届かない拳、届かない言葉
もう少しで顔に届かない拳。あと少しで心に届かない言葉。
なぜなら足がその分だけ遠くにあるから、上半身を目一杯伸ばしても足が遠ければ届かない。スタンス。
人はどうやって距離をとり、その距離をぼやかせて接近するんだろう、若い頃の自分はまったく距離を無視することができた、言葉においても拳においても、もちろんこちらの拳が届くところでは相手の拳も届いた、言葉においても相手を容易に傷つけうるような言い方を平気でし、自分もまたそれによって傷つくことができた。言祝ぐような、祝砲のような、何かめでたい祭りのようにそれら拳も言葉も心と体の上で踊ることができていた。
年をとり、シラフになって思うに(もとよりナチュラルなんだが若気というドーピングが解除された今では)相手は果たして僕と同じように喜んでいたんだろうか、言祝ぐように祝砲のように受け取っただろうか、普通に暴力として受け取られていたかもしれない。
思えばどつきあいの場面においては、こっちはニコニコで相手は必死の形相をしていたようにも思う、僕にとっては本当にリングが祭場のようなものだったのだ、おれたちは生贄でリングで血をたぎらせて見る人を興奮させるための供物なんだ。嬉々として。。
人類は酩酊してこそ人類で、酔いから醒めてしまえばもはやそれは人ではないと言った人類学者がいたけれど、はたして僕は祭場を降りシラフになってしまったのではないか。
誰にでも愛想よく、目も合わせずにしゃべっている、、何をしてるんだ?
家庭を持ち、愛している。いつまでもこれからも愛している。
作家の岩井圭也氏が「われは熊楠」において、熊楠が精神病になってしまった息子熊弥に大日如来をみるように僕もまた息子に手を合わせたくなる、導くでなく導かれるように奴属する父である自分を感じる。
突然つまみ出された社会の中で、守るべきものを突然背負いポコポコ増えていき5人家族、人間が増える脅威はすさまじい、自分が自分であることなど忘れてしまうほどに。
説明書もなく、出稼ぎ1人親方、余所者の地域で1人、暮らし方も身の振り方もわからず、担当やらとの飲み会に応じノリが悪い風ではいけないと、気がつけばキャバレーで知らん女と顔もよう見れずにチークタイム踊ってた、笑
あれほど嫌ってた仕事ってやつが無い時期に生きた心地がしなくて、今やテトリスみたく積み上がった現場で、あとはひたすらやるだけという追われる身になって、心のどこかで安心してる自分がいる、仕事があることは本当にありがたいことだ。
これら現実が僕を変化させるすげえ暴力に感動すら覚える、自分がかつての自分とはまるで重ならないようにも感じる、けれど別段失ったものがある風でもない、ただ田舎ではちょっとしたチクっとくる発言が数ヶ月を経て特大ブーメランによって職を失ったり住む場所を失ったりする可能性もある、踏み込めばなおさらのことだ。いろいろと経験し、こわさが芽生えた。控えめにならざるをえなくなってしまった。
気がつけば愛想よく、誰にも踏み込まない人間になっちまってる自分を自覚する、僕の拳は届かない、っていうか届けたら危険なんだ、僕に返ってくる分には歓迎するけれど守るべきものがいると、それを危険という。
言葉においても、踏み込んだ言葉は感動を生み出すかもしれない、その場では、けれども感動とは一種の動揺なのだ、足場から揺らぐ、動揺させられたことに時間差をおいてムカっ腹をたてる人間もいる、いたずらに感動させてもいけないんじゃないかという気がしてしまっている。
僕は怖くなった、人間が、あれほど無邪気に抱っこされる子供みたいなノリで殴りにいけたのに、タイムラグで群れや視線や噂話で囲まれる恐怖。すべてがバーチャルな恐怖でしかないのに、バーチャルであることのそのものが恐怖の本質なのかもしれない。
こんなことを書いてわざわざ自覚したくなかった、けど書く手が遠ざかってしまっていたのは書いたらもう、止まらなくなるくらいに弱さがこぼれてしまいそうでおそろしかった。
もう一度、拳一個分だけ人に近づきたいと思う、格闘技を想う時、まず僕がおもいついたのはそれだった、相手への純粋な殺意は相手への強烈な関心であり、干渉することへの覚悟だった、だから僕は路上で詩を書き、睨んでくる奴を睨み返すことができたんだった、人間関係の基本がすでに、殴り殴られの関係だったのだ。
遠のき、ひとことコメントを残してその問題についてはすっかり忘れてしまうような、Twitter的処世術は実に良くないと思う、スルーできたと思うなよって胸ぐら掴んで引き寄せるリアリティが僕にも現代にも決定的に足りていないのだと思う。
当時個別店舗のマクドの看板の上によじ登って詩を書いていた僕は、店に入ろうとする人が看板を見上げそこの僕を見た、そして店内に入ろうとする、僕は、おい、なんで看板の上で人が詩書いてるのに無視して店内入れるん?って声かけるくらいめんどくさい奴だったこともあるんだ。