ゆめのあれこれ
僕は毎夜夢をみない、見るとすればおそらく3ヶ月に1回程度じゃないだろうか、だから僕の見る夢はここ、書く文章の中にある。この中で僕の身体が触れたこと、聴いたこと、ふと思っては過ぎ去ったこと、身体という立体交差点を交錯していった色々な断片が思い出され整理される、そうか、僕はこんな風にとらえたのか、これはマニュフェストではなく、通過した出来事に対する僕の鎮魂の歌のようなもの。
夢を見たあとはスッキリとしている、悪夢は後に尾を引くがそれでも心のどこかでスッキリしている、それはすでに見終わった夢であり、ここには過去を通り過ぎたその後の新鮮な朝の空気が漂っている。
僕の夢、目標はたぶん、おそらく、何もしないこと。だったように思う、もともと意欲的な人間ではなかった気がする、20前後の一時期のニート生活、そこにすべての夢も絶望もあったように思う、朝起きて運動をしたり読書をしたり料理をしたり掃除をしたり、実家で家庭内のことはほぼ全てやったけれど、ただ、仕事のことだけはまったく考えない日々。
自分を鍛えるのも、腹を満たすのも、住ましてくれる両親のためになることをするのも、寂しさを埋めるのも、自分から社会に置いていかれようとしている気持ちなぐさめるのも、全てが自分発自分着の感情と結論だった。
自分の内面から、さてあれをしようか、これをしようか、という気持ちがフッと湧き上がってくるタイミングを待つことができる、そんな環境だった気がする。
自分の持つ夢を叶えるために虎ノ門みたいなところに入門して、鞭打たれること、それがお前の夢なんだから耐えろ、頑張れ、やり切れ、できなきゃ負け犬だぞ、と言われ続け夢に向かって調教される、そうでなくても自分に鞭をふり、自分が掲げた夢以外の全ての道を諦めるように自分を調伏洗脳し、他のことは考えないように強制するような夢、その道にみずから入ろうと何度もしたけれど染まりきれなかった自分がいた。
過去からの統計でしかありえない将来なりたい自分像への執着、過去による未来の自分への決めつけ。それは少年の夢の一側面じゃあないかと昔から思ってしまう。
人は生き、散歩をし、たまに何かと出会い、その人と違う道をあゆみだしたり、何かに触発されて今までと違う考え方になったりもする。縁。そしてそれら縁に対して自分をひらくこと。
閉じて執着するほど増す将来なりたい自分になれる可能性、開いて手放すほど増す思ってもいなかった自分になる可能性、創発。偶然の呼び水、身体と呼吸を柔らかく準備しておく心地。
昨晩の大雨が幾分かの夏を洗い流してくれた、遅刻した秋が滑り込んできたようで朝はいくらか肌寒い、この寒暖差がまた身体にこたえる、現場に入る時間を最近はこだわる、1時から6時とか、12時から5時とか、9時から4時とか、色々変えてみるが、日照時間をいかに減らし、暗くなるまでの自然に涼しい時間帯にいかに作業を進めるかが、効率を上げる。
今日はどうだろう、今から現場に入る、日差しは相変わらずきつく、風と気温は涼しい気がする、今月に仕上げたい現場があって、かなり頑張っている、頑張りは続かないから休息もしっかりとりつつ、とにかく走行距離を稼げるペースと体力配分で走り続けるしかない、短距離走ではないからな。