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筋肉を飼う、前腕に火が宿る。
その体は何歳ですか?配信のコメントで問われた。
この体の年齢、まるで僕がこの体の乗組員かなにかのような問いに僕は驚く。
また別の問いがコメントからやってくる。
なんのためにトレーニングするんですか?
それらの問いを最近いつもお出かけの際にはポケットにしまっている。
たまにポケットから取り出してはその問いを紐解いてみる。
この2つの問を結びつけるものをさぐる。
つまり僕とは、この34の体の乗組員であること。そして僕はこの体をトレーニングする操縦士でもあるということ。
捉え方を少し変えてみる。
僕はこの肉体を飼っている。
この肉体に餌をやり、この肉体を育てている。
理想の肉体があるわけではない、けれど僕にはいつも、この肉体に様々な運動を学習させ、育み、この肉体を好きに遊ばせて実験したい好奇心のようなものがある。
同じ体に住んでいる脳と肉体、それぞれが同体でありながら別の生物のように躍動する。筋肉の火照りが脳に血流をポンプする。すると思考が焼けるようにほとばしる。僕の前腕には火が宿っている。その炎が思考となって脳内を駆け巡るのをいつも感じている。
休日のお出かけの時なんかは、前腕が焼けるように熱い、腹筋がギンギン走り出し、背中から巨大なツノが生えてきそうに思う。
商店街やモールに大勢歩く野菜みたいな人々の中にあって、僕の肉体は叫ばずにはいられない、全身の筋肉から湯気が立ち上る。
静かな街にあっても、僕の体は叫んでいる、フランシスベーコンの絵画の人物のようにあらゆる方向に向かって今にも弾け飛びそうなギリギリを感じている。
ゴッホの糸杉のように、ほんの少し理性が弱まってしまえば、上空に渦を描いて身をよじってしまいそうな勢いが詰まっている。
僕そのものでありながら、僕はこの肉体と呼ばれるケモノと共にある、この理性を引きちぎって暴れ出しそうな肉体を、調教すればするほど、手に負えなくなるケダモノを僕は飼ってる。
この自分の肉体との危険な駆け引きの中で、ギリギリ人間であることを装い、社会に生きる1匹のケダモノであること。
僕は個性というものに対し2つの答えを持っている。ひとつは、肉体だ。もうひとつは、スピードである。
個性とは肉体であり、また個性とはスピードである。僕はそう考える。
スピードとはつまり、逃げる速さであり、肉体とはこの乗組員である僕から逃れ去るスピードであること。
アインシュタインは人の価値とは、その人自身からいかに解放されているかにあると考えた。
フランツカフカは、人は下から上に成長するのではなく内から外に向かって成長するのだと考えた。
僕は、こう定義する。
僕とはこの僕から逃れ出るスピードであると。
個性とはその人自身から逃れ出るスピードであると。
コメントの問いは正しい。
僕らは僕らの肉体に憑依している何かでしかない。そしてこの肉体はいつも餌によって変化し、振る舞いによって変化する関係をもっている、肉体はいつも外部に、紐付けられている。
ぼくはこの地点、この肉体の地点でこそ物事を考えたいと思って生きている。
脳内に引きこもりつつ、そのくせネットの情報には影響受けまくりながら思考するよりも、この現実の界面ともろに触れ合っている肉体において思考する方がどれほど現実的だろう。
ドゥルーズは「情報とは堕落である」と書いた、では堕落以外の何かとは何か?それは、ドゥルーズの言うところの襞。ヒダ。現実の界面。ではないか?存立平面。
サーフィンにおける、海面のヒダ、ひたすら折りたたまれていく、海面のヒダ。
その上をサーファーたちは滑る、滑るようにして思考している。
僕にとって肉体はこの世界との界面である、思考する襞である。
脳のもつ機能とは、ほんとうのところ思考ではなく、解釈でしかない。
肉体の機能こそが思考である。
そんな風に僕は考える。
その昔、アリストテレスは脳の機能をラジエターのようなものだと考えた。
僕はそれを今でも正しいと考えている。
人間は生の情報の熱量にまともに耐えられない。だからこそ脳の解釈する能力によって情報を冷ます。そうすることによってようやく情報を整理することができる。
生の情報の熱量に触れるのは生の肉体である、剥き出しで情報とぶつかり合い触発し熱を発するこの肉体だ。
たとえばオートポイエーシスという概念を提唱するヴァレラとマトゥラーナの初期の研究論文「カエルの眼はカエルの脳に何を語るか」で言及されているところからも、眼と脳はほとんど別の世界を生きていることがわかるだろう。
眼の見てる世界を脳による解釈無しで見つめるためには、脳という冷却装置を捨て去り、眼の熱量をそのまま受け取れなくてはいけない。
眼は一体なにをみつめ、耳はいったいなにを聴くのか、これら生の情報についての新たな認知科学についてはマークチャンギージーの研究などがおもしろい!
情報を一旦冷やし、脳のシワに刻むのではなく脳に刻まれたシワを引き伸ばし、発熱する全身を包み込む、そして全身の界面でこそ熱と共に思考する。
音と匂いと視覚と触覚をないまぜにして、カタツムリの体液のように思考を絞り出すこと。
僕らのひとつひとつの体は群れである、細胞や器官の軍団をぼくらは率いている、それら細胞と器官の合奏の音を聴き取り、タクトを振るう能力が必要だ。
南方熊楠はこのTACTを直感と解釈した、直感には全ての生の情報が詰まっている。
僕は、この直感的なものを直感的に思考すること、それを「直推」という造語を用いて呼んでいる。
この直推を磨くために、僕は肉体と渡り合う、この肉体から適切な情報と判断を得るために。その接面を他にして、僕らユーレイのように肉体に憑依しているだけのか細い存在は、世界に触れることなんてできやしない。