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狭く豊かな「空白」——「終末漏」をめぐって

 12月12日、わたしは神奈川県横須賀市に旅行に行ってきた。横須賀には海がある。以前から、神奈川の中で、一度行ってみたいと思っていた場所だった。
 行きながら、そういえばと思い出すことがあった。Xで見ていた「休憩室」というアカウントの管理人Nさんが、横須賀で新たなスペースを開こうとしている、みたいにいってなかったか。スマートフォンを操って、調べる。果たして、やはりその新たなスペースは横須賀市浦賀にて開かれるようだった。しかもそのオープン日というのが、まさに12日その日だった。何という偶然! たまたま横須賀に旅行しようというその日に「終末漏オープン」とは!!

 こう書くと、広告みたいでウソくさすぎるが、ほんとうに偶然だ。出来過ぎだが、どこまでも現実だ。こういう妙な「磁場」を感じる体験が、創作の足場になったりもする。行ってみようよ。いいよ。
 行ってみることにした。

 うまい飯屋や猿島に行き、夕方、わたしは「終末漏」へ向かった。横須賀の中心部から車で二十分ほどの浦賀という駅のすぐ近くにそこはあるはずだった。駅の近くに駐車場がなく難儀した。線路を越え、やっと見つけたと思ったらWEBから予約をしなくてはならないという変則的な駐車場で、もう一度来た道を戻り線路を越え、住宅街の網目の道を何度か迷ったあった挙句ようやく普通の駐車場に車を停めたときには既に日がすっかり落ちていた。
 だいたい「休憩室」とは、シュウマツロウではなくシュウマツモレと読ませる「終末漏」とは一体何だ。よくわかっていなかった。古本屋? 本を読むスペース? 私設の図書館? 何なんだろう。
 もう夜だ。車から降りると風が強い。徒歩で行く。黒々とした浦賀駅。湿った海風。坂が多い。起伏のある道。坂を上り線路脇の細道に入り進むと、「終末漏」はあった。外からは中は見えない。意を決して入った。

終末漏

 何だここ。いい感じじゃないか。

 二畳ほどの縦長のしかし天井の高い空間に、本や雑貨や家具がいくつも置かれている。仄明かり。数脚の椅子。狭いがすごく豊かだ。雑然としているわけではないしかし制御されているようでもない。何かひとつの世界観に基づいてというふうでもない。記憶の奥底のどこかにある段ボールでつくった秘密基地のようだ。スピーカーから音楽が小さくかかっている。本棚にある本がどれも素晴らしい。カーヴァー、ヘモン、ブローティガン、山下澄人、武田百合子、マッカラーズ、ブコウスキー、クンデラ……。どれもおれが好きな本たち。気が合いそうだ。その中の一冊を手にして、これを……というと、すみません、本、売ってはいないんです、と奥の椅子から立ち上がって、管理人Nさんは微笑みを浮かべた。

 結局、一時間ほど滞在して、Nさんと名前をききそびれてしまったもう一人の女性とお話しをした。楽しかった。Nさんはわたしのことを知ってくれていた。ぼく、江藤です。え? あっ、江藤さん! 本を出されようとしている……? ああ、そうです、その江藤です。元々インターネットでは見知ってて、直接は会ったことのない人と会う経験が意外と初めてで、ふしぎな感じがした。

 Nさんは、この「終末漏」の前に「休憩室」として、やはり本を自由に読んでいい休憩のできる場を開かれていたといった。前は横須賀の中央でここよりもっと広い場所でやっていたんです。わたしがこう書く文には、いくつもの記憶違いを含んでいるだろう。詳しくは、ぜひ管理人Nさんのnoteを読んでください。始めたのは、コロナ前くらいだから、五、六年前になるのかな。
 終末漏にいると外の風の音がしてしかし室内は寒くない、はぁーと誰かのため息が時々きこえて訝しがっているとそれは窓の向こうの浦賀駅に停まった電車の吐き出す音だ、すぐ外の路地を行く歩行者の歩く音や話し声がたまにきこえてくる。
 そうか、休憩室・終末漏は、「ふらっと来て自由に本を読んだりしていい場所」なのだ。何となく来て、棚にある本を読んでもいいし、持ってきた本を読んでもいいし、別に読まなくてもいいし、疲れたから椅子に座って物思いに耽ってもいいし、管理人Nさんとおしゃべりをしてもいい。意義や意味から解き放たれた場。本を売買する場でも、格式高い読書会の場でもない。まるでバートルビーが「せずにすめばありがたいのですが」といったような、郡司ペギオ幸夫のいう「空白」みたいな場。「空白」とは、決してネガティブな意味ではなく、むしろ「空白」だからこそ、そこにまだ見ぬ「何か」を呼び寄せることができる。そしてそれは、実は「小説」や「創作」の構えそのものだ。

郡司:アートという営みも、この場合と同じ意味での外部からやってくるものがあってこそ成立するものだと思うんです。「これこれこうだから結果的にこういう表現になっています」ということではなくて、外部を感じる体験へと誘導する装置こそがアートなのではないかな、と。

つまり、一人称的な表現が単にたくさん並列されているだけではなく、それを「脱色」して、そこからヒョロッと外部へ抜け出ていく穴があるということが非常に重要ではないかと思うんです。

OGRE YOU ASSHOLE×郡司ペギオ幸夫 人工知能と対極の創造性を司る「天然知能」の話

 こうした場が、現代アートの展示場や美術館にあるならまだしも、普通の街中に忽然とあるというのがほんとうに驚きだ。それは小さなしかしほとんど「革命」みたいなものだ。
「終末漏」という名前はある漢詩の一節からとったという。完璧な構造の蜘蛛の巣、そこにかかってしまった羽虫に待ち受けるのは完璧な「死」だ。しかしそんな蜘蛛の巣に「終末漏」と呼ばれる穴がある。そこからだけなら羽虫は逃れ、生き延びることができる。完璧なものにこうした「穴」が あることが「粋」である、と昔の人は考えた。この説明にもまた記憶違いがあるかもしれない。しかしこの「穴」=シュウマツモレとは! それは、まさに郡司のいう「外部を召喚する空白」そのものではないか。名前からして、そうだったのだ。そこにフラフラと生き延びた虫のわたしはやってきた。



 横須賀市は、わたしの住んでいるところからは中々遠い。しかしまた何かの機会に行ってみたい。次はもっと地元の人しか行かないような色々な場所に行ってみたい。もちろんそのときは「終末漏」に寄ろう。Nさんたちの人柄は大変すてきだった。
 帰り道、教えていただいた喫茶リバーストーンに寄った。ここも大変すてきな場所だった。

「リバーストーン」のマロンパフェ



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