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長時間保育問題は将来の発達がどうとかでなく当事者たちのエクスペリエンスの問題

最近、Xで「長時間保育の是非」の論争が白熱していたみたいです。

Xではいつものごとく、もはや震源地もさっぱり分からず、きっちりした議論として追跡できるものではないので、具体的な内容の紹介もしにくいのですが、とりあえず色んな賛否両論が飛び交ってはいました。

たとえば、こんな風に保育士インフルエンサーのてぃ先生も参戦してます。


長時間保育については江草も先日ちょうどnoteを書いたところでした。

なので、長時間保育の是非の本論自体を再度述べることはしませんけれど、今回のXのみなさんのポストを眺めていて個人的にちょっと気になった点について補論を述べてみたいと思います。


目についたのは「長時間保育でも子どもの発達に問題が無いというエビデンスがあるから親は後ろめたさを感じる必要は無いよ!」という論ですね。

このエビデンスが間違いだと思ってるわけではありませんし(というより、きっちり界隈の論文を渉猟できてないので江草には評価不能)、当然出るべき論点ではあるとは思いつつも、こういうエビデンスによって「後ろめたさを感じなくていいよ!」「長時間保育で全然OKよ!」とグイッともってくのは個人的にはあまり好きじゃないんですよね。

あえて露悪的に言うとですよ。これって「どんなに子どもが寂しがってグズグズになっていても、将来の《製品品質》としては問題ないから何も罪悪感は感じなくて良いですよ」と言ってる感じがするんですよね。

すなわち、「将来の子どもの発達」という客観的「アウトカム」さえ問題なかったら、その場の当事者たちの主観的ネガティブ感情は無視していい。むしろ「アウトカムが保障されてるのだからそれを辛く感じる方がおかしいんだ」と寂しがったり後ろめたく感じることの方を勘違いとして否認するような、そういう仕草に映るんですね。

もちろん、これは分かりやすいように過度に強調した表現です。実際には本人達もそんな露骨な意図で言ってるわけではないでしょうし、そんな強い主張をしようとしてるわけではないとは思うんです。

ただ、「子どもの将来の発達に問題ないから後ろめたく感じる必要はないですよ」という理路は、やっぱりそうした客観的アウトカムを重視して、主観的エクスペリエンスを軽視してる感覚に基づいてる傾向はあると思うんです。


この論調は、医療界でも同様の構図の倫理的課題があるからこそ、江草的には気になっちゃうんですよね。

医療って、病気の治療をして患者の生存期間を延ばしたりADL(日常生活能力)を維持したりするというアウトカムがやっぱり大事です。その治療成績をいかに伸ばすかで、医療者たちは常に努力を続けているわけです。

とはいえですよ。いかにアウトカムが大事といっても、患者さんの病気に対する不安とかの心理感情面の苦悩の受け止めをないがしろにしていいのかという問題が他方であるんですね。

たとえば、ガンが見つかってショックを受けてる患者さんがいたとします。そこに「その患者さんの話を真摯に聞いてあげなくてもガン手術後の生存期間のアウトカムが悪くなるというエビデンスはないので後ろめたさを感じなくていいですよ」と言う人が出てきたら、やっぱなんか違う気がしませんか。

もちろん、ここまでのことを言う人はなかなかいません(たまに「医者の仕事は患者の話を聞くことじゃなく診断と治療をすることだからダラダラ患者の話を聞くべきではない」と言う人はいますが)。

ただ、現実として医療現場は治療成績のような客観的アウトカムに重点を置いているところがあって、なかなか患者さんの心理的ケアまで十分に手が回ってないというのが実情なんですね。

みなさんもご存じと思いますが、病院って待ち時間は長いのに、診察時間めっちゃ短いでしょ。あれ、別に医療者が手抜きをしてるわけではなくって、ほんとに多忙すぎて外来がパンクしてるからなんです。当然ながらあんなに短い時間で患者さんたちの気持ちの受け止めまではできません。

しかし、この問題を「外来でじっくり話を聞いても病気治療のアウトカムにはメリットないから」などと片付けるのは、(アウトカムはそれはそれでもちろん大事だけれど)問題のレイヤーがズレてるように思うわけです。


で、話を保育に戻しますと。

「児の発達に問題ないから長時間保育で後ろめたさを感じなくて良いよ」と強調してしまうのは、気持ちは分からないでもないんですが、やっぱり問題のレイヤー違いを起こしちゃってないかと思うんですよね。

保育業界での主要なアウトカムが発達や適応に置かれてるのかどうかは存じませんけれど、仮に発達や適応を主要アウトカムと設定したとして、そしてそのアウトカムが十分に問題なく達成できていたとしても、だからといって当事者たちの主観感情的苦悩を消去できるわけではないのではないでしょうか。

つまり一言で言えば「それとこれは話が別では」ということなんですね。

もっとも、長時間保育の批判者も「長時間保育で子どもが問題行動を起こす!」みたいな感じで、発達への悪影響を論拠として主張を展開しがちなので、それゆえ「長時間保育で子どもの発達に問題があるのかどうか」を争点としたエビデンス合戦になるのは仕方ないところがあります。この流れは必ずしも長時間保育擁護派のせいというわけでもない。

でも、だからこそ最大の問題として浮かび上がってくるのは、長時間保育の批判派も擁護派も「子どもの将来の発達」というアウトカムばかり見てるというこの状況の奇妙さなんですよね。

江草としては、ただ単純に「親に会いたくて寂しがってる子がいる」、あるいは逆に「子どもともっと触れあいたくって悔しがってる親がいる」という、主観的なエクスペリエンスの問題としてこの長時間保育問題を捉えてもいいんじゃないかと思うんですよ。

将来の発達がどうとか、いい子に育つかどうかとか、頭が良い子になるかどうかとか、優秀な納税者になるかどうかとか、これは、本来そんな話ではないんじゃないでしょうか。

互いに会いたいけど会い難い社会状況になっていて、親and/or子の子育て期間エクスペリエンスが悪化している。アウトカムどうこうに関係なく、これはこれだけで十分に重大な問題と言うべきです。

よく言われる「子どもがかわいそう」という言葉だって、本来、発達がどうとかじゃなくって、ただその場その時の子どもの気持ちを慮った言葉でしょう。「将来この子はきっと問題児になるだろうからかわいそう」じゃなくって「(今まさにこの瞬間において)ただ単純に親に会いたくて寂しそうだからかわいそう」という、もっと素朴で根源的な共感からの言葉のはずです。

それを「このままじゃ将来的なアウトカムが毀損されますよ」みたいな客観的エビデンストークの形式に仕立て上げないと語れなくなってること自体が、現代社会の病的なところに思います。

長時間保育の問題の主題は、本当は「将来がどう」とかいう計算じゃなくって、「今ただ会いたいんだよ」という気持ちの問題のはずなんじゃないでしょうか。


ベストセラーになった『限りある時間の使い方』でもちょうど似たような指摘があったので、長いですけど引用しますね。

これは子育てにおける「しつけ派」と「自然な子育て派」の対立について語ってる文脈で、著者のバークマンは「両者が(なんなら自分も)みな将来志向になってる」という世論の偏りに疑問をぶつけてます。

そんなことよりも、僕にとって衝撃的だったのは、両者がいかに将来のことばかり考えているかということだった。書籍でもネットでも、子育てのアドバイスはみんな、子どもの将来のために役立つことを語っていた。どうすれば子どもが将来幸せになれるか、できる子になれるか、稼ぐ大人になれるか。
「しつけ派」がそれを語るのはわかる。でも実をいうと、「自然な子育て派」も似たようなものだった。ベビーウェアリング(赤ちゃんと密着する抱っこやおんぶ)や添い寝や母乳の推進派は、表面的には親子の快適さを語りながら、実は後々の子どもの健康な発達という本当の目的をちらつかせていた。そして僕は、ちょっと気まずい真実に思い当たった。
そもそもノウハウ本にアドバイスを求めたのは、僕自身が「将来のため」という思考に飲み込まれていたからではないか。物心ついたときから、僕は将来の結果のために日々を過ごしてきた。いい成績をとるため、いい仕事に就くため、健康な体を手に入れるため。そうやって努力すれば、いつか素敵な将来がやってくるのだと思っていた。そして赤ちゃんがやってきたとき、僕は赤ちゃんにも同じことをさせようとした。
将来この子が最善の結果を得るために、今の時間を利用しようと考えたのだ。
(中略)
作家のアダム・ゴプニックは、僕が陥っていたような状態を「因果のカタストロフィー」と呼んで批判する。彼が問題にするのは、「ある子育てメソッドが正しいかまちがっているかは、その子が大人になったときの状態によって決まる」という態度のことだ。これは本当に理にかなっているのだろうか。1歳になった子どもを親の胸の上で眠らせるのは、子どもの将来を台無しにする悪い習慣だろうか。今この瞬間の幸福感を、将来の不安のために犠牲にするのが本当に正しい態度だろうか。

これはまあ、この過去記事に載せてたのをまるっと再掲してるだけなのですが、今回の長時間保育での議論にも通じる大事な指摘がされてると思います。


あと、こちらはエクスペリエンスの向上がなぜ大事かを語った過去記事です。

ご参考まで。

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