開放バカ。レンズの個性と自身について
絞りを絞る、と言うことはそのレンズの持つ個性を無くすということだ。せっかく明るいレンズを持っているのだから、その滲みとかハロとか、そう言うものを楽しみたいと思う。
プロとなればそうはいかないだろう。きっちり写さないといけない。が、僕のようなサンデーカメラマンの場合、レンズの個性に振り回されるのもいい。
今回はそんな話を書こうと思う。ろくに歴史を知らない人間の、身勝手な戯言ではありますが、お付き合いいただければ…。
レンズの持つ個性
フジフイルムのカメラが好きだ。が、レンズに関してはどうも食指が伸びなかった。90mmf2 その存在はとても興味をひかれたのだけれど、兄から借りて使うと、あまりに描写がすっきりしすぎていて、結局手が出ないままだ。かなり被写体に寄れるし、写りは最高なんだけれど、それゆえに「僕」とは違うな、と思うのだった。
あるいはアポランター50mm f2。アポズミクロンの下位互換とでも言えば語弊があるが、こちらにも興味がある。滲まずくっきりとした描写。絞り値よりボケたように見えるというのは、それだけ切れ味が良いからなんだろう。
ポチる寸前まで行ったけれど、やっぱり「僕」とは違うなと思った。
手にしたのはヘリアー50mmだった。
50センチまで近づける、と言うのが決め手となったが、結局はそのレンズの描写に惹かれたのだ。くっきりと写したいなら絞ればいいわけで、レンズを楽しむなら個性が強い方がいい。あまりにもぐずぐずだと、それはまずいが、何はともあれフォクトレンダーのレンズだ。あまりに酷いということはないはずだ。
同じ焦点距離のレンズを複数集めてしまうのは、そのレンズの「個性」を求めてしまうからだ。どのレンズでも同じ描写をするのであれば、集めることなんかしない。アポランターにしても90mmf2なんかにしても、開放からしっかり写るというのも個性だし、ヘリアーにしてもスピードマスターにしても、開放の描写がひどく滲むのも個性だ。
絵画の世界から
オールドレンズが現行のころは、しかし、開放の描写は欠点でこそあれ、そのレンズの個性だとはならなかったはずだ。レンズは絞るべき、というのを、写真を始めたころに学んだが、この観念は、まだレンズへの技術に改善の余地があったころの話であり、今となってはいったん傍に置いておくことなのではないかとも思う。カメラは、見たものをそのまま、その通りに写すことが目標であって、滲んだり、ハレーションやゴーストが出たりするのは良くないと考えられていたのだろう。それがフードは必ずつけようということだったり、絞りは被写界深度が必要なくともある程度絞るべし、という考え方に表れている。
今、開放からしっかり写るということは技術的に可能な時代だ。金銭的な問題は除くけれども、良いレンズを手にすれば、メーカーごとの描写の差はめくじらを立てなければわからない程になっている。だからこそ、フォクトレンダーのような会社は、アポランターのような完璧なレンズと、味のある描写のヘリアーというような対極を作るし、フジはフジで35mmf1.4を継続させつつ33mmf1.4なんてレンズを発売したりする。
これは、まるで絵画の世界が写実から印象へと移っていったことと同じようにも思わされる。詳しく学んだわけではないので、固陋しているかもしれないが、写真が発明されてから、絵画が、見たものそのままに描かれなくてはならないという不文律から解放され、光を描くようになる。そうして時は過ぎ、果ては展覧会にトイレの便器を持ち出したり、マリリンモンローだったりトマト缶だったり、街中にネズミの絵だったりと、もちろんそれらの作品を発表した人たちに、それがない、とは到底言えないが、それでも、技術。技術がアートの語源であったとされるように、絵を描くことは技術を磨くことが必要だった時代から、その技術より発想や着眼点の方が重視される時代に今はなったと言えるかもしれない。アートの本義から、アートが独立していったのだ。
むしろ、今は、写実的絵画にこそアート性が見出せない、なんておかしな感覚にもなってはいまいか。それで単に奇抜なものだったり、独自性の高いものの方がほめそやされるようになっていて、写実の方は、うわーすごいねえ、で終わる、というか、とにかく逆転しちゃっているのだ。
けれども写実だろうが、印象だろうが、抽象だろうが前衛だろうが、それらをやる前に、やはりしっかりとした技術は必要だ。どんなものをアートとするかはその境界がわからないけれど、作り手になんらかのしっかりとした技術が伴っていなければ、アートと認められないことは確かだと思う。近くの美術館で、今写実の展示をしているけれど、やはりそれはアートだよな、と思わせる力がある。
これをレンズの話に置き換えれば、上善如水のような、見たままをしっかり描き出すレンズを作る技術はあるけれど、それとは真逆の写りをするレンズも作っちゃうよ、というスタンスではないかと思う。昔のように技術的に無理だからこうなった、ではなくて、技術があるからこそ、レンズの味わいを調整するという「余裕」だ。(資産的な問題ではなくもっと写真文化への姿勢として)余裕があるメーカーの作るカメラやレンズは面白い。
写実から印象へ
写真が、目の前の光景をそのままに写し取ることにその役目があるのであれば、絞りはある程度絞らなくてはならないし、余計な光を遮るためにフードをつけたりしないといけなくなる。基本デジタルカメラはその方向で進んできたと言えよう。
けれども昨今、再びフィルム写真に注目が集まっているというのは、ちょっとした皮肉かもしれない。それはカメラの技術的成熟が行き着くところまで行き着いた今、なんでも見たままを写し取るアポランターの対極としてヘリアーがあったり、オールドレンズをわざわざ使って描写を楽しんだりするというのと同様に、写真の世界でも写実から印象へという動きが兆し始めたということになるからだ。
それはオリンパスのアートフィルターだったり、フジフイルムのフィルムシミュレーションだったり、カメラメーカーもその兆しの礎になっていたと思う。あるいはInstagramなどで映える写真が流行ったと言うこともある。ミラーレスがオールドレンズ遊びを下支えしたことも要因にあるだろう。その上で、フィルムっぽい写真じゃなくてフィルム写真を撮ろうとする動きは面白い。フィルム高騰の今、それでもフィルムを使いたいというのは、なんでもしっかり写すデジタルではないものを求めたいという欲求のあらわれなのだろう。何度も言うが、写実から印象へ、という動きがカメラの世界でも動き始めたのだと思うのだ。もちろんその前から、それはフイルム時代にさまざまなベースを持った作家たちが試してきたように、そういうことはあったのだろうけど、一般的エンドユーザーの世界での話として。
レンズの味を自分の個性とする
そんな時に、レンズを選ぶ、レンズの個性を選ぶ、と言うのは、自分のしたい表現を選ぶことに他ならない。レンズを選ぶことから、自身の表現の方向性が決まる、そんな度合いが増してきたと言えまいか。もちろん、以前もレンズ選びはその人の個性につながることになっていただろう。だがそれは焦点距離などの問題が先にあって、多くの人が目指すのは、しっかり写ること、であったのではないか。だからレンズは絞れ、という話だったのだと思う。レンズの味はむしろ邪魔だったのだ。それが今、素晴らしい性能のレンズが開発されて、逆にレンズの味わいを楽しむと言う動きが出てきた。ぐるぐるボケをありがたがったり、発色の渋さを面白がったり。さながら絵筆の違いを楽しむかのごときだ。
だからというわけではないけれど、僕は開放を楽しむ。アホみたいに開放で撮影する。絞る嗜みを身につけるべきだとは思うけれど、まあ開ける。なぜならそのレンズの個性は開放にあるからだ。開放で撮ってこそ、そのレンズの味わいが楽しめる。
世界中の人がスマホのカメラを使う今、そのレンズで撮ることそのものがその人の個性になるとすら言えるかもしれない。そうして僕はやはり、多少なりとも滲んだり、収差のあるものを好む。そこに湿度を感じることができるからだ。
レンズ選びは衣服選びと同じ
カメラやレンズの生産技術が上がってきたこと、それに伴い、基本どのレンズで撮ってもしっかり写ること。絞らなくても最高のパフォーマンスを発揮するレンズも多くなってきたこと。スマホのカメラが機能を高めたこと。そのスマホをほとんどの人が持っていること。だから、写真はその画質に関しては、もはや一定のレベルのものが撮影できてしまう。構図とか、瞬間にだけ、私たちは心を配ればよい。
しかし一方で、自分の求めたい写りというものがある。それこそスッキリ、くっきりとしたレンズがいい人もいれば、自分のように滲んだりするレンズがいいと言う人もいよう。気分によって使い分ける人もいるだろう。それは自分に合う衣服を選ぶようなものだ。タキシードで通勤するわけではなし、ファストファッションが良いときもあれば、スーツのときもある。モード系が似合うと考える人もいれば、アジアンな格好が好きな人もいるだろう。レンズ選びも同じだ。とにかく安いものでもそこそこするという話を除けば。
だから開放で、撮る
だから僕は、レンズをむやみに開放で撮る。所詮、それはレンズの味でしょ? とか周辺減光に頼ってちゃ、うまくならないよ、と言われても。気にはめちゃくちゃするけども。当然上手くなりたいし、そのために絞るべきは絞るべきだと思うけれど、先にあげた写真たちを改めて見てみると、絞った写真もあるのだけれど、やはり絞りを開けている方が好みなのだ。
仕事としてやるのであればそれではダメだと思うけれど、それで例えば展示会をするとして、これじゃあダメだと言われても、多くのプロの方が指摘をしたとして、これじゃあ話にならんと言われても、まずは自分が好きでなければ、趣味とは言えない。仕事ではそれだとダメだとは思うが、趣味ならまずはそっちだ。それで例えば、もっと絞った方がウケるよ、と言われても、それではいそうですか、と変えるのはどういうものか。Instagramをしていて、まあいいねをほとんどもらいはしないのだけど、だからといって自分の撮り方を変えてしまうのは本末転倒だ。もちろん、それだといつまで経っても上手くはならないことも確かだから、バランスは必要だし、レンズの味だけで撮り続けていけば上達しないのも分かるけれども。
でも、ほどほどに、場面で考えて使い分けはすべきとしても、やっぱりレンズの味が出るのは開放なわけだ。そしてその描写が好きであるのなら、そこを使って撮ればいいのだ。いや、まったくもって向上心もなければ、孤陋していてわからずやみたいなことを言っているけれど。
ただ、それを使っているうちに、レンズの個性で撮らされている状態から、レンズの個性を活かして撮っている、くらいにはなれるかもしれない。そうした時、レンズの個性が自分の個性となる、そう言うこともあり得るかも、しれない。
ある有名写真家が使うフィルムがアグファのそれで、たしかにあの極彩色の世界観はフィルムの発色も寄与しているのだろうなと思う。そういうこだわりが、レンズを開放で使うということでも、個性として繋がっていくこともあるだろう。レンズの描写の好みは、つまりその人自身を表す、そしてその描写とは、開放にあるのだ。
服装は人を表すという。そしてレンズの開放は、カメラを持つ人の衣服なのだ。
ということは、
ということは、じゃあおまえ、レンズ交換するなよ、という話になるなあ、と自分で書き綴った結果の結論に、はっとなる。いや、その、えっと、いや、はい、……最初はただ単に、レンズは開放が面白いんだよな、自己満足でいる限りは開放こそが楽しいんだよね、という話を書くつもりだったのだ。んと、どこでこうなった? 絵画の話あたりか。ろくに知りもしないくせに偉そうに書くから、話が変わっていったのだ。
けれど、記録するためのカメラの立ち位置がスマホにとって変わられる今、記憶を色付けしていくための機材であるならカメラはやはりなくてはならない存在だ。その記憶を鮮やかに、しっかりと残すためにレンズを選ぶ。そしてその個性がはっきりと出てくる開放を使う。それはこれから写真を趣味にする人にとっては、意味のあることのように思う。なんでもピシッと写るレンズだけではなく、写真体験を面白くしてくれる、趣味性の高いレンズ。そういうのをもっと出してくれたらな。あれこれ書いたけれど、結局、それが言いたかった
だけなのかもしれない。失礼な話です。
ただ、そんなレンズを出してくれるのは、ライカとフジフイルムとペンタックス、それからシグマだろうか。いっそのことフィルムカメラを新しく出してくれたら、とも思うのだけど、もうそれは難しいのだろうね。