、ならべられる、そしてそこに至るまでの実行キーが後は押すだけというような具合で発光している、脳内で。
というわけで寝れなくなる、寝る前に読むには危険な本だ、38にもなってあいかわらずのほほんと、しょーらいなぬぬなろっかぬぁーとかアホみたいに考えてる時がある、来てんだよ、すでに、いや、通り過ぎちゃってる感もあるよ、むしろ。
それは昔から今にいたる昔においての現在つまり、先のこと、先のことをずっと昔から考えて来ずに生きてきた証左なのだ。あほめ
だから、あほみたいに仕事の休憩時とかに青空見上げて、アホ鯖みたいな顔してしょーらいなぬぬになろっかぬぁーとか考えることになるんだ、けども理性的に生きて来なかった人間が突如スケジューリング神になれるわけなんてないのだから、少しずつ自分に気付かせない程度にそろそろと自分を改変していかないといけない、自分に気付かれると、はや、メンタルホメオスターシスによってまた心赴くままご縁にコントロールされた生き方をすることになる。
僕は自分が自分の言うことを聞いてくれないということを今までの人生で嫌というほど思い知らされてきた、自己への放任は決して思い通り生きることにはならない。
思い通り生きるには、思い通り生きると書くように、思った通りをまっすぐ歩ける歩行術が必要になってくる。それができないふらふら歩行を常とする僕のような人は思い通り生きることがじょうずにでいない、いつだってあれ?こうだっけ?あれここどこだっけ?と不思議な天井を見上げて目覚める日々になる。
プルーストが「習慣とはすごい力だ、それなくして人は自らの家に住むことすらままならぬ」っと書くように、この僕がえがいたベッドにうまく滑り込み寝て起きないことには自分の天井の下で目覚めることすら難しいんだ。
いや、難しくかんがえることはよそう、プルーストとかいってんじゃねぇ、一巻の半分くらいしか読んでねぇくせに。
っというわけで、僕は自分にできる範囲で自分を改変したいと思う、それがしたいことのような気がする、まず自分のしてることをもう少し深掘りしていきたい、絵を描くこと、文章を書くこと、あとそれに追加して音楽を聴きたいし、ちょっとこの地に足がべったり張り付いた感じを、ふあふあにしたい、あと人を好きになりたい。これはほんとーにおもう。
性善説で生きてきて旅の人生を祝福され助けられて生きてきた、楽観的で能天気、なんとかなると思って生きてきてなんとかなってきたし、色々な人がヘルプしてくれてなんとかしてきてくれた。
それから家庭持ってしっかりして地に足ついた仕事をするようになって、楽観や能天よりも生業と足の裏が日銭をくれてそれによって自分も家族も飯を食えるようになってきた時、僕はどこか自分が変化してしまったように思う。
自分でなんとかできるという成功体験は僕を無表情にさせた、誰かに取り入る必要がなくなったからだ、山、自然、そして家庭の往復それで僕は食っていけたから、そこに何か重大な欠落があるような気がして、過去の自分を時おり振り返って懐古した。
いつもヘラヘラ末っ子気質な僕がしっかりしちゃった時失って気づくこと、でも本当はそうじゃないのではないか、今だからこそできること、ちゃんと地に足をついて安定はしていないんだけれども多少の波揺れには動揺しないぞというバランス感覚で、立ち、その上で誰かとかかわること、前向きに、ちゃんと眼をみて、人を大切にする。
あぁそういうことをしたいと思う、これ日記みたいに書いてるけど3日くらいに分けて続き書いてる連続してるから切れ目がわからないと思う、昨日3時までソウルフレンドのいとこと久しぶりに飲み歩いた、刺激的な出会いがたくさんあった、まさに、自分の欠落と向き合わせてくれる時間だった、枯れた古井戸をもう少しちょんちょこ掘り起こせば、じんわりじわじわ水が、湧いてきた。
バーを飲み歩いて浴びるグッドミュージック、ステレオにこだわった店内に静かに流れるジャズなのか音楽はもはやわからない、おそらくものすごくこだわったステレオは音楽すら分解してしまう、音楽は音の素子に分解されて馬耳東風、ほとんどの摩擦を残さず耳を通り抜けていってしまうその音、貫通するγ線のようにクリアな音質だけが思い出に残ってる。
他者に対する許しと許容がつつみこむ空間の中で僕は誰かに対する警戒がゆるむのを感じた、田舎でIターンで余所者で個人事業で仕事とって関係つないで身ひとつで危険な仕事していくことって多分、戦場帰りの兵隊さんみたいにうっすらPTSDなんだよ、いつ言葉ひとつで切られるかわからない関係や契約や単価の上下、それに構えて生きる日々でした、しんどかったんだよとっても。
いつも誰かに身構えて奥歯噛み締めてた気がする、そして自分で色々やってみたんだボクシングやジムや散歩やストレッチ、そうじゃないんだなきっと、他者だ、誰かだ、ともだちだ、誰かに心を許すことがきっと必要なんだ、自転するこのエンジンのタイミングベルトを誰かにつなぐこと、誰かのエンジンの力を借りて動くこと、こういうことを拒絶し続けてきたような気が、いまはじめてしています。
どこまで謙虚になれるかわからないけど、人とかかわってみたいと思う、誰かが入ってきたらすっと受け入れられるようになろう、噛み締めた奥歯をほどいて柔らかい舌をさしだすんだ。