富士山
富士山
むんぬわっって、なんだ温風と湿気と、かすかな涼しさが混ざりきってないカフェオレみたいにぬらっと全身にまとわりつく大気だ、なんて思いながらゴミ出し珍道中。言葉の語り出しが芽生えるとしたらマジでこのタイミングしかないんじゃないか、それ以外の俺はなんというか大脳に接続された力こぶが力こぶする以外に何も考えてないみたいに、家族という大脳に接続されたいち筋肉みたいな存在になってる。力こぶのお散歩、唯一の、ゴミ出しという、力こぶもここで自省する、景色を目の当たりにして。
運転はほぼ俺しかしない、つまり俺がいないと、もしくはたまに来てくれる妻母がいないと妻たちは基本どこもいけない、どっかには行きたいのだろ、それが仕事期間中たまる。なので休日はたいていお出かけだ、昨日は松山へ1時間ちょっとのドライブして真ん中チビの要望が強い、路面電車に乗る。時代に取り残されたような高島屋の屋上がお気に入りのピクニックスポットで、それぞれ好きなことをしている、僕も大好きな時間。
さらに屋上には大きな観覧車があって乗った、ちょうど花火の時間で遠くに見えて嬉しい。ちょっぴり世間一般からはズレた家族かもしれないけど普通の喜び、トミカや踏切や電車や公園が大好きなチビたちとの密着24時。
今日はでも休日のあとで仕事再開した時にマジで休日の疲れきったところからの肉体労働スタートってのがキツくて、先週はそれでケガしたと思ったから、今日はゆっくりしようと1時間ちょい昼寝もして気持ちよく過ごせたけど、晩になってから、近所でも割と大きな花火大会があると知ってしまった。いってみよかぁ。
はじまる直前にアホみたいに車で最前列に突っ込んでいく、海で打ち上げで横の港にはひとだかり、けど前線の前線に突っ込んだら案外いけるもんだ、車一台置くスペース見つけてねじ込んで、堤防にみんなよじ登って、ベビーカーもチビも持ち上げて登ってみたら、人が少ない、まさに花火打ち上げの目の前でサイコーすぎるロケーションだ!そこで堪能した、真ん中チビは花火こわくて父ちゃんにカチカチになってしがみついて1時間もずっと抱っこしてた。
帰りは案の定渋滞、ガソリンもないしトイレも行きたいしで、あたふた、買い物もせなあかんし、ガソリン入れて帰宅したら11時、そっからペヤングみんなで食って風呂入れて、にぃには即爆睡、下2人まだ元気に起きとる。。花火大会終わったらすぐ爆睡してたけど帰宅後しばらくで復活しよるねんもん。
で、さっきようやくゴミ出し。で、父ちゃん明日から3日ほど出稼ぎ、準備せなあかんし。特に水分とかちゃんと用意しないと死ぬ。
最近はジム行きだして、ちょっとこだわったサプリとかアミノ酸とかプロテインとかも用意せなやから準備もめんどうだ。
なるべく、迷い少なくたんたんと事を進められるようにしたい。準備の嫌いな人間なのに準備ばかり強いられる人生になってしまった、もっとノーガードで生きたいのだが。
最近はよく富士山のような円錐形の山を思い浮かべる。ピークが1点にあって裾野は広大。
井上尚弥とか見てもそうなんだが、普通が最強なんだよな、チャンピオンは似てくる。上を目指すほどに道は狭く個性の許される範囲が狭まってくる、これは僕が何事も突き詰めようとしたら嫌になるメカニズムにもひっかかる。
個性を出して色々方法論で突き詰めていく、でもそれでは無理になってくる箇所が出てきて、普通からそれを学んでいく、ブレークスルーの鍵はいつも普通の中にある、それに俺は耐えられない。自分がやらなくたって、俺はいったい、ってそんな気持ちになってくる。
今は少し老いた、普通に学ぶことを恐れなくなった、みんなが登る尾根を自分のペースで自分の体に耳を澄ませながら登ること、普通とか個性ってのは周りをチョロチョロ見てるからこそ気になることでもある。
裾野は広いが、登るとルートは限られてくる、個性がはぎ取られて、普通が残っていく、ランニング、シャドー、サンドバッグ、ミット。ベンチプレス、デッドリフト、スクワット。変なサプリとるよりもしっかりした食事を。
これはある種の真理なんだろう、限定された競技の中での普通とは統計的な淘汰から生存しているルートで、間違いのない道なんだろうな、努力というリソースをさくには間違いのなさというのが大切なのかもしれない。結果を導き出すためにはだ。
最近はそんなことをぼんやり考える、これは多分ひと昔まえの自分とは真逆の思考なような気もする、あらゆる外の音に耳を澄ませるのなら普通を無視するという姿勢はかなり偏った考えになってしまう、いやむしろ偏りたいのなら普通を無視すれば良いのだからことは簡単なのかもしれない、普通におそれず無視することなく行う中で自分ごとであり続ける事、メジャーな登山道を歩きながらも他にない自分なりの問いの答えを導き出す人もいる。
俺の場合はそうだ、普通を一生懸命無視していたがそのことの中には見たくないコンプレックスが挟み込まれていたりして自分の基準というのは危険なのだ、灯台の影を見落として、全て見渡した気分になっている。実際に俺は自分なりのトレーニング理論のようなものを持った気になっていたけどもスプリント能力やデッドリフトやスクワットなどを見ないようにやってきていた気がする。
建築物が下から支えられて立つように下半身が大切でないわけがないのに。
明日から出稼ぎの数日、自分なりのやり方で普通を恐れずメジャーなものと重なるところは身を重ねて、着実に登ってゆける日にしたい。