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その土地でないのにその土地らしいという違和感。あるいは違和感がないという違和感

写真の話でもなく、自転車の話でもなく、ドラマの話です。

広瀬すずさんが主演の「夕暮れに、手をつなぐ」
今日から放送ですね。
CMからずっと聴いていて、あれ?と思っていたんです。

これ九州の方言だよね、と。
というか、宮崎だな、
でも、なんか鹿児島っぽいな、とも、
ん、あいや、福岡かな、とも。熊本も?

ドラマを観てみると、どうも宮崎は都城の方の言葉に近いように思う。

Twitterを見てみると、冒頭で霧島が出たそうだから、多分そうだろう。鹿児島っぽい方言が出るのもそう言うことかと。

でも、それでも、福岡の言葉に近いところがあるのはなんでだろ、と思っていたら、宮崎と長崎のチャンポンだということが明かされて納得した。

イントネーションは宮崎のそれに近かった。でも、語尾なんかが、〜やが!とか、〜と。とか言いつつ、ときどき おいと結婚すっか?とかは鹿児島に近いし、〜たい、というのもあったように思う。

ただ、そんなふうに方言が混ざっていても特段違和感がない。個人的に違和感を感じない。不思議だ。

すずめの戸締りは、これまた宮崎弁なんだけれど、例の冒頭12分しか見ていないが違和感がありまくりだった。語尾とかもだけれど、イントネーションが。

この違和感は、ある土地の方言がドラマに出たとき、その地の人はどうしても感じるものなのだろうと思っていた。そりゃそうさ、他の土地の言葉を使えるようになるのは難しい。さっき、長崎と宮崎のちゃんぽんだと、言われて納得した、と書いたが、福岡の言葉だなあ、と感じていたのが長崎だったのはそういうことだ。長崎と福岡の言葉の違いは、やっぱりよく分かっておらず、ざっくり一緒くらいに思っているというわけだ。
以前、NHKの15分の連続ドラマが宮崎を舞台にしたとき、やはり違和感があったし、昨年やその前に地元の局がやった東村アキコさん原作のドラマの方言も、イントネーションは間違っちゃいないけど、方言を棒読みしたような違和感が拭えなかった。

でも、広瀬すずさんの言葉は、演技としての訛りに違和感がないのだ。Twitterではありまくりだ、と書いている人が多いが、僕はそう思わない。
なんとなれば、東村アキコさん原作のドラマに出てきた温水さんの方言だって、違和感ありまくりだった。でも、あのドラマならそのわざとらしさが良かったのだと思うけれど。

そもそも映画やドラマで話される言葉は、日常の言葉とは違う。だから本来が違和感のある話し方なのだ。しかしそう言う創作を見続けているので、僕らは日常と分けて認識している。だからそれを自然な言葉だと思ってしまっている。そう言う視点で見ると、今回の広瀬すずさんの訛りは、宮崎と長崎のチャンポンだと言われたら、あーね、と納得できてしまうくらい違和感がなかった。それだけ広瀬すずさんの演技が見事なんだと思う。

以前上白石萌音さんが鹿児島弁を演じていたが、違和感なんてまったくなかった。そりゃそうだ、鹿児島県民なんだもの。でも、日常で話される鹿児島弁のそれとはやはり違う。このドラマの訛りもけっきょくそう言う違いしかないのだろう。だいたい、若い人があそこまで訛ることはもはやない。方言すら知らないと言う子もいる。てげ、とか、てげてげとか、うん、使わないねえ。僕は使っているけど。だからドラマの世界の方言は、ドラマのなかでの方言、というファンタジーだと思う。
そう、広瀬すずさんが魅力的に見えるための方言なのだ。

映画ユリイカは、小倉の言葉、博多の言葉、そして主人公は長崎の言葉と役者によって使い分けていた。そしてそのどれもが違和感がなかった。三石研の訛りなんか、ホンモノやん!と思ったくらい。それでも、その土地の人なら、ズレているなあと感じるのかもしれない。でも、すずめの戸締りしかり、それでも方言を使うことはドラマにある色をもたらしてくれると思う。

今回、方言を混ぜると言うことは、方言指導が非常に大変なことになっていたと思う。もしかするとそれがドラマの何か核心をつくためのものかもしれないが、そうでないとして、あくまでキャラを立てるために、そのキャラを魅力的にみせる言葉を拾っていったのだとしたら、それは面白い取り組みだと思う。街そのものが地方性を失いつつある今、そしてメディアによって方言がかき消されていく現在、それでも私は○○出身ですと身一つで表せるのは言葉だ、と言うのを、ちょっと違う形で再確認させてくれるドラマだと思う。

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