「自己犠牲なんてくそうぜえ」
エリオット=ナイトレイという人物を知っているだろうか。
さも有名人のように書き出してみたが、Pandora Heartsという漫画に出てくるキャラクターの一人である。そもそもパンドラを読んでいる人口は某有名バレーボール漫画や呪術師のお話に比べればとても少ないと思う。
エリオットのことは今後「エリー」と表記するけれど、この愛おしい愛称と裏腹に、エリーは弱冠16歳にして、達観して「男前」である。その理由がタイトルに載せた通りのもの。彼は自己犠牲を嫌う、太陽のような人間だった。
パンドラがどんな話なのかとか、そんなことを書き始めるときりがないので割愛するが、私が人生で一番好きな漫画である。登場人物の幸福を願ってやまないが、もちろんそうはいかない。ああどうか、ああどうか神様、彼らに光を。私は読みながらいつも思っていた。興味のある方はぜひ読んでください。完結したのはもうずいぶん昔の話になってしまったけど。
エリーはパンドラの主人公ではなく、主人公は「オズ=ベザリウス」という15歳の男の子だ。幼い頃から「生まれてこなければよかった」と実の父親に言われ、よく笑う彼の心の内はいつだって真っ暗だった。社交的で前を見て生きている、フリがうまい、15歳。
オズの心をよく示した一文がある。
「受け入れてしまおう 辛いことも悲しいことも この世には当たり前のことなんてないから そういうもんなんだって 受け入れてしまえば大丈夫」
オズは15歳にして、常にこれを心において生きていた。
26歳になった今だからなおさら思うのだろうが、15歳の「子ども」が常にこのマインドで生きていることは、あまりにも彼の人生において重いものだと思う。実の父親に不要だと言われたこと。実際に自分の周りから人がいなくなること。どんなに大切な人だって、ずっと傍にはいてくれない。そうやってすべてを諦めて生きている。だけど、彼は表面上はいつもへらへらと笑っていた。
エリーとオズが出会うのは、おおよそ6巻あたりだったと思う。
書くならちゃんと書け。わかります。仰りたいことはわかります。すみません。でもそれくらい。私はパンドラが好きすぎて、読んでいた当時ですらしんどすぎて、本当に泣きわめきながら読んでいたから読み返せないんです。すみません(言い訳長)。
話を戻します。
エリーとオズは、オズが侵入した、エリーの学内で出会う。
彼らは出会った時からなんとなく嫌な感じで、相性悪そうだなあと感じた。それなのに、2人は同じ本の話をする。「聖騎士物語」。読んで字のごとく、聖騎士の物語だ。
さすがに聖騎士物語に登場するキャラクターの名前まで思い出せないが(なんせ読み返してないのでね!)、彼らは相反する真逆のキャラクターの名前を同時に言い、「かっこいいよなー」というような話をする。
オズが好きな聖騎士は、世に言う「ヒーロー」だった。
平和のために自分が死ぬ。自己犠牲で人を守る。彼の死によって守られたものは大きかった。トロッコ問題と同じだ。オズの好きな聖騎士はそれを何の躊躇もなく行って見せた。実際、彼のおかげで人々は救われる。オズは、世界に何も期待していないオズは、嬉しそうにその話をする。
エリーは言う。
「自己犠牲なんてくそうぜえ。」
弱冠16歳である。
世間で描かれるヒーローは、自己犠牲となる人が多いように私は感じている。先日テレビでやっていた9.11の事件でも、ビルの中に残されたたった一人を探して、他の全員を逃がした後にビルに戻った人がいた。人々はそれを「ヒーロー」と呼ぶ。銅像を作ったりして。
私は、エリーとほぼ同い年でこのセリフを読んだが、エリーのような人を芯に強い人だと言うのだなと、とても身に染みたのを覚えている。
エリーは続ける。
自己犠牲はヒーローだし、それによって救われる人が「大勢」いるのも分かっている。実際、聖騎士物語でもアイツを好きな人が大半だろう。格好いいと思わないわけではない。だけど。
自己犠牲は、その人の周りにいる人も一緒に犠牲にしているだろう。
「死ぬ」のはアイツだけだけど、アイツの傍にいた人の心は?アイツを大切に思っていた人たちは?アイツを尊敬していた人たちは?アイツについていこうと思っていた人たちは?そんな人たちを勝手に巻き添えにして、勝手に犠牲にして、アイツはほかの人を守って、ヒーローだって言われているんだ。
もちろんこれは要約だし、おそらくここまで細かくいってません。
読み返せや。すみません。だけどエリーは概ね、このようなことを言った。自分を諦め、自分が生きることをとっくに諦めていたオズに向かって。
ナイトレイ家とベザリウス家は関係が悪かった。
それはそれは悪かった。
2人もこの話の後、すぐに仲が良くなるわけではない。
それでもオズは言う。
「オレたちで変えていこう!ベザリウスとナイトレイの関係を!」
エリーは、パンドラの暗いストーリーの中でいつも光だった。
たった1人、いつだって前を向いている。最善の選択に、胸を張って突き進む。私はいつも、ああきっと、エリーが進むなら合っているんだ、と思っていた。私はエリーが大好きで、彼のような光が、どうかずっと輝いていてほしいと、心底願っていた。
願っていたのだ。
きっと、読者は、みんな。
ナイトレイ家やベザリウス家という公爵家の人間には、従者がつく。
エリーは、公爵家の反対を押し切って、とある施設で出会ったリーオを従者に選ぶ。リーオは孤児で、それこそ、いろんなものを諦めていた。読書とピアノが好きで、客観的には温和に見える彼を、エリーは選んだ。従者になるまでにはまあいろいろある(リーオが普通に「やだよ」と言ったりね)わけだけれど、リーオもまた、エリーを選んだ。
客観的には温和なリーオは、時たまエリーと大喧嘩なんかになるとキレるし横暴だというのが公式の情報で、エリーはきっと、リーオがいつもなら我慢するところを吐き出させることができるのだなと私は思っていた。ていうか従者と主人、普通言い合いとかしませんよね。
私はエリーが好きだった。今も大好きだけど。
こんなに、こんなにも輝いている人がいるのかと。
自己犠牲を嫌い、自身の考えを適切に(まあまあ横暴化なこともある)周囲に伝え、従者と喧嘩もする。心に靄がかかって、ずっと自分を否定してきたオズに向かって「自己犠牲なんてくそうぜえ」と言い放つ。彼は強かった。本当に、ずっと。死の瞬間まで、ずっと。
それでも、闇は強かった。
闇は光を飲み込んでしまう。黒に白は勝てなくて、まるでなかったもののように消されてしまう。
もうこれだけネタバレ丸出しで書いておいて申し訳ないが、細かいところは興味を持った人に読んでほしいのでどうしてエリーが闇に飲み込まれることになるのかは省略する。
エリーは闇に飲み込まれてしまった。唯一の光。
彼のような光が、どうかずっと輝いていてほしいと、誰もが願っていたはずなのに。
多分読者だけじゃない。オズだってリーオだって願っていた。どうか、どうか、どうか彼のような光が。自己犠牲を「正しくない」と言える、光が。
皮肉なことに、エリーは自己犠牲のような形でこの世を去る。
エリーがあの場でそうしなければ、あれ以上の被害が増えていた。
エリーは死の直前、オズに向かって「自己犠牲なんてくそうぜえ」と言い放ったことを思い出す。ほんとにその通りだよ、それでも、この道しかないこともあるんだ。聖騎士物語のアイツを、真っ向から否定することなんて、できやしないよな。
オズにとって初めての「友人」で、リーオにとって初めての「親友」であり「主人」であった。
そして、私にとって、読者にとって、あの世界の住人にとって、眩いほどの光だった。
エリーの死を前に、温和なリーオが声を上げて泣きわめく。
オズはただただ、目の前にある死を、呆然と眺めている。
失った光の重さを知る。
オズはきっと、ここで自己犠牲の重さを、ようやく体験的に理解する。
エリーの死からしばらくして、リーオが放つセリフがある。
エリーが死ななくてもいいような世界があったかもしれない。そんな世界線だって作れるかもしれない。そう言われたとき、リーオは一度は困惑する。この世界は滑稽だ。光が死に、残るのは悲しみばかりだ。リーオは言う。
「僕はこの世界を、滑稽だとは思えない」
エリーが生きた世界を。
自己犠牲なんてくそうぜえ、聖騎士物語のアイツみたいにはならねえ、俺は絶対に命を残してみんなを救うんだ。そう胸を張っていたエリーが、それでも自己犠牲を選んだ。それでも、いや、それだから。この世界を、滑稽だとは思えない。
光は闇に飲み込まれてしまう。
勝てはしなかった。
ああそれでも、こうして誰かの中にきちんと残る。
私の好きなキャラクター、エリオット=ナイトレイ。
もちろん他にも漫画や本を読むし、先述したバレー漫画も呪術師の漫画も読んでいるし、推しはいるけど、やっぱりエリーはずっと私の光だ。私たちの光だ。
さて、今回は私の推しであるエリーについて特筆しましたが、パンドラについてしっかりといつか書きたいと思っています。エリー以外にもね、いろんなキャラやセリフや言葉が出てきます(当たり前です)。オズが最後はどうなるのかとか、オズの従者の話とか。しょっぱなから死にかけだった最強男が、最後は光に包まれて死んでしまうとか。光だったエリーは闇に飲まれて死んでしまうのに、闇にいたはずの人たちは光の中に消えていく。興味のある方はぜひ、紙で買って読んでください。皆さんは誰が好きでしょう。
Pandora Hearts / 望月淳
ね、リーオ、私もさ、あなたたちの生きた世界が、滑稽だとは思えないよ。
重くて苦しくて悲しいけれど、私にとってもあなたたちのその世界が、光だったから。
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