似ているとかパクリとか言われるのが嫌いな人々
音楽の話をするときに、必ず出てくるのが「〇〇と似ている」「〇〇のパクリでは?」という疑惑。
まあ、疑惑と言ってしまうとそれ以上どうしようもありませんが、似ているというのはそんなに大した問題じゃないし、パクリだってやり方によっては新しい楽しみ方を創造しているから、クリエイティブとは切っても切れない要素なんですよね。
全く新しいものなんてめったにない
「斬新」と言っても、なにかと比較して斬新だと言っている以上、元があるわけです。
もし何もないところにいきなり画期的なものが登場したら、それが新しいのかどうかさえ、分かりません。「それはカテゴリが違うな」と思うかもしれません。
多くの創造物は、常にベースがあるんですね。
音楽は寛容
音楽の世界は、元の作品からインスピレーションを受けて似たようなものを創造することに寛容だと思います。
だから「カバー」が商品として成立するのですね。
そういう文化の中で、似ているとかパクリとかいうのを「悪」だと認定してしまったら、音楽なんてちっとも面白くない嗜みになってしまうんじゃないでしょうか。
オマージュ/リスペクト
これらの言葉は微妙ですね。
似ているとかパクリとかいう言葉のイメージが悪いから、こういう言葉を使ってニュアンスを表現しているのだと思いますが、明らかに真にパクリで、元の作者の関知しないところで自らの作品を「これは〇〇へのオマージュです」とか「〇〇へのリスペクトなんです」とか言うのは、口先三寸な部分もありますよね。
つまり、本当にリスペクトしているのか、単にあやかりたいだけなのか、とても曖昧になってしまうんです。
似ているとコメントしていいリアクションがあった試しがない
僕はコメントが好きなのでいろんなところでコメントしますが「音楽が似ている」ということも、コメントすることがあります。
そういうときの反応って、とても鈍くて、ほとんど無視されますね。
もちろん、アーチスト本人に向かってそんなことは言いませんが、YouTubeにアップされている動画にはコメントします。
見ている人は本人じゃなくて、ほとんどはリスナーとかファンですね。第三者です。
本来、創造物と無関係な人々なのに、反応は冷たいですね。
音楽の楽しみは音楽そのものをあーだこーだ言うことでもある
ツイッターで美術館での鑑賞方法について意識高い人が嘆いたことが炎上していましたが、芸術に触れる最初の段階では、とてもシンプルなボキャブラリしか存在しないけど、だんだん芸術に深く関わっていくにつれて、いろんな感想・評価が出てくるものだと思います。
だから音楽にしても、単に「癒やされる」とか「元気出る」とか「思い出が蘇る」とかいうだけじゃなくて、音楽そのものをどう感じるか、他のものとどういう違いがあるのか、みたいなことは、芸術への関心としてあって然るべきなのです。
作り手から見ても、評論家だけじゃなくて一般人からも率直な感想が聴けることは、SNS等を使うメリットだと思います。
そういう中で「似ている」というのは、ごくありふれた芸術的感想であり評価なんですよね。
そういうことを言い合うのも、芸術の一つの楽しみ方なんです。