幸せのイメージは成功ではなく充実感
ぶっちゃけ、幸せっていうのはどこにでも転がっていて、誰にでも手に入れられるものなんだけど、なぜかそれを遠い所に置いて、そこに向かって頑張らないと手に入れられないようなイメージを作り出している人がいるんですね。
NHK朝ドラ
「ちむどんどん」はかなり不評で、僕もツイッターで文句を言ったりしていましたが(笑)タイムラインにネガティブな空気が流れっぱなしでした。
10月からは新しい朝ドラ「舞いあがれ!」が始まりますが、先日、NHKで番宣が流れていて、それを見た人たちがツイッターで「楽しそう!」「期待できそう!」と概ね好評なツイートが多かったです。
「ちむどんどん」も「舞いあがれ!」も主人公が成功していくストーリーなんだろうと思いますが、番組から得られる印象に「幸せ感」があるのはどっちかというと、後者の方ではないかなあと思うのですね。
もっとも「舞いあがれ!」はどういう展開をするのか判っていないから、今の段階で結論づけることは出来ないのですが。
「ちむどんどん」の反動で視聴者が期待せざるを得ない状況になっていることもあるかもしれませんが。
人間関係
人間関係が幸せ感に影響することって多いと思います。
いい会社に勤めていても、職場の人間関係が悪いと居心地が悪くて、その結果、辞めてしまったりとか。
日常の人間関係が人生の充実感に大きな影響を及ぼしているということを、案外気づかずに日々を過ごしているかもしれません。
嫌なことに目を瞑って、お金のために、あるいは自己実現のために、生活も交友関係も親子関係も犠牲にして働く。
10年20年、そういう生活をした結果、大きな富を得たとしても、いい思い出は残っていないし、レジャーや娯楽の楽しみ方も知らない。
年老いて、富を得るコミュニティから外れたときに、語らえる人もいない。
それが果たして幸せと言えるかどうか。
つまり、お金とか富とかいう経済的な価値観を盤石にするために、犠牲になるのが人間関係であったり、文化であったりするのです。
好きなもの、趣味、レジャー
とても真面目で、無趣味で、レジャーとかイベントとか嫌いで、ひたすら仕事で身を立てることが世の中への貢献だと思っていたり、自分自身の素晴らしい在り方だと思っている人もいると思います。
それはそれで、その人が充実していればいいと思いますが、それでも日々の暮らしの中で、笑ったり、微笑んだり、誰かと話したり、歌を歌ったり、時には泣いてみたりすることが、日々の楽しみになっている人と、そうでない人では、幸せ感は違うと思うのですね。
もし、働かなくても生きられる世の中であるとして、それでも人間関係や日々の楽しみに目を瞑って身を粉にして働く人がいるかというと、それはかなり疑問です。
生きることの本質は、働くことではなくて、別のところにあると思いませんか?
成功より充実感
小さな成功は誰でも手に入れられるかもしれないけれど、大きな成功は一部の人だけが手にできるものです。
でも充実感は、大小に関わらず、誰でも手に入れることができるのです。
つまり「幸せ = 充実感」であると、言い換えることも可能です。
一生、勝利しなくても、幸せな人生を送ることは可能です。
というか多くの人が、そういう人生です。
もし、敗者に生きる意味がないのなら、大半の人は死ななければなりません。人類はひたすら減り続ける運命を背負ってしまいます。
それはナンセンスですよね。
誰でも簡単に幸せを手に入れられるから、日常を生きていけるのです。