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日本近代文学館で中島敦「山月記」をチラ見
目黒区にある、日本近代文学館にいってきました。
最寄り駅は井の頭線の駒場東大前です。
駅前の東京大学教養学部とは反対方向へ歩くこと10分弱。
住宅街を抜けて、駒場公園の日本家屋を通り過ぎた先にあります。
ちょうど企画展「教科書のなかの文学/教室のそとの文学Ⅱ──中島敦『山月記』とその時代」の最終日でした。
中島敦の人生と、山月記を執筆した時代、その後の影響について、原稿や手紙、映像をつかって解説されていました。
「山月記」は高校の国語の教科書で70年以上にわたって取り上げられている定番の作品なのだそうですが、覚えていますか?
あらすじは、
主人公・李徴は詩人になることをあきらめて役人として生きています。
しかし、夢への未練を断ち切れず、ある日発狂し家出してしまいます。
後日、友人の袁傪と部下たち出張で夜の森を馬で移動中、虎に出くわします。
その虎の正体は李徴でした。
虎になった李徴は袁傪に、自作の詩を書き残してほしいと頼むのです。
というお話。
う〜ん、記憶がありません。
忘れたのか、授業中に寝てばかりいて聞いていなかったか……。
解説映像と展示でざっと復習できたから、最低限の基礎知識はインストール完了ということで!
展示のなかで興味深かったのが、教え子たちの中島先生エピソードです。
彼は横浜高等女学校で教師をつとてめていました。
・彼の授業のあるときに、花びらがベルベットのような真紅のバラの1輪挿しを教卓に飾った教え子がいた。
・彼の朗読に聞き惚れる生徒続出。
・テストでは「てにをは」のチェックがめちゃくちゃ厳しかった。
・授業で三四郎を教わって間もなく、学校で運動会だか水泳大会が開催された。
そこに応援に来た彼のはかま姿が三四郎のようだったので、しばらく三四郎先生と呼ばれていた。
作家になる志は強いものの、自分の書いた小説が雑誌になかなか掲載されず、仕方なく教師の仕事を選んでいたかもしれません。
敦の中には「なんで自分がうまくいかないんだろう…」っていう葛藤はあっただろうけど、教え子たちに結構愛されていたんですね〜。
敦自身、はつらつとした教え子たちに救われる部分もあったんじゃないかなって思いました。
先生の職を辞め、国語の教科書を作る仕事のためパラオに赴任中、ようやく「山月記」が雑誌に掲載されます。
(そのことを帰国後に知ったらしい)
次々に作品が世に出され、これからの活躍が望まれた33歳のとき、持病の喘息で亡くなりました。
作家として活動したのはわずか9ヶ月間でした。
あーつーしー!!!
もし中島敦がもうちょっと長生きできていたら、「まだ作家になれない!」っていう焦りの時期をどんなふり返って、小説にしていたのでしょうかね。
めちゃめちゃ生々しい心理描写を、美しい漢文調で書いたのかな?
それはそれで読んでみたいなあ。
AIでそれっぽいのができるか、Chat GTPでためしてみた。
例文
「夕飯のときに、机の角に足の小指をぶつけてめちゃくちゃ痛い。」
↓
中島敦文体
「夕餉の折、机の角にて小指を打ち付け、激しい痛みに襲われる。」
びっみょう……。
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