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「デス・ゾーン <栗城史多のエベレスト劇場>」を読んで


この本を読んでいて、真ん中へんに差し掛かったあたりでふと気づいたことがあった。そういえば、自分も山に生きる人間じゃないか。10年近く山仕事で生きてきた人間じゃないかと。半分読むまで気付かないなんて情けない話だけど。

僕は栗城氏の亡くなった時ニュースの記事をシェアしてる友人がいて、その記事にコメントしたことを今もなんとなく覚えている、確かこんなふうなコメントをしたと思う。

「挑戦なんか公言すんな!応援した人間に追い詰められて死んだんや、夢なんて中断して逃げ出す勇気をもてよ!」

どうして周りの賛同なくして行動する勇気を持てないのか、賞賛されずに動き出すことができないのか、承認欲求を別の次元、それこそ山や自然に、そしてそれに向き合う自分によって満たすことができないのか、その辺のことを理解できなかったから、かなり強めなコメントをしてしまった。

しかし、本書を読むにつれ、僕はこの栗城氏の言動に自分を重ねていく(それは著者の力量であるのはもちろんだが)。金集めの才能、プレゼンの才能、起業家としての才能のようなものが群を抜いていたのだと思う、しかしその起業家としての才能というもの自体を僕は好きになれない。

僕も、独立して3年山仕事をしているが、独立は自分と山との向き合い方をかえてしまったと今も感じ、葛藤している。人を雇うようになり、その労働者の実力や全体での進捗と、金の配分、あらゆることを客観視しなくてはいけない立場になった時、僕は僕自身が山と孤独に向き合うということに主眼を置かなくなってきていることに気づいてしまった。

この先を僕は考えてしまう、ただ1人雇うだけでも僕は山から自分が切り離されたように感じてしまうのに、もしも事業が拡大し雇用も増えたりしようものなら、僕はまさに起業家のような存在になり、人を物として扱うようになってしまい、自分もまた商材でしかないように思ってしまうのではないか、その僕の持つ葛藤や恐怖に栗城氏の事例はより巨大なものを背負う形で突き進んだ結果なのだと思う。

本書を読んでいて、この著者が優れていると思うのは、栗城氏に栗城氏本人が語っていた以前の理想をぶつけたり、登山トレーニングよりも金集めに奔走する彼に辛辣な発言をするにつれ、著者自身が彼に純粋な登山家のイメージを求めていること、そしてそんなイメージが彼を追い詰めていることを自覚している、そこの葛藤もうまく書き込まれているというところだ。帯には、森達也からの辛辣な文が寄せられている。

「ならば、栗城をトリックスターとして造形した主犯は誰か。河野(著者)自身だ。」

僕はこの帯文に惹かれた、この帯文をそのまま裏表紙に入れてしまえる何かが本書にはあるのだ、著者自身が、なんらかの仕方で断罪されたいのではないか、著者自身が栗城氏の暴走に加担していたことの葛藤が本書には素直な感情で描かれている。

栗城氏の暴走は、規模は全然違うけども僕にも20代の頃に重なるものがあった、しかし僕は周りの期待や、託された夢など、重荷に過ぎない、自由とは全く逆のベクトルであることをなんとなく感じていたが、栗城氏に似たように自分が死ぬところまで追い詰めないと変わらないというような強さへの憧れ、弱さへのコンプレックスがあった。

僕は30で死ぬと決めて生きてきた、30までに全人生に使う全てのカロリーを燃やし尽くすのだと決めて生きてきた、そして僕は30の頃に確かに人生がある種、燃え尽きるのを、<死>を感じた。逆に言えば、そうすることによってこの先もずっとのうのうと生きていけるのだと感じた。

近しい人にも、いまだに言われる、「けんちゃんは本当に30で死んだからエライ」と。
なので栗城氏も、本当の死ではなく、覆面を外すことであったり、敗北を認めることであったり、挫折を認めることで、記号としての自分を弔うという意味のイニシエーションを経て、家庭を築くなり、ハイキングを楽しむなりの死を経た後のリラックスした人生を送ってほしかったと心から思う。

しかし、同時に、死そのものが彼の最も手取り早い救済の手段なのだとしたら止めようがなかったのかもしれない。もちろん彼の周りには大人が誰もいなかったのかと訝ってしまうところはある、もちろん、芸能人や財界人や政治家、無数の大人とのやりとりがあったから資金繰りできていたのだと思う、が、皆が彼に求めていたのは若さだった、無謀なる若さ、そして栗城氏の商材は若さ、だったのだ、だから誰も彼に若さを経由して大人になるように進言できなかったのだろうと思う、それはお互いをつなぐ要素であり、金を生む材料だった、それを抜きにした彼の生を願う人がいなかったという孤独は、それこそ地上にあっても、エベレストでビバーグしているような心地だったのだろうと思う。

僕は自分の葬儀を手取り早く30で済まし、ヘルニアによってバネを失った体で二児の父となって今日も細々生きているが、これでよかったのだと思っている、体は壊れることによってその存在を教えてくれる、そして初めて意識が芽生え工夫が生まれる、自分がどんなふうに体を動かしているかこの34の年になって初めて僕は意識するようになっている、壊れたから捨てるのではなく、慈しむ心を養うべきだ、壊れて初めて自分も壊物なのだと気がつくことができる、自分は象徴ではないのだ、みんなと同じような人間なのだと認めることが大切だ、そして初めてはじまる冒険というものもあるだろう、一度地面に叩きつけられることが大切だ、体が粉々になって初めて自分の地に足のついた理想を考えることができる。

著者が書くように、栗城氏の全盛期の元気はそれこそ多少元気な人にしか伝わらなかった。その元気を持たない人にまで影響を及ぼそうと思った時には、一度死に、地面に叩きつけられるところから立ち上がるにつれ本当のフォロワーを獲得していくのだろうと僕は考える。

本書は時代の鏡のような作品であると思う、書き手の葛藤、栗城氏の葛藤、周りの人間の葛藤、全てが渾然とリアルに混じり合っている、そして栗城氏の滑落死という象徴的事故から僕らは何かを学ばなくてはいないという気にさせてくれ、自分についても大いに振り返らせてくれるものだった。

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