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仕事とジムトレーニングのバランスについて

不思議なのはスクワットガンガンやった翌日とか下半身超筋肉痛で歩くのもきつくても、山に入って草刈機をふかして作業やり出すといつもと変わらず作業できること。多分認識のベクトルだな、筋肉痛は注目してると拡大するが、作業すると認識が注目するのは仕事そのものになってある意味自分が消える。

さらに藪の中などで作業すると、危険への対処、あと可搬式機械への注目、認識は自分から消え去り、機械になる回転する刃そのものになるような感じがする、まるでガソリンで体も動いてるみたいに燃料タンクが空になるまでなんの身体感覚もなく動き続ける。

そういった意味で集中できる労働はあらゆる苦悩からその人を解放するが、これはアヘンのようなものだと俺は考える、滅却した自我を毎日、どこかで取り返さなければいけない、仕事と自我が同化してる人間を俺は軽蔑する。

筋肉痛なら筋肉痛、その痛みを享受することこそ自分であるということ、これを忘れさせるほどの「意味」がこの世にあってはいけないと思う、自我を超える意味がいかに他者や自然を殺し、破壊してきたか。身体の痛みや苦悩を忘れさせる原理を装備した人間はどこまでも突き進む。

トレーニングが目的化した人間もそうだ、僕は漠然とメニューを考えてその日なんのトレーニングをするか考えるが、分割法などを取り入れて週間スケジュールを組み行うトレーニングはすでに自我を超えている。こういったプログラミングは脳の活動の楽しい領域なので僕も考えてしまうことはあるが、時間の穴埋めクイズのようにパコパコ合理的にはめ込んでいく喜びに気持ちよくなったそのあとで、あとはその1週間、ルーティン化できる完璧なプログラミングができたのなら永遠に、「トレーニングをさせられる」状況に自分をもっていくことで考えることから解放されようとすると、僕の場合は一瞬で破綻する。

ある意味で人間の本質的なところでは、明らかに楽を嫌っている側面があると思う、たしかに日々の中で人生を考えるのは苦痛を伴うかもしれない、自分のすべきことをその時々で考えるのは苦痛かもしれない、だからこそ雇用されたいし誰かに命令されるのは楽だし、自分で組んだスケジュールに命令されてあとは実行のみになると楽かもしれない、けれどもそれをするとなった瞬間から僕の中でさせられることに対する反発が生まれる。

痛みや苦痛を享受したい自分というものがあるのだ、フリーランスでその場その場で翌月の動きや仕事をとってきたり動き回ったりとにかく不安定でその不安感たるや逃げ出したいほどなんだが、それでもまだ、命令されて動くだけの日当作業よりもこっちが良いと考えてしまう。

毎回ジムでトレーニング前に有酸素運動をしながらだいたい今日のメニューを考える、この配分がすごく大事で行き当たりばったりでジムをうろつきながら目に入ったマシーンなどでがっちゃんがっちゃんテキトーにやって思いつくままに全身まんべんなく鍛えていくのでは各パーツの成長は難しい。

だいたいの攻める箇所は決める、てか僕の場合は筋肉痛のエリアでそれ以外の筋肉痛ないエリアを大きく分けて計画する、昨日スクワットやって下半身筋肉痛で明日もジム来れそうなら、今日は胸やって明日は背中とか肩とかやるか、明日ジム来れるけどそのあと数日これなさそうだ、じゃあ今日は胸と腕、二等だけやるか、二等三等両面やるか、そんで明日背中肩やるんやったら腰、デッドもやっちまうか。とか考える。腹筋とバックエクステンション(体幹)は攻め尽くすんではなくて、ちょっと効かすくらいのテンションでジムに来る時は毎回やろか。

有酸素は時間と体力の様子みながら、ちょっと体重増えてるなと思ったらトレ前後に走るかとか、考える、そこまで考えなくてもとりあえず走りながら考えよーとか考える。

とりあえず週間スケジュールは組まない、自我を超えない手触りある未来の範囲で考える、この辺りは歳の功だと思う、なかなかそういった配分でやれることはなかった。

ジムトレーニングはこのようにちょうど良い塩梅に僕を合理化してくれた、しかしその合理は自我を超えてはいけないし、トレーニングそのものを目的化してもいけない、っというメタ視点での理性も併せ持っておくことは大切だ。この理性はすり減らしてきた経験則がなければ厳しいだろう。

遊びと楽しさと実験をあわせのむ余地を常に残せるように合理化すること。けれども低いハードルでの目的意識は常にあること、体でかくしたい、筋肉育てたいなど。

そして仕事と別の軸にこういったジムにまつわる自我を持つことは精神衛生的にすこぶる良いし、仕事へのストレス軽減に役立つ、別軸の自己をもち、仕事以外の喜びを留保するライフスタイルを持つことはとても大切だ。

っと思いついたことを書いてみた。

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