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『測りすぎ』読んだよ

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』読みました。

著者のミュラーはアメリカの歴史学者。
測定による評価に執着しすぎている現代社会を厳しく批判する一冊となっています。

原題は"The Tyranny of Metrics"で、直訳すると「測定による専制」といったところでしょうか。そこそこ話題になったマイケル・サンデルの『実力も運のうち』の原題が"The Tyranny of Merit能力による専制"だったので、瓜二つの原題です。

何を隠そう江草は過去、サンデルの本の能力主義(メリトクラシー)批判を読んだ後に、「メリトクラシー能力主義だけでなくメトリクラシー測定主義もけっこうな現代社会の病だよね」と指摘する記事を書いてます。

なので、そのものズバリの原題かつテーマの本書『測りすぎ』を見つけた時は、「うおー、これは読まねばならぬ」と大興奮してポチっと購入したものです。まあ、恥ずかしながらそれから1年ぐらい積読になっていたのですが、ようやく読みました。


いやー、とても良い本でしたね。
もっと早く読んでおけばよかったです。


昨今の世の中では、主観的な判断はバイアスがありすぎるから、何事も数値化して客観的で合理的な判断をするようにしようという空気があります。「測定できないものは管理できない」とのドラッカーの名言はしばしば引かれますし、『数値化の鬼』とか、そういう本もありますね。

実は、本書でも指摘の通り、そのトレンドが今盛んな業界の一つが江草も所属している医療界でありまして、「アレコレ測定して数値化して合理的な医療運営をしようぜい」という鼻息荒い声がそこかしこで飛び交っています。
ちょうどこないだの医学放射線学会総会でも「医療行為の業務負担を共通単位で重み付けしたRVU(Relative Value Unit)を測定・設計して、それを報酬に反映するような合理化をすべき、そのために各医師の労働時間や業務内容を徹底的に測定し収集する必要がある」的なディスカッションがなされてました。

が、それに果敢に待ったをかけるのが本書なんですね。
「測りゃいいってもんじゃないし、とくに外部から測定基準を押し付けたり報酬に紐付けるのはマジやめとけ」と。

注意していただきたいのは、著者のミュラーは別に測定そのものの意義を否定しているわけではない点です。測定が役に立つ場面は多々あると認めています。

本文で見ていくとおり、実績を測定するという行為には落とし穴がぼこぼことあいているが、それでも本質的に望ましいものなのだ。実際に測定されているものが測定するつもりのものの合理的な代理変数なら、そしてそこに判断も組み合わせるのなら、測定は個人であれ組織であれ、自らの実績を評価する手助けになるはずだ。だが、こうした測定が報酬や懲罰の基準として使われるようになる、つまり測定基準が成果主義や格付けの判断基準になると、問題が生じ始める。

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』

ただ、問題になるのは「測定することにこだわりすぎること」なんですね。これをミュラーは「測定執着」と呼びますが「測定すれば合理的だし良くなると信じ込みすぎて測定が困難すぎるものでもその測定にコストがかかりすぎても無理やり測定をしようとし続ける態度」がはびこっていることに警鐘を鳴らしているのです。
いわば「社会的測定依存症」ですね。

測定執着とは、それが実践されたときに意図せぬ好ましくない結果が生じるにもかかわらず、こうした信念が持続している状態だ。これが起こるのは、重要なことすべてが測定できるわけではなく、測定できることの大部分は重要ではない(あるいは、なじみのある格言を使うなら、「数えられるものすべてが重要なわけではなく、重要なものすべてが数えられるわけではない」)からだ。ほとんどの組織には複数の目的があるが、測定され、報酬が与えられるものばかりに注目が集まって、ほかの重要な目標がないがしろにされがちだ。同様に、仕事にもいくつもの側面があるが、そのうちほんのいくつかの要素だけ測定すると、ほかを無視する要因になってしまう。測定基準に執心している組織がこの事実に気づくと、典型的な反応はもっと多くの実績測定を追加するというものだ。そうするとデータに次ぐデータが蓄積されるが、そのデータはますます役に立たなくなり、一方でデータを集めることにますます多くの時間と労力が費やされてしまう。

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』

本書では大事な指摘が多すぎて全てを紹介することはできませんが、「測定執着」の主な問題点を江草なりに列挙してみると

  • 測定されやすいものばかりに意識が向いて他がおろそかになったり価値がないかのように扱われやすくなること

  • 測定と報酬を結びつけると人が報酬を求め行動を変容させるようになり測定結果の意味が歪んでしまうこと

  • 精緻で網羅的な測定を求めすぎるあまり測定にかかるコストが莫大になることを軽視すること

といったところでしょうか。


まず、問題点一点目の「測定されやすいものばかりに意識が向いて他のことがおろそかになったり価値がないかのように扱われやすくなること」。

この点は、ちょうど先日NHKのドキュメンタリー番組『プロフェッショナル』で小児科病棟で病児たちの闘病生活に寄り添うチャイルド・ライフ・スペシャリストの方に密着されてましたが、その中で出てきた言葉がまさに象徴的です。

《ナレーション》
効果が数値となって現れるわけでもなければ、傍目には子どもたちと遊んでいるようにしか見えない仕事。
「自分は必要か」
迷いが時折不安となって押し寄せた。

NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』小さな願いが届くまで 〜チャイルド・ライフ・スペシャリスト〜
(文字起こしは江草による)

チャイルド・ライフ・スペシャリスト、江草もかつて小児科を回った経験はあるのでほんと思うのですが、とてつもなく大変で意義深い仕事です。
しかし、そんな彼女も「結果が数値になって現れないこと」で自身の仕事の意義を疑うことがあるのだと言うわけです。
確かに、数値に結果が現れるような仕事ではないでしょう。でも、ご覧になった多くの方が痛感された通り、その意義は数値で測れるような内容ではないはずです。

でも、例えば(あくまで極端な例ですが)、この仕事に対して「じゃあ、子どもたちの様子を客観的に分析解析して幸福度を数値化し、その数値成果によってチャイルド・ライフ・スペシャリストの報酬を決めましょうか」などと言い出すのが「測定執着」的な態度です。「数値化できる」思っているし「数値化すべき」と思っているこの態度からは「数値化できないものは価値を認められないし報酬を与えることはできない」という偏った前提が隠されています。


つぎに、問題点二点目の「測定と報酬を結びつけると人が報酬を求め行動を変容させるようになり測定結果の意味が歪んでしまうこと」。
これもめっちゃあるあるなんですよね。
本書で紹介されてる「キャンベルの法則」と「グッドハートの法則」はこの点をズバリ指摘していて小気味いいです。

アメリカ人社会心理学者ドナルド・ T・キャンベルの名を取って「キャンベルの法則」と呼ばれるようになったそのパターンは、「定量的な社会指標が社会的意思決定に使われれば使われるほど、汚職の圧力にさらされやすくなり、本来監視するはずの社会プロセスをねじまげ、腐敗させやすくなる」というものだ。イギリス人経済学者が作った類似の法則「グッドハートの法則」は、「管理のために用いられる測定はすべて、信頼できない」というものだ。言い換えれば、測定され、報酬が与えられるものはすべて改竄されるということだ。

ジェリー・Z・ミュラー『測りすぎ』

たとえば、事前の調査で、優秀な人は"X"という要素を持っていて、逆に優秀でない人は"X"という要素を有してないという観測結果が出たとします。ここで「ならば、"X"を有してるかどうかで報酬の多寡に紐付けよう」となりがちなのですが、こと報酬が紐付いた途端に、非優秀な人が「"X"を有していること」を騙りだすという歪んだ行動が誘発されてしまうわけです。結果、たいして優秀でないのに"X"があるから高報酬になったり、優秀なのに"X"がないから低報酬になったりする矛盾が広がっていっちゃったりします。

測定という行為は一見科学的手法っぽいので、客観的で不動で安定的な結果をもたらすものに思われがちなのですが、それは測定対象が無生物や意思を持たない生物である場合であって、意思やインセンティブを持っていて悪知恵も働く「人間」という対象に適用したら「測定に速やかに適応されてしまう」わけです。つまり「測定ー報酬連動システム」はまたたく間にハック(攻略)されちゃうのです。(いわゆる「観察者効果」と言ってもいいでしょう)

ここで、一瞬で報酬システムが攻略されちゃったからと、さらに"Y"という要素の測定も加えてみようとか、もっと複雑な重み付けをしてみようとか言い出すのが「測定執着」的な態度ですが、ここにまさに問題点三点目の「精緻で網羅的な測定を求めすぎるあまり測定にかかるコストが莫大になることを軽視すること」につながる「測定泥沼化」の問題が潜んでいます。

対象となる「人間」たちがすぐに測定を攻略してしまうからといって、闇雲に継ぎ足し継ぎ足ししていれば永遠のイタチごっこになるだけです。そして、その測定や解析、データ収集にかかるコストや労力がいつの間にか莫大となり、かえって業務の邪魔や社会の負の遺産となる本末転倒なことが起きるわけです。

江草としては、このことがシステムや制度設計が複雑になりすぎて自分たちでも何やってるのか分からないのにそれに従わざるを得なくなってる「スパゲティコードモンスター問題」につながっていると考えています。


だから、(内輪のネタで恐縮ですが)放射線科におけるRVU(Relative Value Unit)の導入も、ちょっと立ち止まって考えるべきだと思うんですよね。
読影1件あたりの簡単さや所要時間が部位やモダリティによって異なるのは確かですしそれに重み付けをした方がより正確だろうというロジック自体は自然だし妥当だと思います。
ただ、それを報酬に紐付けるべきなのかという点と、それが測定・分析のコストに見合うほどの意義があるものかという点は、別途よく考えるべきことでしょう。
「現状の評価は正確でないからより細かく測って重み付けするのが合理化だ」という態度は、本書『測りすぎ』を踏まえてみるとあまりにもナイーブに感じます。

場合によっては「測定しない方がマシ」という可能性は十分にあるのですから。


さて、そろそろまとめます。

江草が医療人なので医療系の話にフォーカスを当てて紹介してきましたが、本書では警察や学校など、社会における多岐にわたる分野での「測りすぎ」の問題を丁寧に指摘されています。
そして、なんで江草は今まで積読で放置してたのかもったいなくて後悔してるぐらいに読みやすい文章とボリュームです。

扱ってる問題が人類にとっての永遠の難題すぎるために、読んだ結果として結局「でもどうしたらいいんだろ」と悩まされる内容ではあるのですけれど、現代社会の抱える問題をしっかり考えたい人にはぜひオススメしたい一冊です。


補足

なお、ちょっと例として触れた『数値化の鬼』という書籍。タイトルからすると『測りすぎ』と真っ向対立しそうに思われるかもしれませんが、意外や意外実はそうでもありません。『数値化の鬼』では、あくまで自分で自分を管理する「自主的な数値管理」を勧めている本で、他人が数値の測定基準を押し付ける管理を勧めているわけではありません。この自主的な数値管理の意義は『測りすぎ』も認めているところですから、実は矛盾がないんですね。
ただ、実際には「数値化して管理する」と言われる時に、"RVU"しかり、他人や業界全体を管理することにフォーカスする「数値化の鬼」が跋扈してる世の中なのが悲しいところですけれど。
なのでほんというと『数値化の鬼』には落ち度はないのですが、なんというか、語呂の響きがよかったので使わせていただきました。


また、成果主義的な報酬システムがいかにうまくいってないかについては『給料はあなたの価値なのか』も詳細に解説されてます。

「成果を測定した結果、優れた成果をあげていた者が能力の高い価値ある人間であり高報酬に値する」という現代の神話をガッツリ批判されている本です。
まさしく、メリトクラシーとメトリクラシーの問題の交点に位置する本として、ぜひ合わせて読んでいただきたい一冊です。

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