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魂の帰還者

一般的にほとんどの人は何者にもなれない、そう思うと凹むけども、ちょっと踏みとどまって考える。

「何者」とは何者だ?
肩書き、実績、偉業、ブロンズ像、著者、芸能人、アイコン、チャンピオン。

何者たち、そして僕らは輝く彼らを見上げるだろう、憧れるだろう、夢見るだろう、それともそれは夢ではなく、目標であり、達成するための指標なのかもしれない。

僕は10代から20代の前半までは本気でチャンピオンになりたいと思っていた、だからチャンピオンに会いに行ってチャンピオンと練習したりした、けども勝ち上りプロを目前にして、そこで踏みとどまってしまった、ちょっと待てよという気分になった、アメリカのチャンピオンのそばに居たことがある、彼には無数のトレーナーがいてスポンサーがいておそらく契約してる団体があった。

彼は迷いなくフィジカルトレーナー、柔術コーチ、レスリングコーチ、メンタルコーチ、栄養トレーナーの全ての指令にイエスと頷き、日々の足元に続く道のその先にさらなる成功を目標に日々を生きていた。

日本で近くで見たチャンピオンたちも同様だし、プロの選手たちはどこか似ている、胴に入ってるというか、プロのオーラがある、特に肌を合わせて練習するとわかる、マスでスパーしてもすごくわかる、あぁこれで生きてる人だな、という職人みたいな落ち着きがある。

僕は怪我とかもあったからだけれども立ち止まった、読書をしたり夜の森の中で毎日ぼーっと考え事してたことも大きかったかもしれない、なんだか人生において立ち止まって考え込んでしまった。。

そんな時に歩き旅をしはじめた。遍路で歩いて四国を一周した、歩く中で考える時間は無限にあったし人とのランダムな出会いも何より刺激的だった。出会いってそれまで学校かバイトか、友人の友人とか彼女の友人とか、普通に暮らしてると、かなり限られたカテゴリーの人としか出会えない、けれど旅は、例えば遍路は、年齢も様々だしそれぞれが自分の意思で歩こうとしている人ばかりだから、初対面でも話こむことが多かった。

気がつけば僕は格闘技のプロという壁の手前で立ち止まって曲がった、他の道が無限に広がってる様が見えた、そして旅をした、海外も放浪した、色々なところで色々な本を読んで、色々なところで座禅を組んで呼吸したり体を鍛えた、どこにいても強くなりたいという意思と自分をわけのわからないところにぶん投げたいという好奇心があった。

世の中には突き詰めたプロ中のプロがいる、僕にとっては井上尚弥や那須川天心や堀口恭司とかか、彼らと自分の違いを考える、僕は始まる手前で立ち止まり曲がってしまった、世の中にはたくさんの道があって、たくさんのその道のチャンピオンがいる。

僕はその人たちになんとなくの嫉妬はずっとあるけれど、そうなりたいのか?という思いを自分の心に探してみても、それはない、彼らが彼らでい続けるためのある程度のことを僕は近くで垣間見たからだ、彼ら「何者」たちは「何者」で居続けることに、人生の全てを賭けている、ある道を極めるためにはその他の全てを諦めなくてはいけない、何よりもふらふら心に去来する気分というやつを心から追い出さなければいけない。

何かの民俗学の本で書かれていたけども、「職人がその道を極めるということは、その生業を通じて鬼になるということだ」というようなことが書かれていた。

あぁ。。
僕がいつも立ち止まっていたのは、これなんじゃないかと僕はふと思った、何かを愛し何かを自分に染め上げて狂信する、それ以外の一切を邪魔と定義してその道に全てを捧げる、、っということへの違和感。

話は一度逸れるけど、遍路で歩いてた時、僕は意思にみなぎっていた。
ゴールなんてどうでも良かった、ただ足が痛み背負った野営ザックの重みで肩も痛み、腹も減って、それでも歩くということを続ける中で僕はひたすら「自分が歩いている」ということを感じていた、つまり生きているという実感に燃えていた。

ふと歩いていると自分が握っている遍路がみんな持つ杖と目が合った、そこには「南無大師遍照金剛」と黒く刻まれていた。なんとなく南無という字の意味が気になって調べた、すると「南無とは自己の一切を捧げること」という風な意味だと知って愕然とした。

なんだと!?
僕は自分の足で自分の意思で歩いてるつもりだったのに、いつの間に自己の一切を捧げるための行為に転換されていたんだと怒りまくった。

怒りまくって杖をぎゅんぎゅん握りしめて、その意味に抗うように歩いた、高知のクソ長い海沿いの道だ、やがて天気が荒れてそれでも止まらなかった、夜中、大嵐になって電灯も家もまったくない道をひたすら歩いた、嵐で横から防波堤を越えた波が全身に浴びせかかる、雷もすぐ近くに鳴っている、僕は裸足になって白装束だけの姿でひたすら歩いた、真っ暗で雨で目も開けられないどこを歩いてるのかもわからなかった、でもまるで宇宙船の中で大喧嘩してるみたいに、心の中は悪天なんてまったくどうでもいいくらい自分との対話で燃えていた。

気がつけば朝になっていて、まったくこの間の記憶がないけれど、どこかの神社の境内の屋根の下で寝てしまっていたらしく、、

太陽が眩しくて目が覚めた、神職さんが箒がけをしていて話しかけてくれてお茶のペットボトルをくれた、、

なんだかすごく晴れやかな気分になって、ふとそこに立てかけていた自分の杖と目があった。
するとその杖に刻まれた南無大師遍照金剛という文字から南無という字が消えているじゃないか!

南無があった場所の木が削れて文字が消えていた、嵐の中で南無への怒りの中で指で擦りまくりながら歩いたからだと思うが、僕はこの瞬間ものすごく感動した、それまでダブついていた自分が自分に重なったような気がした。

そうなんだ、僕はこの南無という文字を憎んだ、自分が自分でいることの邪魔をすることの全てが憎い、僕は格闘技の門を叩く、その道を歩めばさらに門があり入るかどうか問われる、その道を生きるか?と鬼が僕に尋ねる、僕は「否」と言ってその道を引き返して曲がる。

絵も、文章も、そしてこの仕事もかもしれない、僕は何者かになるために自分の魂を売りたくないのだ、色々なものをやってきた、そしてそのほとんどを飽きて辞めた、そのたびにちょっぴりの罪悪感というか情けない感じが心に残る、格闘技では未だにプロにもなれなかった自分を引きずってるかもしれない、けれどもあらゆることから還ってきた自分というものが確かに僕にはある、いつも人生の中心は自分だった。

道を行けば、交差点で悪魔が待ってる。人はその悪魔に売った魂の分だけ何者かになるんだと思う、この文章では昔から何度も書いたようなエピソードを書いた、けど今僕に読ませたい文を僕は書く、魂とはなんだろう、そして僕の魂はどこに置くべきだろうか。

僕は昔、サムライにあこがれた、侍と書く、昔ある時この言葉を調べて、この時も僕は愕然とした思い出がある。
「侍う(さぶらう)」とは、殿に命を捧げること、といった意味が書かれていた、、

は?ふざけんなよ、僕が思ってたサムライのイメージとまったく逆というか、かっこわりいと思った。

その後で僕は「葉隠」という書物を読んだ、感動した、そのだいぶ後で葉隠とはどういう本なのか、自分なりに思い至ったことがあった。

今ではサムライの教科書のように思われる「葉隠」だけど、当時鍋島藩では「葉隠」は危険思想の本としては禁じられて、見つかったら死罪になるほどだったと言う、それでも侍たちはこの本を隠し持ち、仲間同士まわして読んだという。見つかれば死罪、それでも隠し持ち読み、読む同士を増やしていった、こんなに心昂る読書体験は無いだろう、そこで当時の侍たちは「葉隠」に何を読んだか?

僕が思うに、それはきっと、命を自分に取り戻す行為だったのだと思う、侍、侍う、殿に仕えること、そのことへの反逆、殿に預けた命を自分へと取り戻す、「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、自分の死を死ぬことによって、命は誰に預けたものでもなく自分のものだという意志表明の宣言になる。

これはむしろ侍の姿ではなくてアンチ侍としての生き様じゃないか。

切腹は武士の情けと言うが、これも同様で何者にも我を裁かれることなく、裁かれたとしても自分を殺すのは権力や殿やその子分ではなく自分だという強烈な意思だ。

ここまで書いてきて思うのは、僕は色々なことに興味を持ち学びたいと思う、熱中して学んでいるとオーディエンスみたいな存在が問うてくる「その道でいいんやな?お前はそういうやつになりたいんやな?」って、すると僕は「ちゃう」といって道を曲がる、俺はこうじゃないって。じゃあ俺って何者で何者になりたいんだってずっと考えて生きてきたけど。。

むしろ、それだけ俺は色々な道に踏み込んでは還ってきた、悪魔になら何度も会った気がする、あとはお会計で魂を渡すだけって時に決まって俺は逡巡してテンパって違う方に走り出した、俺が何者でもないのはそれだけ魂を売らずに生きてきたからだ、このエネルギーがよくわからない

なぜか、自分の肉体的なこの心の真ん中にすげえ強い引力みたいなのがあって、あらゆる世の中の物事にノレない、乗っても還ってくる、魂の帰巣本能みたいなのが装備されているらしい、だから安心な僕らは旅に出ようぜ、何をやってもいいんだ、むしろどんな遠くからでも還ってくるのか試しまくりたい、その魂の売れなさ、何者にもなることを拒む自分、そして自分の心の真ん中のブラックホールに引っ張られる自分というものを感じて生きていく、もし羨ましく思っちまうような偉人がいれば、その人たちは魂売っちまったんだなぁっと思ってればいい。

けどきっと何かをやりこんだ人間、魂を売り尽くした人間だからこそ知ることのできる、魂の売れなさや、自分の全てを捧げる中でこれだけは捧げられないという自分の本当のところに悟るということもあるだろうな、きっと魂の在処は人それぞれ違うんだろう。

今もその旅の途中、この仕事も10年以上やってる、これはもう十分魂売っちまってる感はある、山の神ってのは俺にとっては存在してて、人生のどっかのタイミングで捕まった、振り払うべしなのか、留まって見つめるべしなのか、節々で思う、今日も人っこひとりいない人間の気配も人工物も皆無な小雨の中、山にクワを振って苗を植えながら体を山と労働に溶かしこみながら全身で思考してた。

それぞれの人生の中で何者にもなれない自分とは何者なのか?
自分の魂はどこに向かってるか?
そんなことを考えるきっかけになればいいと思って書いてみた。

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