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触知する哲学


あふれている

絶え間なく、こぼれる両手の隙間から
あふれる、胸のあわいから
突然ジタバタしだして
硬直する皮膚の隙間から
沸騰して泡立ち
つま先立ちになって震える

叫ぶ
真っ白な霧に向かって
足の裏だけは世界につながっている
考えてもとりとめがない
摩擦がなく空転している
擦り切れそうな勢いだけは

自らを由とする自転の回転で
引力を発生させてまた遠心力にてふっとばす
その人がその人であるいきおいそのものと
理解すること
読書という狂気、理解という狂気
ものさしという凶器、常識という凶器
遠心力とは近づきながらも
ふたたび遠ざかる力である

頭の中だけで登れる山がある
グルジエフ、ドーマル、エンデ、コエーリョ
記憶を掘り起こすと現実が発掘される
実体化した過去とは現在化した夢想である
掘り当てた、、
掘り創るように
ヘリゲルの放つ矢が真ん中を貫く、、
矢の先が中心を創るように

はらいたまえきよめたまえ
山さきわいたまえ
山さきわいたまえ
山さきわいたまえと
もうすことのよしを
かしこみかしこみまもうさく

18の頃、旅の途中
山の中腹で休憩してたじいさんがうわごとのようにつぶやいいていた。
とけばかくとけばかく、と。

説明を聞くと、説けば掛かるそういうことだという。説けば掛く、説けば掛かると。

言葉は発掘する、創作するように。発見と新発見その両方の侵略の仕方で世界地図は真っ黒に埋め立てられた

訂正と解釈、すでにあるものの価値転換か資本主義のあらたな餌食か
言葉は新しく説くことが本当にできないのだろうか

これからの世界の話を新しい言葉で語ることは本当にできないのだろうか
僕は大学を卒業しなかったのでいまだに学校を卒業することができず
授業中の夢想の中にあるのか
ここには手触りしかない、足の裏の感触しかない
弁当食ってたら、野生の鹿が目の前にきた。

薮の中を歩くことに慣れているのだろうか、平地でみる鹿とは異質、足は高く上げてそっと下ろす歩き方は僕の知る鹿ではなかった。とても軽やかで健康的に痩せていた神々しい、光っている、僕の目の前で草を食んでいる

ついとこちらを振り返る両目の眉間で僕を見る
顔のクローズアップ
鹿は何を見ている?僕は何を見ている?
生の別様の在り方

僕らはここで落ち合った
それぞれが彷徨う森の中で
13年山やってて初めてのこと
お互い逃げずに見つめ合う時間の中で
今も停止している思い出がある

山には神がすんでいる

日本を取り戻すと政治家が叫んでいる
僕らは指差す時刻を正確に決定しなくてはならないだろう
戦前か?戦後か?高度経済成長期か?
いつの日本に戻るんだ

寺よりも神社よりも忘れられた、一緒くたに祀られた古い古い産土の石ころの時代に
僕の視線は注がれてる
触覚で生きていた時代の
畏れと生きることの摩擦と死が
この皮膚の上に宿っていた時代に
そこから言葉は生まれただろう

言葉が生まれたところに立ち会うこと
もういちど発生させるんだ
あの言葉たちが十把一絡げに
事物にタックルを食らわせてしまうような時代の手前で、もじゃもじゃとうじゃうじゃと生と生が、まだ、膝も足も鼠蹊部もばらばらだったような時代から僕らはもう一度レゴみたいに現在を作り上げないといけない

断崖への加速か、あるいは中断と停止か

現在というようなものも幻想
人体だ、解剖学的人体もまた
ここでいちから組み立てなおさないと
コロナやワクチンやセルフケアや陰謀がごちゃごちゃになっちまって人体も屑鉄巻き込んで破裂する後藤みたいなっちまってるからさ

一度自分の手、足、舌、ぽこちん、ひとつひとつその在り方と使い方を問い直す、試して使ってみて、成功と失敗でもう一度自分を統計的に組み直す必要がある

とんでもねえ文章も書く
あいうえおから問いなおす
感情も問いなおす
洗いざらい吐いて
空っぽな自分がどんな音奏でるか
確かめてみる

かけない文章なんてない
書くことないことなんてない
ここで何が書けるかこそ問う

エンデの短編は遠い宇宙のSFではなくて、この現実の平行世界のような物語を提示することで、この世を別の角度から見せてくれる。

映画フィルムにちょっと別の作品のコマを差し替えて流すみたいに、エンデの短編は明日にちょっと別の可能性を含ませてくれる

書くこと、このスクロールする日常にショッキングなコマを滑り込ませて自らをサブリミナルに広告する

僕の無意識の中に意識によってつくられたアートの付箋を差し込んでいくこと、パラパラと続いていく日常の中に気付きとハッピーのエッセンスを注入する

歩く道の路傍に咲く花に気付く
信号の変わるタイミングが祝福してくれていることに気付く
こんなタイミングで
世界のシンクロニシティは気付きから

この路線をゆく意識の行列は
その意識の裏で数々の奇跡を見落としている

今日もこの足が無事なのは
危険な草刈機の足元の往復を
1億回かわしてきたからだ

この呼吸が今ももう一度
吸って吐くことができたのは
10億回肺を詰まらせてこなかったからだ

生きているという当たり前を
どんな風に形容しようか
言葉は祝福だ
生きることの装飾だ
装飾は人間の本質だ

衣服よりも住居よりも
皮膚を穿つタトゥーにこそ
人は救われてきたのだ

思い出せ太古の恐怖を
沈んだ太陽が
膝から崩れそうな危うい信心をつむぎ
朝、再びのぼってきた時の喜びを

土地を自分のものと思い込み
他者を自らの関係の包囲に思い込み
自分の四肢が魂と地続きであると思い込み
網羅した思い込みの信の上に築かれる
日常のあやうさを

縄文の恐怖と実験ととりとめもない生存
壺に穿つ紋様のひとつが太陽を消してしまうかもしれない、喉を潤わせる雨も自分の所作によって招く、遠ざける、全ての挙動が賭けの時代

そこで我が身ひとつで科学をアートしなくてはいけないということ、それは現代においても同じだろ、俺たちには自分で自分を説明する、自分で自分を人類に紐付けて納得に到るまでの旅を続けなければいけない恐怖感があるはずだ

こんな社会どうだっていい、人間を自分ではじめなくては社会なんて存在できるわけがない、そして僕は未だ不定形な人体に鋳造されたドロドロの液体、不信と不安、それがあってこそ僕らは型にすんなりと入り込める

まずは極点までとろけ出し、現状から抜け落ちなくては、何か良い策があってもそこに入り込めないだろう、粘菌の旅変化のように固形から液体へ固形から粉体へ、この単細胞な魂をあらゆるカタチで自然の鋳型にヒットしなくては何もわからない。

わからずに触れて、わからないことを知る
わからなかった過去を愛でるように
記憶として積み重ねていく

触知する魂を
この日常と筋肉の上の皮膚上に
ベールとして展開する
我が身をヒダとして世界に織り込まれ
世界を刺繍していく
内側に折り畳まれていく波の筒の中で
内と外の間をすべるサーファーのように

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