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『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』読んだよ

ブレイディみかこ『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』読みました

著者のブレイディみかこ氏は『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でも有名な作家の方ですね。格差問題をありありと描き出すことで定評があります。


今作のタイトルにある「シット・ジョブ」という単語に馴染みのない方も多いかもしれません。とりあえず、いわゆる3K(きつい・汚い・給料安い)的な仕事をイメージされると分かりやすいでしょう(厳密には必ずしも同じではないですが)。

本作はそんな「シット・ジョブ」に焦点を当てた小説です。

ただ、小説と言われるものの、内容的には著者ご本人の体験談やエッセイを思わせるようなスタイルであり、一般的にイメージされる小説とはちょっと異なってます。

あまりにリアリティがあるので、「これは本当にあったことなんじゃないの」と読者的にはどうしても思ってしまうのですが、著者本人は「あくまでこれはフィクションである」というていで貫かれます。

 わざわざ「小説」という言葉をタイトルに入れたことからもわかるように、この本はフィクションである。ノンフィクションではないし、自伝でもない。
 それでも、本当にあったことも若干混ざっていることは否定できないので、「小説」だけでなく、「私」という言葉も入れておいた。どこまでが本当のことかは言わぬが花。それが「私小説」というものだとわたしは思っている。

ブレイディ みかこ. 私労働小説 ザ・シット・ジョブ (角川書店単行本) (p.205). 株式会社KADOKAWA. Kindle 版.

「あとがき」にあるこの記述からすると、確信犯的にこうしたフィクションとノンフィクションをないまぜにした表現形式をとられてると思われます。

こうした「フィクションだよ」という体で、本人の体験談としか思えないとてつもなくリアル感のある描写を読ませる作品として、最近では大塚篤司『白い巨塔が真っ黒だった件』もありました。

理由は色々と推測できますが、なんにせよ最近流行ってきてるスタイルなのかもしれません。


さて、そんな「フィクション私小説」である本作は、先述の通り「シット・ジョブ」がテーマです。

「あたし」は日本とイギリスで職を転々とする中で、水商売(ホステス)、住み込みナニー、服の販売員、クリーニング工場勤務、服のリサイクルボランティア、保育士、職員食堂の料理人、看護師、介護士などなど、世の中では単純作業や接客業、ケアワーカーとして扱われる職種を経験していきます(本人ではなく周囲の人の職種もあり)。ブルーカラーやピンクカラーという枠組みでとらえてもいいでしょう。とにかく徹底して(日本ではかなり多くの方が従事している)知的労働、すなわちホワイトカラージョブがありません。

そうした非ホワイトカラージョブの現場体験や人間模様を、場面や時代をさまざまに切り替えながら描いた「小説」が本作になります。章ごとに登場人物たち(「あたし」以外)もまるで異なる、短編小説のようなエッセイのような構造であり、一貫したストーリーがあるような話ではありません。しかしながら、その非一貫的な構造の中から、様々な職種が共通して抱える「シット・ジョブ」性が生々しく炙り出されていきます。

だから、本作はタイトル通り、主人公は「あたし」でさえなく、やはり「シット・ジョブ」であると言えましょう。

上流階層の人たち、あるいは客から、上司から、もしくは自分自身たちからでさえも「下」に見られる仕事。そうした仕事(身分)に就いていることで味わう理不尽や悲しさ、悔しさで本作では満ちています。人間の尊厳さえ踏みにじられていく。

確かに、特にケアワーカーは「エッセンシャルワーク」として、時折社会に感謝されることもあります。でも、同時に、うちの子供たちにはああいう「シット・ジョブ」には就いて欲しくない、などと多くの方々が「下」に思っていることも、少子化でなお過熱する受験戦争を見ていれば明らかなところでしょう。

少なからぬ人たちが「できるならば就きたくない」と考え、人間としての価値まで低く見られ、しかも給料だって、労働環境だって良いとは言えない仕事。そんな仕事の息使いが感じ取れるのが本作です。(もっとも、あくまで「フィクション」なのですが、やっぱりどうしてもリアル性を嗅ぎ取ってしまいますね)

江草なんかは医師であり、患者さんからだけでなく上司や同僚からでさえ「先生」付けでしか呼ばれることがない頭がおかしい文化の世界で生きてきていますから、全くもって「上」のエリート階層にいることは否定できません。だから、その立場で「共感した」とか「考えさせられる」などと述べること自体も大変にキレイゴトっぽくて言いにくいのですが、それでもやっぱりこの本で得られた「下」目線の描写は非常に貴重な体験だったと思います。

実際、この「上下」が対峙する場面が本作では多々登場しますが、こうした「上」から目線の共感や羨望の「鼻持ちならなさ」に「あたし」は怒りを隠していません。

しかし、その一方で、逆に「上」に対しての同情的な目線も提示されてるのも、本作の非常に興味深い特徴です。すなわち、「シット・ジョブ」と「ブルシット・ジョブ」が交錯する場面。これは本作の中でも際立って慧眼なシーンであったと思われます。ただ、「下」から「上」に怒りを叩きつけるだけの作品ではないんですね。

「ブルシット・ジョブ」は「シット・ジョブ」と名前は似ていますが、全く別の意味合いを持つ言葉です。雑に一言で言えば「やってる自分自身でさえ仕事の意義が全く感じられない仕事」というイメージです。「シット・ジョブ」と異なり、給料が高かったり高学歴エリートが就きがちという特徴があります。人類学者のデイヴィッド・グレーバーが提唱して、そこそこ話題になりました。(江草のnoteでは頻出単語なのでフォロワーの皆さんには耳タコでしょうけれど)


そして、こうした「ブルシット・ジョブ」に就いている高学歴エリートが、「シット・ジョブ」に就いている「あたし」と交流する場面があるんですね。「小説」という表現が命のものでもあり、具体的にどういう展開だったのかをここで表すのは不可能ですし、やるべきでもないと思うので、ここで詳細を語ることはしません。ぜひ本書を読んでいただきたいと思うのですが、これがとても素晴らしかったと思います。

「シット・ジョブ」的な「下」の者も、「ブルシット・ジョブ」的な「上」の者も、互いに「うらやましいなあ」と思いながら、同時に互いに「ああはなりたくない」とも思っている。そんな羨望と蔑視が混ざり合った奇妙で矛盾した関係性がある。人間が仕事とうまく付き合うことの複雑さや難しさがよく表されていて、とても秀逸な内容だったと思います。

実際、先ほど挙げた『白い巨塔が真っ黒だった件』なんて、医学部の教授選というエリートもエリートの「上」の階層の話なわけですが、まあそれでも明らかに大変で理不尽な思いをしながら生きてる姿がありありと描かれているわけです。「上」だからといって「楽ちんでハッピー」という感じでもないのが世の中ややこしいところなんですよね。

一方で、「シット・ジョブ」にも、現場労働だからこそ感じられる肯定的な意味での仕事体験があることも本作は描き出しています。「ブルシット・ジョブ」ではどうしても得られ難い部分で、そこが対照的です。だから、必ずしも本作は「シット・ジョブ」を全否定しているわけではないんですね。ただ、やっぱり社会からの扱いが理不尽だと訴えているだけで。


なお、本作が「シット・ジョブ」というタイトルにもかかわらず、わざわざ「ブルシット・ジョブ」的な話も登場するのは、実を言うと著者は意識的にされているようなんです。

江草が勝手に「ブルシット・ジョブ」と結びつけてるわけではなく、本文中にもあとがきにも「ブルシット・ジョブ」の文字は堂々と出現しますし、この著者のインタビュー記事でも巷の「ブルシット・ジョブ」フィーバーをきっかけに本書『ザ・シット・ジョブ』が生まれた経緯を話されています。(何を隠そう、この記事を読んだのが江草が本作を買ったきっかけでもあります)


だから、(「ブルシット・ジョブ」ばかりが注目されることへの反発として)「シット・ジョブ」に主眼は置かれつつも、総合的に「私たちにとって仕事とは何か」を問いかける仕掛けになってるわけです。かつてのプロレタリア文学の『蟹工船』のように、まさにタイトル通り現代の「労働小説」と言えましょう。


ちなみに、医療従事者としては、イギリスのNHS 下の医療現場の雰囲気が垣間見れたのも良かったですね。日本では滅多にされない医療従事者のストライキに対して現場に近い方々はどう感じているのか。こういうのはあまり知る機会がない話なので、とても興味深かったです。(あ、でもあくまで「フィクション」なんですが)


そんなわけで、極めて現代的な「仕事の問題」に鋭く迫った本作は、まさにタイムリーで本質を突いた良作だったと感じます。江草も読書歴長いですけれど、「小説」でこんなにハイライトを引いた作品は今までなかったと思います。それだけ、秀逸な表現や洞察が多かった作品でした。

オススメです。

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江草 令
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