正直に生きること
僕にはモットーがある。
それは「正直に生きること」
僕は十代の後半から常に正直と向き合い、自分の本心で生きることを考えてきた。
十代の後半から書き続けたミクシーのプロフ欄にはこう書いてる。
「この日記を通して、自分の正直を無限通り証明したい。」
この言葉を信じて僕は生きてきた。
自分の正直を無限通り証明すること。
ミクシーの日記は書き出して10数年で、製本してみたら上下段の最小フォントのつめつめで、400ページ8冊になった。これが僕の正直の集積である。
それはつまり、正直のバリエーションの多さを表している。
正直には<たった一つの>という定型がない。
それを僕は昔から考えていたようだ。
正直とは、真実や一つの事実を指すものではない。
それは時として秒で変わる、変動する気分のそれぞれが俺であるという認定すること。
これは、辛い、大変なイバラ道だ。
世の中では語られない忖度の社会がある、そこでは人が個性をもち、それぞれのキャラを要請される、そのキャラからブレないこと、そういった眼差しが田舎社会なんかでは特に強いように思う。
田舎暮らしでの、僕の師匠はこういった。
「まず、変人だと思われろ、何言うても聞かん奴だと一度思われたらあとは楽だ」と。
僕の正直な気持ちは、割り振られた自分象を生きることを拒否する。抵抗する。自分自身がいつだって誘いかける、このキャラでいこう、分相応にとどまり、この程度が自分だと判をついてしまおうと。けれどもいつも僕はそれを否定してきた。
そういう意味で自分自身に反逆し続けてきた。
20代前半の自分の日記でも書いてた。
「自分自身に対して父のように振る舞う自分をかなぐり捨てて生きる。」と。
自分を裁量し、コントロール下におこうとする権力構造は自分の内部にもコピペされたものとしてある。
正直とは、そう言った予定調和に収めようとする、自分を含めた全ての権力への反逆だ。
そんな時、僕は尊敬する、臨床の精神医の中井英夫氏の言葉に出会った。
中井氏は言う、「精神の健康とは何か、それは潜在的超多重人格症であるということです」と。
これは、何かすげえこと言うてるぞ、と当時僕は直感した。
人は、一様ではない、当たり前に、、
父には父に、母には母に、先生には先生に、友達には友達に、友人Aには友人Aに。
人は、それぞれの関係ごとに自分を変奏して向き合う。
そんなふうに、自分をスムーズに七変化させることができるのが健全な人間の特徴だと、中井氏は言う。
そして、人格障害と呼ばれる二重人格や多重人格の問題は、その人格の<多さ>ではなく、むしろ<少なさ>にあるという。
僕は、この言葉の影響を今も生きる。素晴らしい卓見だ。
そして、自分の正直の無限通りの証明、という命題に立ち返るとき。
僕はこの意味で、精神の健康の先へと向かいたいのだと知る。
正直は一通りではない、一通りではない様々な反応を見せる自分の感情や、変動する気分の上に自分自身が邪魔することなく、行動すること。
この場合、意識はむしろ行動への出力ではなくって、行動を阻害しようとする自分の魂胆であったり、常識的な良心であったりする場合が多い。
行動の肝は、行動することではなくて、行動を邪魔する自分をはぐらかすことにあったりする。
僕は流れの中にある、いつだって、何かが巻き起こっている、事。の中にある。
そこでは様々なものが縁起している、縁という運によって引き寄せられ、起こる事、縁起。
その縁起は、自発的なものではなく、必要なのは行動ではなく、行動を阻害しようと企む自分の破壊だ。
自分含め、多くの人は、アクセルとブレーキを全力で同時に踏みつけていて、多量のガソリンを消費しつつ、車体に無理をして、一歩も進まない。
必要なのは、より強い車体ではなくって、より早く走るエンジンでもなくって、ガソリンが足りないわけでもない、必要なのは、ブレーキを踏みしめる足の力を弱めることだ。
それだけだ、アクセルを踏む必要もない、ブレーキを離したら、勝手に自分の本心が傾く方へ物事は進んでいくんだ。
僕は大量の表現をする、大量の文章を書く、止まらないほど語りまくる、けれどもそれら一切は、頭から考えを追い出すために行っているという自覚がある。
考え、頭に何か上等なものを形成すると言うことは、幻想に過ぎない、これは行動に対するブレーキを鍛えるに等しい。基本的には脳に意識は一つしかない、思考するとき、人は思考する。思考するために思考している。これは頭の言葉と四つに組み合って相撲してるようなもので、1人が想像の2人に分裂して押し合いへし合いしてるだけだ、これでは一歩も進めないのも無理はない。
脳に宿る一つの意識を、思考につなぐとき、人は思考しかできない。
行動とは、だいたい運動神経にある、そして意識を運動神経に繋いで初めて、人は飛行機のチケットを買ったり、気になる人のところに会いに行ったり、体を鍛えてみたりすることができる。新しいSNSを始めるにしても、まず意識は運動神経に向かわなければいけない。
このへんのことを沢庵和尚は、「不動智神妙録」に書いていて、この本を僕は今まで何度読んだだろう、格闘技の試合に挑むたびに、控え室で読んでいた。
行動とは考えることじゃない、考えていたら行動できない、それに尽きる。
では何のために考えるのか?
考えてしまうことを回避するためだ。
考えさせられることを回避するためだ。
僕は書く、書くことによって書いたことから解放される、そのことはもう考えなくて良くなるからだ。
だから、もう1人、尊敬するドゥルーズも似たようなことを書いてた。
「考えることに真剣になる必要はないかもしれないが、考えることをしない人は、何かに考えさせられるようになる。」と。
<何かに考えさせられること>。これ以上の不自由があるだろうか、こんなに自分の正直から突き放されてしまうことがあるだろうか。僕らは、<考えさせられること>、に反逆しなくてはいけないのだ。
ドゥルーズは端的に、「情報とは堕落である」と書いた。情報とは命令でしかない、と。
僕の正直論からすれば、ドゥルーズほどしっくりくる書き手はいないと勝手に思っている、物事、思考、知識に対する姿勢。
そして思う。中井久夫氏の言う、潜在的超多重人格という精神の健康は、まさにドゥルーズにおける生成変化の概念ではないか、ツリーという定型をはぐらかし、リゾーム的に思考の芽を伸ばすこと、そして、ノマドへ。
情報を集めるということは、命令を集めることだ、命令をはぐらかす力がないものが情報を集めてしまう危険、物知りの動かなさ、雑学王の単一人格症。
ドゥルーズのそれは、思考によって思考の可能性を骨抜きにし、行動の運動神経だけを浮き彫りにすることだ。そうすることで僕らは動く、動くしかなくなる。
沢庵のそれも等しい、剣豪のノウハウは素晴らしい。
山岡鉄舟は、禅によって思考を外す術を学び、迷いなき剣において最強になった。
何よりも、僕の好きな山岡鉄舟のエピソードは。
時折、近所の物乞いを集めて酒宴を開いていたらしく、その時もいつものように、近所の物乞いを集めて家で宴会してたようだ。
そこで弟子が、鉄舟師匠に、きく。「先生、剣の極意とは何でしょうか!?」
そこで、奇しくも横にいた物乞いが酒を飲みすぎたのか、嘔吐をした。
鉄舟師匠はその物乞いの吐瀉物を杯に受けて飲み干し、「こういうことだ!」と答えた。という。
ここには、解放がある、この一つの行動においてあらゆる頭に詰まった命令の知識は破壊されるだろう、弟子の衝撃たるや、、
頭上に刃を振りかざされる時に、常識に命令されてる場合ではない、一切の迷いは己を死へと導く。
剣豪の哲学に無駄はない、無駄=死である、そんな剣豪たちはなぜ禅に励んだのか、そのことを考えてみるべきだ。
鉄舟は寝てる時に、蚊が体に止まって血を吸われた、それを無意識にパチンと見事に打ち殺した、それから目がふと覚めて、今どうやって俺は蚊を打ったのだろうと、事後に考えた、無意識の一打。これによって鉄舟は剣の極意を得たという逸話がある。
これは誰にも当てはまることだ、自分が意図せず行った言動を精神分析的に解釈したり、能書きを垂れたり、言い訳したりする必要はまるでない。
自分の人生の岐路において、行ってきた無意識の行動の結果を愛したいと思う。
意図からはずれ、自然や命運と一体になって行った行動こそが人生を多様にしてくれる。
人格は一つじゃないし、自分は一つじゃない、正直は一通りじゃあない。
まずはブレーキを踏む足の力を弱め、自分がどんな方向に下り落ちるかを学ぼう。
もしここが宇宙空間だったとして、僕はどんな方向に引かれるだろうか。
あらゆる重力をキャンセルして、本当の自分の落とし所に転がっていきたいと思う。